表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/6

Abschnitt II : Wahrnehmung(初ね坂駅)

──あと10ポイントで、交換できるんです。


 


隣から届いた声は、やけに澄んでいた。

けれど、どこか遠くで響くような、不思議な距離感があった。


 


リツ子は思わず、視線を向ける。

制服姿の少女が、視線をこちらに留めている。


 


隣に座っているはずなのに、年齢がうまく掴めない。

子どもにしては落ち着きすぎていて、大人にしては無邪気すぎる。

職業柄、年齢の見積もりには慣れているはずなのに──

なぜか“測れない”。


 


その曖昧さが、むしろ強く記憶に残った。


 


「広告で見たんです。ツルツル、ピカピカになるシャンプー。

ちょっと高いけど……わたし、あの香りが好きで」


 


無邪気な言い回し。

けれどどこか、胸の奥を軽くノックされるような感触があった。

ただの雑談とは、思えなかった。


 


リツ子は数秒の沈黙のあと、ふっと微笑む。


 


「いい香りか。選ぶ理由としては、十分すぎるわね」


 


そう言いながら、ふと自宅のバスルームを思い浮かべた。

あのシャンプー──確かに、今も変わらず棚にある。

深く考えて選んだ記憶はない。

髪に合い、香りも静かで心地いい。だから、なんとなく使い続けていた。


 


けれど今──


 


「香りが好きで」と言われたとき、

初めて、その香りを“選んでいた”ことに気づいた気がした。


 


それは、習慣の中に埋もれていたささやかな好み。

無意識に続けていた選択の、その静かな理由に──

ようやく、自分の感覚が追いついたような気がした。


 


この子の声には、ただの消費とは違う、

“何かを掴み取りたい”という意志のようなものが宿っていた。


 


「お姉さんは……そのポイント、何に使うんですか?」


 


──言葉は素朴だった。

返事を探す場所が、思っていたより深い。


 


医療現場では、日々“答える側”に立っている。

患者に、後輩に、学会に。

けれど今のやりとりは、そのどれとも違っていた。


 


「……選択肢として、意識したことはなかった」


 


思ったよりも素直な声が出た。

詮索でも探りでもない。

ただの好奇心に、なぜか応じてしまう。


 


さっき店で見た、あの男の苛立ちがふと脳裏をよぎる。

たった30ポイントで、何をあれほど拒んでいたのか。

登録という行為が、男のどんな“境界”に触れたのか。


 


──いや。

崩れかけていたのは、あの場の空気ではなく、

私自身の中の何かだった。


 


少女はシートに深く腰を落とし、

つり革の影を目で追いながら言った。


 


「お姉さん……お金って、どこから“高い”って感じますか?」


 


思考の深部が、わずかに揺れる。

会話の流れに、静かに角度がついた。


 


言葉を返すたび、

この子の思考のリズムに、同調している。


 


リツ子は背もたれからわずかに身を起こし、

膝の上で指を組み直した。


 


「少し専門的な話になるけれど……

わたし、脳神経外科という分野にいてね」


 


少女は、静かにうなずいた。


 


「医療の現場では、ほんの1ミリの判断に、

数千万単位の研究費が投じられることもある。


 


一方で、会計窓口で、

数十円の違いに深く頷く人もいる」


 


「高いか安いかって、数字だけの話じゃないの。

たとえば……その人が“どこから来たか”で、

同じ金額の意味は、まったく違ってくる。


 


たぶん、それは“文脈”の問題ね」


 


「文脈……?」


 


少女の声が、小さく反響する。


 


リツ子は、流れる窓の景色に目を落とし、

言葉の続きを探した。


 


「そう。たとえば、同じ1万円でも──

誰にとっての1万円かで、重みはまったく違う」


 


「……重力みたい」


 


その言葉に、

リツ子の眉が、ほんのわずかに寄った。


 


「面白い比喩ね」


 


「だって、重力って、

いつも平等にかかってるように見えて……

実は立ち位置によって、感じ方が変わるでしょ?」


 


「ええ。

ある人には“ご褒美”で、

別の人には“足枷”になる。


 


意味や重みは、絶対じゃないのよ」


 


少女は目を細め、

少しだけ頬を膨らませたまま黙り込んだ。


 


電車の揺れに合わせて、つり革がわずかに軋む。

遠くの方で、誰かの咳払いが聞こえる。


 


リツ子は、自然と視線を戻す。


 


「あなたはどう思うの?

“高い”って、どこから?」


 


少女は、いたずらっぽく笑った。


 


「それ、次の駅までに考えますね」


 


その言い方があまりに自然で、

リツ子は思わず、小さく息を漏らした。


 


次の駅が、もうすぐそこに迫っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ