第五話 少年と家
「姫が護り屋雇ったらしいな」
暗い室内で長時間、瓶詰めの首とにらめっこをしていた兄は、簾のように垂れ下がって顔を隠す、長い前髪をかき上げながらそう呟いた。目だけがぎょろりと大きな、病人のように窶れた青白い顔を、蝋燭の灯りだけが照らし出している。実兄ながらぞっとするほど気味の悪い顔だと、黄泉は思う。同時に、先ほどから何をしているのかと思えば、また噂を調べていたのかと些か閉口する。
「ただの噂だろ。確証もないような情報に、踊らされてちゃダメだよ」
「情報屋からの情報だぞ」
黄泉は目を円くして、まじまじと兄を見る。骸骨を思わせる青白い顔に、暗い笑みが浮かんだ。
「見つけたんだ」
「まあな。佳い女だった」
薄い唇を弧に歪め、兄は喉を鳴らして不快な声で笑う。黄泉は顔をしかめて、そんな兄から視線を逸らした。
実兄ながら、嫌な男だと黄泉は思う。手駒として使うならそうするだけに留めておけばいいものを、彼は無駄な事ばかりする。年功序列のこの家の中では兄に絶対に逆らえないから、口を出せない事が黄泉にとっては歯がゆかった。末弟である黄泉は口を出せないばかりか、それをいい事に使い走りのような事ばかりさせられている。それでも分家の人間よりは増しだが。
「誰を雇ったのかな」
何を思い出しているのか、にやけた兄の顔が視界の端に入るのも嫌で、黄泉は棚に並んだ薬品の瓶を眺めながら聞いた。薄暗い室内では、目を凝らしてみてもその中身は見えない。所詮意味のない動作だったから、確認しようとも思わない。
「さあな。有名所なら富士の犬首か、愛宕の薬師か……」
その後に続く言葉は、黄泉には聞き取れなかった。兄には、人と話している途中で独り言を呟く癖がある。
黄泉は物心つく前から、「姫」を探す事だけを強いられて生きてきた。それだけの為に生まれ、またそれを大望とする一族の為だけに動いている。自由意思など、存在しない。天凶院の家で暮らす限り、あってはならないものだ。
自分というものに、疑問を持つ事もある。あるのだが、この家の中にいると、そんな疑問を持つ事さえ馬鹿馬鹿しく思える。この狭い世界で生きている限り、個人の尊厳や意思など、持ってはならない。
現代社会の闇に紛れて悪行の限りを尽くし、個々の人格全てを無視し、一族の野望の為だけに生きる。個人など、あってないようなものだ。
「誰だって関係ないよ。今頃は分家の暗殺屋が動いてる。姫は目立つから、すぐに見付けるんじゃないの」
「見つけたって無駄だ。これまでだってそうだったろ」
黄泉は軽く肩を竦めて見せた。
「着てるものの一部でも手に入れて戻って来てくれりゃ、いいんだけどなあ」
言葉とは裏腹、兄の口調には、微塵も期待という感情など籠もってはいなかった。寧ろ、そんな事は出来ないだろうと、蔑んですらいるように聞こえる。
「その前に殺されるのがオチだよ」
仮に出来たとして、分家の者が本家に届けたりはしないだろうと黄泉は思う。兄も同じように考えてはいるのだろう。
一族中が、身内を出し抜く事だけを考えて動いている。嫌な家に生まれてしまったものだ。そう思う事で、黄泉は一個であろうとしている。まだ若い証拠だと、兄はそんな黄泉を嗤うが、黄泉も心中、一族の狗に成り下がった兄を嘲笑している。
「あいつらじゃ、すぐ死体になって帰って来るだろうさ。返しちゃくれないかも知れないけどな」
「死体なんか突っ返されても困るけどね」
黄泉は馬鹿にしたように鼻で笑い、瓶詰めの生首を横目で見る。三十代半ばほどの女の顔は、紙のように青白くはあるもののそれなりに整っていた。真っ白な髪が、海藻のように水中に漂っている。閉じられた瞼にも形のよい唇にも、血が通っているかのような張りがあり、今にも動き出しそうに見えた。
実際これは、兄の術で動くように出来ている。預言者と呼ばれているが、これが何に使われているのか、黄泉はよく知らない。聞いても兄は教えてはくれないだろうし、聞くつもりもない。物に対する興味など、黄泉は五つの時に失った。
「あれは死体返してきやしないだろうよ」
嗄れた不気味な声が、黄泉の耳に届く。慌てて振り向くと、いつの間に入ってきたのか、腰の曲がった老婆が扉の前に立っていた。黒檀で作られた見事な杖の頭を、枯れ枝のような手でしきりに撫でている。
「どういう事です、母上」
兄がどこか緊張した面持ちで問い返す。風が吹けば倒れそうな程痩せ細った皺だらけの老婆は、干からびた唇を歪めて笑う。
「人形師の新当主が、やっと動き出してるようだからねえ」
黄泉は驚いたように眉を上げる。兄は訝しげに、薄い眉を顰めていた。反応は違ったものの、兄弟は母の言葉の意味を同様に理解している。
「確かに前当主が隠居してから大分経っていますが、いつの間に……噂に聞きそうなものですが」
「護り屋は結界張るのが仕事。調べるだけで一苦労な情報が、風になんざ乗って来やしないよ。今回だって大掛かりな結界張ってたのを、毒姫がブチ壊したから分かったようなモンさ」
兄が考え込むような仕草で俯く。母は気味の悪い声で笑った。
「リスクのない反魂の儀は、あそこのお家芸だがね。逆に言や、あそこの当主しか使えない。零落した弱小一族のくせに、生意気なモンだよ。姫が当主に気付いたなら、新当主に接触してる可能性もなくはない」
「……分かりました、母上」
慇懃に頭を下げ、兄は暗い笑みを浮かべる。黄泉は兄のこの顔が嫌いだ。
顔だけではない。黄泉は兄という存在自体が嫌いだった。兄だけではなく、両親も分家の者も、一族の人間全てを嫌っている。また兄の方も、黄泉を好いてはいないはずだ。
「まずは人形師を探します。情報屋に聞いてみましょう」
黄泉は少し嫌な顔をした。
「そうしな。……黄泉、本の娘はどうなった?」
唐突に振られて、黄泉は一瞬たじろいだ。母と話す時は無意味に萎縮して、蛇に睨まれた蛙のように動けなくなる。
通常母親に抱くような感情を、黄泉は持ち合わせていない。実母に対して畏怖の念しか抱いていない彼にとって、母親と会話をするという事は辛いものでしかなかった。母は恐ろしいもの。そう刷り込まれて育って来たし、実際、そう思っている。
姿勢を正して、黄泉は母を真っ直ぐに見据える。水分を失ったかのように皺くちゃになった瞼の僅かな隙間から、グレーの瞳が覗いている。拡大した瞳孔に映る蝋燭の灯りは、風もないのに微かに揺れていた。
「名前を握りました。本は彼女に読ませればいいでしょう」
「上々だね。そこさえ抑えときゃどうとでもなるだろ。一先ず周りを固めな」
老獪な母は皺だらけの顔に更に皺を刻み、深い笑みを浮かべる。一度機嫌を損ねれば手がつけられなくなる嫌な母だが、上手く行ってさえいれば、上機嫌でいてくれる。この調子が続けば楽なのにと、黄泉は思う。
そう上手くは行かないであろう事など分かっている。実に百余年もの間、一族総出で追い続けてきた化け物が、そう簡単に尻尾を掴ませてくれるとは到底思えない。しかしだからこそ、追わなくてはならない。その為だけに、黄泉は産まれて来たのだから。
「分家の奴らから、順番に固めて行きます。――もっとも、あの本がこちらにありさえすれば、何もしなくとも言う事は聞くでしょうが」
「そうさねえ。……針地、通達はしたんだろうね」
兄は得意気に頷き、生首の入った瓶を横目で見た。母も満足そうに目を細める。
兄は母の傀儡だ。無論、黄泉とてそれを蔑む事は出来ない。一族の悲願の為だけに生きる黄泉も、兄と然程変わらない。
もし、毒姫を追う事が出来なくなったら。そんな事は、恐ろしくて考えられない。考えたくもない。
「やっと、近付いて来たねえ」
夢見るような声で、母が呟く。枯れ木のような手が杖を撫でるのを見て、黄泉は母から視線を逸らした。