Abschnitt V : Schwingung(ニ合わせ駅)
電車は、静かに加速していた。
車内の照明が天井に淡く滲み、
光のベールが、リツ子の肩に柔らかく降りてくる。
クーの声に、
専門家としてではなく、
ただ一人の人間として応えた、あの瞬間。
生体指標に現れない反応だけが、胸の内で続いていた。
「リツ子さん、
わたし、ずっと考えてたんです」
クーの声が、落ち着いた調子で届く。
その響きには、
どこか“決壊”に似た静けさがあった。
「たとえば……
もし、みんなが“満たされて”いたら──
どうなると思いますか?」
リツ子が返答するよりも先に、
クーは続ける。
「戦争も、奪い合いも、嫉妬もない。
物資も、医療も、愛情も──
すべての人が、平等に持っている世界」
淡々とした声。
だが、そこには
鋭い刃のような光が潜んでいた。
「……でも、
それって本当に“平和”だと思いますか?」
リツ子は、返事を探す代わりに、
無意識にバッグの持ち手を握り直していた。
──まだ、言葉が精製されない。
クーは、少し俯いた。
「全部が揃っているはずなのに、
なぜか、
置き場所が決まらない感じがして」
クーの顔には、微笑すらない。
ただ、透明な真剣さだけが浮かんでいた。
「もし、努力する理由も、
何かを選ぶ動機もなかったとしたら──
人は、どうやって
“自分”を感じられるんでしょう?」
リツ子は、
一度だけクーから視線を外した。
クーは、しばらく黙ったまま、
窓の外を見ていた。
流れていく暗い景色を、
確かめるように、ゆっくりと。
言葉は、それだけだった。
けれど、
何かを探しているような目だけが、
その先を見ていた。
リツ子は、
胸の奥で何かが軋むのを感じた。
(……定まらない。)
この子は、
わたしの中に、言葉になる前の何かを──
ためらいもなく、すくい上げてしまった。
リツ子は、視線を戻さないまま、
ぽつりとこぼした。
「……症状じゃない」
そんなリツ子を見つめながら、
クーは小さく微笑んだ。
「豊かさって、
“手にした瞬間”じゃないと思うんです。
“どう選んだか”と、
“誰と分かち合うか”──
それが、
豊かさの形なんじゃないかって」
その言葉に、
リツ子の脳裏に“あのシャンプー”がよぎる。
少女が欲しがっていた、
“ポイントで手に入れたい”と言ったシャンプー。
──自宅のバスルームに、
確かに今もある。
いつから使っていたのか、
覚えていない。
髪に合っていて、
香りが静かで、
だから使い続けていた。
でも、
それだけの話だった。
今日までは。
「シャンプーと交換したい気持ちは、
本気なんですよ?
あの香りが好きなんです」
クーが、くすっと笑う。
「貯めてる時間も、好きなんです。
なんか、
未来のわたしに、
誰かがそっと寄り添ってるみたいで──」
その一言に、
リツ子の胸が、じんわりと温まる。
(豊かさの臨界点――違う。……選べることより、なぜ、それを選んだのか。)
電車が、次の駅に近づいていた。
そのとき──
クーが、すっと立ち上がる。
「……ここが、
わたしの駅です」
その言葉は、
まるで最初から決まっていたかのように、
静かだった。
ドアが開く。
夜風が、やさしく髪を揺らす。
クーは振り返り、
静かに微笑んだ。
貯ったら……
「何と交換するか、
ぜひまた聞かせてくださいね?」
──そして、歩み出す。
迷いのない足取りで、
夜のホームへと消えていった。
ドアが閉まり、
電車がゆっくりと動き出す。
リツ子は、
隣の空席を見つめていた。
そこには、
もう誰もいない。
けれど──
確かに“何か”が残っている。
胸に触れたのは、
形を持つ前の、
淡い気配のようなものだった。
それが何かを、
考える前に、
電車は、次の区間へと進んでいた。




