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第二話  『タクス・フォン・ブルウの結婚』

  序.回想


 少女は、明かりの消えた闇の中で夢を見ていた。

 それは、少女が育った村の夢。

 スケルナ三王国の一つ、シュベンの南の端、西に向かう小さな街道沿いの村、名をソロスといった。

 街道筋の小商いと農業が中心ののどかな村、その外れにある屋敷で彼女は育った。

 父は、本草と暦、占いを得意とする魔導師だった。ずっと昔は、都の偉い魔導師だったらしいが、彼女がまだ乳飲み子であった頃に、妻である彼女の母親を亡くしてから、この村に移り住んだ。

 魔道と生活の関係が深いシュベンでは、父はいつも忙しそうであった。薬の調合、農作業のための暦作り、相談事の占い。それらはとても役に立ち、近隣の人々にとても信頼されていた。

 彼には六人の弟子達が居り、高位の者は、デーマやシュベンの都に行き、他は近隣の大きな街で、それぞれ魔導師ギルドで働いていた。一番若い弟子のコールが屋敷に残り、修行の傍ら、少女の世話や家の雑事をこなしていた。

 少女が大きくなり、家の手伝いが出来るようになると、薬草園の手入れが彼女の仕事になった。

 父は彼女に、本草師、本草魔導師としての知識や技を教えたが、魔術は基本以外、決して教えようとはしなかった。


 ある日、デーマに居る高弟のグルがソロス村に戻って来た。そうして、父と深夜まで話し込み、早朝に帰って行った。

 その日を境に、父の様子が変わっていった。他の弟子達、ブル、バド、レト、ザイを呼び戻し、コールも交えて毎日夜遅くまで何やら作業をするようになった。彼女は、そこには一切入れてもらえなかった。

 そんな日が何週間か過ぎた頃、屋敷の前に豪壮な馬車が停まり、見るからに高位の魔導師がグルを伴って降り立った。魔導師は、父と長い時間話した後にグルを残して立ち去った。

 それから、父の様子は更に変わっていった。

 日中は、いつも通りに仕事をしていたが、夜の作業は一段と多くなり、やがて、村の仕事も、近くに住む知人の魔導師に任せることが多くなった。グルがソロスに戻ると、父は屋敷の門を閉ざし、昼夜を分かたず、仕事場に籠もってしまった。


 そして、『あの日』。

仕事場から何人もの男の悲鳴と呻き声が響き、恐ろしくなった彼女は、禁じられていた仕事場の扉を開けた。

 そこは、大きな作業台が据えられ、大量の書物と見たこともない異国の地図が広げられていた。

 壁沿いの、いつもは村人達のために薬を調合していた炉台には、大きな銅の坩堝が置かれ、中の調整物からは、ひどくイヤな臭いがする湯気が立ち上っていた。

 作業台の周りには、半裸のグル、ブル、バド、レト、ザイ、コールが倒れ、ある者は荒く息を吐き、ある者は小刻みに振るえていた。彼女が慌てて助け起こす間もなく立ち上がり、六人の若い魔導師達の華奢な身体は、またたく間に筋骨隆々とした戦士の身体つきに変化していった。

 彼女とて魔導師の娘であり、初歩とはいえ、本草と魔道の修行をしている身、彼等の変化が只事ではないことは理解出来た。彼女が、更に見回した視線の先、部屋の一番奥まった場所にある椅子に、求めていた父の姿があった。

 白髪混じりだった髪は真っ白に、顔はやつれ、新たに刻まれた深い皺と落ち窪んだ眼窩の奥で、瞳だけは炯々と光を放っていた。

「お父様!これはいったい!!コール達に何をなさったのです?!」

「止むを得んのだ…。我等に課せられた使命のためには…。此奴等も納得して、ともに『調整』を行った…。」

「『使命』って何です?いったい何んのために?」

父親はゆらりと立ち上がると、フラフラと娘の元に歩み寄った。

「『マギ』が命ぜられた…。背くことは出来ぬ。だが、私は、妻に約束した。おまえのことは、私が守ると…。弟子達も皆、お前のことは守りたいと言った。」

 父親は、彼女の両手を取って引き寄せると、痩せた冷たい手で彼女の両頬を挟んで、顔を覗き込んだ。

「たとえ、マギの命であろうと、私はお前を守る…。お前を『安全な処』に『隠す』。」

彼の目は悲しげであった。それが、瞳のない真っ黒な闇に変わった。

「これより、お前の名は『メディア』。我が騎士共の長になる…。」

その声を聞きながら、彼女は、何かの奥の方へすうっと引き込まれていった。

 父の名は、ゴドー。娘の名は…。


  1.名前


 「出ろ。」

牢番の兵が、ガチャガチャと錠前を外し、鉄格子を開けた。

(処刑か…。これでやっと皆の処に行ける…。)

娘は、言われるままに扉をくぐると立ち上がった。


 『あれ』から四日が経っていた。自らの身体の中に幽閉され、父の魔道で自分に成り代わったメディア。父と弟子達、そして『彼女』が、ソロス村を出て、スケルナからラーナに至り、何をしてきたのかは、自分の目と耳を通して知っていた。

 あの日、トールとヴァッフとかいう傭兵にグル、ブル、バド、レト、ザイ、コールの六人が倒され、父ゴドーと対峙、守ろうとしたメディアをゴドーが『止め』た。

 そこから、彼女は薄闇に封じられ、徐々に気が遠くなっていった。


 かすかに、『自分の名』を呼ぶ声で気付いた時、はじめは父かと思った。薄闇の向こうに小さな光が見え、彼女を呼んでいた。

 無意識に伸ばした手を握ったのは、父の手ではなかった。大きく、ゴツゴツとした、日に焼けた手…とても力強い、温かい手だった。

 「…、…! 目を覚ませ!!」

手を握られ、抱きかかえられた耳元の声に目を開けると、褐色の瞳が彼女を覗き込んでいた。たしか、こいつはトール…。

「!」

彼の肩越しに見慣れた背中が見えた。

「お、と、うさま…」

トールを振り払い、近付く。身体はいうことをきかず、彼女は、その背中に這い寄る。

 うつ伏せに倒れた父の背中は、大きな血溜まりの中にあった。かまわず、彼女はその背中にすがりついた。

「お父さま! おとうさま!!」

そこで再び気が遠くなった。


 次に目覚めた時、彼女は暗い部屋の中、石床の布一枚の上に寝かされていた。メディアが、何度も人々を封じた白亜宮の地下牢だった。

 再び幽閉された薄闇の中で、彼女は、今度こそ、自分にも死が訪れるのだと確信していた。

そうして今日、四日ぶりに地下牢から引き出された。

太陽はまだ東にあり、薄闇に慣れた眼には、朝日と青空がひどく眩しく感じられた。

 彼女は、二人の衛兵に挟まれ、王宮の中庭に立っていた。

「大司祭を僭称したる黒魔導師ゴドーの娘にして、黒騎士の長であるメディア。ゴドーの下、幾多の臣民を拉致・投獄し、時にその命さえ奪った。更には、ソフリナ王女殿下をフートマーン法王宮より略取し奉り、その御命まで危うからしめた罪は許し難し。よって、これらの罪をその死を持って購うべし。」

 審問官の読み上げる判決文を、彼女は黙って聞いていた。

「しかしながら、先の戦闘に於いて、メディアは我が騎士隊に誅滅され、既に落命しており、これをもって刑は執行されたものとする。」

「えっ?」

「判決は、以上である。」

審問官と衛兵は、彼女を独り残して、城内に去って行った。

 「えぇっ! ちょっと待って!!」

後を追うとした彼女の背後から声を掛ける者があった。

「メディアは死んだのです。」

「あなたは!」

馬を引いた従者と共にソフリナが歩み寄った。

「メディアは死んだ。その抜け殻に本来の生が戻ったとして、その罪は問えません。」

「しかし…。」

「その上、王は、その命を『あの者達』に与えてしまいましたし、私は、銀貨一サグリブで、その娘の旅支度を頼まれてしまいました。」

彼女は、旅用のマントと小振りの剣を娘に手渡した。

「あの者達は言いました。これを渡したら、あとは何処でも好きな処へ旅立たせろ、と。」

「『彼等』は?」

「昨日、南に向けて旅立ちました。何処に行くのかまでは存じません。」

ソフリナは、美しい青い眼をクリクリと動かして笑った。

「さあ、お行きなさい。『本当のあなた』が行きたい処へ!」

「ありがとうございます!」

娘は、マントと剣を身に付け、旅荷の付いた馬に跨がった。

「わたしは、ファン=ムのシュベン、ソロス村の地付き魔導師ゴドーの娘フェアリ!」

娘は、顔を上げ、故郷を旅立ってから、初めて笑顔を見せた。

「ソフリナ姫、この恩情は生涯忘れません!!」

 彼女の馬は、城門を抜け、走り出した。昇り行く太陽と共に、南へ。


  2. ノスコラード回廊


 「で、これから何処に向かう?」

フードの奥から馬上の魔導師が問う。

 ここはミッドランドの北西、ラーナ領の南にある広大な自由開拓地。青の街道を南下し、東西街道との交差を過ぎ、南東には中央山地の低い山並み、南西には遙かに万年雪を戴くノスコラード大山脈が見える。

先程の交差を東に向かえば、中央山地の峡谷地帯から、旧・西セラディア、現・ランディアの森林を抜け、セントラから旧・東セラディア、現・小セラディアの都であるセラディアの港からセラ海に至る。

西に行けば、ノスコラードの山裾と地峡の根元が接する隘路、所謂『ノスコラードの門』から、ノスコラード回廊の西側、更にはロマリアの都セーヴァに至り、セブルス内海へと続く。

 二日前にラーナの都シェルを出発した彼等は、その交差を南に辿り、ノスコラード回廊の東側に入ろうとしていた。現在の草原地帯から更に南下すれば、街道は中央山地の麓を抜け、幾つもの枝街道に分岐し始める。

 初めの分岐を、そのまま主街道に沿って進めば、東回廊はやがてハリム領に入り、フートマーンに向かう。これは、最前彼等がシェルへと向かった道である。

 東側の枝を進むと、街道は更に細かく分かれ、中央山地の南側とハリム領、東部草原に囲まれた小国群へとつながっている。これらの大きめの枝が幾筋も交わる所が、彼等が根城としていた自由貿易都市クルトである。

 「トール!」

返事をしない相棒に、ヴァッフが珍しく声を荒げる。

「…。ん…?ああ…、そうだな…。とりあえず、クルトに向かうか…。」

どこか上の空のトールに彼は馬を近付ける。

「どうした?」

「ん?ああ…、いや、何んでもない。ただ、少し、疲れた、かな…。」

トールは、馬の首にもたれかかると、そのまま、ずるずると落馬した。


  3. 熱病


 「そろそろ追いついても良い頃なのだけれど…。」

彼女は、道の先を透かし見ながら呟いた。

 シェルを出発し、街道を南へ。東に中央山地、西にノスコラード大山脈を望む草原地帯。道はもうすぐ東ノスコラード回廊に入ろうとしていた。

 一日分の遅れを取り戻そうと、小刻みに魔道の転移の術を使いながら、彼等の後を追って来た。行くあてがあるわけではないし、右も左も分からぬミッドランド、ともかくは追い付いてみようと思ったのである。

「あの男、トールと話したいこともある…。」

 並みの旅足ならば、もう追い付いても良い頃合いなのだが、地平線の先には馬影すら見えない。

「まさか、魔道でも使ったか…。」

(急ぐ旅でもあるまいに!)

 彼女は、何気なく周囲に魔道の痕跡を探った。

「ん?」

草原をまっすぐに延びる街道の東側に不自然な跡がある。何の遮蔽物もない場所である。

「結界?まだ昼間だぞ…。」

夜間の用心ならまだしも、昼日中、こんな目立つ処に、野営でもするような結界の気配がある。

「それにしても不用心な。これでは見え見えではないか。」

 通常、目隠しの結界は、その存在自体を気取られぬように張られるのだが、いかにも慌てた様子の粗雑な結界であった。

 その上、見知った者なら誰の手によるか判ってしまうような跡まで残っている。

 彼女は、一応用心しながら結界の中に踏み込んだ。一瞬、独特の抵抗感があり、それまで、そこには見えなかったものが見えるようになった。

 灌木に二頭の馬がつながれ、少し離れた地面、重ねた毛布の上にヒトが寝かされていた。その傍らにうずくまる、黒いマントの人物。

「誰だ!」

マントの人物は振り返りながら細身剣を構える。彼女は立ち止まり、両手を挙げる。

「お前は!」

マントの魔道剣士は、更に向き直り、剣の柄に力を込めた。

「敵意は、ない。ただ、お前達と一度、ちゃんと話がしてみたくて追いかけて来た。」

彼女は、魔導師としての全ての防御を解除して言った。魔導師であれば、少なくとも攻撃の意志がないことは伝わるはずである。

「話、だと…?我々にそんな暇はない。解放されたのなら、何処へと好きな処に去れば良い。」

ヴァッフは、剣を納めると再び背を向けた。

「シュベンには、帰れない…。帰っても、誰も、居ない…。」

彼女は、うつむき、ふと足下のもう一人の男の様子が目に入った。

「それより、どうしたのだ?」

横たわるトールに歩み寄ろうとする彼女を、ヴァッフが肩越しに制した。

「高熱を出して倒れた。」

「いつからだ?」

「昨日の昼だ。」

「意識はあるのか?」

「途切れ途切れだ。」

「昨日から、水か食事は摂ったのか?」

「倒れてからは、どちらも吐き出してしまう。」

「薬はないのか?」

「あるにはあるが、水も受け付けぬから飲ませることが出来ん。」

「ああ、もうじれったい!ちょっと見せてみろ。」

彼女は駆け寄り、ヴァッフを押し退けると、トールの様子を覗き込む。

 顔面は紅潮し、荒い息をしながら、彼は横たわっていた。彼女は、彼の手を取り脈を確かめる。その手は指先まで熱かった。更に、彼の胸元の衣服を緩めると、手の平で息の様子を確かめ、手の甲を押し当てて体温をみる。両の耳の下から首筋、下顎の下に指を滑らせると、彼の両頬を挟んで顔を近付け、声を掛ける。

「トール!聞こえるか?聞こえるなら目を開けろ!!」

声に反応して、トールがのろのろと眼を開ける。

「あ、ああ…。お前は…、ええ…と。」

かすれた小さな声が漏れる。

「トール、私が判るか?」

「お前は…、メディア…、いや、フェアリ…か。」

「そうだ。お前に命をもらったフェアリだ。トール、少しでいいから、口を開けて。」

やはり、のろのろと開かれた口の中にそっと指先を差し込み、魔道で光らせる。辛うじて喉の奥を見ることが出来た。

「口中から喉の腫れがひどい。これでは普通には食べられない。」

彼女は、トールの傍らに座り込むと呟き続ける。

「突然の高熱、気道の荒れはないから肺炎ではない。頚と顎の節の腫れは軽く、口と喉にひどい腫れ…。」

しばしの沈黙の後、

「フォッサ熱か!」

顔を上げ、ヴァッフに向き直ると、

「お前達、ラーナは初めてか?」

「は?」

「ラーナを訪れたのは初めてか?」

「ミッドランドの北側ということなら、沿海州まではあるが、地峡側は今回が初めてだ。」

「そうか…。」

「どういうことだ。説明しろ。」

「まず、トールの症状、これは、私たちの所では、『フォッサ熱』という。北のファン=ムの土に棲む病精が原因とされている。」

「ファンム…、スケルナの病と?」

「そうだ。ただ、ファン=ムでは子供の病気だ。そして、一度罹れば以後、死ぬまで罹ることはない。」

「麻疹のようものか?」

「そうだな。稀に、大人が罹ることがあると重症化する。殆どは精気の落ちた老人や病人、あとは他国者だ。めったに命に関わることはないが…。」

「スケルナの風土病に、何故ミッドランドで罹る?まさか、お前達が…。」

「さっきも言ったろう。本来は子供の病気と。我々は、遙か昔に罹って、治っている。」

「なら、何故?」

「おそらくだが…。ラーナは、地峡でファン=ムとつながっている。土地の様子も、ノルンの東部平原と、ラーナがあるミッドランドの北部平原はよく似ている…。同じ病精があっても不思議はない。」

「だが、そんな病気、これまで聞いたことがない。」

「そもそも、ラーナについて、お前達はどれほど知っていた?伝聞の域は出ていないだろう。フォッサ熱が、ファンムのように、子供のありふれた病気だったら、旅人や大人同士の話に上ることなどまずないだろう?」

「フム…。それで、ありふれた病気なら、当然、対処法もあるのだろう?」

「子供の場合は、放っておいても、二三日の間、熱が出るだけだ。喉の腫れがひどくて飲み食いが難しいときや、熱が引かないときにだけ、薬を使う。」

「その薬とは?」

「『キツネイモ』…、『狐金根』という野草だ。ファンムでは、これもありふれた薬草だ。」

フェアリは、地面に小枝で、簡単な、だがなかなか達者な絵を描く。

「土の中に丸い根塊があって、それにフォッサの病精に効く成分があって、その抽出液を飲むことで熱が下がり、腫れが引く。」

彼女は、周囲を見回す。

「この辺りは、まだ標高が高い。全く同じではなくても、近い種類は自生していそうなのだが…。」

更に周囲を歩き始め、とある植物に目を留めると、土を掘り、根元から抜き取った。

「これが『キツネイモ』だ。土が同じではないので、効果は分からないが、間違いない。」

それを見たヴァッフは、ようやく思い当たったように声をあげる。

「それは、こちらでは『野兎草』という。葉を乾燥させてから煎じて、熱冷ましに使う。それなら、この辺りでも珍しくない。」

「そうか!では、なるべく沢山集めてくれ。根から掘り出すんだ。」

「わかった。」

ヴァッフは、結界の外へ出て行く。それを見送ると、

「問題は、どう飲ませるか…。」

彼女は、水の入った革袋を手に、再びトールの側に行き、下ろした鞍で背中を支えて、トールの上体を起こした。

「いろいろ…、すまんな…。」

苦しげに彼が呟く。

「しゃべるな。今は道具もないので、少々乱暴だが、我慢しろ。」

彼女は、口に水を含むと、トールの口を塞ぎ、舌で口をこじ開け、彼の舌を押さえ込むと、口中の水を流し込んだ。

「…!」

粘膜の痛みで、一瞬抵抗があったが、すぐに喉が上下に動き、飲み下す。それを確かめると、彼女はその動作を何度も繰り返し、かなりの量の水を摂取させた。

しばし後、トールは静かな寝息を立て始めた。

 そうこうしているうちに、両手いっぱいの野兎草を抱えたヴァッフが戻ってきた。フェアリは手際良く、それらを洗い、茎と根に切り分けると、茎と葉はヴァッフに渡し、解熱剤を作らせ、自身は塊根の皮を剥き、小さく切り分けると鍋で茹で、柔らかくなると細かく潰して水に入れ、ゆっくりと煮ていく。

「発酵させている時間がないので、煮出した抽出液を使う。効果は弱いと思うが、ないよりはましだろう。」

「いずれにしても、この熱が少しでも下がらないことには、動かすことも出来ない。」

「そういうこと。」

 やがて、二種類の薬湯が出来上がり、それぞれ、布で濾した後、混ぜ合わせた。

 その器を手に、フェアリは再びトールの身体を抱き起こし、薬湯を口移しで流し込んだ。

「おい!」

「仕方がないだろう。自力では飲み込めないんだ。それとも、お前がやるか?」

フェアリは真顔で言う。

「いや…。」

それから数時間、慎重に容態を見守ったが、一時のような苦悶は和らいだものの、依然として熱は高いままであった。

「やはり、効果が弱いか…。喉の腫れは少し引いたようだが…。」

「どうする…。」

 二人が顔を見合わせて思案していると、背後から声がした。

「ホッホッホ。どうした、お困りか?」

「誰だ!」

二人が同時に剣を構える。

「今時の魔導師は、剣なんぞに頼るのかえ?修行を怠っておるようじゃな、キースの倅よ。」

「お師匠!」


  4.ローラン


 そこには、やせた老魔導師が立っていた。

 若い頃は、それなりに長身であったと思われる背は曲がり、左手には複雑に絡み合った木の杖を携え、古びて、半ば鼠色になったマント、そのフードの中からはみ出した真白な放髪と、同じく真白く長い髭と、数え切れない深い皺の間から、それだけ若々しく、悪戯っぽい瞳が微笑っていた。

 大魔導師ローラン。存在と生存が確認されている、唯一にして最古、最高位の魔導師。

 どれ程の年齢なのか知る者はなく、本人によれば、初めてマッス王宮に出仕したとき、迎えたのは、即位したばかりのニルファム賢王であったという。以後、マッス魔道館の最高位魔導師となってはいるが、その姿を見ることは殆どなく、ミッドランド中、あるいは世界中を、気儘に放浪していた。既に伝説中の人物である。

「お前と、ドライの息子どもの星見はワシがしておる。特に、そこの坊主の星辰は…。ん、どうした。具合でも悪いのか?」

「それが…。」

ヴァッフは、ラーナからここまでの顛末を手短に語った。

「なるほど…。それで、おぬし等の星辰が騒がしかったのだな。で、容態は?見るところ、あまり良くはなさそうだが…。」

「それが…。」

今度はフェアリが、トールの容態とフォッサ熱について語った。

「なるほど…。そうなると、きちんとした道具と設備が要るな。ところで、嬢ちゃんは本草魔導師かえ?それも…、おやまあ!スケルナンかえ。」

老人は、フェアリの頭から足元までをするりと見渡し、事も無げに言った。

「どうして、それを…?」

「金髪碧眼の少女魔導師なんぞ、ミッドランドにそうは居らんよ。それに、魔術魔道の力はそう強くない。その上、剣なんぞ帯びておる…。ミッドランドで、これ見よがしに剣をぶら下げた魔導師は、そこの馬鹿くらいのモノで、あとはたいがいインチキ幻術師か魔道をかじっただけの半端者じゃよ。そうなると、何やら子細がある者、ならば北より来る者。さっきの病の知識と合わせれば、スケルナの本草魔導師と知れるわい…。」

「はあ…。」

フェアリは狐につままれたような顔でうなずく。

「いずれにしろ、急いで坊主の手当をしなければならん。行くぞ!」

「行くとは…、何処に…?」

「とりあえず、ミッドランドで一番設備がある所が良かろう。」

「そうですが…、距離が…。」

「案ずるな小僧。もう着いた。」


  5.マッス


 「は? 着いたとは、何処に?」

ヴァッフが、ないことにキョトンとしている。

「お前の結界を張り直して、『間ノ間』を通して、マッスの魔道館に着けたと言ったのだ。」

老魔導師は、事も無げに言った。

「いやいや…。いくらなんでも無理です。どれぐらいあるか、御存知でしょう。」

「遠いのか?」

ヴァッフの脇腹を肘で突いて、フェアリが問う。

「マッスは南辺のノール海沿岸。早馬で五日、普通なら馬で十日の距離だ。」

ヴァッフが小声で答える。

「それは…。」

二人とも魔導師である。転移の原理と限界については知っている。

「未熟じゃのう…。嘘か真か己の目で確かめれば良かろう。」

 いつ変わったのか、周囲は薄暗い空間になっており、その一隅に、ローランは出口を開いた。

 そこは、薄暗い大広間の中央、数人の魔導師が警戒の陣を組んでいた。彼等は、ローランの姿をみとめると、驚きつつも陣形を解いた。

「大仰なこと。」

大魔導師は笑顔である。

「老師。いつも申し上げておりますが、お出での節には、正面の入口をお使い願えませんか。」

陣の中央に居た初老の魔導師が嘆息する。

「城門の結界、王宮の結界、魔導師館の防御結界。その上、その間に、何度も誰何され、何度もどうでも良い挨拶を交わす。面倒でやっておられんわ。」

「だからといって、それらを一回の転移で突破などされたら、非常警戒になるのは当然でしょう。」

「あいあい、わかった。以後気を付けよう。それより、急ぎの届けものというか、病人が居るのだが…。」

「病人?」

男は、老魔導師の背後に目を移す。そこには毛布の上に寝かされたトールの姿があった。

「セ、セル様…?」

「詳しいことは、そこの二人に聞くと良い。まずは治療院に運びなさい。」

ローランの指示で、周囲の者達が動き出す。

 トールは、台車付きの担架に載せられた。

「君は?」

彼の身体の状態を確かめていた魔導師が、事の成り行きに着いていけずに立ち尽くしているフェアリに声を掛けた。

「は!わ、わたくしは、フェアリ…。」

「魔導師だな。患者の状態を説明出来るか?」

「ハイ!」

「じゃあ、一緒に来てくれ。」

「え、えぇ?!」

彼女の返答を待たずに、魔導師達は、彼女諸共、担架を押して館の奥に消えて行った。

 その様子を面白そうに見送ると、白髪の老魔導師は、

「これで大丈夫じゃろ。後は任せるので…またな。」

と、歩き出し、空間に溶け込むように消えて行った。

 後には、ヴァッフと、先程の初老の魔導師が残った。他の者達は持ち場に戻ったのか、既に姿がなかった。

「さて、子細を聞かせてもらおうか、ヴァーク・ランドー。」

ヴァッフを睨みつけながら、男は言った。


6.国王 タクス・フォン・ブルウ


 「つまりは、ラーナの危機を救ったが、当の本人は、これまで知られていなかった風土病に罹り、相方はそれを見抜けず、スケルナンの女魔導師に救われて、ここに運び込まれたと…そういうことだな。」

玉座の男は、静かに、だが、明瞭怜悧に話をまとめた。

「不肖の息子が…。まったく、面目次第もございません。」

傍らに立った魔導師は、深々と頭を垂れた。

「それで、その風土病の治療法は見つかりそうなのか?」

王は、意に介さぬように用件を続けた。

「…はあ…。同行したスケルナンが、本草魔導師のようでして、治療法を知っていると…。現在、魔導師館の薬草園にて、薬草を探し、治療薬の調合に当たっております。」

「で、本人の容態はどうなのだ?」

「本来、命に関わる病ではないとのことですが、大人が罹患した場合、稀に重症化するそうで…。かなり衰弱されているとのことです。」

 跳ね上げたフードの顔に流れる汗を、魔導師長は拭った。

「我がマッスの王族に連なる者は、今や、王である私とあの者だけ。全力で治療にあたれ。」

「は!」


 ミッドランドの南岸、ノール海に面した入り組んだ海岸線の中央、大きな岬が形成する深い入り江の奥に都市国家マッスがある。

 三百年前、北方より現れたダイン・ブルウによるミッドランド制覇の終わり、彼の王が最後に建国し、終の住処とした土地である。

 マッスは、都市国家ではあるが、周辺の同様の都市国家群を束ねる存在であり、セラ海からノール海における、南方西方貿易路の要衝であった。そのために、規模こそ小さいものの、『ミッドランド最強』と賞される海軍を有していた。

 また、海路と同時に、青の街道と南北道・草原道・西方道を介してノスコラード回廊とつながる陸路の要衝でもあった。これらにより、マッスは、文化・文物、そして情報の集積地となっていた。

 都市の中には、ミッドランド最大の図書館が建設され、それを中心に王立大学、私立の学問所が立ち並び、ミッドランド最古にして最大の魔導師ギルドの館がそびえ、まさに、ミッドランドの文化の中心であった。

 現国王タクス・フォン・ブルウは、初代のダイン王から数えて十一代目。大きな戦が耐えて久しいミッドランドにおいて、希代の英明さで知られる若き王であった。


 魔導師長キース・ランドーの退出を見送りながら、タクス王は、玉座の脇の帳に声を掛ける。

「誰かある。」

「は。お呼びで。」

帳の陰から、フードを目深に被った魔導師がスルリと現れる。

「セルの容態、ラーナの情勢、それとスケルナンの女魔導師の詳細を。キースは、子息のこととなると、どうも冷静さを欠く。手を貸して、早急に報告せよ。」

「承知!」

魔導師は、現れたときと同様に、スルリと姿を消した。


  7.マーリンの離宮


 「セル様の容態はどうか?」

彼等がマッスに入り、四日ほどが経っていた。

 この間トールは、魔道師館の施療院に収容され、集約的な治療を受けていた。

 喉の炎症で、水も食物も摂り難いため、口から、金と蜜蝋で編まれた細い管を胃まで通し、薬と栄養、水分が投与された。キツネイモの促成薬の効果もあり、二日目には熱が下がり始め、喉の腫れも概ね引いていた。ただ、この間、体力の消耗と、不意の体動で管が脱落するのを避けるために鎮静剤が投与され、彼は眠り続けていた。

 「フム…。」

施療院の担当魔道師は、トールに咥えさせた硬い海綿を外し、口中を覗き込む。

「どうかね。これぐらい引けば、飲食は可能か?」

横に控えた者に問う。

「失礼…。」

フェアリは、左手で彼の下顎を押さえながら、右手の人差し指に小さな明かりを灯すと、慎重に診察する。

「ハイ。熱も下がり、腫れも引きましたので、もう大丈夫だと思います。」

「では、お目覚め頂くか…。」

 魔道師は、管から少量の薬を流し込み、しばらく待った後、彼の鼻に刺激臭のある煙を吸い込ませた。

「うっ…、グッ…。」

彼は、顔を歪ませて細く目を見開くと、状況を掴みかねて口を開き、強く咳き込んだ。

 魔道師は、手早く彼の口から海綿と管を外す。

 ひとしきり咳き込んだ後、彼は顔を上げた。

「お目覚めですか?」

「お前は魔道師館の…。なんでこんな処に…。」

「ここは、マッスの魔道師館です。ローラン様が運ばれたのです。」

「ローランが…、ヴァッフ…、ヴァークは…。…フェアリがなぜここにいる?」

 トールは、魔道師の横に立つ金髪の少女を不思議そうに見つめた。

「シェルを出た頃から、ずっと喉が痛んで、身体がだるくて…。それから…」

「熱病に罹ったのよ。ヴァッフが手当てをしている処に私が追いついて…。思ったより症状が重くて困っていたら、ローラン様が助けて下さったの。」

「そうか…、それでマッスか…。ありがとう。助かった。」

トールは、寝台の縁に腰掛けると、大きく伸びをした。

「くそ!まだあちこち痛いな…。俺はどれくらい眠っていたんだ?」

「四日くらいかな。喉は大丈夫?息苦しくない?」

頚と胸元に触れながらフェアリが訊いた。

「大丈夫だ。ずいぶん世話になったみたいだな。」

「気にしないで。」

彼女は肩をすくめて微笑んだ。

「セル様、実際彼女は優秀な本草魔道師です。彼女の応急処置と知識がなければ、これほど早く回復はできなかったと思いますよ。」

施療院魔道師は言った。

「そうか。で、俺はまだ、ここで手当てが必要なのか?」

「危険な状態は脱しましたし、意識も戻りましたので、あとは体力を回復させるだけですので、通常の養生だけで大丈夫です。どこか、手配致します。」

「頼むよ。」


 程なく、迎えの者が現れ、彼等は施療院を出た。入り口には、天蓋付きの二頭立ての馬車が待機していた。

「これで何処まで連れて行く気だ?」

「『マーリンの離宮』までお送り致します。」

御者台に上がり、男は恭しく言った。

「いやいやいやいや…。マーリンのって…、宮殿の敷地内だろうが。」

「院長より、殿下の体力がまだ回復しきっておられないので、馬車を使うよう、仰せつかりました。」

「それにしても、ここからだと、目と鼻の先だぞ。」

「まあまあ。院長も体調を気遣ってくれたんだし…。」

まだグズグズ言おうとするトールを、フェアリが押し込むようにして乗り込むと、馬車は静かに走り始めた。そうして、本当に数分も走らぬうちに、とある館の前で停まった。

 そこは、マッス王宮の南東の端、低い石塀と庭園に囲まれていた。王宮内の他の建物よりも小ぶりで、瀟洒な佇まいであった。

 『マーリンの離宮』。第十代国王、ドライ・ブルウの治世、聖騎士隊長を務めたマーリン・マハに贈られた館である。十年前の『南方貿易戦争』で、マハ卿が戦死した後もその遺徳伝えるために維持されていた。

 馬車が、その門を通り抜けると、玄関の前では、ヴァッフ、ヴァーク・ランドーが迎えに出ていた。

「やっと動けるようになったようだな。まずは中へ。『お待ちかね』だ。」

まだ少し渋っているトール、セル・バン・ブルウを促して、彼は慣れた様子で入っていく。

「兄ィさま!」

入るなり、一人の娘が駆け寄ってきた。彼女は、心配そうにセルの様子を頭から足の先まで確かめると、

「お加減はよろしいのですか?他にお怪我や具合の悪いところはございませんか?」

矢継ぎ早に質問を浴びせた。

「サーリア…。」

「姫さま、セル様は病み上がりで、ここに療養にいらしたのですよ。そんな一度にいろいろ聞かれても困ってしまいます。」

「だって、マーサ…。三年よ、三年ぶりに帰っていらしたと思ったら、重病だなんて…。私生きた心地がしなかったのよ。だから、回復されて、ここで療養するって聞いて、嬉しくて!でも…、やっぱりまだ心配で…。ごめんなさい、兄ィさま…。」

「すまなかった。でも、この通り元気になった。しばらく世話になるよ。」

トールは、娘の頭を撫でながら、優しく言った。

「ハイ!」

彼女は、初めてニッコリと笑った。


「ところで!」

屋敷の南側、風通しの良いテラスとつながった居間で、揃ってテーブルを囲んでお茶を飲み、くつろいだところで、しびれを切らしたようにフェアリが声を上げた。

「お茶のお代わりはいかが?」

向かいに控えた老婦人が、ふわりとポットを差し出す。

「頂きます…。じゃ、なくて!」

「何だよ、藪から棒に?」

トールはニヤニヤと笑っている。

「そろそろ、この状況をきちんと説明してもらえる?」

彼女は、テーブルの面々を見回した。

「何を?」

トールは、まだ、すらっ惚けた顔で訊く。

「全部よ。シェルを出てから、ここまでの展開が速すぎて、私はまったくついて行けてない。」

彼は、隣のヴァッフと顔を見合わせ、肩をすくめると、語り始めた。

「まず、ここは、ミッドランドの南の端、ノール海に面した都市国家マッスだ。」

「それぐらいはわかってます。」

「それじゃあ、ここにいる人間を紹介すると、少し解るかな?」

 テーブルの、テラスの向かい側には大きなソファが置かれ、その中央に、トールがどっかりと座り込み、その右側にヴァッフがいつものように背筋を伸ばして浅く座り、左側には、先ほど『サーリア』と呼ばれた若い娘が座り、その側に、『マーサ』と呼ばれた初老の婦人が控えていた。

「まず、俺の本名は、セル・バン・ブルウ。マッス現国王タクス・フォン・ブルウの弟、第二王子だ。俺の右側。ヴァッフ、本名はヴァーク・ランドー。マッス、魔導師ギルドの長、魔道伯キース・ランドーの息子。左側に座っているのが、この館の女主人で、三代前のマッス聖騎士隊長マーリン・マハの忘れ形見、サーリア・マハ。側に立っているのが、サーリアの乳母で、今はこの館の管理をしているマーサ夫人。」

紹介されるたび、それぞれ、軽く頭を下げる。

「ここは、通称『マーリンの離宮』と呼ばれている。先代王ドライ・ブルウが、マーリンの長年の勲功に報いるために、王宮内に作らせた邸宅だ。マーリンの戦死後、まだ幼かったサーリア、俺とヴァークは、みんな母親を亡くしていたので、ここで一緒にマーサ夫人に面倒を見てもらっていたんだよ。」

「我々にとっては、生まれ育った家のようなものです。」

ヴァッフ、ヴァークが付け加える。

「つまり、あんた達は、傭兵を装ったマッス王宮の人間…。ミッドランドを動き回って間諜でもしていたの?」

「まあ、普通はそう思うわな…。ところが、実際はちょっと違ってな…。」

「出自が王宮で、本業が傭兵です。」

再びヴァークが引き取る。

「はあ?」

「俺は王位継承権を放棄しているし、ヴァークは勘当されて、伯爵家の継承権どころか、魔導師ギルドの上級魔導師格まで取り上げられてる。」

さらりと言った、トール、セルは、お茶をすすった。

「何それ!そんなの聞いたこともないわ!!」

お茶を飲み干すフェアリの様子に合わせて、マーサ夫人がニコニコと菓子盆を差し出す。

「まあ、いろいろ込み入った…というか、馬鹿馬鹿しい経緯があってナァ…、そのうち解ってくるよ。別に秘密にすることでもないし…、なあ。」

と、ヴァークを見やる。

「まあ、我々、一応学問目的で各地に出歩いていることになっているので、国外で正体は明かせないし、国内でも、ごく一部を除いて、傭兵稼業のことは秘密ですけどね。」

「そうなんですよ。だから、もう三年もお帰りにならなかったんですから!」

サーリアが言葉を継ぐ。

 身長はフェアリと同じくらい。透き通るように白い肌と、細身の身体と細く白い四肢が、生成り色の綿の柔らかなドレスに包まれていた。細い頚の上には、目鼻立ちの明らかな顔立ち、瞳は限りなく濃く黒に近い青、髪は、ミッドランド人には珍しい金髪、いや、透き通った明るい褐色であった。その仕草は柔らかで、所々に『か弱さ』が垣間見える。

(たぶん、『可憐』という言葉は、こんなヒトのためにあるのだろう…。)

と、フェアリはぼんやりと考えていた。


 「ここにいる人間のことはとりあえず解ったわ…。でっ!『これ』は何⁈」

フェアリは、自分の足下を指さした。

 そこには、大人の腕ほどある銀色の毛むくじゃらのモノがテーブルの下から伸びている。それは時折、ゆっくりと右に左に振られていた。

「あぁ。『これ』はガラーテだ。」

 『それ』は、テーブルの下に長々と身体を伸ばし、一抱えもある頭をセルの膝に載せていた。大きさは仔牛ほどもあろうか。全身、銀色の体毛に覆われている。

「ライゴスといってな、古いオオカミの親戚だ。ミッドランドにもオオカミはいるが、ヤマイヌと区別がつかない。ライゴスは元々、ミッドランドの山地や海岸、平原の至る所にいたんだが、数が減っていてな…。南部の海岸地方では、マッスの岬下に昔からいる群れだけになっちまった。身体も小さく、毛の色も黒や茶が増えて、だんだん、普通のオオカミになってくみたいだ。」

「…。で、これは…?」

ガラーテが、大きな頭を押しつけると、セルがその頭を乱暴に撫で回し、話を続けながら、時折、耳の端を引っ張ったりするのを見ながら、フェアリは重ねて訊いた。

「ガラーテは、時折生まれる『先祖返り』だ。『ムカシライゴス』と言われて、海神オウドの遣い獣とされてるんだ。10年以上前、まだ、俺たちがここで暮らしている時に、こいつの母親が庭にやってきてな。身重でそのまま出産して、こいつと他に二匹を乳離れするまで育てたのさ。その後、親子は群れに戻ったんだが、こいつだけは、独りでちょいちょい遊びに来てるんだ。」

「ガラーテが居ると、狼藉者は恐ろしがって近寄りませんから、下手な護衛の兵より、よっぽど頼もしいんですよ。」

マーサ夫人が言う。ガラーテが嬉しそうに顔を上げると、彼女は、小さな焼き菓子をその大きな口に放り込んだ。

「ここに居る三人と一匹が、マッスでの俺の『家族』というワケだ。」

 そこへ、宮殿からの遣いが訪れた。その者が持参した書状に目を通したセルは言った。

「国王陛下からのお召しだ。今度は何だ?」

「まだ、病み上がりだし、すぐに何処かへ…という訳ではないと思うぞ。」

と、ヴァッフ。

「何か知っているのか?」

探るようにセル。

「別に…。」

結局、そこで話は終わり、セルは身支度を始めた。


  8.セルとタクス


 「お呼びにて参上致しました、陛下。」

衛兵に案内され、謁見用の大広間ではなく、奥の執務室に入ったセルは恭しく礼をした。

「うむ、来たか…。座れ。」

巨大な執務卓に積み上げられた大量の書類から目を上げることなく、国王は言った。

「…。」

言われるまま、前に置かれた応接椅子に腰掛ける。

 普通、応接椅子というものは、執務卓の前に二脚一組で向かい合わせに置かれるものであるが、この部屋では、ゆうに三、四人が座れる大きな椅子が執務卓と向い合せで置かれていた。曰く、『仕事向きの要件で来た者と、いちいち机から離れて座り直すのは効率が悪い。』と。

 セルは、書類に目を走らせながら次々と書き込んでいく姿を所在なげに見つめる。

「体調は、もういいのか?」

相変わらず、顔を上げない。

「もうだいぶ。熱さえ下がれば治ったようなものなので…。」

「そうか。」

「あのスケルナンの本草魔導師は?」

「フェアリか…。どうしようもない。どうするかは、本人が決めることだ。」

「そうか。」

「で、何の用件だ?報告は出した。今回は、少しばかり迷惑をかけたが…。それで…?」

「結婚が決まった。」

書類を脇に寄せ、やっと顔を上げる。」

「は?」

「式は二ヶ月後だ。」

「いや、だから、結婚って…。」

「その間は、国に留まってもらう。」

「あぁ!話がわからん!!ちゃんと順を追って話してくれ。あと、ヒトの話を聞け!」

「何だ、知らなかったのか。私の結婚が決まったのだ。あと、私が話を聞かないのはお前のだけだ、無駄に長いからな。」

「ああ、そうかい…。んで、誰が結婚するって?」

「私だ。」

「誰と?」

「ゴル聖騎士団前総隊長ドク・モイブンの長女、ミラーナ・ポー・モイブン姫と。」

「ゴルのモイブン家ね…。まあ、格としては妥当だな…って、今、ミラーナ姫って言ったか?」

「言った。」

「ミラーナ・ポー・モイブンか?」

「そうだ。」

「あの『烈姫』だぞ、『ポー一族』だぞ、正気か?」

「無論。」

「なんでまた…」

「家格、年頃が適切で、容姿端麗の才媛。縁談としては問題なかろう。幸い、先方も乗り気で、婚約期間一年を経て、この度、婚礼の準備が整った、というわけだ。」

兄王は、全く意に介す様子もない。

「それで?」

「知らないかもしれないが、マッスの王は婚礼に当たり、幾つもの儀式をこなす。その間は世俗の事柄には触れてはいけないことになっており、一族の近い者がそれらを代行する。」

「一族って…。マッス・ブルウ家は、俺とあんた以外、ごく遠縁しか残ってないだろ。」

「だから、お前、だ。」

「は?」

セルは椅子に座り直す。

「しれっと言うな!俺は王位継承権を放棄してるぞ。」

「マッスの王家としてはそうだが、ブルウ家の一族としては、依然として、お前は唯一の私の肉親だ。」

「いやいやいや…。いくらなんでも無理があるだろう。」

「心配するな。政庁の仕事は、メイやパルコフ始め重臣達がいつも通りにやっていく。お前の仕事は、諸国来賓の応接と接待だ。」

「御免蒙る!」

「改めて命ずる。王弟セル・バン・ブルウは国王婚儀の間、諸国来賓の応接接待に従事せよ。」

「だ・か・ら!イヤだって、言ってるだろうが!!」

「下がっていいぞ。」

弟の抗議など、軽々と無視しつつ、言うべきことを言い終えた王は、再び机上に視線を戻した。


 「まったく!相変わらず、話がぜんっぜん通じネェ!!」

「ははは。さすがのセル様も、陛下にはかないませんか。」

執務室の外で、初老の紳士が待っていた。

「メイ。あんた達、重臣だろ。どうにかならなかったのか?」

「そう言われましても…。陛下のおっしゃることはごもっともですし、政務関係は我々がいつも通りに行いますし、まあ、致し方がないかと。」

「外交応接も、立派な政務だと思うけど?」

「葬儀のように後継問題が絡むわけではありませんし、近隣のみならず遠国の王族や重臣諸侯が一同に会して交流する貴重な機会でもありますので、我が国としては無難にこなして頂ければ十分です。」

「むしろ、余計な気や手を回したりするな、と?」

「はい。」

「相変わらず、キツいネェ…。」

紳士の怜悧な笑顔に、セルは溜息を吐いた。

 ソイル・メイ。先代ドライ・ブルウ王に、下級官吏時代に抜擢され、現在までマッス政庁で宰相を務めている。彼は、現在のマッス高等学習院、マッス大学の前身である旧マッス高等学問所で入学から卒業まで主席の俊才であり、現国王タクス・フォン・ブルウ、王弟セル・バン・ブルウの教育係も兼務していた。その痩身のため、実際よりも長身に見え、広い額と白髪のせいで年齢以上に老獪で冷たい印象を与える人物である。

「しかし、ゴルの『烈姫』が王妃にネェ…。皆もよく承知したな。」

王宮の廊下を並んで歩き出しながらセルが問う。

「確かに…。ミラーナ様は、その美貌と才知もさることながら、気性について、とかく噂があり、我々も少々心配はしておりました。ただ…。」

「ただ?」

「そういう御方に限って、その知性故にまがい物を嫌い、その御心が不器用に表現されているだけなのではないかという観方もありましてね。なんせ、我々も、長年そういった方々のお世話をしてきましたので…、それを見極めてからでも、良いかと。」

肩越しに執務室、傍らの王弟を交互に見やりながらニコリと笑った。

「どうせ、パルコフもキースも同意見だった、と。」

「もちろん。」

「ポー一族の件は?」

「キース殿とも考えてみましたが、どうもにも良い考えがまとまらず…、いっそのこと、と陛下にお尋ねしたのですよ。」

「なんとなく、予想は出来るが…、兄は何と?」

「『ポー一族との縁が出来るなら、我が国の情報収集には良いことである。』と。」

「だろうな。」

「続けて、『彼等に操られてしまうようなら、この国も長くはない。むしろ、こちらで養分にさせてもらうべし。』と。」

「そうですか…。」

心底楽しそうに語る宰相の横顔を、セルはげんなりした表情で眺めた。


 『ポー一族』、元はまじないと託宣を生業としていた一族とのことだが、中世紀以降、魔道の隆盛に伴い、古い形を捨て、各地の情報を集め、先行きの予想をすることに特化していく。もともと各地を巡り、時にそこの有力者の元に一族の女たちを差し出し、縁を結んできた。いつしか、女系相続となり、その一族の女性は、総じて容姿と知性に恵まれた者が多く、各地の王侯の妻にと望まれるようになった。結果、彼等の下には情報が常に集まり、ミッドランドの政治の裏で、隠然たる影響力を持つに至っている。

 一方、マッスのブルウ家、三百年前にスケルナからやって来て、ミッドランドを平定し、現在の国々の基礎を築いた伝説の英雄ダイン・ブルウが終の住処として建国した都市国家。ブルウ王家は、その正統な末裔である。先述の通り、マッスは交通と流通の要衝。また、ミッドランド最大の学術都市でもあり、各地からヒトとモノが集まる。結果として、情報も集まり、各地にヒトも配され、大きな影響力を及ぼしていた。

 ポーとブルウ、この二家は、いわばミッドランドの裏と表、それぞれの『知らぬことがない』一族同士であった。


 「そういえば、例の姫さま、一時はポー一族の当主にと望まれたそうじゃないか?」

「あそこは、一族の中で特に優秀な女子が当主を継ぐ習わしがありますからな。」

「それを断ったのか?」

「『自分はポー一族ではあるが、あくまでゴルのモイブン家の娘。当主ドク・モイブンは聖騎士隊長でありゴルを代表する武門の家柄。まして、自分は長子。嫡男である弟のゼン・モイブンが家督を継ぐに足る成長を遂げるまで、ポー一族の申し出を受けて、家を出るようなことはない。』と言い切ったそうです。」

「『烈姫』の面目躍如だネェ…。」

「弟のゼン殿も、聖騎士として隊長格となり、独り立ちしたというのも、今回の縁談を受ける気になった一因でしょうな。」

「ふーん。で、メイ。宰相のあなたが見て、実際どんな印象だった?」

「そうですネ…。『烈姫』と言われるような、激しさは感じられませんでした。むしろ、怜悧な…、少し陛下と似ているかもしれません。まあ、あそこまでではありませんが。」

クスリと笑う宰相を、(親馬鹿か…)と呆れながら、セルも苦笑した。

 二人は、宮廷の奥の長い廊下を過ぎ、表向きの回廊までやって来た。

「では、後ほど迎えをやりますので、明日より応接の件、よろしくお願い致します。」

「やっぱり、やるのか…。」

セルは溜め息を吐いて、王宮を後にした。


  9.王宮にて


 「まずお会い頂くのは、周辺国の先触れの使者の方々です。中には、そのまま公使として留まられる方も居られますので、ま、無難に…。」

慣れぬ礼装の襟元や裾を気にするセルを横目にメイが告げる。

「はい、はい…。」

 王族の婚儀は長い。ここから二ヶ月にわたり、儀式と祝宴が続く。公式非公式、規模の大小を問わず、常に、何処かで祝宴が催され、街も祝賀一色となる。実際の王宮での祝宴は二十日ほど先ではあるが、各国の実務担当者、商館長、大使公使などは少しずつ王宮を訪れ始めていた。


 「ヴェイト王国宰相殿…。」

謁見の間が仮の出迎え所とされ、セルは、宰相ソイル・メイと共に各国の高官達を迎える。

「この度の婚儀、まことにめでたい…。」

尊大に述べる、マッスの実質的な隣国ヴェイトの宰相に目礼の後、右手を差し出す。

「ご多忙の中、早々の御入来、誠に痛み入ります。御承知の通り、王は婚儀の間、表向きの仕事は出来ませぬ故、私が名代となります。何かと行き届かぬ事もあろうかと存じますが、どうぞ、よしなに。」

「いやいや、こちらこそ。王弟殿下にお目にかかれて光栄です。聞くところによれば、古文書の研究で各地に出かけていらっしゃるとか…。」

「はあ…。兄王からすれば、何事も中途半端な不肖の弟で…、お恥ずかしい限りです。」

「陛下の御意向による巡見あるいは偵察との噂もございますが…?」

宰相の探るような目がじろりと光る。

「まさかぁ、私のは、いわば遊学。学問といえば聞こえは宜しいが、道楽のようなもの。政とは縁遠いものでして…。」

意味ありげな視線に気付かぬ風でニコニコと応える。

「左様で。いずれにしろ、此度の慶事、古き隣人として、心からお慶び申し上げます。」

「どうぞ、ごゆるりとお過ごし下さい。」

ヴェイトの宰相に続いて、ノール海沿岸の、所謂都市国家群の王族や重臣たちが次々と挨拶に訪れる。


 マッスがあるノール海沿岸は、東のヨギ半島を回って北に進むとミッドランドの主要な海路であるセラ海に出で、大国ゴルや沿海諸国に繋がり、西はノボール河からディグロス、荒野ザクロスを越えて西域へ、海を渡った向こう岸には、南乃大陸と、そこの大国マール王国へと繋がっている。

 この地域は、半島内陸のヤグまで大きな国家が存在せず、都市国家あるいは周辺の独立諸侯を加えた小国家が、『南岸回廊』と呼ばれる街道に沿って並んでいる。

 マッスは、その西端にあたり、主要な七つの国のうち、四つを束ねる最大勢力である。一方、ヴェイトは東端に位置し隣接する3つを束ねていた。比較的歴史が新しいこともあり、勢力の拡大に熱心で、ミッドランド全体におけるマッスの地位を狙い、事ある毎に大小の衝突を繰り返す関係にあった。

 十年前、先王ドライ・ブルウの時代、ノール海で海賊集団が跋扈し、マッスとの間で貿易路の治安維持を巡り大規模な戦闘に発展したことがある。後に『南方貿易戦争』と呼ばれた一連の戦いにおいて、マッスは、聖騎士隊長マーリン・マハを失い、ドライ王も重症を負うなど、大きな痛手を蒙りながらも勝利する。一方、ヴェイトは、この戦いに当初から消極的で、傍観を決め込み、結局、損害らしい損害もなく兵力を温存した。一説には、海賊集団を支援し、勢力拡大を図ったとの憶測もあり、両国関係は緊張した状態が続いていた。


 「ヤグ王国宰相殿…。」

南岸回廊諸国と諸侯らの応対が続き、ようやく、その日の最後となったのが、東のヨギ半島内陸の国ヤグの宰相であった。

 ヤグは、ヨギ半島の切り立った海岸を形成する山塊の中にあり、南岸回廊から北に向かう主要な三つの街道、ノスコラード東回廊、草原道、東山道のうち、東山道の大きな中継地である。山塊より産出する多様な宝石と、それらの加工のために石と金属の加工技術が発達。これらの採掘から輸出までを王家が独占管理し、莫大な利益を得ていた。その経済力と、街道要衝という地の利を活かし、ミッドランドで独特の存在感を示していた。


 「この度は、おめでとうございます。」

宰相は、蒼白い顔色の陰うつな印象の男であった。

「ありがとうございます。合わせて、貴重な宝石の数々を頂戴し、誠に痛み入ります。」

「いえいえ。マッスは、我が国の大切な取引先。更に、日頃から東山道の治安維持に御尽力頂いております。このような折に心ばかりの贈り物を差し上げるのは、当然のことかと。」

 陰うつな表情のまま、道化のように大仰な礼をする宰相に辟易しながらも、セルが言葉を継ぐ。

「時に、以前、貴国では珍しい教えというか、信仰が広まりつつあると耳にしたことがあるのですが…。」

単純な好奇心を示す感じは崩さない。

「おお!『ともしびの』某とかいう、『あれ』ですか…。なに、大したものではありません。鉱夫共の呪い事の類です。それも、いつぞや古い廃坑道にあった祈祷所が落盤に遭いましてな。以来、細々と続けられてはおるそうですが…。」

顔色に似合わぬ愛想笑いを浮かべながら、宰相は語った。

「そうですか…。グロスの神々以外の信仰というものを一度見てみたいと思ったのですが、残念です。」

「いや、学問的な意味とてもありません。下賤の者共の慰みですので。」

その後、事務的な会話を一言二言交わした後、彼は、その場を後にした。


  10.ジェイ・ダントロン


 次々と訪れる賓客達の出迎えを一段落させ、広間を抜け出したセルに声をかけた者がある。

「お久しぶりです。私を憶えておいでですか?」

振り向くと、大柄な若者が立っていた。聖騎士の通常兵装である革の胴着を身に付け、左脇に兜を抱え、後ろに同じ装いの二人の騎士を従えている。

 セルよりも頭一つ近く高い長身で、長い四肢には隆々とした筋肉がついている。短く刈り込まれた黒髪、顔は赤銅色に日焼けしていた。

「ダントロン殿、お久しぶりです。最後にお会いしたのはいつでしたか?」

「先王陛下の葬儀の折りでしょうか…。もっと早くお目にかかりたかったのですが…。」

「そうですね。不思議とすれ違っていましたね。」

「現在は、マッス聖騎士隊の隊長代理を拝命しております。」

「そうですか…。」


 ジェイ・ダントロン。マッス聖騎士隊副長にして隊長代理。恵まれた体格と、それ以上に才能に恵まれた天才剣士。先代隊長の『剣聖』ロビン・カーライルに見出され、彼の下で副長を長く務めていた。四年前、カーライル卿が聖騎士を突然辞した直後から、隊長への昇進を求められるも、頑なに断り続け、それでも強く望まれ、隊長代理を務めている。


「ずっと、機会を探しておりました。セル様、どうしても確かめたいことがありまして…。」

ダントロン卿の瞳に剣呑な光が宿っている。

「どうも、立ち話で済む用件ではなさそうですね。とはいえ、今は時間が取れません。日と場所を改めるわけにはいきませんか?」

敢えて、それに気付く素振りも見せずに、セルは柔らかく応える。

「では、明後日の午後、我等の屯所では、如何でしょう?」

「承知しました。」

「では、明後日。」

ダントロン卿は、踵を返すと歩き去った。その際、後ろに従っていた二人の騎士がそっと振り返り、申し訳なさそうに、小さく頭を下げた。セルは、それに軽く肩をすくめて応えながら溜め息を吐いた。


 「いいのか、安請け合いをして?」

いつの間にか、背後の壁際に来ていたヴァークが問う。

「何が?」

「知らないのか?ジェイ・ダントロンだぞ。」

「だから、何を?」

「奴は、『ロビン・カーライルの弟子』を自称するほど、彼に私淑していた男だ。」

「で?」

「四年前の武術大会と、その後の一連の事件の時、奴は街道巡察任務でマッスを留守にしていて、『あの場』にはいなかった。」

「だから?」

「カーライル卿の引退を、いまだに納得していない。」

「それで、仇討ちでもあるまい。」

「どうかな…。知らないのか、奴の評判を?剣の腕はずば抜けているが…。」

「バカなんだろ。」

セルは事も無げに言い放った。

「おい!」

「ちょっと言葉を交わせば判るさ。奴は、間違いなく天才で善人だ。ただ、それ以外は愚直で凡人以下だ。厄介なのは、バカがおかしな信念を持つことさ。」

「ならば、どうするつもりだ?のこのこ自分から出向くなんて…。」

「ま、何とかなるだろ。うっかり殺されないようにせいぜい気を付けるさ。いつまでも、放っておくワケにいくまい。奴にとっても、他の騎士達にとっても…。」

真顔になったセルにヴァークはうなずくしかなかった。


  11.巧人ルイージ


 翌日、セルは、宮廷内の慌ただしい雑務を抜け出し、街に出た。

 その足は、迷うことなくギルド街へ向かっていた。

 王城から城下の街路に入り、目抜き通りから数本内側に入ると、そこは、人々の生活する地区である。

 商人街から、更に職能ギルドごとに街路を形作っている。

 ミッドランドの大きな都市の典型的な構成ではあるが、細部はひどく入り組んでおり、慣れぬ者は入ることも出ることもままならない。そんな迷路のような街並みをセルは迷うことなく進んでいく。

 表通りの大店から問屋、小商いの店を過ぎ、いわゆる職人ギルド街へと移り変わる辺りのひときわ大きな構えの店の前で足を止めた。

 『ドーソン酒店』。造り酒屋であると同時に、各地の地酒・珍しい酒も扱う、マッス随一の酒問屋である。主のドーソンは、かつてマッス・ギルド会の会頭も努めていた顔役である。

 セルは、その店の中に、案内も請わずにズカズカと入っていく。

「いらっしゃいませ!ああ、トールさん。旦那様、トールさんですよぉ。」

彼の姿をみとめた店の者が奥に声をかける。

「おお、トール!戻ったか。」

店の奥から恰幅の良い老人が小走りで姿を現す。エイブ・ドーソン。ドーソン酒店の主人は、血色の良い顔をほころばせて、セルを招き入れた。


 「今回は、また大変な目にあったな。」

奥の間のテーブルに向かい合いながら、ドーソンはセルの盃に泡立つ麦酒を注いだ。

 同じように自分の盃にも注ぎ、二人はそれを取り、一気に飲み乾す。

「ハァー!やっぱり美味い‼」

「当然だ。麦はディグロス、ホップはハリムのノスコラード産、水はここの地下水。不味いわけがなかろう。」

薄い口髭に真っ白い泡を付けて、老主人は笑った。

「しかし、大丈夫なのか?病み上がりじゃろ。」

「もう治ってるよ…、さすがに耳が早いな。」

「そりゃ、元のギルド会会頭は何でも知っておるさ。」

「じゃあ、国王の婚礼のことも?」

「もちろん!」

「まあ、タクスの年齢からして、嫁をもらうのは当然として、よりにもよって、ミラーナ姫って…。」

「不満かね?」

「年齢や家格としては、これ以上ないだろうな。『ニルファムの再来』といわれる栄明なる若き王の伴侶として、当代随一の美姫にして才媛…。すごい組み合わせだ。」

「だろ。再来月の婚儀に向けて、今から国中大騒ぎだ。」

「しかし…、一体どんな馴れ初めなんだ?」

「聞いとらんのか?」

「『あれ』が俺に詳しい話などするものか。」

「『再来月の我が婚儀の前後、我が唯一の肉親として、その役割を果たせ。』それだけさ。」

「なるほど…。」

ドーソンはニヤニヤと笑っている。

「で?」

「まあ、有り体に言えば、一年余りの文通の後の縁談成立。その間に一度顔合わせをしていてな。嘘か本当かは知らんが、ミラーナ姫の一目惚れらしい。

「はあ?」

「文通で、王の才知に惚れ、会って話して、容姿にも惚れ…、なんだとさ。」

「いやいやいや、いくらなんでも…。『ゴルの烈姫』だぞ。一時は、母方のポー一族の次の長にと望まれ御仁が?」

「かの姫の、伴侶に望む条件を知っているか?」

「いや。」

「『身の内も外も、わたくしよりも高い殿方』だそうだ。」

「はぁ…。」

「我が国王陛下は長身である。その才知は賢者王ニルファムに届くと言われている。」

「それで、か?」

「らしいぞ。」

「…。」

「『縁は異なもの』とはよく言ったモンだな。」

「揉める要素がないなら結構。ついでに、世継ぎなんぞも、お早くお願いしたいモンだねぇ。」

 そんなやりとりの間に、始めの陶器の瓶は空になった。お代わりを持ってこさせようとするドーソンをセルが制した。

「これから、まだ用があるのか?」

「ああ、さっきの件のおかげで、こちらも祝いの品なんぞを、な。」

「ほほぉ〜、大人になったネェ。城を抜け出しちゃあ、この辺りの横丁をウロついていた悪ガキが。」

ドーソンは、顔をクシャクシャにして微笑んだ。

「ところで、ルー兄ィ…、ルイージは、まだアポロ工房に?」

「ああ、今やあの工房の筆頭職人だ。わずか六年で、大したものだと評判だ。実際、仕事の中身の評判はもっと良い。ただ、な…。」

「ただ?」

「う〜ん…。本人に会った方がわかると思うぞ。アポロの奴も案じておったからな。お前が行けば助かるじゃろ。」

「そうか、じゃ、そうするよ。」

セルは席を立つ。


「まだ、しばらくはこっちに居るのだろう?」

「婚礼が終わるまでは、出してもらえないだろうな。」

彼は苦笑した。

「違いない。ならば、またおいで。かみさんも、店の連中も待っているからな。」

彼は店を出ると、横丁の更に奥に向かった。


 この辺りは、工人ギルドの工房が集まっており、彼は、その中でもひときわ大きく、古い工房へと入っていった。

「邪魔するよ。」

北側の入り口を入ると、大きな炉が二基据えられ、そこで、職人達が数人働いていた。

「トールじゃん。しばらくだな。」

年長格が、彼に気付き、声をかける。

「親方はいるかい?」

「奥の工房だ。…、ルイージも、な。」

職人は、作業の手は止めず、奥に顎をしゃくった。


 『アポロ工房』。

 マッスで、そしてミッドランドで屈指の細工物の工房である。

 刀剣の装飾から、衣服に付ける宝飾、装身具など、多岐にわたる細工を手がけ、金銀・宝石の細工とその美しい意匠で、顧客の多くは王侯貴族や大商人であり、親方の『名巧』アポロの手による作品は、ほとんど美術品のように扱われ、高値で取り引きされていた。


 左右に小さな作業部屋が並ぶ、細長い通路の先、南の奥に、広い作業場があった。天井は高く、その上縁には三方ぐるりと窓があり、室内を常に一定の明るさに保つように工夫されていた。

 中央に大きな作業机がいくつも設置され、中央のひときわ大きな机に、この工房の主人『名巧』アポロが座っていた。

 机の前に据えられた椅子に、小柄な身体を収め、猫背の背中を更に丸めて、何やら仕事をしている。

 鉄梃の上に固定された、小さな銀色の指輪、そこに爪の先よりも細い鏨で模様を彫り、針のような鑢で磨き上げる作業を、黙々と繰り返している。

 入ってきたセルの気配に気付くと、ひょいと顔を上げ、左の奥を目顔で示した。


 並んだ机の東側の端で、もう一人が作業していた。

 金線で作られた、ごく小さな螺旋がいくつも並べられ、その要所を、針先で赤く熱した鉛入りの蝋でつないでいく。更に、冷め切らぬうちに、つなぎ目を、細く細く切った金箔で覆い隠していく…。繊細で、気の遠くなるような仕事である。

 セルは、その机に歩み寄ると、手元の光を遮らぬように座り込み、その作業をじっと眺めていた。男は、彼に気付く様子もなく、作業を続ける。やがて、机の上には、小さな螺旋が縦横に連なるモチーフが姿を現した。

 職人は、顔を上げて小さく伸びをする。そこでようやく、傍らに座り込んだセルに気が付いた。

「うわぁ!何だ、セル…トールか…。しばらくだったな。」

「三年ぶりに。戻ったのは十日ばかり前。」

彼は、ニッと微笑む。

「またすぐ発つのか?」

「今回はしばらく居る…、というか、居なきゃならなくなった。」

セルは隣の作業机に寄りかかり、溜め息を吐く。

「そうか、陛下の…。王族というのも大変だな。」

「よく言う。」

彼の皮肉っぽい返答に、職人は肩すくめた。

「今日は、頼みがあって来たんだ。」

セルは、寄りかかっていた机の上に、重そうな合財袋をドサリと置く。

「なんだよ。」

ルイージの問いには応えず、彼は、机の上に袋の中身を並べていく。

「これは…!」

「ほぉ…。」

その品々に、二人の職人は、思わず声を上げた。

「この小刀は、旅先で知り合った西域の刀鍛冶から譲り受けた。」

セルは、始めに取り出した小刀を抜く。その刀身は青黒く、腹から背にかけて海の潮目のように無数の白い筋模様が浮かび上がっていた。

「『デラス鋼』じゃねぇか!何処でこんな…。」

 『デラス鋼』、西方のごく限られた地域で作られる特殊な刃鋼。軽く柔軟、鋭い切れ味で知られ、その希少性から、ミッドランドでは『幻の刃』と呼ばれている。

「ヤグの蒼玉・紅玉・碧玉・水晶・金剛石。マッスの真珠…。」

大小の宝石を、次々と並べていく。

「ちょっと待て…」

アポロは、その中の大粒の真珠を手に取った。

「桃色と青色。対で、こんな大粒の真珠…。これほどの品は、ここ数十年、とんと見かけんぞ。どこの筏だ?」

「天然物だよ。」

「はあ?誰が採った?!」

「約束なんで、教えられない。」

気色ばむアポロを面白そうに見ながら、セルはニヤリと笑った。

「で、最後がこれ。」

合財袋の一番下から取り出したのは、金袋だった。

「金貨一サグリブ。全部ゴル金貨だ。」

「これらを使って、兄上に結婚祝いの品を作って欲しい。ゴル金貨は、流通している中では一番純金に近い。鋳つぶして材料にするなり、費用に使うなりしてくれ。残りは工賃や手間賃として受け取って欲しい。ルー兄ィ、いや、巧人ルイージ、あんたに頼みたい。」

褐色の瞳をキラキラさせながら、セルは、若い職人に頭を下げた。

「そんな…。俺にはまだ…。そんな恐れ多い品作れない。親方に…。」

ルイージは親方を見る。セルも、親方、『名巧』といわれるアポロを見つめた。

「ルイージ、お前ここに入って何年になる?」

「六年です。」

「普通、奥の工房に自分の机を持つには十年かかる。まして、ウチは腕の立つ若いのが多いから、それ以上だ。だが、お前は今、『ここ』で働いている。それに、誰も異論を挟まない。その意味が解るか?」

「私が弟子になった時には、もう、大人でしたから…。」

「バカヤロー!確かに、ウチに来た時、お前は下っ端から始めるには年がいっていた。それでも、お前は工房の掃除や下働きを嫌がらずに続けた。」

「それは…、弟子になる以上、当たり前です。」

「ワシも皆も、まず、お前の、その覚悟に驚いた。お偉い大貴族の跡取り様の気まぐれかと思っていたからな。そうして、試しに小物を作らせてみて、もう一度驚いた。我流ではあったが、工房で何年も修行している職人に負けねぇ出来栄えだった。それから、今までのことは、お前が一番よく解っているはずだ。」

「はい。親方や皆のおかげで、どうにか一人前に仕事をさせてもらえるようになりました。」

「どうにか、一人前に…、だと?ルイージ!天下のアポロ工房の職人頭ってのは、『どうにか』で務まるようなものか?なめるなよ!!」

「いいえ…、あ、はい…。」

ルイージと呼ばれた若い職人はうなだれた。

「ルー兄ィ、俺は、幼なじみのルーファス・メイに頼みに来たんじゃないんだ。近頃、ミッドランドで噂になっている、『アポロ工房の巧人ルイージ』に仕事を頼みたいんだよ。」

セルが言う。

「だとよ。今でもよく覚えてるよ。お前が、この悪ガキに案内されて、ウチに来た時のことをな。今にも死んでしまいそうな…そのくせ、絶対にこのまま死にたくない奴の眼をしていた。『巧人になりたい。』お前はそれだけ言った。トールの奴が事情を話すまで、微動だにしなかった。」

アポロは、ルイージに歩み寄り、机上の細工物に触れた。

「これほどの金線細工を作れる職人は、ミッドランド中探しても、そうはいない。あのヤグの宝飾巧人でも難しかろ。ルイージよ、今のお前は、昔、お屋敷の物置でコソコソとものを作っていた『ルーファス』とは違う。なのに、お前はいまだに何か後ろめたいことでもしているような、自信のなさが抜けない。ワシらは、それが心配なんだ。」

「いいか!今日からお前はトールの仕事だけをやれ。これまでに受けている仕事は、ワシや他の者たちが引き受ける。それでも足りなければ、巧人ギルド全体で何とかする。」

「親方…。」

ルイージは、ようやく顔を上げた。

「国王陛下の婚礼の、王弟からの贈り物を依頼されたんだ。他の仕事までさせたんじゃあ、アポロ工房、いや巧人ギルドの沽券に関わる。お前は、全身全霊で、この仕事をやり遂げろ。これは、命令だ!」

「はい!」

「期限は四十日。婚儀の最終日、お披露目パレードの時だ。頼んだよ。」

 セルが工房を出ると、路地裏の埃の向こうで、ようやく西に傾き始めた太陽が、南国特有の強い光を色とりどりにきらめかせていた。


12.凡庸なる天才


 明けて次の日の午後遅く、王宮に程近いマッス聖騎士団の屯所にセルとヴァークの姿があった。

 「本当に申し訳ありません。我々も何度も止めはしたのですが…。あの性格ですから…。」

案内に現れた温厚そうな年長の聖騎士が、心底済まなそうに言った。

「カーライル卿のことは、正直、私も気にはなっていました。とはいえ、当時の彼を『あのまま』には出来ないことも理解できましたから…。」

セルは、いつになく静かに応える。

「『あの時』、あの場にいた者たちは皆、納得しています。強いて言うなら、全盛期を過ぎていたとはいえ、あの『剣聖』ロビン・カーライルを打ち倒すヒトが、まさか、あなた様とは思いもしませんでしたが…。」

「あれは、卿の望みでもあったのだと思います。私自身、思いもしない結果でしたから…。」


 兵舎の中を抜け、広い練兵場の中央で、長身の騎士が仁王立ちで待ち構えていた。

「約束を違えず、よくぞお出で下さいました。礼を言います。」

本人は、慇懃なつもりの言葉が、ひどく不遜に響いた。

「まあ、正直、あまり来たくはありませんでしたよ。こう見えて、婚礼の雑事に追われていて、暇なわけではありませんから。」

如才なく応えるセルを、ニコリともせず見つめるダントロンに、彼は声を改めた。

「で、私に訊きたいこと、とは?」

宮中での柔らかい物腰を崩さず、セルが問う。

「四年前のこと」

「その、何を?」

「知れたこと。『あの時』、あなたは、隊長に何をした?」

「求めに応じ、立ち合い、倒した。それが?」

「あり得ぬ。」

「事実だ。」

「あり得ぬ!あの隊長が、『剣聖』ロビン・カーライルが、当時二十歳にも満たぬ若造の剣に屈するなど、あり得ぬ。あってはならぬ‼」

「たしかに、信じられないかも知れない。だが、事実だ。この場にも、『あの時』の事を見ていた者たちが居る。」

仁王立ちのまま、頑迷に言いつのる屈強な騎士に相対し、あくまでも穏やかに、見ようによってはのらりくらりと応え続ける。

「これ以上、話しても埒があきません。」

ダントロンは上着を脱ぎ捨てると続けた。

「剣において生じたる問いは、剣を以て確かめるに及くはなし。」

「はぁ?」

「まさか、逃げたりはしませんよね⁈」

すでに脅迫である。

「いや、逃げるよ。貴公の思い込みと頑固な疑問を解消する義理はないからね。」

「ならば、これより毎日、立ち合いをお願いに参ります。」

(やっぱり、バカだなこいつ…)

「知ってのとおり、私は、今、婚礼の来賓応接の任を仰せつかっている。貴公は、そこに毎日押しかけるというのか?」

「この場で立ち会って頂けないのであれば。」

「そんなことをすれば、というか今の段階で、ただで済む話ではないと思うがな。」

「覚悟の上です。」

(ダメだ、こりゃ)

セルは背後のヴァークを肩越しに見る。

(だから言ったろう。気を付けろ、と。)

表情は変えないまま、耳元の遠話は、呆れ声である。

「仕方がない。『剣の疑念は剣で』と言ったな。ならば、それに答えよう。私は何も話すつもりはない。」

「感謝する。」

若き天才騎士は頭を下げた。

「立ち合いの結果がどうあろうと、私は貴公の問いに答えるつもりはないと言っているのだが…」

「つまり、立ち合いには応じるというコトですよね。」

(はぁ…)


「柄物はいかがされますか?」

ジェイ・ダントロンは、相変わらず硬い表情で言った。

「すべて『あの時』と同じで。もちろん、真剣がお望みなのでしょう?」

セルは、略式礼装の剣帯と小剣を外し、傍らの騎士に渡すと、ベルトの左右に帯びた小刀を抜いた。

「かたじけない。」

ジェイは、腰の大剣を抜き払う。それは、一般的なそれよりもあらゆる意味で二回りほど大きかった。それをゆっくりと正面に構える。午後の南国の陽光に、分厚い刀身がギラリと光った。


 「勝敗は通例通り。どちらかが負けを認めるか、戦闘の継続が不可能と判断された時点とする。」

中央に進み出た年長の騎士が両者に告げ、一歩下がって右手を高く上げると宣した。

「始め!」

訓練場を囲んだ人々が一斉に息を呑む。


 先に動いたのはジェイ・ダントロンだった。その巨躯からは想像出来ない素早さで、一気に間合いを詰めると、中断から凄まじい勢いで大剣を振り下ろす。鈍い金属音とともに、交叉した小刀でセルがそれを受け止める。

更に一撃、一撃、嵐のような斬撃が繰り出される。それらを、あるいは受け止め、あるいは受け流す…。傍目には一方的な展開であった。

 ヴァークは腕組みをしたまま、静かに見つめている。

 一連の攻撃の後、ジェイが間合いを開ける。セルは交叉を解き、構え直す。再び、ジェイが踏み込み、打ち込む。

 これが幾度か繰り返された。


 「さすがに副長の剛剣には敵うまい。あとどれくらい保つか。」

中央を見ながら話す若い騎士たちの後ろから、長身の人物が入ってくる。

 宮中用の略礼装と、不釣り合いな大剣を提げたその人物が、彼等に声をかけた。

「どのような様子かね?」

「開始から、ダントロン副長が攻め続けています。セル様は防戦一方で、このまま押し切られそうです。」

「ほう…。ダントロンの手数はどうかね?」

「すごいです!攻め続けているのに、どんどん剣速が上がっているのが、ここからでも判ります。」

「ならば、セル様はかなりの傷を負っているのではないかね?」

「そうですよね…。それが…、ここまで、副長の剣は一度も当たっていません。肩や頬にかすり傷は見えますが…。他は何処にも…。ああ!また間合いをとった。」

「ほう…。」

男は騎士たちを押し退け、前に進み出る。

「ちょっと!あ!!し、失礼しました!」

男の顔を見上げ、彼等は一斉に挙手の礼を取る。

「良い、良い…。」

 微笑む男の名は、クックロック・パルコフ。先々代の聖騎士隊長であり、現在のマッス陸海軍総督である。最前列まで来ると、腕組みをして、仁王立ちのまま闘技場を見つめた。


 両者は間合いを取って呼吸を整えていた。二人とも、全身水を浴びたように汗が流れ、荒い息をしていたが、心なしか、ダントロンの肩の動きが大きいように見えた。

「フン。また腕を上げたか…。」

にやりと笑いながら、パルコフは呟いた。


 ジェイが踏み込む。だが、数撃で後方に飛びすさる。

「ああ!あともう少しなのに、何を…。」

若い騎士たちから声が漏れる。

「お前たち、今、追い詰められているのはどちらに見える?」

背中越しに軍総督が言った。

「え?セル様でしょう。さっきから攻め込まれて後退し続けているのですから…。」

「後退…、本当にそうか?」

彼の声と視線に促されるように、彼等はセルの足下に目を向ける。

「えぇ?」

そこには、前後左右に半歩分、見事な円形が描かれていた。

「どういう…?」

おずおずと総督の顔を見上げる。

「すべての攻撃は、あの動きの範囲で防がれている、ということだ。」

「副長の、あの剛剣をすべて…。」

ダントロンが打ち込む。すでに剣速は、すべてを視認するのが難しいほどの早さに達している。だが、数回打ち合う音の後、一気に元の位置に戻った。その頰に、細く一筋の赤い線が走る。

「見ろ。」

セルの交叉はすでに解かれ、左手の小剣が振り抜かれている。

「何が起こっているのですか?」

「『あの時』と同じじゃよ。」

パルコフは対側で心配げに見守る年長の騎士たちを見やった。


しばし睨み合った後、やはり先に動いたのはダントロンだった。

 セルの間合いの中に一気に踏み込むと、これまでよりも更に強く速く打ち込み続ける。その手元は常人には見定めるのが難しく、ただ、昼間でも見えるほどの火花と甲高い金属音で、刃が交わされていることが知れるのだった。そう、彼の刃はすべて受け止められていた。

 その斬撃が速さを落とし、手元に引かれていく刹那、彼の左肩にするりと鞭のようにセルの小剣が振り下ろされる。それを辛うじて打ち払い、半歩下がったダントロンは、その大剣を両手で握りしめ、渾身の一撃を大上段から打ち込んだ。

 鋭い金属音の後、両者の動きが止まる。更に全力を込め続けるダントロンの息遣いとともに、鈍い金属音が響く。

 セルは、頭上でその大剣を、交叉させた小剣で受け止めていた。ただ、これまでと違うのは、交叉の内側に向いているのが、片刃の小剣の峰側であり、更に、根元のつばから飛び出した突起で、大剣の刃を挟み込んでいる。

 鈍い音は徐々に大きくなり、ついに、耳障りな音ともに大剣は真二つに折れ砕けた。勢い余ったダントロンは前のめりにたたらを踏みかけたところを踏み留まる。その首筋と胸元へセルの小剣がのびる。

 思わず仰け反ったダントロンは、その場にぺたりと尻餅をついた。そこに、セルの刃が静かに押し当てられる。

 彼は、もう動けなかった。

「勝負あり!」

審判役の騎士が叫ぶ。


 周囲から、安堵と失望の吐息が溢れた。

 どっと吹き出した汗とともに浅い息を吐き続けるジェイ・ダントロンの胸元と首筋から小刀を放すとき、彼の耳元でセルが囁いた。


「『次』はないぞ。」


呆然と、その後ろ姿を見つめる彼に、クックロック・パルコフが静かに歩み寄った。

二日後、ジェイ・ダントロンはマッス聖騎士隊長に正式に就任した。


  13.フェアリ・コーバン


 フェアリは、その日も岬の突端にあるオウド神殿にいた。

 別にオウド神を崇めるようになったわけではない。

 彼女は、シュベンの内陸部に生まれ育ったため、これまで『海』というものを見たことがなかった。ところが、トールとヴァッフに関わりを持った途端、あれよあれよという間に、世界の反対端の国に連れて来られた。

 そして、そこは、彼女が見たこともない暖かな南国の風景、習俗、そして『うみ』に囲まれていた。

 『魔導師』という枠組みは変わらないが、日常の事柄は見るもの聞くもの全てが初めてであった。魔導師館が、ある意味一番落ち着けた。半ば虜囚とはいえ、異国の本草魔導師は、あらゆる意味で珍しく、魔導師たちは警戒心よりも好奇心に負けたようで、彼女にはある種、留学生のように接していた。

 マーリンの離宮の暮らしも快適だった。マーサの家事を手伝うのは、彼女には慣れた仕事であり、無用な気遣いもなく、優しいマーサの指示に従うのは心地の良いものであった。

「だけど…。」

と、傾きかけた午後の日差しと緩やかな潮風を浴びながら嘆息する。

 『ここ』は、『わたしの居場所』ではない。というよりも、今の彼女に『居場所』と呼べる場所は、地上の何処にも存在しなかった。

 母は彼女を産むとすぐに亡くなり、父も、兄妹のように育った弟子たちも逝ってしまった。今更シュベンに戻ったところでどうにもならない。むしろ、父や弟子達が『守ろうとして』くれた何者かの手に落ちるだけ。

 ミッドランドにしても、知己の一人が居るわけもない。まして、北部では彼女は、未だ『ラーナの敵』の生き残りだ。


 そもそも、彼女は、魔導師の娘として、魔導師達の中でしか生活したことがない。

 この世界で、何がしかの身分あるいは正式な場において、ヒトは『名』と『姓』を持つものであることさえ知らなかった。

 山村では、『何処の』『誰の家の』で良かった。要は、『名前』であった。

 今の彼女は、ただの『フェアリ』。それは、彼女の寄る辺無さを象徴していた。


 「今日も来たのですね。」

落ち着いた男性の声に、彼女の思いは破られた。振り返るとそこには、薄水色のトーガの裾を緩くたなびかせた初老の男性が立っていた。

「コーバンさま…。」

 メビラウス・コーバン、マッスのオウド神殿の神官長である。戦士と見まごうほどの立派な体躯、年齢によるものか、その背中は少し猫背であった。潮風のためか、髪は赤茶け、両側がほとんど真っ白であった。

「北の国の魔導師殿は、この風景が気に入られましたか…。」

「そうですね…。」

フェアリは顔を上げ、周囲を見回す。

「海は、世界は広い。今、私たちが立っているのは、ミッドランドの南の端。だが、世界はここで終わりではない。」

神官長は、彼女に歩み寄りながら南を指さす。

「この海、ノール海を南に進むと、『南乃大陸』と呼ばれる、ここに勝るとも劣らない巨大な陸地があり、褐色の肌をした人々が暮らしている。」

そこから、腕をゆっくりと左に振る。

「このノール海を東に進み、ヨギ半島の切り立った海岸沿いに北に向かえば、そこは大セラ海。西岸にはミッドランドの大国ゴルがある。そのまま北に進むと、海は西に切れ込み,沿海州から地峡に到り、その根元にはラーナがある。そのまま北に進めば西側はもうスケルナだ。」

「更に北東に舵を切れば、波頭の向こうには『東海国』がある。」

彼は向きを戻し、今度は右を向いていく。

「この海を西に進めば、大河ノボールの河口に到り、そこに古き王国ディグロスがある。その向こうには荒野ザクロス、そして西域諸国がある。」

彼は腕を戻し、彼女に向き合った。

「世界は、実に大きく広い。だが、今示した全ての世界は、ことごとく海でつながり、ほぼ全ての国々が船で互いに往来している。世界の何処にもヒトの暮らしがある。『独り』になるのは、実は難しいことなのかもしれない。」

「だが、身近で大切な者を失った時、見知らぬ土地に身を置いた時、我々は『独り』を強く感じてしまうようだ。」

神官長は、傍らの岩に腰を下ろすと続けた。

『マッスは、オウド神を守護神としているので、この神殿も多くのヒトが訪れる。それでも、失われた者の隙間というものは、埋まらないのだよ。」

彼は溜め息をひとつ吐いた。

「私の妻と子供達は、十年前の流行り病で死んでしまった。私は取り残され、神への奉仕だけが生きがいになってしまった…。」

「北の国の魔導師のお嬢さん、あなたも、家族と呼べる全てを失ったと聞いています。」

「はい…。」

フェアリも、同じように腰を下ろした。

「そうなると、当面はマッス、いやミッドランドで暮らしていくのでしょう?」

「そうですね。トール…、セル達と共にいるしかなさそうです。」

彼女は肩すくめた。

「ならば、これからは、フェアリ・コーバンと名乗りなさい。」

神官長は、事も無げに、ちょっと楽しそうに言った。

「え?」

「マッスで暮らすにしても、セル様達と旅をするにしても、姓がないのは不便でしょう?」

「はい…、でも…。」

フェアリは、まだ事情が飲み込めずにいた。

「元々の出自を捨てろ言うのではない。ミッドランドで暮らしていくための後見に私がなるので、私の姓を名乗りなさいと言っているのだよ。」

「良いのですか?」

「あなたも私も天涯孤独だ。年寄りの私が、若いあなたの身元を引き受けても、誰も困らぬ。」

「はい…!」

彼女の瞳からこぼれた涙が、潮風に舞った。

「北の国の魔導師の娘にして、マッスのオウド神殿長の養い子となるフェアリよ、コーバンを名乗るにあたって、ひとつ条件がある。」

「何んでしょう?」

「あなたは、きっと、セル様達と旅に出るでしょう。だから、マッスに戻った時には、出来るだけ神殿に来て、この忙しくも寂しい養父に旅の話を聞かせること。」

メビラウス・コーバンは少しはにかんだような顔で微笑った。

「ハイ!」

「では行け、フェアリ・コーバン、我が養い子よ。」

「ハイ!お養父さま!!」


 こうして、フェアリは、魔導騎士フェアリ・コーバンとなった。


  14.各国応接


 日を追う毎に、マッスを訪れる各国の賓客の数は増えていった。

 マッスの西、ノボール河の河口からノスコラードの西側に広大な版図を持つ古き大国ディグロスは、ノール海航路でのマッスの貿易相手であり、市内に商館を構えている。そこの商館長が、本国の重臣を伴って訪れた。

 ノール海からセラ海に到る長距離航路の要衝、かつてのセラディア王国の一方の後裔である小セラディアは、国王の名代として公使が派遣された。同様に、セラ海航路で強大な影響力を誇る沿海州連合は、ゴルのナーラムにある商館から商館長が各港湾都市を代表してマッス入りしていた。

 通常であれば、連合の盟主格であるアリョウの要人が訪れるところであるが、急な用向きとのことで、婚儀までに到着する予定であると、商館長はしきりに頭を下げた。

 更に、ノスコラード西山麓から中央山地にかけての小国家群は、国王・王族級の高位貴族が続々と訪れた。

 セルは、これらの賓客達に如才なく接しながら、内心でアクビをかみ殺していた。そんな中、彼の目を惹いたのは、ノール海の南岸、ミッドランドでは『南乃大陸』と呼ばれている土地、現在のその北半分を領有していると伝わるマール王国からの国使であった。彼の国は、ノール海の南方貿易航路通じて、マッスとは交易関係にある。

 ミッドランダーとは違う、細身の長身に濃い褐色の肌、鮮やかな色彩の衣装が美しかった。

 国使は、流暢なミッドランド共通語を操り、セルにこの度の婚礼の祝詞を述べた。

 ようやく、各国の重鎮達の応接を終えようとした頃、先触れの兵士が告げた。

「ハリム国王カイ・ウォン・アグリアヌス陛下名代、法王ワイズン・ドーラ・ユリケンチウス猊下!」

白髪白髭の老人が、護衛の騎士と共に、常の如く飄々とした物腰で入室した。マッスとの関係が深く、しばしばこの地を訪れている法王であったが、今回は、後ろに二人の人物を伴っている。

「おお、セル王子よ、久しいの!」

「御無沙汰しております。猊下も変わらず御健勝の様子、何よりです。」

つい先日会ったばかりではあるが、あたかも久しくまみえていなかったように抱擁を交わす。

「遠路はるばるのお出まし有難うございます。」

「なんの。我が名付け子の晴れの日、何を置いても駆けつけようぞ。」

「ときに、こちらの方々は…?」

セルは、連れの二人に目を移す。

「おうおう、そうであった。今回は、この方々をお連れするのも目的の一つでな。」

老卿は、後方に控えていた二人を招き寄せた。

「ラーナ王国国王ダン・クライブ・マイクロスⅠ世の名代として参りました、王妹ソフリナ・ローラ・マイクロスにございます。こちらは、私の護衛として同道致しました王国騎士団団長アウグスト・ミズン伯爵」

二人は、セルに深く頭を垂れる。

「おぉ、ラーナの…。それは遠いところから、ようこそおいで下さいました。私は、今回の婚礼の賓客の皆様のお世話を仰せつかっております、セル・バン・ブルウ。国王の弟にございます。どうか、お顔を上げて下さい。王弟とはいえ、私は、この国では無位無冠、学究とは名ばかりの徒食の身にございますれば。」

その声に、二人は同時に顔を上げ、声の主を凝視する。

「あの…私が何か…?」

セルの無防備に驚く顔を見つめ、ハッと我に返る。

「これは、大変失礼を。ある人物とよく似たお声をしていらしたもので…」

「ほう、それはどのような?」

「お聞き及びとは思いますが、我が国は先頃奇禍に見舞われました。その際、私共のために尽力してくれた人物がありまして…」

ソフリナ姫は、つい先だってのことを思い出しながら語った。

「疫病で、姫のご両親である先々代国王夫妻、更に後を継がれたお兄様の先代国王を相次いで亡くされたのでしたな…。御心痛とその後の御苦労、いかばかりかと…。」

「はい…その際に、私共兄妹が大変お世話になった方がいるのです。殿下のお声が、その方ととてもよく似ておいででしたので、ミズンと二人、大変驚いてしまいました。」

「そうでしたか…その方がどのような人物かは存じませんが、それほどのことをした人物と間違えられたのであれば、むしろ光栄に思った方が良いですね。」

何食わぬ顔で応えるセルを、二人の後ろで法王がニヤニヤと見つめる。

「そのような事情で、我が国ラーナは今、建国以来の苦しい状況にあります。先だっての災禍の折より、ハリムの法王猊下には何かとお力添えを頂いております。その猊下から、『これからは、近隣だけでなく、広くミッドランドの国々と交流することで、国力を蓄えていくことも必要である』と諭されまして、此度の婚礼を機会に、遠路まかり越した次第です。」

「本来であれば、国王自らこちらに赴き、マッス国王陛下や各国要人の方々に御挨拶申し上げるべきなのでしょうが、申しました通り、我が国は現在災禍からの復興の真最中にありまして、とても国王が国元を留守に出来る状況にありません。そこで、王妹であるソフリナ姫が、名代となられたのです。」

ミズンが丁寧に説明した。

「なるほど、大変な時期に、このような遠方まで、よくぞお出ででしたね。国王には、その件しかと伝えます。また、我が国宰相に申し伝えて、各国の皆様にも、引き合わせてもらえるよう手配致します。法王猊下もお口添えのほど御願い致しますね。」

これまた丁寧に、彼等の来訪を受け入れ、セルは、ユリケンチウス法王にやや棘のある笑顔を向けた。

「もとより、そのつもりだ。任せておけい。」

「よろしくお願い致します。」


 その日の夜のこと。

来賓たちのための夜会が開かれ、それぞれに着飾った紳士淑女が宮廷内の大広間に集った。

 セルは招待側の責任者として出席し、引き続き来賓たちの応接に励んでいた。彼が会場を見渡すと、メイ宰相とユリケンチウス法王は約束を守り、諸国の主だった来賓たちに北辺の国の姫を引き合わせていた。

 ソフリナ姫は、慣れぬ国の慣れぬ社交の場で、微笑みを絶やさず彼等と相対していた。その姿は気丈でもあり、細くはかなげな容姿に反し、いっそ華やかでさえあった。

「ほぉ…。」

彼女の奥に秘めた強さを垣間見る姿に、セルは小さく感嘆の声をあげた。

「意外だな。」

背後からヴァークが囁く。

「ああ。わずかの間にヒトというのはこうも変わるものなのか?」

「幼かった者が、辛苦を経て、生来の才を花開かせたか…。」

「むしろ、そうかもしれんな。これから、どこまで育つのか…。」

「まことの大輪の花となれば、世界は放っておかないだろうな。」

「彼女の微笑み一つのために戦を起こすも厭わぬ者が現れるかもしないな。」

 来賓達と他愛のない話で談笑するセルの姿を見つけたソフリナは、まだ彼女と話したそうにしている人垣をかき分けるように、彼に歩み寄った。

「セル様!」

「姫さま、どうされました?何か不都合でもありましたか?」

「いいえ。どなたも皆ご親切で、このような田舎の王族にも何かと話しかけて下さり、得がたい申し出なども頂いています。」

「それは良かった。」

「でも…さすがに、ちょっと疲れて…こんなにたくさんのヒトの中にいるのは初めてで。」

「お国でも夜会などはあったでしょう?」

「ええ、でも、その時はまだ私はほんの子供で…」

応える彼女の頬は紅潮し、呼吸も少し苦しそうであった。

「一息つきましょうか?」

セルは、彼女をバルコニーへと促した。給仕に命じてグラスに冷たい水を運ばせ、ベンチに腰掛けた彼女に手渡した。

「どうぞ。」

「ありがとうございます。」

「ラーナからの長旅、南の少し暑い気候、慣れぬ社交…大変でしょう。その若さで、女性一人で担うには過ぎた任務だ。よくやっていると思います。」

自分も同じ水のグラスを手に、バルコニーに吹き込む海からの緩やかな風を受けながら、セルは言った。

「そんな…今も兄は国の立て直しに夜昼なく働いています。私もこれくらいお役に立たなければ。」

「大したものだ。私は、柄にもない社交役でもうクタクタですよ。」

彼は、風にあそんだ前髪を直しながら自嘲った。

「トール?」

彼女が、その顔を覗き込む。

「は?」

「あなたは、トールではないのですか?」

「トールというのは…?」

「とぼけないで下さい!トールなのでしょう?」

「さっき、おっしゃっていた、私と声が似ている恩人殿ですか?」

「そうです。声だけじゃない、その顔もトールそのものだわ!」

彼女は、先ほど後ろに流した彼の前髪を前に掻き戻した。

「服装と髪型でずいぶん印象違ったので気がつかなったけれど、間違いないわ。」

彼女は、彼に更に顔を寄せる。

「う〜ん。そんなに似てますか…。」

「似てるも何も、トールなのでしょう?」

「世の中には、自分と同じ顔が三人はいると言いますから。」

さりげなく距離を取りながら彼は続けた。

「危機の王国を救う、身分を隠した遠国の王子。吟遊詩人の物語としてはなかなかに魅力的です。私も、本当にそうなら人生はさぞかし刺激的だろうと思います。」

やや芝居がかった身振りで、内心の苦笑を隠しながら微笑む。

「でも、残念ながら、ラーナが奇禍に見舞われていた頃、私はゴルとマッスの大図書館を往復していました。正規の記録も残っています。その上、その後、旅の疲れで一月も寝込んでいたんですよ。」

「と、いうわけで、私はその時のラーナには存在しようがないのですよ。」

「でも…」

「大丈夫。結ばれたヒトとの縁は切れたりはしません。きっと、また遇うこともあるでしょう。」

落胆したソフリナの顔を覗き込んだ黒褐色の瞳が笑う。

「そうでしょうか…」

「ハイ。」

「姫さま、こんな所にいらしたのですか。」

姿の見えなくなった主を探していたミズンが息を切らしながら現れる。

「あら。ごめんなさい。ちょっとヒトの多さに疲れてしまっていたので、セル様にお願いして、こちらで休ませてもらっていたの。」

「そうですか。お加減が?」

「いいえ、もう大丈夫よ。行きましょう。」

ソフリナは、セルに向かい優雅に礼をすると広間に戻っていった。

その彼女に寄り添いながら、ミズンが囁く。

「彼は、やはり…?」

「『他人の空似』だそうよ。」

「しかし…」

「3ヶ月前はゴルにいて、そのあと伏せっていたんですって。」

「そうですか。」

「確かめようがない話ね。私は、法王様の勧めで外交使節を買って出たけれど、そこに彼がいた。法王様は、何か、というより全てをご存知なのかもしれないけれど、簡単には教えて下さらないでしょうね。」

「はい。今回はミッドランドの情勢を学ぶ良い機会となりましたし、それだけでも大変な収穫かと。」

「そうね。ただ、セル様のことは、兄上には黙っていましょう。」

「そうですか?案外、正式に問い合わせればはっきりするかもしれませんよ。」

「いいえ、ただ、その方がいい気がするの。お願い。」

「わかりました。」

 宴の夜はまだまだ賑やかに、ゆっくりと更けていった。


  15.ミラーナ・ポー・モイブン


 主要各国の来賓が到着し、それらの応接や歓待が一段落した頃、セルのもとに新たな知らせが届いた。

 『明日午後、新婦ミラーナ・ポー・モイブン様御一行、当地ご到着。』

 ゴルの都バランからマッスへの経路は大きく3つ。一つ目は、バランの東、セラ海沿いの港湾都市ナーラムからの海路。最速で一昼夜、これが最も速い。ただし、風向きなど天候に左右されること、座礁や難破などの事故がまったくないとは言い切れない。二つ目は、バランからセラ海東岸の山間を通る山岳道。距離的には最短であるが、鉱山国家ヤグまでは比較的険しい道が続くため、大所帯の旅には向かない。三つ目が、バランから西のゼメキス侯爵領を通り、草原道を南下するもの。距離的にはやや遠回りであるが、ゴル国内を通る部分が多く、それに続く草原道もゼメキス、草原の最大部族ナギ族、マッスによって治安の維持も充分に行われているため、最も安全と言われており、今回は、この経路が使われることとなった。

 通常の旅行者であれば、馬で三日、徒歩で七から十日の行程であるが、花嫁とその付き添い、嫁入り道具、介添人とこれらを守るゴル聖騎士団を加えた一行は大所帯であり、馬行三日の行程を十日近くかけてゆっくりと進んでいた。

 介添人は実弟のゴル聖騎士団一番隊隊長ゼン・モイブン、指揮下の一番隊の精鋭五十騎が護衛として同道していた。


 翌日の午後遅く、マッスの北側、草原道につながる街道口に姿を表した一行は北大門を通って王宮内に用意された『花嫁の館』に入った。

 型通りの盛大な歓迎の式典を終えた日暮れ近く、セルは応接方として館を訪れた。

  ややしばらく応接間で待たされた後、先に姿を現したのは護衛兼介添人である実弟ゼン・モイブンであった。

「お待たせして申し訳ありません。長旅の後、着替えや湯浴みなど、女性は何かとやることが多いようで。」

彼は申し訳なさそうに頭を下げた。

 ゼン・モイブン。ミッドランド最大の国であるゴルの聖騎士。

 モイブン家は代々騎士の家系であり、現当主、ゼンとミラーナの父であるドク・モイブンは、騎士総督という、陸軍最高位の要職にあった。嫡男であるゼンは、この家の人々に共通した筋骨逞しい長身であり、明るい褐色の髪は緩やかな巻き毛であり、それを後ろで束ねている。陽に焼けた顔はまだあどけなさを残し、戦士のいかつさよりも爽やかな品の良い笑顔が印象的であった。

「道中は特に問題はございませんでしたか?」

型通りの愛想の良さでセルが問う。

「問題なく。聖騎士護衛の一行を襲おうなどという痴れ者はありませんよ。」

「たしかに。」

ゼン・モイブンはテーブルに用意された水差しを取ると、グラスに注ぎ、一気に飲み干す。

「ああ、美味い!マッスは初めてですが、海辺なのに、ここの水は本当に美味いですね。着いて早々出された時にびっくりしました。」

無邪気に言う。

「ヨギ半島の山岳地帯から、地下を通って、この辺りには良い水が豊富に湧くのですよ。」

「それに、こんな南にあって、確かに気温は高いが、草原と海からの風が気持ち良く、酷い暑さを感じさせない。さすが、ダイン大王が終の住処に望まれた土地ですね。」

「本当に。気候的にも地勢的にも、ミッドランドで有数の住み良い場所だと思います。」

「街道に港、大学に、大きな魔道士館まである。凡庸な野心家なら、ここを拠点にミッドランドの覇権を夢見てしまいそうだ。」

無邪気さの裏に、武人の抜け目なさを覗かせながらゼンが言った。

「ですが、所詮都市国家。他の大国に比べれば、国力に雲泥の差があります。かといって、国土を広げようにも東は山、西は古き大国ディグロス、北は草原地帯で南はすぐに海です。今の規模と質を維持し続けるのが精一杯ですよ。覇権など、とてもとても…。」

相変わらず、乾いた愛想の良さを保ったまま、セルが応じる。

「ときに…。ロビン・カーライル卿が引退なさったというのは本当ですか?」

「もう4年になります。私も詳しくは存じ上げませんが、訓練中にお怪我をなさって、騎士の任務が難しくなったとか…。」

「そうですか…。卿は、ミッドランドの剣士の憧れ、もしかしたら、お会いできるのではないかと、少しばかり期待していたのですが…。」

心底残念そうに、若き騎士は溜息を吐いた。

「そういえば、その年のマッス武術大会、殿下は準優勝されたと聞きました。」

「え?」

唐突に話題を変えられ、セルは一瞬たじろいだ。

「はい…、まあ…。」

「惜しくも優勝を逃したとはいえ、優勝者も初出場の若者で、ロビン・カーライル、ジェイ・ダントロン以来の快挙とゴルでも一時話題になっておりました。」

キラキラと目を輝かせ、身を乗り出す。

「あれは…、あの年は、それまでの有力選手が引退や競技から身を引かれる方が多く、世代交代のようなときで…。まぐれのようなものです。」

「今後は、やはり、聖騎士隊に?」

「いえいえ。むしろ、あの大会で、己の武才のなさを痛感し、今は、図書館で古文書と格闘する日々です。」

「そうですか…。」

(心底、外連味のない御仁だ…。)

残念そうなゼン・モイブンを微笑ましい思いで見つめた。


 「お待たせして申し訳ありません。」

そんな二人のやりとりを知ってか知らずか、奥の間から主賓が姿を現した。

「いえいえ。こちらこそお疲れのところ申し訳ありません。」

その声に即座に反応して、セルは片膝をつく。

「あらあら。そのような…。セル様は王族なのですから、堅苦しいお行儀は無用に願いますわ。」

 湯浴みで旅塵を落とし、人心地ついたのか、飾り気のないゆったりとしたドレスに身を包んだ聖騎士長の姫はよく通る声で応えた。

 ミラーナ・ポー・モイブン。モイブン家の特徴である長身を彼女も受け継いでいた。室内用の踵の低いサンダルを履いていても、明らかにセルよりも長身であった。弟のような筋骨の逞しさはないが、その四肢はしなやかに長く、首筋から肩口、豊かな胸元、細く筋肉質な細腰まで、女性らしい曲線を描いていた。その肢体の上に、豊かな浅褐色の巻き毛の髪が流れ落ち、広く理知的な額、細く刻まれた鼻筋から、高い鼻が立ち上がり、両側に、濃いまつげに縁取られたややきつめの大きな濃灰色の瞳、やや張った顎、薄い唇は、強い意志を示すように引き結ばれているが、その口角は柔らかく持ち上がり、微笑みを浮かべていた。

 年齢こそ違うが、ラーナの姫のような『可憐』『健気』とは対極にある、理知的で、ヒトによっては意地が悪そうに感じてしまう『強い』という印象を与えた。

 (『カエンラン』みたいなヒトだな…)

セルの第一印象である。マッスのある南国に咲く真紅のランの花。長く伸びた葉の間から高く伸びる花芽から真紅の艶やかな花が開く。その姿が、燃え上がる炎を思わせるため、カエンランの名がある。


 「この度は、長旅お疲れ様でした。今日明日はゆっくりと御休息下さい。」

「ありがとうございます。ですが、バランとマッスの間など、軍人なら二三日で踏破する距離、長旅などとは申せませんわ。」

彼女は笑った。

「お上品に馬車でゆっくりゆっくり進んで参りましたので、むしろその方が疲れたくらいで。騎乗を許して頂けたなら、もっと迅速に参ることが出来ましたのに。」

「姉上!どこの世界に、自分で馬を駆って嫁入りする貴族がいますか。まして、嫁ぎ先は、ミッドランドで最も由緒正しい王家なんですよ。」

たまらず、ゼンがたしなめる。

「そうかしら。それぐらい私は、早くマッスに着きたかったのです。いけませんか?」

「ハハ…」

セルは愛想笑いをするしかない。

「でも、タクス様の伴侶として認めて頂くために、そちらのきまりやしきたりには全て従います。どうか、よろしくお願い致します。」

一転して、良家の子女らしく、ミラーナは頭を下げる。

「それらについては、明後日から、宮廷の侍女達がこちらに入り、逐次お教え致します。親しき間柄にあるゴルとマッスですが、宮廷のしきたりには少なからず違いもあるでしょうから。」

「承知致しました。」

彼女は部屋の中央に据えられた大きな安楽椅子にふわりと腰掛ける。

「ときにセル様。」

「なんでしょう?」

「私もこれからマッス王家の一員になる身、幾つか知っておきたいことがあるのですが。」

「なんなりと。まあ実際、婚儀の後でなければお答えできないことも多少はございますが…」

「では…。マッス王家の王位継承権のことです。常識的には、現状、継承権第一位はセル様ということになりますが…。」

「そうなりますね。」

「聞くところによれば、セル様は、内々に継承権を放棄されているとか。」

濃灰色の瞳が鋭さを増す。

「そうなのですか?」

驚いたように、ゼンが問う。それを目顔で制しつつ、彼女は続ける。

「かのダイン大王と同じ星辰の下に生まれ落ち、マッス武術大会では、『剣聖』ロビン・カーライルに次ぐ若さで決勝に進出、その後、マッス大図書館にこもり、『ゴル年代記注釈』を編纂。およそ余人に代えがたい経歴です。」

軽く身を乗り出し、探るようにセルを見つめる。

「ハハハ…。さすが、ポー一族に連なる姫ですね。」

セルは、向かいの椅子に座ると、顎をさする。

「まあ、巡り合わせの妙ですよ。図書館の件も、私が、というよりも、学者達の尽力の賜物で、私はそれを手伝ったに過ぎません。」

「それでも、周囲は期待するでしょう。武人として、あるいは宰相として兄王を支える存在に、と。」

「正直、私にも自分が何をすべき人間なのか判りかねています。覚悟もないまま進んだ道で、さしたる役にも立てなければ、皆の期待を裏切ることになる。一方で、何もせず、ただブラブラとして気を揉ませるのお申し訳ない…。それで、亡き父に『自由』を願い出たのです。結果として、継承権を放棄し、当面は学究者としての日々を送らせてもらっています。」

「ミッドランドを逍遥し、図書館や学問所の知者たちを訪ね歩く『放蕩王子』と。」

「ええ。旅の空で思わぬ危難、ましてや野垂れ死ぬようなことがあっても、継承権のない『放蕩者』なら、誰の迷惑にもなりません。」

「それでも、此度の婚儀では、『応接係』を努めていらっしゃる。」

「兄に言ってください。『王位云々ではなく、ブルウ家の人間として、勤めを果たせ』とのことですから。」

セルは笑った。

「なるほど…、一部では、国王の名で各地の情勢を探る密偵との噂もありますが?」

「とことん買い被ってくれていますねぇ。そんな面倒な役目を負わされるくらいなら、騎士か陪臣になってますよ。」

(才気を隠せないヒトだ。およそ深謀遠慮などよりも、知的好奇心が先に立ち、抑えられないのだろうな。)

思わず、苦笑めいた笑みが漏れる。

「なんです?」

ミラーナの表情が気色ばむ。

「いえいえ‥、申し訳ありません。姫のその率直さが、兄の琴線に触れ、可愛らしいと感じたのかと思ったら、思わず嬉しくなってしまいまして。」

「まあ!」

これまでとは打って変わり、頬を真っ赤に染めて、少女のように恥じらう。

「では、明後日。その間に必要なことがございましたら、遠慮なく私にお申し付けください。」


  16.タクス・ブルウの婚礼


 そうして、来賓応接の忙しい日々を過ごしているうちに、タクス・フォン・ブルウとミラーナ・ポー・モイブンの婚礼の日がやってきた。

 マッスの宮殿から、城下の小さな路地一つ一つに至るまで花やモール、両家の紋章を象った旗で飾り付けられ、大きな街路には、無数の露店が軒を連ね、都市国家マッス全体が祝賀ムード一色であった。

 婚礼は、まず新郎新婦それぞれが王宮で数日間に渡る清めの儀式を行い、主神グロス神殿にて夫婦の誓いを行う。さらに、ブルウ王家とマッスの守護神であるオウド神殿に詣で、そこから王宮までの道中をパレードするという段取りである。


 数日前から、いくつもの小さな儀式をこなした新郎新婦は、別々の輿に載って王宮を出ると、街の東の端、主神グロス神殿に向かった。

 そこで、初めて二人揃って、グロス像の前に跪く。新郎タクス・フォン・ブルウは白の礼服に金の縫い取りのベルトを締め、後ろに流してまとめられた長い黒髪に、同じく金の鎖冠を着けていた。新婦ミラーナ・ポー・モイブンは、純白の花嫁衣装をまとっていた。それは、一見簡素なドレスであったが、よく見ると一面に銀糸とごく細い金糸で精巧な刺繍が施された豪華なものであった。

 彼等の前に、グロス神殿長が進み出で、それぞれに婚姻の意思を問う。二人それぞれ、静かに、だが明確に是と応え。それを受けて神殿長が厳かに婚姻の成立を宣言した。堂内に居並ぶ陪臣・賓客からどよめきが起こり、それが神殿の外に伝わると、周囲に詰めかけた人々から次々に歓声と祝いの叫びが上がり、神殿の小高い丘を揺るがすほどであった。

 二人は再び輿に載り、今度は南へ、岬の突端にあるマッスの守護神オウドの神殿へと向かった。

 新郎新婦を載せた輿を中心に、聖騎士団が周囲を守り、その色とりどりの甲冑と様々な意匠の部隊旗で、輿はさながら彩雲の上を進んでいるようであった。その後ろに新婦の介添人であるゼン・モイブン率いるゴル聖騎士隊の精鋭、さらにその後方に、魔導師、神官たちが続く。

 パレードは、沿道を埋めた人々の歓声に包まれながら、南の岬の突端に向かう参道を進んだ。

 岬の最南端、海と接する緩やかな崖の上に、オウド神殿がそびえている。特徴的な螺旋状の建物と、それと連続的に繋がった石畳の階段が岬の崖を通り、波打ち際まで続いている。行列は、正面の石段の前で止まり、新郎新婦は輿を降り、揃って神殿の石段を上る。開け放たれた神殿の大広間の中央に巨大なオウド神像が鎮座する。その前に跪いていた神官長メビラウス・コーバンは、二人が入って来ると立ち上がり、その前に跪いた二人の頭上で大きく両手を広げる。

「オウド神はヒトの和合と繁栄を望まれる。王と王妃は、この結婚でさらなる繁栄と幸福を人々にもたらすと約すや?」

「我等、マッスの導き手にして守人なり。我等と我が民に一層の幸福をもたらし、その喜びと感謝を我が守護神オウドに捧げん。」

「大洋神オウドの守護と祝福が、その子らに幾久しく注がれんことを!」

朗々たる神官長の宣言は神殿の外にまで響き渡り、それに呼応した人々の喜びの声が岬から街にまで広がった。

 王と王妃は、四頭立ての馬車に並んで乗り込み、王宮へ向かう。行列は、それまでの厳かさから一転、華やかな雰囲気となり、沿道を埋めた人々からは無数の花や極彩色の紙片が投げ込まれ、それらは海からの風に舞い、さながら空気そのものが極彩色に染まり花々の香気を放っているかのようであった。

「マッス万歳!」

「国王陛下万歳!」

「新王妃陛下万歳!」

人々は口々に、歓喜の声が街路に溢れた。

行列は、ゆっくりと神殿から市街地へと入り、王宮へと近付いて行く。

やがて、職人街へとつながる街路を過ぎる辺り、馬車の後方を馬で伴走していたセルは行列に先行し、馬車の前で馬を下りると跪く。

王が右手を挙げ、行列は停止した。

「国王並びに新王妃陛下、この度の婚礼誠におめでとうございます。不肖非才の弟より、お二方に婚礼のお祝いの品を献上したく存じます。お許し頂けましょうか。」

跪いたまま顔だけを上げ、恭しく、やや芝居がかった口調で、セルが告げる。

「ほお。」

驚いている王妃を尻目に、タクス・フォン・ブルウの眼がめずらしく微笑む。

「許す。これへ持て。」

「はっ。有難うございます。」

「こちらへ。」

セルは振り返ると、沿道に声をかける。

沿道の人並みが割れ、アポロとルイージが、それぞれ大きな箱を捧げ持って進み出た。

「これに控えますは、我がマッスの職人ギルドが誇る名巧アポロ、並びに工房の職人ルイージにございます。」

セルの後ろに跪いた二人に目をやると、タクスが問う。

「ほう。では名高き名巧アポロ親方の品か…。」

「いえ、此度の献上品は、我が工房の職人頭、ルイージの手による品でございます。」

アポロは誇らしげに応える。

「ほう。この者が職人頭…。若いな。」

王がアポロの横の若き職人に目を移す。

「はい。まだ若輩ではございますが、腕は我が工房随一。まずは、両陛下のお目にかけたく。」

「名巧と謳われるお前がそこまで言うのであれば、見せてもらおう。」

王は従者に目顔で命ずる。従者は、アポロとルイージから箱を受け取ると、車上の夫と王妃に箱を開いて捧げ持つ。

「まあ!」

まず声を挙げたのは王妃であった。

「これは…!」

続いて、日頃冷静で知られる王も感嘆の声を挙げる。

 供回り、そして近くから垣間見ることが出来た群衆からも同様のどよめきとため息が漏れる。

 王妃へは、金の首飾り。中央に大粒の桃色真珠、その下に金線で複雑な波の意匠。その間を埋めるように、小さなサファイア、青水晶、翡翠を散らして移り変わる水の色を表現し、真珠の下には水晶の小片を帯状に配して、水面に映る月の光の帯を表している。それは、光を受けると実際の海のようにキラキラと複雑に輝いていた、

 王へは、鞘と柄に装飾を施した儀式用の短剣。どちらも下地に螺鈿を敷き詰め、鞘の中央には大粒の青色真珠。その縁取りから鞘の縁にかけて、首飾りと同様に金線模様が施されている。柄の先端には紅玉が遇われ、抜き放った刀身は黒々として、そこにデラス鋼特有の銀の波紋が無数に浮き上がっていた。

 「いかがでしょう?」

セルが満面の笑みで問う。

「見事な品だ。まさに当代の逸品。有り難く受け取らせてもらおう。」

王は、柄の握り心地とデラスの波紋を確かめながら応える。

「早速、今夜の宴で使わせてもらいます。」

王妃も、弾んだ声を挙げる。

「有り難き幸せ。両陛下のいや増す御健勝とマッスの繁栄を!」

それに呼応する群衆の歓喜の声の中、職人二人は静かにその中に下がっていった。

 再び動き出した行列は無事に王宮へと入り、これから数日にわたりマッス全土で繰り広げられる祝宴が幕を開けたのである。


  17.出奔


 「本当に大丈夫なの?」

暗がりで不安げに囁く。

「どうかな?少なくとも、これ以上の長居はろくなコトにならないのだけは確かだな。」

馬の鞍に荷物を結びつけながら一人が応える。

「静かに!衛兵に気付かれる!!」

「いやいや、どうせヒト払いの結界張ったんだろ。気付かれやしないって。」

「馬鹿か?王宮の真ん中で結界なんか張ってみろ、あっという間に気付かれて魔導師達に囲まれる。」

「あ、そうか。」

「もう…。」

そんな密やかな会話を他所に、王宮や街路では賑やかな音楽と人々の歓声が溢れている。

 婚礼の祝宴もはや三日目、そろそろ終わりが近付いていた。遠方の来賓達は徐々に帰国し始め、これを機会にとマッスと縁の深い国々やギルド、商人達の外交と商談がそこここで行われていた。

「祝宴が終われば、その後半年、王と王妃は休養に入る。政庁の仕事は重臣や官僚達が行うが、第一王位継承者がその間の王の政務を代行するのが慣例なんだ。ところが、今のマッスには継承者が不在だ。」

『そこで、セル様にその役をお願いしたいのです。王位継承権を放棄されているのは承知しております。なに、形式だけですから。外交応接役を見事に務められた殿下にはさして難しい仕事ではありません。』

宰相ソイル・メイの嬉しそうな笑顔を思い出す。

「あんの、タヌキ親父…!」

セルは、馬の背にひらりと跨がる。

「ヴァーク、外の様子はどうだ?」

「そろそろ、衛兵の交代の時刻だ。厩まで降りてくる者はいないな。」

外の様子をうかがっていた魔導師が低く囁く。

「フェアリ、船との連絡は間違いないな。」

「たぶんね。言われた通りに、北セラ海航路の船長にあなたの伝言を伝えて、今夜の船に乗せてもらうように手配したわ。」

男装に巡礼マント姿の女魔導師が馬に跨がる。

「それじゃあ、行こうか。」

王宮の厩から三人が、密やかに裏門を抜け城下に降りていく。そのまま、明るい街路に入ることなく、いくつものマストの明かりが揺れる港へ、月明かりに長く伸びた王宮の影の中へ消えていった。


  エピローグ


 王の婚礼から数日後、ギルド街は日常を取り戻していた。

 アポロ工房の作業場で、ルイージはいつものように繊細な作業に没頭していた。そこへ、若い職人が声をかける。

「ルイージさん、お客様です。」

その声は、いつになく緊張していた。

「ん…?」

 彼は顔を上げる。常日頃から、貴族や商人など、地位のある人々の来訪も頻繁なこの工房で、応対の者がこれほど緊張するのを訝りながら、入口側の作業場に出向いた。

「…!」

 そこには、王の勅使一行が待っていた。

「アポロ工房、巧人ルイージ。此度の婚儀における貴殿の仕事ぶり、誠に見事である。両陛下も殊の外お歓びあそばし、褒美を下賜された。有り難く頂戴せよ。」

痩身の高官が口上を続ける。

「合わせて、これまで、当工房親方巧人アポロに加え、巧人ルイージに王室御用達の章が与えられる。以上。」

随伴の官吏が、銀の盆に載せられた大きな金袋を二人がかりで運び込む。若い職人達が、それを慌てて受け取った。

 ルイージは、尊大な様子のその高官を呆然と見つめた。その背中を後から出てきたアポロが前に押し出す。

「あの…。」

言葉に詰まるルイージに、痩身の宰相はくるりと背を向け、戸口へ歩み出した。戸口を出る間際、一瞬足を止め、肩越しに若い工人を一瞥した。

「見事な仕事だ。これに驕らず、精進せよ。」

ただ一言、だが、はっきりと言った。

「ハイ!」

ルーファス・メイ、いや工人ルイージは、去り行く父の背中に応える。

 ギルド街の路地に海からの風が吹き抜けて行った。

(了)


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