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 キサラギが呼んでる。振り返ると、ロアを追いかけて息を切らしたキサラギが呼吸を整えつつ、文句を言っている。それをのらりくらりとかわしながら、また走り出す。それをいつも微笑ましく見つめていたのが、アナシスだった。




「キサラギ君はいつもロアちゃんを気にかけてる。いつもロアちゃんの方を見てる。ロアちゃんがいないときもロアちゃんのことを考えてる。だから、私はロアちゃんが嫌い」


 わからない。アナシスが言っていることがわからない。

 確かに小さい頃はこと殊更にお転婆だった。だから、キサラギもよくロアのことを気にかけていたのは事実だ。だからといって、ロアもキサラギもアナシスを蔑ろにしていたわけでない。人がいいが、あまり自分の意見を出張することができないアナシスを心配していた。


「いつもロアちゃんが憎かった。ロアちゃんがいなければいいのに、って思ってた。そしたら、キサラギ君は私を見てくれるのに、って」


それなのに、私はなんで、こんなに言われなければならないのだろう。アナシスは微笑みを絶やさないまま、憎悪を孕んだ視線をロアにぶつける。私はいつの間にこんな敵意を受けていたのだろう。


「だから、ね? 丁度よかったの。ロアちゃんがいなくなるのに丁度いい事件が起こったから」


 それを聞いたとたん、ロアの身体が震えた。事件、といえば、思い当たるのは一つしかない。


「アナシス……、それって……」

「そうだよ? 私が絡んだんだよ? 運が良ければ儲けもの、って思ったけど、びっくりするほど、うまくいっちゃって、わらえてきちゃったよ」


 それからアナシスはききたくなかった事の顛末を教えてくれた。たまたま都の市に居合わせて強盗を目撃したアナシスは、その容疑者の容姿がロアに似てることに気付いた。目出し帽をかぶっていて、特徴といえば、髪と目の色位しかわからない。そんな状況で、その特徴をあわせ持ったロアは容疑者にしたてあげやすかったのだ。犯行に使われたナイフとにた形状のものをロアの家の物置に隠し、憲兵に市の強盗の犯人はロアだと囁けば、うまい具合にアリバイがなかったロアは、アナシスの見立て通り捕まった。

 そこまでくると、笑えてくる。アナシスにはっきりと向けられていた憎悪に気付かなかった愚鈍さに。


「なのに、今更。ロアちゃんがいる限り、キサラギ君は私を見てくれないの。お願いだから……、消えて?」


 途端、アナシスは右手で掴んだナイフを振り上げた。ピクッ、と反応して構えをとる。そして、アナシスは暗い微笑みを浮かべて、降り下ろしたのだ。



「なん、っで?」


 血飛沫が舞った。雨のなか、鉄の臭いが強く鼻に突き刺さる。傷口から溢れる血を雨が流し、地面に薄くなった赤の雫が垂れる。

 アナシスは刺さった刃を抜き、地面に投げ捨てた。そして、脱力したのかへたりこんだ。


 ロアは一瞬なにが起こったか分からなかった。アナシスの告げた真実に頭がついてこなかったというのも大きい。

 やがて、我にかえって、落ちていたナイフを取り上げて、アナシスから離れた。また彼女にナイフを握られたら困るからだ。

 当の彼女は、左手を押さえたまま、呼吸を荒くしていた。見ているだけで、血の気が引いていく。そんな光景だった。

 アナシスがナイフで自分の手を突き刺した。その理由がわからない。ロアはそれを呆然と見ているしか他なかった。


「なんで……?」


 その理由はすぐにわかった。


「ロアッ!」


 遥か前方に人影。それは、ロアを視認したと同時に駆け寄ってきた。


「おまっ、なん……っ、で」


 キサラギの言葉が尻切れ蜻蛉になったのは、勿論アナシスの姿を見たからだ。血を流し、痛みに悶えるアナシスの姿が。

 そうだ、早く止血しないと。アナシスが大事にならないうちに。そう言いたかった。けれど、状況がそれを許さない。

 自傷したアナシスとナイフを手に持ったロア。傍目から見たら、容疑者と被害者にしかみえないだろう。気分は、巧く作られた演劇の滑稽な道化のようなものだ。自嘲するしかない。


 アナシスはキサラギを見て、「違うのっ」と叫んだ。


「私が強引にロアちゃんに迫っちゃったから。ロアちゃんは、悪くないの。私が悪いの。それにこんな怪我大したことないし


 弾幕のように吐き出された言葉に、笑みさえ零れた。

 それが、“大したことない”怪我だとは誰が見たって思わないだろう。彼女はあくまでロアを悪者にしたてあげるつもりのようだ。

 笑みと同時に、何か零れた。目尻を掬う前に、雨と共に流れ落ちた。先程の涙とは違う涙。

 私はこんなにもアナシスに嫌われていたのかと悲しくて泣いた。それだったら、事実なんて知りたくなかった。あのまま、アナシスの刃に突き刺さりたかった。それよりひどい刃がロアを突き刺す前に。


「アナシス」


 キサラギが自分にしがみつく幼馴染みに呼び掛けた。

 彼も、ロアを憎悪の目で見るのだろう。アナシスを傷付けたロアを。それを思うと、殊更に涙が溢れた。たまらない。好きだと自覚した人物にそんか目で見られるなんて苦しい。


「キサラギ……」


 思わず彼の名前が零れた。それをきいて、キサラギは弾かれたようにロアを見て、そしてまたアナシスの方を向いた。


 パチリ、と威勢の良い音がした。見ると、片頬を赤くしたアナシスが目を見開いていた。


「キサラギ君……?」


 信じられない、とでもいうようにアナシスは声を震わせていた。


「ロアは、こんな道具で人を傷付けたりしない。いつもあいつは拳だよ。全力で人にキレて、自分も一緒に傷つく。馬鹿だよな、けどそれが何よりも痛い」


 キサラギがあまりにも自信満々に言うものだから、ロアはなんだかたまらなくなった。


「何よそれ……」


 こんなに今日一日で泣いたら涙が枯渇してしまう。心のなかでキサラギに悪態をつく。


「え……、でも、私……」

「あいつが“おまえ”にナイフを向けると疑うより、俺はお前が自傷したと疑う」


 それを言うと、アナシスはこれ以上ないくらいに目を怒らせて、叫んだ。


「……いつも、キサラギ君はロアちゃんのことばっかっ! 私はキサラギ君のこと好きなのにっ! そんなん不公平! 邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔っ! 何をしてもキサラギ君はロアちゃんのことが一番なんだからっ!」


 すると、キサラギの纏う空気が一層冷ややかなものになった。アナシスを、ねめるそれは既に幼馴染みに向けるものではなくなっていた。


「二年前も、お前が仕組んだのか?」


 アナシスは否定しなかった。ただ怒りに任せて嗚咽を溢すだけだった。


「そうか」


 キサラギはアナシスに背を向け、ロアに近付き、手をとった。


「そんな物騒なもん、いつまでもってるつもりだ?」

「あっ……」


 言われて、握り締めていたナイフを放す。血は雨で流れ落ち、刃は依然として銀に光ったままだった。


「行くぞ」

「えっ、あっ、アナシスは?」

「必要ない」


 キサラギはもうアナシスのほうを見ることはなく、ロアの手首を掴んだまま、早足で歩いていった。




 




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