1
「やあぁっと、着いたぁ!」
薄汚れた衣服を纏った少女は眼前の花畑を見つめて、バンザイと両手を上げた。
面倒な事件に巻き込まれ、久しぶりに帰ってきた故郷。薄汚れた衣服が1ヶ月もの旅の苛酷さを物語っている。
故郷を求めて三千里(も歩いてないけど)、思えば楽な道ではなかった。公共機関は使えず、常に憲兵の目を気にしなければならなかった。雀の涙ほどの僅かなお金で微々たる食料を手に入れたこの1ヶ月で、少女は随分やつれた。そんなひもじい思いで辿り着いた故郷は妙に感慨があった。
――生まれ育った町を長らく離れるのって案外堪えるものなんだなぁ。少女はしみじみと感じた。
懐かしい故郷。思い出の場所。とくれば、“再会”が必要だ。誰と?なんて、決まりきっている。奴が今も律儀に約束を守っていれば、来るはずなのだから。
時間は正午を少し過ぎた頃。四年前の約束が生きていればそろそろ待ち人が来る。花畑の向こうの森に目を凝らす。しかし、一向に人影は見えない。
あんにゃろう。約束の一つも守れないのか。苛々しながら、周囲を見渡すと、森の奥から、見覚えのある男が出てきた。
“昔”より体つきは逞しくなり、凛々しい顔立ちだ。それは、二年の歳月の長さを如実にあらわしていた。
「キサラギ」
呼びかけると、今まで少女の存在に気付いていなかったらしい青年が顔をあげた。驚いたように目を丸くし、それからこちらに駆け寄ってきた。
「ロ……ア? ……ロアッ!!」
うわぁ、初めて見たあんな笑顔。
十年以上の付き合いで無愛想な幼なじみであるキサラギの笑顔は度々見かけたことがあるが、それとは笑顔の程度が違う。喜色満面と言うにふさわしい。
「よかったっ、無実が証明されたんだな!? みんな心配してたんだ、お前のこと」
肩を揺さぶって話すキサラギ。その様子といったらまるで幼子のようだ。二年の辛労が窺えるものだ。
二年前に都の市で強盗の容疑をかけられた。当の本人は、自宅でお昼寝中であったにもかかわらず、店主が覚えていた“茶色の長髪に碧眼”という特徴で疑われた。当初は、容疑者の一人程度のポジションだったのだが、犯人が使ったナイフと似た形状のものが物置にあったことと、ロアだと断定した目撃者がいたこと、そして完全なアリバイがないことから、犯人に断定され、懲役10年を言い渡された。
心配してくれてたんだろうなぁ、と思う。何せ弟が二人いるキサラギは少女――ロアを手間のかかる同い年の妹と扱っているふしがあって、実の両親より説教の回数が多かった。そんな幼なじみが容疑にかけられたとあれば、この気のいい奴は心を痛めただろう。例え信じてくれていても何か思うことはあっただろうし、周囲の目も痛かったろう。しかし、今ロアを目にして一点の曇りもなく冤罪を信じていたなどと言ってくれるキサラギの気持ちが嬉しい。だからこそ、“無罪は認められたもの”と喜んでいるキサラギを裏切るのは罪悪感がある。
「……あー、キサラギ?」
ばつの悪さから顔があげられない。
俯きどもるロアにキサラギは笑みのまま、首を傾いだ。
「どうした?」
あぁ…! 何ですかこの純粋な笑顔、余計告げづらい。今までそんな顔したことないくせに、こんなときだけするなんて卑怯だ。
恐る恐る顔をあげて、キサラギを上目で見る。言いたくないと言わなければならないが反発しあって、頭がパンクしそうだ。
意を決して、ロアは口を開いた。
「あの……ね? 私無実で釈放されたんじゃないんだ」
「何言ってんだよ。だってお前はここに……」
キサラギが固まった。
笑顔のまま硬直し、数秒間停止。その後、満面の笑みは引きつった笑みに変わり、やがて完全に笑顔が消えて、口をパクパクしはじめた。その様子を見て、他人事のように酸欠の金魚みたいだと思った。
「お……、おおおおお前……」
「てへ」
おちゃらけて舌を出したら頭に拳骨が降ってきた。この感覚も久し振りだなぁと痛みさえ懐かしく感じた。次の瞬間には感慨も吹き飛ばされたが。
――まぁ、一言で言うと、雷が落ちてきたと言えよう。
「お前、アホかぁ! よりによって脱獄するやつがあるか!! 禁忌を破った“咎人”になってまで抜け出すことないだろっ」
「だって……」と、つい言い訳が口から飛び出る。
無実の私がなんで10年も牢獄に、と不満が積もってきたらいつの間にか外にいた。考えるより先に行動で示せ。昔からのロアの特徴だ。
「咎人になったら、獄中の扱いも変わってくる。懲役も延びる。よくそんな馬鹿な真似を……」
朗らかな笑顔から一転、大魔王と化したキサラギは怒りで拳を震わせている。
確かにキサラギの言うことも分からんでもないが、ロアは口を尖らせた。
「だって、私は冤罪だよ? なーんにも悪いことしてないのに牢で生活するなんて理不尽じゃん」
「理不尽だろーが何だろーが、脱獄は脱獄だ。お前が懲役を受けている間に新たな証言が出て、無罪が証明されたかもしれないし、そうでなくても10年牢にいれば確実に出れる。なのにお前は……」
ギロリ、とナイフのような鋭い視線を向けられた。
「一時の感情で牢獄を抜け出し、ここまできて……、アホでしかないだろっ! もしお前が憲兵に捕まったら、無期懲役くらいは覚悟しなきゃならないんだぞ!」
心なしか、キサラギの目が潤んでいるように感じた。そうか、彼は不安なのか。私が捕まったあとのことが。怒鳴らずにはいられないほどの激情が彼の中でうずまいているのだろう。
――罪人は投獄される前に神に懺悔をせねばならない。罪を悔い、改悛を誓うのだ。それがわが国の掟。
脱獄することはその誓いを破ること、つまり神を裏切ることになる。罪人が神を裏切るという咎を起こしたことから、脱獄者を“咎人”と呼ぶ。
咎人が捕縛されると、脱獄前より罪はかなり重くなる。軽微な罪でさえも10年単位の懲役が増やされることは確定であるし、無期懲役なら確実に死刑となる。
だから、咎人となるのが多いのは死刑囚だ。もう罪の重さは変わりようがないのだから、運が良かったら自由になれると脱獄を謀る者が多い。それ以外の罪人はリスクを考えて脱獄などしない。といった理由で、看守は死刑囚のほうにばかり割かれているので脱獄は案外容易であった、というのは余談である。
頭を抱え込んで呻いているキサラギ。が、当人たるロアは楽観的である。
勢いで脱獄して、やがて正気に戻ったのだが、戻っても仕方ないと故郷に向かい、交通機関を使えば、三時間の行程を憲兵の目を逃れて大回りし、1ヶ月かけてここまで来たのだ。今更引き返せるものか。
一気に老けたように、表情のなくなったキサラギがロアに呟いた。
「よくお前捕まらなかったな」
「そりゃー、身体能力には自信はありますから」
途中見つかったこともあるが、街路樹に登ってやりすごしたり、家屋の屋根と屋根の間を飛び越して撒いてみたりとしたものだ。世界が違ったらこう言われただろう、“パルクール”であると。
しみじみと思い出していると何故かあからさまに溜め息をつかれた。
「……身体能力云々じゃなくて野性の能力だよ、お前は」
「失敬な」
確かに一度嗅いだ匂いは忘れないとか嗅覚に優れてたり、視力が他より格段にいい(当社比ですけど何か?)とかあるけど。おにぎりに悪戯で入れられた大量のカラシに匂いで気付いて引っかかんなかったりするけど。
空を見なくても雨の予兆に気付けたりするけど。決して野生の動物の特徴ではない、人間が一能力に秀でているだけだ。“同じ人間とは思えない”を知り合いの70パーセントに言われようともね!
おっと、本題からぶれた。私は幼なじみとこんな話をするためにここまできたわけじゃないんだから。
ロアはキリリと表情を改め、真面目くさった声音で話を切り出した。
「キサラギ。長年の友として頼みごとがあるんだけど、聞いてくれる?」
すると、一見して分かる程度にキサラギは顔を強ばらせた。
「お前の頼みごとは昔から嫌な予感しかしない」
「そんなことは……」
ない、と言いかけて言葉が詰まった。学校の提出物を前日まで溜め込んで泣きついたり、禁忌の森と言われる場所に立ち寄ったり、村長のカツラを奪い取って隠してもらったり……。まぁ、世間一般の面倒事に値することは全て、口は悪いが、何だかんだ面倒見のいいこの幼なじみに任せてきたからだ。
「と、ともかく、幼なじみが困ってるんだから話くらい聞くのが筋ってもんでしょ」
キサラギの意見を挟まず、本題に入る。
「……私を匿って欲しいんだけど」
「……は?」
口をひきつらせて聞き返したキサラギに復唱する。
「わたしを、匿って、ほしい」
聞き取りやすいように区切って言ってやった。なんて寛大な心根なんだろう!!
心中で自画自賛していると、キサラギは面を伏せた。握った拳は震え、何かを耐え忍んでいるような感じだ。
「キサー……、ラギ?」
何だか不安になって、俯いたキサラギを下から窺うと、キサラギは顔を伏せたまま、ぼそりと呟いた。
「…………かえれ」
「へ?」
小さな声の呟きに次はロアのほうから聞き返すと、キサラギは憤然と顔をあげて叫んだ。
「還れ、っつってんだ、ぼけェェ!!」
「かえれ、って字違くないでしょうか!?」
「地に還れってんだっ! このどアホっ」
45°程吊り上げたまなじりに憤怒の色が見える。地に還れとは酷い暴言だ。
「お前の無罪は知ってる。お前が不幸にも事件に巻き込まれた被害者だということも知ってる。だからといって、俺を巻き込んでくれるなー!」
「ひどい! ろくでなしっ! あほっ! へんたいっ! おたんこなすーっ!!」
キサラギの怒声に、幼児並みの語彙の貧困さで言い返すと、元々きわどかった目尻が更につり上がった。
「変態ってなんだ、変態って! どさくさに紛れて妙なもん突っ込んでくんな!」
「存在が卑猥なんだよ、この畜生め!」
言うと、キサラギはピクピクと頬をひきつらせた。 彼の名誉のために言っておくが、奴に出会ってこのかた、変態的な行為は受けたことはない。完全に言いがかりである。 その後、年甲斐もなくぎゃあぎゃあ騒いで、キサラギは不機嫌そうに顔をしかめた。
「咎人を匿ったら、罪に問われる! 俺だってお前を大切じゃないとは言わないけどそれとこれとは話が別だ」
素直に大切だの一言くらいくれればいいのに。意地っ張りな幼なじみだ。
内心の心境としてはやれやれ、といったところだが(実際は眼前の幼なじみのほうがそう思っているだろう…)、外見は殊勝な様子で肩を小さくした。押したら引け、賭け事の鉄則だ。
「……ごめん。キサラギに迷惑がかかること考えてなかった。私が不幸だからってキサラギには無関係だしね。もういい加減幼なじみだからで許される訳ないし」
しゅん、として俯く。対するキサラギは口を開かない。ロアはキサラギの表情が気になって盗み見してみると、彼は何故かざっくり傷付いた顔をしていた。
ロアはくるりとキサラギに背を向け、とぼとぼ歩いていく。すると、焦ったような声が背に投げかけられた。
「おっ、おいっ! ……あてはあるのか?」
「どこか適当なところに身を潜める。暫くはそうして逃げ回るつもり」
振り向かずに、そう言うと、キサラギは息を飲んだのが窺えた。
速度は上げずに、キサラギから離れて10メートル。「~~ッッ! チクショッ」と前髪をかきむしる音と共に悪態が聞こえ、大きく、ロアの制止を促す声が聞こえた。
「待てっ」
振り返ると、キサラギが苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「……しばらく匿ってやる」
いかにも、渋々といった声音だ。まぁ、言質はとったので、問題はない。
ロアは満面の笑みで涙を伝わせながらお礼を言う――なんてことは勿論せず、
「わー、ありがとー。さっすがキサラギー」
棒読みにも程がある態度で道を引き返した。
キサラギは複雑な表情でこちらを見ていた。企んだな、と瞳の色が恨みがましい。
確かに作戦のうちだが、いずれにしてもこの世話焼きは要求を飲んでいただろう。そういうやつだ。
「まぁ、ありがたくキサラギに世話になるついでに飯もさ。私お腹空いてるから。ちょっとわけてよ」
「……随分唐突だな」
言いだしたのは唐突だが、腹がへったのは唐突ではない。脱獄してから、少ない手持ちのお金を崩して食をつないできた。盗みを働いてもよかったのだが、たとえ冤罪を証明されても、泥棒で牢獄に入れられることも考え得るので、精々物乞いにおさえておいた。牢獄内の食事も質素だったこともあり、昔より遥かにやせ細っていた。
そもそも四年前の約束とは、15歳となり成人して、会う機会が少なくなったので、お昼時くらいはこの花畑で集まって食べようという主旨のものだ。故にキサラギはバスケットを抱えている。
「……随分痩せたな」
「まぁね」
痛ましそうに目を眇めたキサラギに事も無げに言い返す。一回り小さく見えるくらいには痩せた。1ヶ月にわたる逃走で贅肉はなくなり、筋肉がついたので、どこぞの女戦士のようなプロポーションだ。
「腹の肉がなくなったことが唯一の利点の体だけどね」
おちゃらけて言うとキサラギはますます顔を苦くした。そして、バスケットそのものを放り投げたので、危うげなくキャッチする。
「……やる」
「え? キサラギは?」
「全部食えよ。俺は一食くらい抜いても問題はない。」
――あ、どうしよう。今ウルッってきた……。 久しぶりに触れる人の優しさは感慨深い。
思わずキサラギに飛びついて思いっきりハグした。
「キサラギぃ! 大好きっ!!」
「ちょっ……!? ロッ、ロア!?」
キサラギは急襲に動転しつつも、抱きついてきたロアを何とか受け止め、もごもご口を動かした。
「年頃の男女が見境なくこういうことをするのは……、あんまり良くないと俺は思うんだけど……」
ちらりとキサラギを窺うと頬がほんのり赤に染まっていた。照れているのか、可愛い奴め。上機嫌のまま、ロアは抱擁を強めた。
「だいじょうぶ、って。だって、私の中ではキサラギはシェリーと同じようなもんだから」
シェリーとは隣町のブラウンさん家の牧羊犬である。大型犬で、もふもふしてて逞しい雌犬だ。触れると嫌がるのだが、結局諦めてロアに抱きつかれる。元気にしてるだろうか――と黙想していると、乱暴に振り払われた。
「ひどーいっ。なにすんの!?」
「なにすんのって、こっちのセリフだ。15年来の幼なじみを犬と同じ扱いかっ」
照れと怒りが混じった赤い顔は幾分羞恥の色を滲ませていた。
「俺だけ意識して馬鹿みたいだろっ」
「仕方ないじゃん、そうなんだから」
私の目には垂れた犬耳が見えるんだもの。そう言うと、思いっきり小突かれた。
「っったく、お前は昔から変わらんな。主に悪い意味で」
「そりゃあどうも」
「……今俺悪い意味で、っつったよな?」
あぁ、もう。腹立たしそうにそう言って頭を掻くと、じろりとこちらを睨んできた。視線を合わせると、先刻の照れか顔を背けた。
「もう知らん。さっさと食え」
「はーい」
バスケットを開けて入っていたサンドイッチを口いっぱいに頬張る。鴨肉と濃厚なソースの味わいが広がる。久しぶりのまともな食事に目尻に涙が浮かんだ。
――かくして咎人は、幼なじみとの再会を果たしたわけである。