交渉人 風祭佑之
※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは、一切関係がありません。
都心の一角で、ある事件が起こっていた。
一人の若い男が6階建てのビルの屋上の手摺の外で騒いでいる。
男は自殺を大声でほのめかす。
そのビルの下には救急車がすでに待機して、沢山の人だかりがその様子を窺っている。
屋上には、数人の警察官が思いとどまるように説得を試みているが、男は交渉に応じずに、ただ騒ぐばかりだ。
「駄目だな……このまま落ちて死なれたりしたら困る。ベビーシッターを呼んでくれ」
ここで指揮を取っていた私服警官が、すぐ横にいた者にそう言った。
「あの……風祭をですか?」
そう指示された私服警官は、少し驚いた。
そのベビーシッターというのは、風祭という交渉人につけられた別称である。
「これで、もし失敗したとしても、奴の責任に出来る」
この事から察するに、この風祭という警官は、警察組織内ではあまり上手く立ち回れてはいないようだ。
その風祭は、約25分後に現場に現れる。
テレビドラマの刑事は、大抵颯爽とスーツだが、この風祭の上着は紺色の作業着で、まるでどこかの事務員のような格好をしている。
目に輝きはなく、適当に整えられた天然パーマ気味の頭と相まって、少しくたびれた中年の雰囲気を感じさせる。
そうしてビルの下に集まった野次馬を見渡し、状況を把握すると、その屋上に上った。
「状況は?」
現場を指揮していた私服警官に、風祭が聞いた。
「そんなものは、見ればわかるだろう」
そう冷たく返される。
風祭は、手摺の外にいる男に向かって、まっすぐと歩き出す。
「なっ!? なんだよ!? こっちに来るんじゃねーよ!」
そう言われて、風祭はそこで足を止めた。
「ボクの名前は、風祭佑之。君の名前を教えてくれないか。そうしないと君をこれからなんと読んだらいいかわからない」
風祭は、落ち着いた口調で聞いた。
「た……高木頼道……」
そう言われて、手摺の外にいる男は素直に名乗った。
「では、高木君……。それとも頼道君の方がいいかな?」
「た、高木君で」
「では、高木君。ボクは君の身の上話を聞きに来たわけじゃない」
風祭は、このビルの屋上から飛び降りる可能性のある男に、はっきりとそう言った。
「だっ!? だったらなんなんだよ!?」
男は興奮して聞き返す。
「このビルから飛び降りることはおすすめしない」
「はぁー!? なにわけの分かんないこと言ってる!?」
「別にわけの分からない話じゃない。この6階建てのビルの屋上の高さは、約20メートル」
風祭は、男に対してゆっくりと説明を始める。
「そ、それがなんだっていうんだ!?」
「この高さから落ちても、たぶん死にきれない。ここから落ちても、全身打撲か、骨折がいいところだ。おそらく、そのあと重い後遺症が残るかもしれない」
そう言われて、男は地面を覗き込んだ。
ビルの下に集まっている野次馬たちは、自分のことを心配する顔よりも、スマホを構えて、いつ飛び降りるのかを期待しているようにしか見えない。
「見ての通り、ここは道路と歩道の間にガードレールがあるから、狭すぎて緊急用のエアバルーンも置けない」
「だ、黙れ!」
「……」
風祭は、男に言われたとおりに黙る。
「あっ、あっ……」
男は、なにも言い返せずに、口をパクパクとさせる。
「もし、高木君がどうしても死にたいというのなら、このビルではなく、向こうのもっと高いビルをおすすめする」
そう言って風祭は、男の背中の向こうにある2倍以上の高さのあるビルを指さした。
「あのビルだったら、高さも十分にあるし、頭から落ちて即死可能だ」
そう言われて、男は風祭と、その高いビルを交互に見比べる。
「大丈夫。死ぬときの痛みは一瞬だ」
これでは風祭が、この高木頼道という男に自殺を勧めているようにしか聞こえない。
「君の顔は、もうSNSで拡散されて、君のことをわかってくれる仲間も女性ファンもいるはずだ」
風祭は、そんな予想もしようがないことを口にする。
「ど、どういうことだよ!?」
「ここに来る前に、この今の君のことを呟いているSNSを見てきた」
「そ、それでどうだったんだよ!?」
「君はどうやら女性問題を悲観して、こんなことをしたみたいだが、ここに集まっている人たちとは違って、君を心配する声の方が多い」
「もしボクの言っていることを疑うのなら、こちらに来て君自身で確かめたらいい。どうだろうか、高木君」
そう言って風祭佑之は、高木頼道に右手を優しく差し出した。
「いまからでも、十分に間に合う」
そう言われて、高木頼道はなんだか安心した。
「大丈夫。いまなら、ちょっと怖いお巡りさんに叱られるだけさ」
高木頼道は、風祭佑之に向かって、右手を差し出した。
風祭はその右手をしっかりと掴むと、柵の内側に引っ張りあげた。
風祭は最初から、男が飛び降りる気がないことは確信していた。
そうでなければ、2時間以上膠着状態が続くわけがない。
それをわかった上で、交渉をしていたのだ。
もちろん、SNSで高木頼道のことを心配している声があるというのも事実である。




