Abschnitt VI : Resonanz(合ま駅)
クーが降りたあとも、電車は静かに走り続けていた。
リツ子は、隣にあった空席をしばらく見つめていた。
誰もいない空席に残る温度が、ゆっくりと薄れていく。
リツ子は、バッグの上に手を置いた。
長いあいだ身体に染みついた
「判断する側」としての緊張だけが、
切開線を追っていた感覚のまま、
まだ指先に残っている。
──聞かせて下さいね、か……
計算では、触れられないものがある。
救うことと、
寄り添うことのあいだに生まれる、
ごくわずかな、ずれ。
医師として、いつのまにか
選択の外へ追いやってきたもの──
「あの子の言葉を借りるなら
それは判断を手放す行為に該当するのかしら──。」
迷わず香りが好きだと言い、
貯める時間さえ愛おしいと言った。
まるで未来の自分に、
寄り添っている気がする、と。
不意に、
記憶とは別のところから、
あの香りが立ち上がる。
思い返せば、
あの時間は、
何かを得るためのものではなかった。
カードを待っているあいだ。
積み重ねているつもりもなく、
ただ、続いていた日々。
今になって、ようやくわかる。
気づいたときには、
理屈ではなく、
胸の奥に“ゆらぎ”が宿っていた。
電車が、次の駅に滑り込む。
彼女はバッグを取り、静かに立ち上がる。
帰路ではない。
これは、どこか“向かう”ための歩みだった。
さっきまで気にも留めなかった、
扉が閉まるときに流れた、どこかで聴いた花のメロディが、
今はただ、心地よく胸に残った。
車内の隅に座り、そっと手帳を開く。
──そして、手帳の余白に、そっとその響きを記した。
詩。
それは、名ではなく、“響きの在処”。
わずかに揺らいだ“自分”の輪郭。
あの子と並んで座っていた時間が、
いまも、残っている。
──何も言わず、リツ子は手帳を閉じた。
ただその静かな所作に、確かな決意が宿っていた。
電車は、同じ速さで進み続けている。
けれど、車窓に映る自分の表情は──
ほんの少しだけ、変わって見えた。
──
その確信だけを胸に、
彼女は、新たなページを静かに──けれど力強く、めくった。
ただ、ときどき。
あの電車に乗ってみたくなる。
無意味な時間のなかに、ふと、なにかが響く気がして。




