第一話 本と少女
私には、何の取り柄もない。学校の成績は中の下、運動もてんで駄目。髪は自分でも呆れる程汚い天然パーマで、分厚い眼鏡がないと何も見えない。ニキビだらけの下膨れた顔も、大きい頭とはつり合わない不格好に痩せた体も、私は大嫌いだった。窓やショーウインドウに写る自分の姿を見るのが嫌で、どこへ行く時も、私はずっと下を向いて歩く。それが余計に、私を暗く見せる。実際私の性格は暗いんだろうと、そう思っている。
自分に自信がないから、ろくに口を利く事も出来ない。だから友達は出来ないし、クラスメイトからは露骨に避けられる。テレビでよく見るように、靴を隠されたり、鞄に画鋲を入れられたり、なんて事はないから、少しはましなのかも知れないけれど。それでも、たまに掛けられる嫌味のような言葉に、恥ずかしいような、悲しいような気分になる。頭がかあっと熱くなり、冷や汗が出る。教室から逃げ出したい気分になる。
大人しいだけで、何故こんな事を言われなければならないのだろう。人と違うのがいけないのだろうか。人気者の佐藤さんのように、明るく誰とでも話せるようにならないと、いけないんだろうか。そんな事、私にはとても出来ない。みんなと同じにならなきゃいけないなんて、そんなの、私には難しすぎる。
針の筵のような学校生活は、私にとって辛いだけのものだった。毎日毎日、重い足で無理矢理学校へ向かい、ただじっと耐えるだけの日々。明確ないじめを受けている訳ではないから、親にも相談出来ない。休めば逃げたと陰口を叩かれるんじゃないかとびくびくして、風邪でもひかない限り、欠席する事さえ怖かった。昼休みに教室に残っているのも嫌だから、私は毎日、図書室へ逃げるしかなかった。そこだけが、檻のような学校の中で唯一、私が安らげる場所だった。他学年の図書委員は、私の事を知らないから。
所狭しと書架が並ぶ、広い図書室。漂白剤とカビの混じった、独特の匂いのする空気を胸いっぱいに吸い込むと、それだけで安心する。窓際に整然と並べられた机では、私と同じような、大人しそうな生徒が数人、黙々と本を読んでいるだけだった。お互いに干渉する事もない。誰かが入ってきても、顔を上げる事さえしない。眼鏡をかけた図書委員も、何も言わない。それが当然のこの場所は、私にとって唯一の、学校内での居場所だ。
私は図書室の奥、分厚い図鑑が並ぶ一角へと歩を進めた。小難しい文学作品に飽きた最近はずっと、この辺りから手を付けていないものを抜いて、適当に読んでいる。カラー写真が並ぶ動物図鑑は、人間が苦手な私に奇妙な安心感を与えてくれる。
「……?」
ぎっちりと詰まった本の中に、変わった装丁のものを見つけて、私は首を捻る。かなり古い本のようで、黒い背表紙はボロボロになっており、金で箔押しされたタイトルは全く読み取る事が出来ない。目を凝らしてみても、日本語なのか外国語なのか、判断がつかなかった。
私はその本に何故だが強く惹かれ、そっと本棚から抜き取る。大きさは、B5ぐらいだろうか。かなりの重さがあり、そのページ数も辞書と同じぐらいある。とても図鑑には見えない。表紙の手触りが他の本と少し違うけれど、こんな本もあるのだろうと、私は特に気にも留めなかった。
何も書かれていない真っ黒な表紙を見た瞬間、背筋を悪寒が走った。怖いと思ったけれど、古いからだろうと、私は無理矢理納得する。触れている事さえ躊躇われたが、万が一取り落としてしまったら、バラバラになってしまいそうだ。何より図書室であまり、大きな音は立てたくない。
底知れぬ恐ろしさを、その本から感じた。けれど半ば意地になって、私はその本の裏表紙を開く。貸し出しカードはおろか、カードを入れるポケットすら付いていなかった。
誰かの私物が紛れ込んだのだろうか。私はそう思ったけれど、これだけ古い本だ。この本の持ち主はきっと、もう卒業してしまっているだろう。
――それなら、私が。
私は思わず、首を横に振った。私が、どうしようと言うのだろう。自分でも何故そんな事を思ったのか、全く分からなかった。
気を取り直して本を持ち直し、半ばほどを開く。中身は、辞書のようになっていた。私は怪訝に思い、首を捻る。人の名前がずらりと並んだ横に、意味の分からないカタカナが羅列されており、何の本なのか全く分からない。最初に思った通り辞書なのかも知れないが、名前とカタカナ語には全く関連性がない。
私は次々とページを捲って行く。いくら見て行っても、その内容は代わり映えしない。やっぱり手触りが妙に感じるが、埃のせいだろう。一体何の本なのだろうと考えながら、表紙だけを捲った。そこには目次のようなものもなく、奇妙な図形が描かれていた。びっしりと連なった外国語が円を描き、その中に五芒星と、更に緻密な紋様がごちゃごちゃと敷き詰められている。一瞬、オカルト的なものを想像した。魔法だとか魔法使いだとか、そんなものだろうか。ならばこの本は、一体何なのだろう。
もう一度、中身を確認する。書き連ねられた名前は、どうやら順番に並んでいるようだった。私はふと好奇心に駆られ、目当てのページを探してみる。
――ある。
私は、驚かなかった。あるのが当然だと、何故かそう思った。疑問にも思わなかった。しかしその名前にだけは、解説――私はカタカナ語を説明文だと判断した――が書かれていなかった。空白、なのだ。続いて、クラスメイトの名前を探してみる。気付けば私は、夢中になってその本を捲っていた。
やっぱり、これもある。同姓同名がつらつらと並んではいるものの、私には、その中のどれがクラスメイトなのか分かった。
この本は一体、何なのだろう。ただ名前が書かれているだけの本なんて、聞いた事もない。何より、この解説は一体何を意味するのだろう。分からない。分からないけれど、私は何故だか、この本が無性に欲しくなった。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。本を持ったまま、私は慌てて廊下へ出た。図書委員は、何も言わない。だからそのまま、私は本を持ち出してしまった。
これを、どうすればいいだろう。貸し出しカードがない所を見る限り、これは個人のものなのだろう。ならば誰のものなのか。先生に聞いてみようかとも思ったが、それはしたくなかった。何故って私はすっかり、この本を手に入れた気になっていたからだ。これは図書室には返さないつもりだし、もし万が一持ち主が現れたとしても、渡したくない。
午後の授業も、陰鬱な気持ちで受けた。終礼が終わり、私は掃除当番だった事を思い出す。早く帰って、あの本を読みたかったのに。でも、サボるのはいけない。私が掃除をサボったりしたら、ここぞとばかりに誰かが告げ口するに決まっているから。
「鍋島さん」
掃除用具入れからホウキを出すと、後ろから誰かが声を掛けてきた。私はホウキを持ったまま振り返る。
「今日私、用事があるの。一人でやっててもらっていい?」
佐藤祐美子。くりっとした大きな目と、色素の薄いロングヘアーが特徴的なクラスの人気者。誰に対しても明るく接する、優しい人。と、言われている。
でも私は、この人が嫌いだった。掃除当番が被れば何かと理由をつけて、私に全部押し付ける。誰かの陰口を言い始めるのも、この人が最初。本人が見ている前では決して言わないし、先生受けもいいから、悪口を言っている事は仲間しか知らないだろう。でも、私は知ってる。この人が時々私を見てひそひそ笑っているのを。
断れない私は、小さく頷いた。佐藤さんは快活な笑みを浮かべて、ありがとう、と言う。会話らしい会話はしていない。佐藤さんは机の上に置いてあった鞄を取り、教室の隅でお喋りしていた仲間達に声を掛けて廊下へ出て行った。
さっきの本で調べたのは、あの人の名前だった。あの人は、偽善者だ。偽善すらもしていない。上面がいいだけで、その実他人の陰口ばかり叩く。あんな上辺だけの人。
私は小さく、本の中の彼女の名前の横に書かれていた言葉を、口にした。それからもっと小さく、呟く。
「死んじゃえ」
ホウキを持ち直し、左右に首を振る。こんな事を言っていても仕方がない。早く掃除を終わらせよう。
そう思った時、廊下から悲鳴が聞こえてきた。私は顔を上げたが、すぐに床を見る。どうせ女子が遊んでいるだけだろう。しかし黙々と掃除を続ける私の視界に、慌てた様子で教室に飛び込んでくる人影が入った。
「みんな大変! ユミが階段から落ちた!」
教室に残っていた何人かのクラスメイトが、廊下へ飛び出した。私は下を向いたまま、早鐘のように打つ自分の鼓動の音を聞く。そんなわけない。そう思いながら。
そもそも死んだとは誰も言っていない。ただ階段から落ちただけだ。私には関係ない。でも、いくらなんでも、タイミングが良すぎる。そんなはずはない。でも、まさか。
だとしたら、あの本は一体なんだったのだろう。誰もいなくなった教室で、私は自問自答する。まさか私が死んでしまえなんて言ったから、というわけではないだろう。私が言った事が原因だとも思えないし、そんな不思議な事、あるはずない。
廊下が俄かに騒がしくなってきた。先生達の怒鳴り声が聞こえる。怯えたように震えた、女子の悲鳴が耳に残る。鈍器で殴られたように、頭が痛くなった。
私のせいだったとしたら、あの本に書かれていたあれは、何だったのだろう。名前だったのだろうか。そうだったとしても、どうして突然階段から落ちるのだろうか。私が嫌な独り言を呟いた、すぐ後に。偶然にしては出来すぎている。
なんだか背中が寒い。煩い心臓の音と共に、どっと冷や汗が出てくる。とてつもなく嫌なものに触れてしまったような、ぞっとするような感覚。今まで感じたことがないような恐怖。
私は乱暴にホウキを掃除用具入れへ突っ込み、自分の鞄を取った。廊下へ出ると、先生方が右往左往している。私に気づいた担任が足を止め、早く帰れと言ったが、またどこかへ行ってしまった。佐藤さんはどうなったのだろう。
そんな事、私には関係ない。
私は重たくなった鞄を抱えなおし、昇降口へ向かった。