最初の交渉
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この風祭佑之という男の簡単な経歴を伝えておく。
東京大学教育学部卒で、階級は警部補。年齢は37歳。独身。ちなみに趣味は地下アイドルの推し活である。
そんな彼だが、最初から警察組織内部で疎まれた存在だったわけではない。
東京大学教育学部を卒業した彼は、国家公務員一種試験は受けずに、地方公務員となった、人当たりの良いごく普通の交番のお巡りさんだった。
その彼が、いまは誘拐や人質事件を扱う、警視庁捜査一課・第一特殊犯捜査・特殊犯捜査第一係にいるというのには、もちろんそれなりのわけがある。
それは、スーパーマーケットでの人質立てこもり事件を、一人であっさりと解決してしまったことだ。
その事件は、夕方の混雑する時間帯に起こった。
風祭は、いつも通りのルートを巡回していたわけだが、そこでスーパーマーケットに入っていく怪しげな30代半ばぐらいの人物を見た。
かなり体重がありそうな大柄な男だったが、目が血走っている。
それを一瞬で見抜いた。
その男の後を、一定の距離を保ちながらついていく。
男はなにかを探しているようで、辺りをキョロキョロと見まわしている。
男の視線が止まった。
「沙織ー!」
そう叫んで、男は女性従業員に向かって駆け出すと、そのまま隠してあった大型のサバイバルナイフを抜いて、その女性に向かって突き出す。
「イヤァーーッ! 来ないで!」
「ふざけんな! 俺はお前のことを、こんなに思ってるのに!」
この男の持っているナイフを見て、周りにいた客たちも騒ぎ出す。
そこに「パァン! バァン!」という2発の銃声!
「早く! みんなここから逃げて!」
制服警官姿の風祭は、S&W・M360J「SAKURA」の銃口を天井に向けている。
2発の38口径の銃声と、その風祭の叫び声を合図に、客たちが群がるように外に飛び出していく。
男は、その女性の右腕を捕まえて、風祭に向かってナイフを突き出す。
風祭は、拳銃から、弾を5発全部抜いて床に落とすと、拳銃から安全紐を外して、そのまま男の足元に滑らせるように放り投げる。
このときの男までの距離が、およそ7メートル。
風祭は、両手を挙げることはせず、左右に軽く広げて、なにも持っていない両手のひらを見せる。
「ボクの名前は、風祭佑之。君の名前も教えてほしい」
「その隣の彼女でもいい。彼の名前を教えてほしい」
「修治! 滝本修治!」
男の代わりに、その女性従業員が叫んで答える。
「ありがとう。では修治さん。君のことを教えてくれないか。そして、この問題を3人で解決しよう」
そう言うと、男の持っているナイフの刃先が微かに震える。
「隣にいる女性は、凄く素敵な女性だ。確かお名前は、沙織さんでしたか。見ればわかる。修治さんは、そんな彼女を愛しているんだろう」
「うっ、うるさい! 黙れ! こいつは俺のことを裏切りやがったんだ!」
男の視線は、ずっと風祭を向いたままだ。
「君も本当は、こんなことをしたくはないはずだ」
男の持っているナイフの刃先が少し下がる。
「そんな危ないものを、愛する人に向けてはダメだ」
男の持っているナイフの刃先が、完全に下を向く。
「いまなら、十分に間に合う」
男は、ナイフを捨てた。
「ありがとう。修治さんは、優しい人だ」
風祭は、穏やかな口調で言った。
「俺は、どうなりますか?」
男は真顔で、風祭に聞いた。
「ボクが見た限り、ナイフはずっとボクの方を向いていて、沙織さんには向いていない。それはこの店の防犯カメラにも映っているはずだ」
そう言って風祭は、天井に取り付けられている防犯カメラを指差す。
「申し訳ない。ボクの職務上、手錠を掛けさせてもらえないか」
風祭は、素直に出された滝本修治の両手に手錠を掛けた。
管轄の警察のパトカーと警察官たちが到着したのは、3人がスーパーマーケットから出てきたときだった。
このことがテレビのニュースやSNSでも大きくて取り上げられて、警ら課の交番勤務だった巡査長だった風祭佑之は、一階級昇進で警部補となり、警視庁捜査一課・第一特殊犯捜査・特殊犯捜査第一係に転属になったのである。
先の指揮していた私服警官が風祭佑之を嫌う理由は、東京大学卒業でありながらもノンキャリアで、本庁の捜査一課に来たことが気に入らなかったからだ。
ちなみにベビーシッターとは、騒いでいる犯人を大人しく静かにさせることからついた別称である。




