Abschnitt II : Wahrnehmung(初ね坂駅)
──あと10ポイントで、交換できるんです。
隣から届いた声は、やけに澄んでいた。
けれど、どこか遠くで響くような、不思議な距離感があった。
リツ子は思わず、視線を向ける。
制服姿の少女が、視線をこちらに留めている。
隣に座っているはずなのに、年齢がうまく掴めない。
子どもにしては落ち着きすぎていて、大人にしては無邪気すぎる。
職業柄、年齢の見積もりには慣れているはずなのに──
なぜか“測れない”。
その曖昧さが、むしろ強く記憶に残った。
「広告で見たんです。ツルツル、ピカピカになるシャンプー。
ちょっと高いけど……わたし、あの香りが好きで」
無邪気な言い回し。
けれどどこか、胸の奥を軽くノックされるような感触があった。
ただの雑談とは、思えなかった。
リツ子は数秒の沈黙のあと、ふっと微笑む。
「いい香りか。選ぶ理由としては、十分すぎるわね」
そう言いながら、ふと自宅のバスルームを思い浮かべた。
あのシャンプー──確かに、今も変わらず棚にある。
深く考えて選んだ記憶はない。
髪に合い、香りも静かで心地いい。だから、なんとなく使い続けていた。
けれど今──
「香りが好きで」と言われたとき、
初めて、その香りを“選んでいた”ことに気づいた気がした。
それは、習慣の中に埋もれていたささやかな好み。
無意識に続けていた選択の、その静かな理由に──
ようやく、自分の感覚が追いついたような気がした。
この子の声には、ただの消費とは違う、
“何かを掴み取りたい”という意志のようなものが宿っていた。
「お姉さんは……そのポイント、何に使うんですか?」
──言葉は素朴だった。
返事を探す場所が、思っていたより深い。
医療現場では、日々“答える側”に立っている。
患者に、後輩に、学会に。
けれど今のやりとりは、そのどれとも違っていた。
「……選択肢として、意識したことはなかった」
思ったよりも素直な声が出た。
詮索でも探りでもない。
ただの好奇心に、なぜか応じてしまう。
さっき店で見た、あの男の苛立ちがふと脳裏をよぎる。
たった30ポイントで、何をあれほど拒んでいたのか。
登録という行為が、男のどんな“境界”に触れたのか。
──いや。
崩れかけていたのは、あの場の空気ではなく、
私自身の中の何かだった。
少女はシートに深く腰を落とし、
つり革の影を目で追いながら言った。
「お姉さん……お金って、どこから“高い”って感じますか?」
思考の深部が、わずかに揺れる。
会話の流れに、静かに角度がついた。
言葉を返すたび、
この子の思考のリズムに、同調している。
リツ子は背もたれからわずかに身を起こし、
膝の上で指を組み直した。
「少し専門的な話になるけれど……
わたし、脳神経外科という分野にいてね」
少女は、静かにうなずいた。
「医療の現場では、ほんの1ミリの判断に、
数千万単位の研究費が投じられることもある。
一方で、会計窓口で、
数十円の違いに深く頷く人もいる」
「高いか安いかって、数字だけの話じゃないの。
たとえば……その人が“どこから来たか”で、
同じ金額の意味は、まったく違ってくる。
たぶん、それは“文脈”の問題ね」
「文脈……?」
少女の声が、小さく反響する。
リツ子は、流れる窓の景色に目を落とし、
言葉の続きを探した。
「そう。たとえば、同じ1万円でも──
誰にとっての1万円かで、重みはまったく違う」
「……重力みたい」
その言葉に、
リツ子の眉が、ほんのわずかに寄った。
「面白い比喩ね」
「だって、重力って、
いつも平等にかかってるように見えて……
実は立ち位置によって、感じ方が変わるでしょ?」
「ええ。
ある人には“ご褒美”で、
別の人には“足枷”になる。
意味や重みは、絶対じゃないのよ」
少女は目を細め、
少しだけ頬を膨らませたまま黙り込んだ。
電車の揺れに合わせて、つり革がわずかに軋む。
遠くの方で、誰かの咳払いが聞こえる。
リツ子は、自然と視線を戻す。
「あなたはどう思うの?
“高い”って、どこから?」
少女は、いたずらっぽく笑った。
「それ、次の駅までに考えますね」
その言い方があまりに自然で、
リツ子は思わず、小さく息を漏らした。
次の駅が、もうすぐそこに迫っていた。




