Abschnitt I : Übergang(改札)
深部脳腫瘍の摘出──
それは、時計の針さえ静まるような時間だった。
ミスの許されない領域。
0.1ミリの判断が、一人の人格の明暗を分ける。
リツ子は、その長時間のオペを終えたばかりだった。
白衣を脱ぐと、
肩の奥にまとわりついていた緊張が、すっと溶けていく。
重たい一日が、
やっと“地上”に返してくれたような感覚。
エレベーターを降りると、
外には淡い橙色の光が残っていた。
日が沈む手前の、
街がまだ夢を見ていない時間。
リツ子の足が、自然に動き出す。
この空の色に気づいたのは──いつ以来だったろう。
彼女は大学病院に籍を置く脳神経外科医。
「臨床と理論の両輪を持つ、静かな異端」──
そう囁かれるほどの存在でありながら、
メディアにも学会の壇上にも立たない。
ただ、彼女の執刀を求めて、
国内外から転院してくる患者が後を絶たない。
医師たちの間では、
もうひとつの通り名があった。
──「遠花の女医」。
触れがたく、美しく、
ただ遠くから見上げるように称えられる存在。
けれどリツ子自身は、その呼び名に頓着しない。
誇りではなく、責任としてだけ──
その名を、静かに受け止めていた。
駅前のロータリー。
タクシー待ちの列が伸びていた。
いつものように並ぼうとしたとき、
ふと、財布の中のカードが目に入る。
小さな、レトロなプラスチック製のポイントカード。
駄菓子屋のシールみたいな、
少し幼いキャラクターが描かれていた。
それを見るたび、
なぜか肩の力が、ふっと抜ける。
無意識に、親指でカードを撫でる。
その一瞬だけ、表情の奥に、
執刀台とは無縁の温度が宿った。
完璧な女医の仮面の奥に、
ふと──年相応の、少女らしさがこぼれた。
(……この店、駅の向こうだったかしら)
列を離れる足取りには、
もう手術室の重さは残っていなかった。
せっかくだし、今日は電車で帰ろう。
自然と、そう決まっていた。
薬局の明かりは、遠目にも温かかった。
棚にはシャンプーや洗剤、化粧品。
買い物かごには、
“日常”が静かに並んでいく。
前に並んでいたのは、派手な男だった。
香りの強い整髪料、下品な笑い声。
かごには高価な化粧品や、
栄養ドリンクが雑然と詰め込まれている。
「……えっ、登録はされてないんですか?」
戸惑う店員に、
男は短く息をついて返した。
登録という手順が、
今の彼には煩わしすぎたらしい。
声は荒れていたが、
怒りというより、余裕のなさが滲んでいた。
場の空気が、一瞬、固まる。
客たちが少しずつ距離を取り、視線を逸らす。
空気が、ざわついた。
リツ子は一歩下がり、
そのやりとりを静かに見つめていた。
(……言い方ひとつで、こんなにも角が立つのね。)
男はレシートを乱雑に受け取り、
背を向けて店を出ていく。
誰も引き止めず、
誰も言葉を挟まない。
リツ子の順番が来た。
彼女は静かにカードを差し出し、
必要な言葉だけを添えた。
「お願いします」
奪うでも与えるでもなく、
ただ“整っている”所作。
背筋には無駄がなく、
言葉の端々に理性と節度が滲む。
さっきのざわつきとは、
まるで別の次元に、彼女はいた。
店を出ると、薄い風が通り抜ける。
リツ子は駅へと向かい、改札をくぐる。
ホームに上がると、
ちょうど電車が滑り込んできた。
空いている車両に乗り込み、
窓際の席に腰を下ろす。
──手術室では絶対に許されないほど、
今の自分は“油断している”。
その自覚に、
胸の奥でだけ、静かに息を吐いた。
リツ子は胸元から、あのカードを取り出す。
じっと見つめながら、
つぶやくように口が動く。
「……あと10ポイント」
それは誰にも届かない、
独り言のはずだった。
──はずだった。
「わたしもです。あと10ポイントで……」




