誰だって可愛い子とお風呂ぐらい入りたいでしょ。うんうん、エルクロ蒸しなんておじさんだって食べたくなっちゃうよぉ?
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
夜が明けようとしていた。藍の帳を染めていく薄桃色の光。外廊下、煉瓦の塀に寄り掛かりながら、俺はただジッと見詰めることしかできなかった。
空っぽになった杯にとくとくと酒が注がれていく。隣にエルクロはいない。ルロウの哀愁漂う姿があるだけだった。
「…………それで会話に困った挙句、あろうことか水風呂に顔まで浸かって窒息して気絶したのかい?」
彼は呆れるように尋ねて、慣れた様子でただ遠くをぼんやりと眺める。
「……黙秘します」
そうだ。あのあと俺は入水することで意識を手放した。エルクロに顔を向けて、何も無かったことにして他愛もない話をするなんてできなかった。窒息するほうがマシだった。
「エルクロがボクの所為だと。ギンロウは気にしないで欲しいと言ってたよ。おじさんとしてはさぁ、ユスティーツが悪いと思うけどねぇ? だから彼、サンゲツにしっぽり怒られてるよ」
そうだ。あのクソッタレ神官が全て悪い。だが、誤魔化しようもない醜態を晒したこともまごうことなき事実だった。
「……それで、どうしてまた掘り返してくるんですか。貴方もからかいに来たんですか?」
「違うよぉ。おじさんはさ。カウンセラーみたいなものさ」
ルロウはバサリと、両翼を広げながら飄々と笑う。
「ほら、おじさんより下の境遇ってなかなかいないだろう? ダンジョンに潜る間に浮気をされたあげくに、何故かビンタまでされて娘も行方知らず。……はは。…………ははは」
笑えない冗談。――いや、冗談じゃないな。飄々さは一転して悲壮感に包まれて、引き攣った笑い声が暁の藍空へ溶けていく。
「……それもそうですね。貴方を見ると元気が湧きますよ」
「そうだろう? …………え? 酷くない?」
真顔になって固まるルロウを節目に、ギンロウは杯を飲み干した。
「そんな反応するなら自虐しないでくださいよ。冗談なんですから。……はぁ、俺は少し修行してきます」
ダンジョンへ潜ろうと思った。ソロで行く以上、深くは潜れないが。水風呂に潜る記憶を思い起こすよりは健全だ。……健全。
不意に脳裏にチラつくエルクロの裸。鎖骨、曲線的な体のライン。それ以上に、彼女が見せた扇情的とでも言えばいいのか、あの妖しい笑顔が頭から離れない。
「……ッ! クソ。なんなんだよ。あの反応は……」
頬を赤らめて歯を見せたあの余裕のない表情。あれはもう、俺が知ってるエルクロじゃなかった。あれは……そう、完全に男の顔ではなかった。
「エルガキ、いや。メスクロが……!」
思いついた罵倒を口にして、悶々としたまま俺はダンジョンへ向かった。
――――ルロウがぼんやりとギンロウの背中を見届けると。じゃらじゃらと鎖の音が響いた。
視線を向けると、『私は若い男女を騙し混浴させました』と血で描かれた看板を首に下げるユスティーツがスキップを踏みながら通り過ぎていく。
遅れて、疲弊した様子でサンゲツが顔を合わせる。
「随分とお疲れじゃないかぁ……。まるで数か月ダンジョンに潜ったときみたいな顔をしているよ」
「お前もまるで家族に夜逃げされた明け方のような顔をしている」
「ちょっとさっきから皆してズカズカと言葉の邪剣を突き刺すのやめてくれない? 年甲斐もないおじさんが泣いたとき、本当に困るのはサンゲツ達だよ?」
ルロウは大袈裟に詰問し、逆さまに飛翔しながらサンゲツへ酒を注いだ。浮かない様子のサンゲツを注視して、ため息を零す。
「おじさんはさぁ。自分より不幸っぽそうな奴が嫌いなんだよ。サンゲツ、何を思い詰めているのか教えて欲しいなぁ。ほら、魚もさぁ……ストレスを受けると美味しくなくなるんだ。人間もだよ? いやまぁ、男は食べないけど」
「……相談事がある。乗ってくれるか?」
サンゲツは真剣な眼差しを眼鏡越しに向ける。険しい目つきがルロウを睨んだ。
「勿論さ。逆に拒否ったら直前のおじさんの台詞さぁ、ヤバい奴じゃない?」
ハっと、二人は鼻で笑う。サンゲツは注がれた酒を一飲みすると朝焼けを背に口を開いた。
「……ギンロウがエルクロと一緒に浴場に入ったそうじゃないか。しかも彼女の背を流して、サウナまで同行だと」
「そうらしいねぇ。おじさんも一緒したかったなぁ。でもおじさんは背中を流すより流してもらいたいなぁ。子供がね? もっと小っちゃかったときに…………あ、いや、ごめん。続けて?」
「オレは言い方が甘かったのだと思った。反省したよ。追放と言ったその日にこれだ。……いや、会えるような言い方をしたんだ。個人でのやり取りは止めないと。…………オレが彼女とプライベートで会いたかったからだ」
「……うん?」
ルロウの怪訝な相槌に構わずサンゲツは鬼気迫る表情で話を続けた。
「オレはパーティのリーダーだ。だからオレは彼女にここを出るよう伝える役目であるべきで、そこに不満はない。責任ある立場になるとは、そういうことだから。……しかし一方で思ってしまったんだ」
クイと眼鏡をあげた。橙に灯る朝の日差しにレンズが煌めく。
「もしオレがエルクロと旧友であったら? オレが彼女の背中を流して、オレが一緒にサウナに入れたのか? ……と」
「うーん……! キモいね! …………いや、ごめんって。黙らないでよ。ゲテモノは酒のつまみにはなるとも。ほら、話してくれって」
辛辣な物言いに一時は沈黙したものの、サンゲツは再び口を開いた。
「……言ってしまえば嫉妬したんだ。オレだってエルクロとそういうことしてみたいと思ってしまった。…………じゃあ、彼女が男だったときにそんなこと考えたか? 違う。考えなかった。性別が変わった途端に、これだ。……まるで獣じゃないか」
「そんなことで悩んでいるのかい? 誰だって可愛い子とお風呂ぐらい入りたいでしょ。うんうん、エルクロ蒸しなんておじさんだって食べたくなっちゃうよぉ?」
「……キモいこと言わないでくれ」
「人がジョークで和ませてるのにマジトーンでそういうこと言うのやめない?」
ルロウは赤い翼をバタつかせながら抗議を口にしたが、真面目に聞き入られることはなかったし。そんなこと、彼自身が一番理解していた。
すぐに澄まし面を取り戻して、サンゲツに目を合わせる。
「動揺はしても仕方ないと思うけどなぁ。ほら、おじさんは遊び人で? ユスティーツは元々禁欲主義的な宗教に入ってるけど、キミとギンロウは違うだろう?」
「だが、…………オレはこのパーティのリーダーだ。嗚呼、そうだ。オレが指揮なんだ。こんなことで悩んでどうする。……変な話をしてすまなかった」
「自制できるならそれでもいいと思うけど……後悔はしないようにね?」
「……確かに、羨ましいと思うことぐらいは自然かもしれん。ロリコン、相談に乗ってくれて感謝する」
そう言ってサンゲツは話に無理矢理ケリをつけた。悩みを言葉にした所為か、余計に思考がぐるぐると巡っていく。
「え、ロリコンってなに? 感謝する相手に述べる言葉じゃなくない?」
今日の一日が始まる中、ルロウの無意味な言葉がこだましていった。