少なくとも俺は、両目から血を垂れ流すことを眼精疲労とは思わない
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――心頭滅却すれば火もまた涼し(火に対する耐性スキル)などという言葉もあるが。お湯程度ならむしろその熱のおかげで心身共に静寂を、すなわち。侍において最も重要な鋭利さを取り戻せるはずだ。
……まぁ、もう狂戦士なのだが。
とにかく。そういう主張のおかげで浴場は広く造られている。稽古場の次に金が掛かったほどで、十人も住んでいるわけでないのに十人以上もの脱衣籠を置くスペースだってある。
ルロウは逃げてどっか行ったらしいがサンゲツもユスティーツもここにはいない。つまりは一人風呂だ。
「嗚呼~、酒場の土手の泥雪に。惚れた泪が染み付いた。汽笛の夜に去るならば、口紅で、あんたを殺していいですか♪」
かつて師匠が滝行のなか大声で歌っていた唄を口ずさみ、コブシを効かせながら浴場へ入る。むわりと湿度を伴う湯気と熱。
「相変わらず歌の趣味が渋いな」
「センスが良いと言えセンスがッ……!?」
黒く長い濡れ髪は結われていた。肩が露わとかどうこうとかいう話じゃない。白くやわらかな肌が湯気に隠れながら目の前にあった。布一つない。いや、頭に乗っかってる一枚しかない。
クマの濃い赤い瞳が俺をなんともない態度で見上げていた。
「ぶグッふ、……ッ、エルクロ。なぜここに」
咄嗟に俯いて隠すべき場所を隠した。いや、なんでエルクロは隠すべきところも隠さないんだ。
「いや、ボクが目立つ場所に服を置くべきだった。すまない。今なら使っても問題ないよってユスティーツが言ってたんだが」
――あの腐れ神官。ハメやがったな。
「すまない。ボクは外にいるから終わったら教えてくれないか?」
そう言ってエルクロは浴場から出ようとする。諦めたような、どこか悲しそうな表情に思えてしまって。
「い、いや! エルクロはエルクロだろ? ……俺は気にしない。別に配慮しなくていい」
――やってしまった。気にしないわけなのに。だって無理だ。濡れた髪も当然のように露わになった曲線的な体つきも。小さな肩も。何もかも俺の知ってたエルクロじゃない。ただの同い年の女の子にしか見えない。
「……本当に問題ないのか?」
不安そうに赤い瞳が顔を覗く。腹筋に力を籠め、己の身体を縛りながら俺は何度も頷いた。誤魔化すように。
「前も言っただろ。エルクロがいくら女になったって俺はいちいち態度を変えようとは思わない。命を預けた仲間、だろ?」
――心頭滅却。そうだ。精神を落ち着かせればいかなる熱だって涼しく思えるはずだ。そしてこの試練を乗り越え、俺がエルクロに慣れてしまえばそもそもの問題はなくなる。
「嬉しいことを言ってくれるじゃないか。正直、今の状況も怖かったんだ。仕方ないこととは分かっていたが、それでも距離を取られることへの疎外感はな」
エルクロは自嘲気味に笑い、自分に胸を見下ろした。同じぐらいの背だったのに、……今のエルクロは小さい。
「……は、はは。エルクロが女の姿になったところで俺は態度を変えたりなんかしてないじゃないですか」
態度を全く変えなかったのはエルクロのほうだ。だから俺は困っている。しかしこの状況で視線を逸らすこともできず、あえて目を見開いて瞬きを堪え、視界をぼかす。
「ならさっそく、さきの訓練の約束を覚えてるか? ほら、何か一つ言うことを聞いてもらうっていうやつだ」
「……ええ。しかしこんな場所でなにを」
心臓が嫌な予感と期待に跳ねる。……俺は何を考えてるんだ。
エルクロはニヤリと笑った。くるりと踵を返すと。しなやかで研ぎ澄まされたような背を見せる。
「覚えてるか? 昔師匠と共に過ごしていたとき、ボクらはモンスターの討伐数でいちいち争い――」
「……負けたほうが勝った方の背中を流す」
でもそんなことをしていたのは八年は前だ。
「ふふん、よく覚えているな。そしてそのあとはもう一勝負ある」
「…………蒸し風呂デスマッチ」
――この状況でそんなことをしたら俺は死ぬ。断る? 否、武士に退却の文字はない。敵前逃亡だけは俺のプライドが許さない。
いや、最初から全てエルクロの言動が計算づくだとしたら? ……それはないな。こいつはただ負けず嫌いでマウントを取りたいバカだ。
「どうだ? やるか? ここ一か月、ろくな勝負事をしてなかっただろう。冒険者だというのに冒険という冒険もあまりできなかった。鬱憤を晴らそうじゃないか」
エルクロは汗を拭い手を伸ばす。俺は瞬きをしないまま彼女に向かい合って、手を取った。
「……いいでしょう。俺は勝負事で逃げるつもりも、負けるつもりもない」
――それに彼女がエルクロだと思わなければ、女の子と同じ湯に入り、背中を流し、蒸し風呂なんて一生ない。…………エルクロがエルクロでなければ素直に喜ぶべき事態だ。
「……逆にチャンスだ。ここで、俺がエルクロに慣れてしまえば……どうということは」
「ん? どうかしたのか? ギンロウ」
「いえ、なんでもありません」
最初の試練に歩を進めた。ここは俺にとってもはや気の休まる浴場ではなくなった。敵は俺と同じ上級冒険者。正気攻撃を行ううえに誰よりも可愛い。……そう、ここはもはや戦場だ。
【常在戦場】……戦地における身体能力増加の付与が作動する。エルクロは勝ち誇った様子で椅子に腰かけ背を見せてくる。
「これで貴様に背を洗わせるのは十六回目か? ボクの十六勝十三敗だな」
「……十五回目です。戦績も盛らないでください。俺が負けたのは十回で、あとは引き分けです」
「だが今回はボクの勝ちだ。屈辱だろう。武士らしく潔く、丁寧に洗うんだな。フハ」
普段、長い髪に隠れていたうなじさえ露わになって、柔らかな臀部に視界が向きかけて咄嗟に眼球を指で【雷牙】(侍の攻撃スキル。稲妻を纏い対象を刺突する)。
劈く轟音と魔力。眼球から脳の奥を俺自身の鋭利な一撃が貫く。
「とんでもない音がしたうえに両目から血が出てるが大丈夫か?」
「……眼精疲労ですよ。よくあることです」
少なくとも俺は、両目から血を垂れ流すことを眼精疲労とは思わないし、よくあることとして認識できないがエルクロはエルクロなので信じてくれた。
華奢で、恐ろしく綺麗な背と俺は対峙した。