――――男か、女か。俺はエルクロならどっちでもいけます
―――気づけば眠っていたらしい。
曖昧な意識がゆっくりと浮かび上がっていく。
船の揺れがやけに穏やかに感じられた。
薄く開いた窓から、潮の匂いを含んだ朝の風が流れ込んでくる。
重い瞼をあけて、身体を起こそうとすると、ズキンときつく頭が痛んだ。
だいぶ酒を飲んでいたらしい。
カーテンが靡いて、白んだ光が船室に差し込んでくる。
乱れたシーツと脱ぎ散らかされた衣服を淡く照らしていて、なんだか血の気が引いた。
ベッドの端に掛けられたままの布が、揺れに合わせてわずかに擦れる。
「ふにゃ……うぅん」
隣で小さく身じろぎする気配。
視線を落とすと、エルクロが静かに眠っていた。
アズ達がくれたシスター服を身にまとっていたが、白と黒の布は大きく乱れ、胸元や肩口が無防備に露わになっている。
……吸血鬼にシスター服を着せたうえで長い夜を過ごしてしまったらしい。
枕に広がる黒髪の内側は、前よりも血を吸って、鮮やかな桜色へと深く染まっていた。小さな寝息とともに、胸元が静かに上下していく。
わずかに開いた唇から、白い牙が覗いていた。
体に残る鈍い疲労と熱が、言い訳もしようがない現実を無言で突きつけてくる。
――エルクロが女の身体だからと言って、こんな欲望と本能に委ねてしまうのは間違っていないか? 男でも女でもいい。エルクロはエルクロだと。そう思っているはずなのに、こんな……こんな……。
「んにゅ……おはよう。ギンロウ」
「大丈夫です。エルクロ。俺はエルクロが男でも、これぐらい平気でできますから」
「何を朝から一人で拗らせて変なこと言ってるのかね?」
エルクロは引き気味にぼやいて立ち上がる。へにゃついた足取りで窓を大きく開けると、鮮やかな髪が甘く靡いていく。
「見たまえ。もう港が見えてきているぞ?」
「……到着までは三日掛かるはずでは」
「ルロウに盛られてから三日は経っているぞ? まるでボクらは犬だなぁ? わんわん」
「俺は最低です…………。責任は絶対取ります……」
理性をかなぐり捨てて貪っていた記憶が段々と蘇っていく。エルクロに情けないほどに甘え、恥ずかしい言葉を言わせておきながら、それを忘れていた自分に嫌気が差していく。
「……もう完璧に思い出しました。絶対に忘れません」
「あのだね? 忘れてくれてもいいんだぞ? ボクはボクで羞恥心ってのはあるのだよ?」
赤面し、ワタワタしながらもエルクロは荷物を整えていく。船は間もなくして着港したようだった。
「さて、行こうか」
「あの、エルクロ。着替えてから行きましょうか」
エルクロは目をパチパチと見開いて自分がシスター服であることを思い出す。開き直るように自嘲すると、その場で着替え始める。
俺は未だ慣れなくて、窓から外を眺めるみたいに、目を背けた。布の音が擦れて、そしてフー……と、耳元に息を吐かれる。
「準備はできたとも。さぁ、久々の故郷に挨拶をしよう」
桟橋に船が接岸し、太い縄が杭に掛けられていく。
俺たちは甲板にあがり、揺れる足元から揺れない地面へ足を着けた。
「随分と懐かしい景色ですね。とはいえ港に足を運ぶことも少なかったですが」
港には木造の建物が整然と並び、低い瓦屋根が連なっている。
軒先から吊るされた風鈴が揺れ、干物が揺れ、澄んだ音と魚の匂いが漂っていた。
「こうして戻ってみると故郷に帰ったというよりは観光地にでも来た気分だね」
エルクロはまるで過去など気にしていないような素振りで周囲を見渡し、港の奥にそびえる巨大な桜の樹を見上げていく。
幹は城壁のように太く、枝は空を覆うほどに広がっていた。
風が吹くたびに花弁が舞い上がり、屋根や桟橋、行き交う人々の上に静かに降り積もっていく。
「エルクロ、平気なんですか?」
「どうだろう? 過去を思い出して胸がキュゥゥって、したら。ギンロウに泣きつこうかね」
エルクロは開き直った様子でそう豪語してみせる。長い桜色の髪を靡かせて、少し自慢げに笑みを浮かべた。そして軽やかに歩きだしていく。
荷を運ぶ人夫たちが行き交う大勢の人混みの中を進んでいくと、エルクロは屋台を前にふと立ち止まった。
串に刺した団子や照りのある魚が並び、湯気が細く揺れていく。
「食べたいんですか?」
「大正解だ。なにせボクの両親はこういう場所で飲食するのが大嫌いでね。下賤だ、貴族の血に相応しくないだの……。ふん、食い意地を張ることだけは男児らしかっただろうに」
そう言ってエルクロは好きなだけ買い込んでいく。
昔と違い、今は止める者もいなかった。金にも困っちゃいない。
「……家に戻る前に昔いっしょに特訓した場所を見ていってもいいかね?」
「ええ、もちろんです」
街並みから外れて竹林を歩き進んでいく。山道の階段を上がっていくと、何の因果なのか、かつてエルクロをいじめ、脱がせようとした奴らとばったり鉢合わせた。
「っ…………!」
青ざめて、引き攣っていくエルクロの相貌。
奴らだけは気づいていない様子で、最初こそすれ違おうとしたが。
「……おい、見ろよ。あの子、めちゃくちゃ綺麗じゃねぇか」
低く漏れた声に、他の奴らも視線を寄せた。
「髪……すげぇな。桜みてぇな色してる。あんなの初めて見たぞ」
誰かが小さく口笛を吹く。ニヤけ面を浮かべると、林道を塞ぐように近づいてくる。
軽い足取りで、視線だけが妙に粘ついていた。
「へぇ……いいとこのお嬢様って感じじゃねぇか」
先頭の男が顎を上げ、品定めするようにエルクロを見回した。
その横で、別の男が肩をすくめて笑う。
「こんなとこまで護衛付きかよ。大事にされてんなぁ」
からかうような声が重なり、じわじわと距離が詰められていく。
いっそ服でもベルトでも斬り落とせば逃げていくだろうと、鞘に手をかけたが、エルクロに静止させられた。
何か考えがあるらしい。
「なぁ、少し付き合ってくれよ。悪いようにはしねぇからさ」
野郎の一人がへらへらと手を伸ばしたが、エルクロはなんてこともない様子でその手を握り、そして冒険者として培った武術と膂力を以て力強く地面に叩きつけた。
「やぁやぁ久しいね。んー、名前は憶えていないが。ボクは今も鮮明に、思い出にあるとも。エルクロ、お前女みてえだな。本当に***付いてるか確かめてやろうぜって」
そんなことを言われるような者はエルクロ以外はいない。それにエルクロの喋り方はやや独特なものもあったからか、彼らは皆、思い出すように顔を見合わせ、そして困惑するように胸の僅かなふくらみを凝視した。
「え、エルクロてめえ、ほんとうに女だったのか!?」
エルクロはふんと鼻を鳴らして調子づいた。
「君達、どうしたのかね? そんな驚いて。まるで、幼少のころに親しかった男友達が成長して出会ったら美少女になっていたみたいではないか」
――――何がどう、まるでなのかは理解できないが。
彼らはその通りとばかりにうんうんと頷いていた。
「さぁーどうだろう? ……ボクは男だと思うかね? 女だと思うかね? 確かめたいかね? …………ダメ~」
エルクロはケラケラと皆を嗤うと、グイと腕を引っ張って抱きついてくる。
「ボク達は甘い甘い、チェリーボーイではないものでね」
童貞処女マウントで皆を圧倒し石化させると、ご機嫌な様子で林道を一人、スキップして進んでいった。
「……まぁ、そういうわけなので失礼致します。もう関わらないでください」
「ま、待て! それでエルクロは――――どっちだったんだ?」
――――男か、女か。
「俺はエルクロならどっちでもいけます」
模範解答もわからないのでそう断言しておいた。




