第四話 猫と娘
九重は食器を洗いながら、己の身に起きた出来事について考える。昨夜は依頼人を守り切れず、這々の体で帰ってきた。護り屋を始めてから、あそこまで無惨にやられたのは始めての事だったが、不思議と悔しいとは思わなかった。仕方がないと諦めたせいかも知れない。何しろ相手は、化け物だったのだから。
九重と同じく集められた傭兵達は全滅し、依頼人も死亡。生き残ったのは、殺戮の現場から離れて見ていた九重だけだった それでも結界を破られた時の反動は、かなりのものだった。結界が破られれば、中で守られていた者が危険に晒されるのは勿論、常に力を送り続けていなければならない術者にも反動が来る。九重が通常なら有り得ないような被害を被ったのは、それ自体の反動が大きかったせいではなく、破った者の力が強大すぎたせいだ。
そして一時間にして、雇われた傭兵を全滅させた当の本人は、何故か九重を助けた。あまつさえ、勝手に家に上がり込んで朝食の支度までしていた。彼女が何をしたいのか、また何を目論んでいるのか、九重には見当もつかない。
九重は洗い終わった皿を籠に入れ、蛇口を締めた。濡れた手を拭きながら背後を振り返ると、黒づくめの少女が猫じゃらしを振っているのが視界に入る。思わず脱力した。
「ほらほら、にゃん」
愛らしい少女の声が、やわらかな陽光の差し込む縁側から聞こえて来る。麗らかな春の日差しに照らし出された、滑らかなラインを描く頬は、抜けるように白い。彼女が手にした猫じゃらしを追って、薄汚れたぶち猫が懸命に手を伸ばしている。男一人の貧乏暮らしを余儀なくされていた九重にとっては、それは心が洗われるような、平和な風景だった。彼女の正体さえ知らなければ、もっと素直にこの光景を見る事が出来たのに、と九重は思う。
彼女こそが、昨夜の惨劇を生んだ張本人。蠅王との契約を果たしたとまで噂される、日本最高の魔女。そんな化け物めいた女は今、縁側で野良猫とじゃれていた。昨夜一方的な虐殺を繰り広げていた魔女とは、到底思えない。
九重は頭痛を堪えるように額を抑えて俯き、溜息を吐いた。
「どうしたの、不景気な溜息吐いて」
思いの外近くから聞こえた声に、九重は目を見開く。俯かせた視線の先では、黒衣の娘が大きな猫目で彼を見上げていた。一瞬目を離した隙に、音も立てず近付いて来ていたようだ。気配も感じなかった事に、薄ら寒さすら覚える。
「誰のせいだと思ってんだ」
少女――毒姫は、猫じゃらしを意味もなく振りながら小首を傾げた。子猫が甘えるような仕草だと、九重は思う。
「さあ?」
九重が溜息を吐いて肩を落とすと、娘は不思議そうに二、三度瞬きした。
「あなた、あたしの事怖くないのね」
「食事に毒盛られてたら、と思うと怖えけどな」
華奢な肩を竦め、彼女は反対側に首を捻る。
「そんな無差別テロみたいな事しないわ」
縁側から、猫の鳴き声が響いた。野良とは思えないほどずんぐりとした体つきの猫は、庭先にちんまりと座り込んで室内を見つめてはいるものの、上がって来ようとはしない。流石に野良猫としての立場は弁えているようだ。
「ちょっと手伝ってくれない?」
九重は猫から視線を外し、再び娘を見下ろした。胸の辺りに頭がある為首が痛むが、向こうも同じだろう。
「幾らで?」
「内容ぐらい聞きなさいよ。とんだ守銭奴ね」
「世の中金だろ。幾らまで出す?」
毒姫は鈴を転がすようにころころと笑った。箸を転がしても可笑しい年頃とはよく言ったものだ。先の返答の何が可笑しかったものか、九重には判じかねる。
「……このぐらい?」
首を傾けたまま指を四本立て、少女は九重に微笑みかけた。九重の眉間に皺が寄る。
「そんなモンか」
九重は、四百と受け取った。金額など依頼の内容如何だ。何をやらされるのか知らないが、これほどの実力者がわざわざ依頼をして来たという事は、余程の事情があるのだろう。そんな事情など思い当たりもしないが、嫌な予感はする。依頼の内容に見合った金額を貰わなければ、九重が損をするのだ。時には命を懸けるような事さえ、しなければならないだろう。しかし断ったら、何をされるか分からない。
そこまで考えて思わず渋い顔をした九重を見て、娘は大きな目を円くした。
「あら、一千万で不服?」
「いや全く」
九重は咄嗟にそう返した。先程までの葛藤は、既に頭の中から消え失せている。
「つーか、指四本で一千万とは思わねえだろ」
「……あなたよっぽど稼いでないのね」
哀れむような視線に、大きなお世話だと九重は呟く。一ヶ月に一度収入があるかないか程度の彼に言い返す事は出来ないが、図星を突かれれば腹が立つ。
「で、何を守りゃいい」
「請ける?」
問いには答えず、娘は猫じゃらしを自分の頬に当てながら、九重の顔を覗き込んだ。澄みきった夜空のような漆黒に、九重は一瞬、戸惑う。
「……内容聞いてからだ」
「二千万」
「請ける」
反射的に口を突いて出た台詞を聞くと、毒姫はにやりと笑った。その笑顔に薄ら寒いものを感じて、九重は数歩後退する。
「あたしを護って」
は、と思わず問い返した。この女は何を言っているのか。見かけ通りのか弱い少女が依頼するなら、まだ解る。分かるが、か弱い少女は依頼料としてあんな大金は提示しない。そもそもこの娘はか弱い少女ではない。少女ですらない。
「正確には、あたしの名前を護って欲しいの」
「名前だ?」
「そう」
頷いて、毒姫は放置されていた座布団を卓袱台に引き寄せ、着物の裾を揃えつつ腰を下ろした。九重は卓袱台の反対側へ回って、畳へ直に胡座をかく。
「あたしね、古手川椿と言うの」
少々面食らって、九重は片眉を上げる。魔術師にとって同業者に名を知られるという事は、死を意味する。名前を知られたが最後、呪われ放題なのだから。
「唐突だな」
「あなたを信用してる訳じゃないわ。他言しそうになったら、殺せばいいだけだもの」
殆ど脅しだ。
「それにあなた、あたしに楯突く程バカじゃなさそうだから」
「二千万掛かってるからな」
流石によく見抜いていると、九重は感心する。肝喰い毒姫と好きこのんで敵対しようとは思わないし、二千万は何よりも魅力的だ。脂ぎった親父を護るよりは、見た目だけでも良い女を護る方が、俄然やる気も出る。
九重の心境を知ってか知らずか、椿はさも愉快そうに笑った。
「好きよ、そういう人」
「そりゃどうも」
椿は軽く肩を竦め、心持ち居住まいを正した。絹糸のような黒髪が、肩口から滑り落ちる。
「朱の本、知ってる?」
九重は卓袱台の上に置かれていた煙草に手を伸ばしながら、細い眉を顰めた。
「そりゃな」
知っているも何も、この世界で生きていれば、その悪評は嫌でも耳に入って来る。自然渋い表情にもなるというものだ。
煙草に火を点けて、九重は一息吐く。立ち上る煙を目で追う椿の姿は、矢張り猫のように見えた。
朱の本。遠い昔に高名な魔術師が遺したと言われる、最悪の魔術書。それさえあれば何の力も持たぬ一般人でさえ、術の使用が可能になる。それがどういった内容なのかは、九重も知らない。しかしあれには気をつけろと、両親から散々口を酸っぱくして言われていた。どう気をつければいいのかも、九重は知らないのだが。
椿は視線を煙草の先から立ち上る紫煙に向けたまま、口元に笑みを浮かべた。
「あれはね、簡単に言えば忌み名を付けるのよ。最近の人って、忌み名持ってないでしょ。通り名から真名を引く、辞書みたいなものね。本名知らなきゃ意味ないけど」
口から煙を吐き出しながら、九重はげ、と呟く。
「呪い放題じゃねえか」
「呪うんじゃないわ、操るのよ」
「一緒だろ。それがどうした」
椿は浮かべていた笑みを消して真剣な表情になると、九重の方へ僅かに身を乗り出した。反対に九重は、彼女が近付いた分だけ身を引く。
「出て来たって報があったの」
「出て来た?」
九重は切れ長の双眸を細めて問い返す。椿は小さく頷いた。
朱の本がどこにあるのかは、誰も知らないと言われていた。存在すら怪しまれていたものが出て来たとなれば、あらゆる人間が血眼になって探しに掛かるだろう。
まさかその争奪戦に、巻き込まれようとしているのだろうか。嫌な予感が胸をよぎり、九重は眉間に寄った皺を深くする。
「それを探すのか」
椿は僅かに柳眉を顰めた。
「バカね、それじゃあたしの名前を護る依頼にならないでしょう。大体今頃はもう、天凶院のキチガイ一族が手に入れてるわ。わざわざ報せてきたのも、あそこのバカ息子よ」
「代々魔術師の、魔女殺し一族か? そんなモン、なんでわざわざ知らせて来んだよ」
「手に入れたからせいぜい怯えてろ、て事よ。……ああ、ホント腹立つ。脊髄引っこ抜いてやりたい」
さりげなく吐かれた暴言を右耳から左耳へ受け流し、九重は視線を椿から外す。戦闘向きでない彼にとっては、争奪戦でないだけまだ増しではあったが、何もせずとも名前を知られてしまうのは少々厄介だ。
無論九重とて本名をどこにも明かさない魔術師であるから、すぐに真名を調べられる心配はない。しかし天凶院ほどの手練であれば、こちらが対抗策を講じない限り、本名を探る位は悠々とやってのけてしまうだろう。
報酬が魅力的とはいえ、嫌な仕事を引き受けてしまったものだ。しっかり聞いてから請けるべきだったと、九重は些か後悔する。
「あいつらが狙ってたのは、お前だったか」
椿は小さな唇を尖らせて、両手で頬杖をついた。拗ねたような仕草だ。
かねてから、天凶院一族が何かを探している事は知っていた。彼らがそれに気を取られてくれているお陰で、九重のような末端の魔術師達は、安心して活動出来ていたのだ。
「そうよ。あそこは元々力不足を技術で補ってるから、あたしの力が欲しいの」
「お前操った所で力は手に入らないんじゃねえのか? 用心棒にする訳じゃねえだろ」
「それは教えてあげない。あなたはしっかり依頼料分の働きをすればいいのよ」
そう言い切って、椿は手に持ったままの猫じゃらしを卓袱台に置いた。
自分の名を護る事は、それに特化した魔術師以外の者にとって容易ではない。調べる術があるのだから、安易に明かさなければいいだけの問題ではないし、狙われればいずれは露見する。だから椿も、護り屋の九重に依頼したのだろう。
しかし、九重にはまだ疑問が残っていた。
「二千万分はいいがな、どうして俺なんだ。俺より腕のいい護り屋なんざ、幾らでも居る」
旧家の出であるだけに、九重にはそれなりの固定客もついている。受け継いだ力も技術も、現当主の彼に不足はない。しかし彼には、圧倒的に経験が不足していた。そんな半人前に、普通の魔女なら名前など預けはしない。
椿は片眉を上げて、頬杖をついたまま首を傾げた。大きな目が、上目遣いに九重を見ている。整った顔立ちのせいか、椿は無表情になると人形のように見える。
「腕は関係ないわ。依頼を請ける側に必要なのは誠意。あたしを確実に護るって確証さえあればいい」
「あると思うのか、俺に」
九重は薄い唇を歪め、皮肉めいた表情で笑う。椿は暫くその顔を眺めた後、緩く左右に首を振った。
「知らない。あたし、人の心は読めないもの。でもあなた顔がいいから、あなたが良かっただけ」
九重は片目を細めて、訝しげに表情を歪めた。
「それだけか」
「それだけ。魔術師なんて皆、干からびたジジィか暗そうなモヤシばっかりなんだもの。そんなのに護られるなんて、あたしのプライドが許さないの」
九重は喉の奥で低く笑い、煙草を揉み消した。最悪の殺人鬼だとばかり思っていたが、先程からの彼女の台詞を聞く限りでは、ただの小娘のようにも感じられた。時折険のある発言こそするものの、九重は彼女を恐ろしいとは思わない。
精悍な顔に、薄く笑みが浮かぶ。
「分かった。二千万分の働きはさせてもらう」
椿は満足そうににっこりと微笑み、大きく頷いた。
「良かった。よろしくね、九重君」
「ああ。……は?」
危うく聞き流してしまう所だったが、九重は慌てて問い返す。椿は浮かべた笑みを深くして、蒼白になった九重の顔を下から覗き込んだ。
「九重義久。あなたの名前はあたしが握ったわ」
「……て、」
九重の表情が、明確に引きつった。
「てめえいつの間に調べやがった!」
元々上がり気味の眉を更に吊り上げ、九重は卓袱台を叩いて怒鳴る。椿は彼を見上げたまま、美しい笑顔を崩さなかった。
「喋ってる間に。ホントは本名なんて知らなくてもいいんだけど、あなたの場合、一族の当主全員同じ通り名でしょう? 前当主にも迷惑がかかるから、気を遣ってあげたのよ」
「ふざけんな! そこまでする必要ねえだろうが!」
「保険よ、保険。……怒った顔も男前ね、九重君」
邪気のない少女の笑みに毒気を抜かれ、九重は言葉に詰まった。褒められて悪い気はしない。しないが、誤魔化されてしまったような感もある。
とんでもない女に捕まった。九重は心中溜息を吐き、卓袱台に乗っていた猫じゃらしの茎を折った。