第二話 男と娘
命からがら逃げ出した瞬間から降り出した雨は、徐々にその雨脚を強くして行く。濡れて顔に貼り付いた長い前髪をかき上げながら、小さく舌打ちを漏らす。自宅へ向かう山道が、恐ろしく長く険しく感じられる。月の光さえ届かない夜道は暗く、泥濘に足を取られて頗る歩きづらいが、こんな山奥でなければ、彼のような人間には暮らし辛い。
何故自分がこんな目に遭わなければならないのだ。九重義久は心中毒吐きながら、痛みを必死で堪える。こんな事なら、魔女から自分を守れという怪しい依頼など、請けなければ良かった。そもそも、才能があると持ち上げられ、浮かれてこうなったとは言え、親父の跡目など継がなければ良かったのだ。しかし表稼業だけでは食って行けないのも事実である。大金を得るには、それなりのリスクが必要なのだ。世知辛い世の中だと、九重は思う。
大体あの女は一体なんだったのかと、九重は朦朧とする意識の中で考える。あんなものから護れというのは不可能に近い。どんな魔女であるのかも聞かなかった上、依頼人が何をしでかしたのかも聞いていなかった。最初からきな臭さは感じていたが、まさかあれ程の化け物が出てくるとは思いもしなかった。何の説明もされないのに依頼を請けてしまった自分の落ち度ではあるが、それだけ魅力的な依頼料だったのだ。
だが、それもパーだ。何しろ、依頼人が殺されてしまったのだから。護り屋としては最悪の失態だ。依頼人が死のうが死ぬまいが九重が心を痛める事はないが、依頼料が取れなくなってしまうのは困りものだ。前金として一割だけでも貰っておいて良かったと、彼は思う。実の所、表稼業が中々上手く行かず、かなり生活が逼迫していたのだ。サラリーマンの平均的な月収にも満たない額だが、一月の間ぐらいなら食い扶持には困らないだろう。
九重は代々、人形師を営む家系に生まれた。しかしそれは表向きの事で、実際は、代々魔術師という胡散臭い家系である。遠い昔には良質な陰陽師を輩出する名家として有名であったようだが、彼の数代前から一気に零落したようだ。仔細は九重自身も知らない。両親は語りたがらなかった。
しかし旧家だけの事はあるというべきか、九重家当主だけに代々受け継がれる術があった。一子相伝にして門外不出のその術は、今ではその存在を知る者さえ少ない。現当主である九重自身、あまり使う事もないのだが。
深い溜息を吐き、九重は汚れるのも構わず手近な木に寄りかかる。もう一歩も歩きたくないのだ。疲れきっているのは確かだが、歩けないでもない。彼には根性がない。
体中が痛む。結界を破られた事の反動は、思いの外大きかったようだ。人生で始めての事であるから、これほどまでとは彼も知らなかった。敗北した事に対して、不思議と悔しさは込み上げて来なかった。あんな化け物を相手にして、生きていられただけ儲け物だろう。
痛みで意識が朦朧とする。膜が張ったような視界には、雨粒しか入らない。耳に響くノイズのような音が、雨音なのか耳鳴りなのかさえ判断がつかなかった。死ぬかも知れないと、九重は思う。こんな事で死にはしないと分かっているからこその思考である。
「あなた『人形師』ね」
突然聞こえた声に、九重は大きく目を見開いて顔を上げた。懐かしくも感じる通り名は、先祖代々受け継がれてきたものだ。
ノイズが走る視界に、真っ黒な人影が写る。見覚えのある、大きな鎌を抱えた小柄な少女。これは死んだな、と九重は思う。
何しろこの少女こそが、九重をここまで追い込んだ魔女だったのだ。彼女がわざわざ自分を追いかけてきた理由も分からないが、あの場にいて殺されなかったのは自分だけだ。九重は場にいたというより、隠れて見守っていたと言った方が正しいのだが。
「いい男じゃない、魔術師のくせに」
鈴の鳴るような愛らしい少女の声が、雨音に混じって九重の耳に届く。予想だにしなかったその言葉に彼は一瞬面食らったが、褒められた事には変わりない。九重は僅かに唇の両端を吊り上げ、薄く笑った。
「そりゃどうも」
この娘が誰であるのか、九重には察しがついていた。知らないと白を切る事も出来ない。彼女はあまりにも有名なのだ。しかし彼は、そうと認識したくなかった。知らない振りをして、やり過ごしてしまいたいのだ。死の危険がなくなる訳でもないというのに。
「助けてあげましょうか」
幼子をあやすような優しい声と共に、娘の手が、九重に向かって伸びる。その冷たい手が頬に触れた瞬間、九重の意識は急速に遠退いて行った。
薄く開いた目に、見慣れた天井が飛び込んできた。顔を横へ向けると、黄色く変色した障子が視界に入る。昨夜は帰宅途中で行き倒れた筈なのだが、時代遅れ甚だしいこの家の風景は、間違いなく自宅のものだ。
九重に金はないが、この小振りな日本家屋は持ち家である。と言っても、厳密には両親の財産だ。隠居した両親は、京都にある巨大な屋敷で使用人に囲まれて暮らしている。
九重家の長男は、一子相伝の術を受け継いだ時点で当主となる。代々の当主は、当主となってすぐに家から放り出され、実践を兼ねた修行に出されるのだが、財産の生前分与はされない。収入の不安定な仕事を強いられる割に、仕送りもない。
実家とのこの格差は、一体何なのだろう。九重は黄色くなった壁を眺めながら、寝ぼけた頭でぼんやりと考える。一軒家ではあるものの、中は随分と古びている。家があるだけ有り難いと思うべきだろうか。
「あら、起きたの?」
九重は声がした方を見て、ぽかんと口を開けたまま凍り付いた。喉が貼り付いてしまったかのように、声が出ない。
「……何してんだ」
暫く見つめ合った後、九重はようやくそれだけ言った。間抜けな台詞だと、自分でも思う。
襖から顔を出していたのは、喪服のような黒い着物を纏った、十五、六歳の娘であった。抜けるように白い肌。眉の位置で一直線に切り揃えられた前髪。猫のように大きな漆黒の目と、それを縁取る黒々とした長い睫毛。烏の濡れ羽色の髪は途中で蟠る事もなく、真っ直ぐに背中まで伸びている。モノトーンで構成された彼女の中で唯一、ふっくらとした小さな唇だけが桜色をしていた。
作り物のような美少女である。九重はしかし、愛らしいその姿を認めた瞬間、激しい脱力感に襲われた。何しろ彼女はつい昨夜、大物政治家の護衛である選りすぐりの魔術師達を、たった一人で殲滅した化け物なのだ。それが呑気に起きたの、などと言えば、九重でなくとも脱力する。
「ご飯食べる?」
「は?」
思わず問い返した。娘はころころと鈴を転がすように笑い、顔を廊下へ引っ込める。
「来て」
訝しく思いながらも、九重は言われるままに起き上がる。いまいち状況が把握出来ていない。寝癖のついた髪をかき上げて廊下へ出ると、彼女の姿は既になかった。
この娘がここにいると言う事は、自分は助けられたのだろうかと、九重は考える。本来なら礼の一つでも言うべきだが、納得が行かない。助けられる義理もないのだ。このシビアな世の中、そうそう温情で人助けをする人間もいない。
彼女を人間と呼ぶかどうかはまた、別問題として。
「何してるの、座って」
居間へ入って、九重は我が目を疑った。そう広くない部屋の真ん中を占拠する卓袱台の上には、朝食の支度が整っていた。鼻を擽る焼き魚の香ばしい香りに、九重は空腹を覚える。条件反射だ。
「……あのな、お前」
「食べなさい、冷めちゃうわ」
母親のような口振りだ。それ以上何を言う事も出来なくなり、九重は出来上がった膳の前に腰を下ろす。ふっくらと炊き上がった白米は、その一粒一粒が食えと言わんばかりに艶やかに照り輝き、白味噌を溶いて麩を浮かべた味噌汁からは、どこか懐かしい香りが立ち上る。
九重は思わず喉を鳴らした。思えばここ暫くインスタント食品で済ませていた為、まともな食事などしていなかった。この娘が何故未だにここにいて、朝食まで作っていたのか甚だ疑問だが、食欲には勝てない。九重は考えるのを止め、箸を取った。
「あたしが誰だか、知ってる?」
黙々と箸を進める九重へ、子供を見るように好ましげな視線を送りながら、娘は小首を傾げて問いかける。九重は視線だけを上げ、娘を見た。口の中のものを飲み込みながら、僅かに首を縦に振る。娘はにっこりと、花開くように微笑んだ。
「通り名は知らないのね」
多くの呪術は、呪う対象の名前が分からなければ役に立たない。逆に言えば、本名を知りさえすれば呪い放題なのだ。その為魔術師達は、適当な通り名で呼び合う。仲間内や風の噂、文献等で使われる、あだ名のようなものだ。概ね各々の特技や見た目で本人の与り知らぬ場で決められるものだが、九重のように、一族の当主がみな同じ名前で呼ばれるという例外もある。
「……美貌の死神、ってな。文献で読んだままだ。それしか知らねえよ」
「あら、そう」
本当に、通り名は知らない。けれど彼女は有名である。日本一の力を持った、百をゆうに超える時を生き続ける、美貌の死神。あらゆる文献に書かれてはいるものの、その仔細は誰も知らない。通り名はおろか、明確な年齢さえ伝わっていない。魔術師ならば誰もが恐れ、魔女は彼女を超える為に躍起になっていると聞く。彼女を敵に回すという事は、即ち死を意味するとまで言われている。
そんな化け物が目の前に居るというのに、呑気に飯を食っている自分は何なのだろうかと、九重は思う。しかし飯は美味い。年の功だろうか。
娘は猫のような目を細めて、笑った。
「あたしね、毒姫って言うの」
九重は啜り上げた味噌汁を、思い切り噴き出した。