空想コード
コードの授業。高校三年生が卒業前に受ける授業だ。
一月のさいご、半分くらいの生徒の進路が決まった頃、うちの学校でも他と同じようにその授業をした。パソコン室に集まって、ひとりひとつ、デジタル上に自分の理想の空間をつくる。支給される小さなユーエスビーみたいなものにしまった空間に、きっと大人になった生徒がかえってきたとき、懐かしいとおもうのだろう。
あまり興味のない僕は、なんとなく思い浮かんだ情景を、コード本を見ながら打ち込んでいく。つくりたいもののコードを打ち込んで、そこにつなげて色を指定するコードも打ち込む。ものがそろったら最後に、つくったものたちを配置するため、できあがったコードをコピーしながらつなげていく。英数字ばかりならんだ分厚すぎる本。うすい灰色の紙をぱらぱらとめくると、形だとか色だとかを自分で微調整するコードも載っていた。面倒くさいため自分はそこまではしない。
ノーマルでいい。実際にあるような景色でいい。個性的な空間なんてなくたって、それはそれでいいじゃないか。
□
気がつくと、そこは電車の中だった。
一度まばたきをしてゆっくりと体を起こすと、わずかに首を動かしてあたりを見つめた。見たことがあるような車両は、記憶よりもきれいで、何と言ったらいいのか、――青白い。透けてしまいそうだが、たしかにしっかりと物体なようで、電車だった。
どうやら通路のど真ん中で寝ころんでいたようだ。壁に背を向けるように貼りついた座席が、僕を挟んでいる。席に座ろうかと、床についた手にちからをいれ、立ち上がろうとする。
「ひゃっ」
うしろから高い声が聞こえてきた。振り向くと、床にぺたりと足をつけた女子が、呆然とこちらを見ていた。一瞬、とまどいで固まる。状況がわからない。その女子は初対面だったが、どうみても不安そうな雰囲気をまとっている。はっと、そういえば足に何か触れた気がすると思いだして、左を見る。
「うわあっ」
体格のいい男子が倒れている。きちんと車両の中を見わたす。すると離れたところにもう一人女子がいて、座席に顔をふせ、床につけた足をなげだしていた。
視線を戻して、もういちどすぐ後ろに座る女子を見る。おびえたような表情の女の子が、やはりこちらを見ていた。
段々と鮮明になる思考が告げている。――この電車内は、いつもとちがう。
□
「とりあえず、倒れている二人を席に運びたいから、手伝ってほしい」
したを向いて話しかけてみた。すこしの間のあとはっとしたように、あ、とだけ発した女子は、勢いよくたちあがった。
手伝ってくれるのだろうと判断した僕は、倒れている男子の頭側を持つようにしてみる。
女の子は足側にまわってくれた。そのままなんとか持ちあげる。男子は背が高いためバランスをとるのがむずかしかったが、そばの座席に寝かせることができた。
離れたところにふせていた女子も同じように運んだ。女の子を運ぶとなると先ほどよりもためらわれたが、今は仕方がないだろう。
自分を含めここにいる全員が制服を着ている。座席に寝かせたこの女の子は、見覚えのあるうちの高校の制服を着ていた。ほかのふたりの制服は、見たことのないものだった。
はこびおえると、僕は自分がたおれていたあたり、男子を寝かせたむかいにすわった。運ぶあいだ一度も声を発しなかった女子は、静かにぼくについてくる。そっと僕から左に二人分くらいあけて、彼女はすわった。
こわいくらいの、――無音。電車の進む音はしない。なんとなく、おたがい話しかけたくても話し出せないような、そんな空気を感じていた。
「ここに来るまでを覚えていないんだけど、……おぼえてる?」
また無音。
「わたしも、おぼえてないです」
女の子の声はすこし震えていたかもしれない。ぼくは答えてくれたことにほっとする。
「じゃあ、気づいたらこうなってた、みたいな感じかな。僕は、そうなんだけど」
はい、とちいさな返事が返ってきた。不安を通りこして、いっそ落胆しているようにきこえる声。きっとこの状況に困惑しているのだ。ちらりと横をみると、女子はあわさりそうな両手で、ぎゅっとスカートを握っていた。やっぱりまた、沈黙がながれた。
ここはどこだろうか。僕はここに来るまで何をしていただろう。あとのページがごっそりと、ルーズリーフからはなされてしまったみたいだと思った。記憶はふつりと途切れていて、そこから先は靄がかかることすらない。電車の窓は真っ白だ。くもった窓から差す光に、今が日中であることしかわからなかった。
□
しばらくぼーっとしていると、焦点を合わせていないぼやけた視界のなかで、何かがむくりと動いた。――焦点を合わせる。背の高い男子が、じーっとこちらを見ていた。なんとなくこちらも見つめ返してみる。
その様子を見ていたのだろう、二つ隣に座る女の子が、あの、と小さく声をだす。
「ここ、どこだ」
前のめりに座る男子は、敵を射るような瞳で話しかけてきた。
「わからないです」
依然こちらを見ている。それからまわりを見ると、チッ、と舌打ちをして背もたれにおもいきり寄りかかった。隣から怯えたような気配を感じる。空気がさらに鋭くなったような気がした。
「なあ、何か知ってることがあったら教えてほしい」
急に沈黙を破ったのは、またしても目の前に座る男子だ。後ろの真っ白な窓。まんべんなく光がさしていて、目の前の人物がわずかに暗く見える。
「えっと、……僕も少し前に目を覚ましたんですけど、みんな床に倒れていたようだったので、起きていたそこの女の子と一緒に、あなたと、あっちに寝ている女の子を席に運びました。……あとはわからないです。目を覚ます前のことはよくおぼえてません」
「そうか。ありがとう」
怖い人かと思ったのだが、意外にもきちんとお礼を言ってくれて、すこし拍子抜けだった。男子は隣の女子にも、一番最初に起きていたのか、とたずねている。
「あ、えっと、おきたらすぐ、この方がおきた、おきられたので……」
ちらりと僕の方を見る。びくびくしながら話した女子にも、目の前に座る男子はお礼を言った。
「あー、なまえを聞いてもいいか。俺は萩尾宙志だ」
何度目かの無音のさなか、目の前の男子はそうきりだした。確かに、知っていて損はないことだ。
「僕は」
自分の名前を言おうとする。
「――僕は、」
二人が僕をみている。はくはくと口がから振る。
「……思い出せない、みたいで」
ほんとうに、でてこない。
どうしてだ。僕は自分の事をちゃんと理解しているのに。多分きのう、ぼくは三回に渡ったコードの授業を終えた。二回目のはじめにはコードが完成していた僕は、とても眠かった。その帰りに近所の犬に吠えられたことも覚えている。子供の頃のことだって簡単に思い出せる。血液型だって、でも誕生日と名前だけが、最初からなかったみたいに思い出せなかった。
「とりあえず、あとにする。名前は?」
僕をとばして、萩尾と名乗った男子は女の子に質問する。
「岡倉、花乃といいます」
こちらを気にしながら、ゆっくりと名乗った。
「大丈夫か」
萩尾さんの言葉に、ぼくはすぐに答えられなかった。すこしたって、はい、と小さくへんじをした。
「あの……わたしたち、倒れていたわけですし、きっといまは混乱しているんだとおもいます。落ち着いたらきっと、思い出しますよ」
「……ありがとう。そうですね」
自分から話すことのなかった女の子に、慰められた。そうだ、落ち着こう。そのうちきっと、思い出す。
「俺は高三なんだけど、お前らは? 高校生だよな」
「あ、僕も高三です。昨日コードの授業が終わりました」
僕は萩尾さんの質問に答えた。
「俺はまだ途中だな、コード。授業は終わったんだけど、ああいうのいっかい始めると完璧にするまで終われないんだよなー」
「岡倉さんは何年生?」
「私も三年生です」
「みんな同じ年じゃねぇか。タメで話そうぜ、タメで」
意外と和やかな雰囲気で、自己紹介は進んでいった。
「見ない制服だよな。どこのだ」
そう聞いた萩尾さんの制服は、ブレザーが紺色で、ズボンはグレーのチェック柄だった。冬だというのにボタンはひとつ開けられていて、ネクタイもゆるい。僕は自分の高校の名前をつたえる。
「聞いたことないな」
考え込む萩尾さん。左で首をひねっている岡倉さんは、濃い茶色のブレザーに、赤茶色に染まったチェック柄のスカート、リボンがしてあった。ちなみに僕は何の変哲もない、全身紺の制服だ。まだ寝ている女子も、赤いリボン以外は全身紺だ。
「どこにあるか聞いてもいいですか」
不思議そうな岡倉さんの質問に答えた。答えを聞いたふたりの様子が、どうもおかしい。
「それ、県が違くないか」
県が、ちがう?
二人にも通っている高校の名前と、高校のある場所を聞いてみる。ばらばらだった。萩尾さんは比較的都会に、岡倉さんの高校は、どちらかというと田舎のイメージが強い県にあるという。僕は中間といったところだろうか。一応、地方都市だ。
「ちかくもないじゃねえか! どういうことだ、ここは本当にどこなんだ」
また、ほぐれだしていた空気がピンと張りだす。
「なにかの事件に巻き込まれたとしても、住んでいる場所が離れすぎていますよね」
少し緊張がとれてきていた岡倉さんは、またうつむいて黙ってしまっている。
「あ、お前、タメでいいって言ったろ」
「あ、すみませ、ごめん」
萩尾さんは敬語で話されるのが好きではないのだろうか。しかし空気を読んでか、岡倉さんには敬語をとることを強要していない。
「萩尾さんも、気がついたらここにいた感じですか、あ、感じ?」
ああ、萩尾さんは答える。僕は続けた。
「――それでもここから先は記憶がない、ってところがあるとおもうんだ。そこを教えてほしい」
少しでも情報を得たい。それはここにいる全員が思っていたことのようで、すぐに答えてくれた。
「おれはー、あー、学校だな。学校にいったところまでは覚えてる。それから先はまったくわからない」
「私は家、ですね。したくをして、朝ご飯を食べたところで記憶がおわっています」
「僕は学校にむかって道を歩いていて、そこから記憶がないです」
誰しもが気づく共通点が浮かびあがる。
「あさ、ですね」
少し顔をあげた岡倉さんが言った。記憶している日付も一緒だった。
「なにか、変わったこととかなかったか? その日とか、前の日に」
「特には……」
なにかあっただろうか。ほんとうに誰も変わったことなどなかったようで、思い浮かばない。しんと、その場に発言者がいなくなった。
僕はここで目を覚ましてから、気になっていたことを口に出した。
「ずっとおもってはいたんだけど、――似てるんだよね、この電車。僕のつくった空間に」
つなげるように僕は話す。
「コードの授業で僕は、電車の中の空間をつくったんです。こんなに透けるように青白くはなかったけど、なんだか見れば見るほど、似ているような……」
電車の中を見上げてみる。光の反射する青い電車。すべてが薄い青、みずいろだ。座席や手すり、ドアの開閉ボタン。きちんと色がついているはずなのに、その上から水色のフィルターをかけたように、すこしメタリック、――というかガラスみたいにみえるのだ。全体のさまざまな色は、みずいろに消えてしまいそうなほどに薄い。なんだか近未来的におもえる電車も、よくみるとひとつひとつが、僕のつくった空間をまる写ししたようだ。
僕は気持ちが悪くなってきた。さあっと、全身の血液がつめたくなったように感じる。考えてみれば車内全体が青白いなんて、――すこし透けているような気がするなんて、いくら最新の電車でも、おかしい。
「おかしい、にすぎてる……」
「いや、にてるんじゃない。――同じなんだ」
へ、とくちからこぼれた。思わずつぶやいた声に、しっかりとした返事が返ってきたことに驚いた。ぽかんと、上に向けていた顔をさげる。すると二人とも、僕とおなじように車内を見ていた。
「おれも、同じようにこの電車を完成イメージとしてつくってた。どうして気づかなかったんだ、俺は。……つくりかけのおれのコードとそっくりなのに」
萩尾さんの言葉が消化できない。
「どういうことですか」
「お前がつくってたのは――」
彼が発したのは、僕がつくった電車が走る路線と、その地域の名前。
「どうして」
「おれがつくってたのも、その路線を走ってた電車だからだ。現実にあるあの車両の中、まんまつくろうとしてたからな」
ぼくは驚いていた。ここに居合わせる会ったこともない二人が、おなじものをテーマにしてコードをつくっただなんて、そんなことがあるのか。しかも、今僕たちがいるのはその電車のなかだ。そんなとき、あの、と左から声が聞こえた。
「わたしも、コードの授業で、空間にこの電車をいれました」
岡倉さんは驚いているような、怯えているような、しかしわずかに高揚しているような、そんな表情だった。
「岡倉さんもこの電車を、つくったの?」
こくりと頷く岡倉さん。
「わたしはこの電車のなかをつくったわけではなくて、想像の空間に電車をおいたんです。だから、外側をつくりました。さっき言っていた路線に走っていたものをイメージしていたし、実際この内装を想像していました。同じ電車だと、おもうんです」
最後のほう、彼女は少し自信なさげだった。ぼくはぞっとした。
「ここまでくると、偶然とはおもえないな」
下を向いて何かを考えていたような萩尾さんは、いった。
「まったくしらない、住んでる場所も違う三人が、授業の課題で同じものをイメージしてつくって、なんで今一緒にいるんだ。……ずいぶん作為的だ」
その言葉がおもくのしかかった。かんがえないようにしていたのかもしれない。今いる場所が、とても怖いところで長居してはいけないような。ここに身を置いているようでいて、自分だけ別のところから来た異分子のような。そんな得体の知れない、気持ち悪い感覚を。いまはじめて気づいたみたいに、一気に襲ってくる、恐怖。
「『空想コード』」
僕は萩尾さんを見た。
「しってるか」
こわばった顔で問う萩尾さん。
「……しってます。有名なうわさです」
岡倉さんは今までとは違い、震えた声だがはっきりと言った。
「おれも、ばかばかしいと思ってた。ここにきて最初にこの考えが浮かんだときはな。……でも今は、もしうわさが本当なら、こんな感じなのかもしれないと思う」
ふたりは、何の話をしているのだろう。
「『空想コード』って、なんですか」
話したくない、というようにわずかに言葉をつまらせる萩尾さん。
「高三って、どこの高校でもコードの授業をするだろ。当たり前の話だ。でも、なんでなんだって、疑問におもったことはないか」
たしかに、すこしだけ不思議におもったことはあった。どうしてデジタル上に、理想の空間をつくるんだろうって。卒業制作に適したものなんて、ほかにいくらでもある。コードの授業、それじゃなきゃいけなかったのかなと。
「そんな背景から生まれた、有名な噂がある」
萩尾さんははじめのように再び前のめりになると、ひらいた足に腕をおいて、両手をくんだ。低い、真剣な声音で話しだす。
「俺らが生まれた頃、人間の技術が発達して、科学者のお偉いさんたちがこぞって、コードだけで人間をつくりだした。――空想の人間のコード、『空想コード』だ。でも政府は、それを隠蔽した。クローンとおなじで、それは禁忌を犯すものだったから。コードでつくられた人間は、自然に世の中に紛れ込み、はじめからそこにいたように生活した。だれも空想の人間がまじったなんて気がつかない」
「つくられた、人間」
「でも人間は、一度つくりだし、世間に馴染みだした空想コードをすぐに消してしまえるほど、良心がないわけではない。そこである案を出した。空想コードを十八歳、つまり高三まですきにさせる。それからその年のさいごに、その期間までに培った、知識や理想を空間にしてもらおう。そして、つくった理想の空間に、コードで造られた人間をいれてしまえばいい。そうすればつくりだされてしまった空想コードは、自分の理想の空間で、ずっと過ごすことができる。……人間の良心を慰めてくれる、勝手な打開策だ」
ぼくは萩尾さんの顔を凝視した。
「――そのために、コードの授業はある。人間にまぎれた空想コードが、引っかかるように。理想の空間が完成したとき、だれも気がつかないうちに、空想コードが消えている。……そんなうわさだ」
その場が、しんと、来たばかりのときよりも、なんの音もしなくなった。頭の中で萩尾さんの声が、ぐるぐるリピートされる。
「そこそこ的を得ている噂ではあるだろ。だからまたたく間に広まったんだ。まあ、俺はあほらしいと思ってはいたんだがな」
ひくっ、ふたつ隣から、泣き声がきこえる。
「つまり、それは」
「……ああ、おれら、空想コードだったのかもしれねえな」
真剣な萩尾さんの顔にみえる、すこしのかげり。
「そんな、まさか、ただの拉致とか、そういうのじゃ、だって」
嘘だろう、そんなうわさしらなかった。しかも自分が該当していたなんて、そんな、
「――まっ!」
ぼくの体はびくっとゆれる。
「ちがうかもだけどな!」
彼は、にこにこ笑顔だ。
「あー! 真剣に話すって、けっこう体力いるのな」
どさっと、大きな体を背もたれに投げだした。左では涙でわずかに、頬やブレザーの袖を濡らした岡倉さんが、驚いた顔をしていた。
「うわさだうわさ。驚かせて悪かったよ。……完全にちげえってはいえないが、この話はツッコミどころも多すぎるんだ」
すびっと、すこし鼻をすする音。
「だってそうだろ。だとしたらまず、なんで俺には親がいるんだ。親も空想コードなら、親だってとっくに十八で引っかかってるはずだ。空間に押し込めたいなら、空想コードなら空想コードの孤児院でもつくっちまったほうが話がはやいし、全部の高校でコードの授業をする必要なんてない。把握しきれてない空想コードがあるとしたら、話はちがうがな」
萩尾さんはごそごそとポケットをさぐる。
「そもそも、そんな技術があるなら、この世界はとっくに電脳世界だよ」
ほらよく漫画とかでみるだろ、と。なんだか、どんな気持ちになっていいのやらわからない。
まず『空想コード』の噂が衝撃的すぎた。それに、萩尾さんの切り替えにも驚きが隠せない。ここは怒りが湧いたりしてもいいところだろうか。正直、ほっとした気もする。ぼくは自分の感情が、よくわからなくなっていた。
岡倉さんがティッシュで涙を拭いている。彼女のまるい目はわずかにピンク色になっていた。もっていたのだろうか、萩尾さんはテッシュを差し出して謝っている。
「びっくりしました……」
「ま、可能性はあるんだぞ、可能性はな。でもうまいことやれば、普通にコードの授業で同じ空間をつくった奴らを、攫うことなんかできるかもしれないし。そしたら俺ら、ふつうに誘拐とか拉致だろ」
なんでそんなことするかは知らねえけど、と萩尾さん。
「……おれさ、ちょっと空気が緩んだ気がしてうれしいわ」
ほんとうにうれしそうな表情。けしていま、楽しい感じで賑やかなわけではないのだが。彼はかたいより、柔らかい雰囲気の方が好きなのだろう。たしかにほんの少し、空気が明るくなった気がした。
でもぼくは、また一瞬真剣な顔を見せた、萩尾さんを見て思う。彼は、まったくの嘘を言っていたわけではないのだと。
□
「……そういえば、そっちに寝てる女の子、おきませんね」
すこしたって気持ちが落ち着いてきたのか、岡倉さんが言う。今までよりもトーンの高い声に、彼女は泣いてしまったことが恥ずかしいのかもしれないと思った。
「そうだね。心配だし、近くにいってみようか」
ぼくはすぐに立ちあがる。僕たちが座っていたのは、車両に左から三つ出入り口があるとすると、一番はじめのドアの、すぐ右だ。まだ目を覚まさない女子は、二つ目と三つ目の扉の、真ん中あたりに寝ている。
通路のうすい影と、オレンジにかわりつつある四角い光の上を歩いていく。水色とオレンジが混ざった車内は、ところどころが緑色にかわる。二つ目と三つ目のあいだに着いて、近くで見ても、やっぱり彼女の目はかたくつぶられたままだった。
「おきてねえな」
ポケットに手を突っ込みながら、後ろをついてきた萩尾さんがいった。
「この制服、僕の高校のなんですよね」
ブレザーの左側にひかえめに刺しゅうされている英語の文字は、たしかに僕の制服についているものと同じだ。驚いたふたりに刺しゅうをみせると、確かに、というような反応をした。
「かお、見たことあるか」
「いえ……わからないです」
すっと鼻筋の通った白い顔。僕は交友のひろいほうではないから、大半の生徒の顔は知らない。知っていたとして、同じクラスになったことのある人とか、ほんとうに目立つ人、よくすれちがう人だ。いや、おなじクラスもあやしいかもしれない。うちの学校は学年でも棟が別れたりするから、関わらない人はほんとうに関わらない。
「ここまでくると、三年の可能性が高そうだよな」
萩尾さんはまたどかっと、さっきと同じ方向の座席にすわった。
「もしかしたら、この子も電車のコードをつくっているかもしれませんね」
心配そうに顔の近くにしゃがんだ岡倉さん。僕は横になる女子の頭の方に、何人ぶんか開けて座った。たしかにここまできたなら、高校三年生で、電車のコードをつくっているのが妥当だろう。
「きれいな髪」
岡倉さんは女の子のつやつやの黒髪を見て言った。のびた髪はおろしてあって、座席にひろがりすぎることなく纏まっている。
「あこがれちゃいます」
僕と女の子のあいだに座った岡倉さん。その髪はというと、茶色でふわふわそうだ。低い位置でひとつにされている。
「岡倉だってさらさらじゃないのか?」
と萩尾さん。
「わたしはストレートをかけてるんです。それでも広がっちゃうのでしばるしかなくて」
「そうなんだ」
すこしこの雰囲気になれてきているのか、僕らはそんな普通の話をぽつりぽつりとするようになっていた。
「日が暮れそうだね」
外から入る光が弱くなって、ついているのに気がつかないほどだった車内の電灯が、だんだんとなくてはならないものになっていく。窓の外はモザイクがかけられたように曇っていて、暗くなるほどに、底冷えするような恐ろしさをふくらませた。
窓をこすってみる。曇っているのは外のほうなのか、まったく水滴をふきとることができない。
「なあ、この電車は何両つながってるんだろうな」
そういって萩尾さんが立ち上がる。女の子が寝ているところよりもっと後ろ、端までいくと、次の号車へと続くはずの扉をおもいきりスライドさせようとした。
「なっ、んだこれ! あかねえ!」
力いっぱい引っぱっているような、おおきな声でそういう。僕と岡倉さんも彼の近くへとむかった。それから三人分の力をくわえたが、開くことはない。
「――しかもなんも見えねえ。この号車に運転席はついてないから、これだけでは走ってないはずだ」
このドアの窓もまっしろ。ぬぐってもとれない、モザイク。移動して、正反対のつきあたりにあるドアも引いてみたが、びくともしない。はあ、萩尾さんはため息を吐いた。
「おかしいよな。曇ってるからって、こんなに外が見えないってことあるか」
不自然なほど窓が白くて、この車両は閉塞感がすごかった。電車が縦に長かろうと、息がしずらいような錯覚を感じてしまいそうだ。
「この電車、走ってないよな。音がしないし、駅に止まるような動作もない。まず、予定外の電車なんか走らせてたら、駅の関係者に止められる。だから、電車を勝手に走らせて拉致なんて、不可能にちかいと思う」
萩尾さんは車内をゆっくりと歩く。ぼくと岡倉さんはそれについていった。
「走ってなかったとしたら、駅とかに一両とか二両で放置されてるような電車か? それでも見回りが来るはずだ。日差しを考えると、外に置いてあることは間違いないとおもうんだよな」
僕たちははじめに座っていたあたりにもどってきていた。座席に座りだす萩尾さんは、大きく足をひろげながら頭を下げて、状況を把握しようと考えているようだ。一瞬柄が悪く見えるツンツンした茶色の短髪。しかしきちんとみると、彼はとても頭の切れそうな顔をしていた。整った濃い眉をよせている姿を、何度もみる。
「いちばんおかしいのは、あれだ、――腹も減らなければ、トイレにもいきたくならねえことだ。……お前らもだよな」
いらいらしているように見える萩尾さん。こっちを見ず、ひとりごとのように問いかける。いまにも地団駄を踏みそうだ。
「おれはだいたいの時間腹が減ってるんだ。おかしすぎる」
「ここって、やっぱり現実ではないんでしょうか」
岡倉さんがつぶやいた。
「現実だったら、不可解なところがおおすぎる、よね」
「でもよ、はいそうですか、現実じゃないんですね、ともおもえないだろ。今、ちゃんと日は沈んでる」
ちらりと見えない窓をみると、さしこむ光はゼロに等しくなっている。
「あー、おもったより暇だよな。飯が食えないって」
大きなこえをだす。
「よく、監禁された、とかのニュースを見ますけど……。実際そんなことがおこると、意外とひまなんでしょうか」
と、岡倉さんがいった。それはこの状況が特殊なだけだと思うんだけど、と心のなかでつっこんでおく。
ぼくたちはまた、座席にすわりはじめる。
「……ねえ、ぼくたちが空想コードだったとしてさ。永遠にこのままだったら、どうする?」
「それは、こわいです」
「おれ就職したくないから、意外とラッキーかもな」
「……楽天的だね」
「くらいこと考えたって、どうしようもねえだろ」
また僕たちはたわいもない話をしはじめた。
「でもさ、風呂とか入らなくていいのは楽かもな」
「でもお風呂って、いちにちがんばったな、って感じがしてわたしはすきです」
はじめよりも、会話がスムーズに発生するようになったとおもう。
「おれ朝シャン派だからな。どっちかっていうと、これから一日が始まる、ってかんじだな」
お前は、ときかれた。ぼくは、とこたえようとする。
「ぼくは……そうですね」
あたまのなかで言葉がまとまらなくなってきた。だいじょうぶか、そんな音を耳で受けいれようとする。……こえが、すこしずつゆったりと、あたまに流れ込んでくる。ぼやぼやとする会話。だれかがなにかを言った気がするのに。
話は、きゅうに終わった。
□
目を開ける。顔をあげると向かいに岡倉さん。右をみると萩尾さん。ふたりとも目をとじている。僕のからだには、――人のかげ。
ゆっくりと斜め後ろをみると、女子が立っていた。ドアの前でふりむいた彼女の瞳は真っ黒で、そこに窓からの光をたたえている。
「おはようございます」
「あ……、おはようございます」
当然のように挨拶をされる。彼女のうしろには、流れるけしき。――けしきが、ながれていた。
ぼくはおもわず、隣で眠る萩尾さんをゆすった。
「萩尾さん、萩尾さん、そとが、外がみえます!」
んあ、とだるそうに目をあけた萩尾さんは、声を出しながら大きなあくびをすると、半開きの目をしながら無言になった。
「――まじだ」
雪景色の中、電車は走っている。
「あ、そうだ! 岡倉さん、岡倉さんもおきて」
僕は座席にもたれかかるようにしている岡倉さんを起こそうと、立ち上がる。あの、と後ろからまだ知らない声がした。
「状況説明をお願いしたいんですけど」
「――つうわけで、俺らはそのまま寝て、今ってわけ」
「そうですか。ありがとうございます」
昨日の出来事を、自分たちの名前などもまじえ、萩尾さんを中心にひととおり話した。
電車の走る音はやはりしない。前の窓も後ろの窓もやっぱり雪景色で、たまにぽつりと民家が見えた。つもってはいるが雪はふっておらず、空は晴れていた。電車は僕がここで最初に目を覚ましたとき、足をむけていた方向に走っている。
「……空想コード、ですか」
「ああ、筋は通ってるだろ」
女子の言葉に、萩尾さんが答えた。女の子は僕の向かい、岡倉さんの隣に腰をおろしていた。女子たちは進行方向の右側にすわっている。
「そんなこと、実際ないとおもいますけど」
彼女のことばに、岡倉さんが目をまるくしているのがわかる。
「わたしは田中柚子といいます。よろしく」
そのまま彼女は、ついと横を向いてしまった。車内を観察しているのだろうか。なんというか、
「なんか、感じわるくねえか」
「すこし」
萩尾さんがこそっと耳打ちする。確かに言葉も口調も、好意的とはいいがたく、なんだかツンとしている印象を抱いた。
田中さんの横では、岡倉さんが肩を縮こませている。
「田中さんも、コードに電車をいれたりしましたか」
「コードの内容は個人的なものなので、話す義務はないと思います」
僕の質問はあっさりと切られてしまった。
「でも、こういう情報って大事だろ。俺らは知っていることを話したわけだし、お前のことも教えてもらう権利があると思う」
電車内はいつもとは違う種類の、凍ったような空気になっている気がした。
「たしかに、それもそうですね」
田中さんは答えた。
「でも、どうしてもいいなくないんです。それ以外なら話せる範囲で話します」
ここまではっきり言いきられると強要はできないだろう。萩尾さんはわかった、と返した。そのあと彼は、なぜか僕を見た。
「まだ、思い出せてないだろ」
思い出せてない、とはなんのことだろう。
「じゃあ、まず聞きたいことがある。田中は、こいつと同じ学校なんだろ。制服のマークが同じだって、目を覚まさなかったとき話してたんだ」
こいつのことしらねえか、名前が思い出せないらしくてな。そうか、……ぼくは名前をわすれていたのか。
たしかに、田中さんが僕をしっていれば、僕は自分の名前を知ることができる。しかしながら、僕は交友関係がせまい。
「わるいけど、しらないです」
「やっぱりか」
やっぱり、といったのは萩尾さんだった。
「ちょっと、失礼だな」
「学年に何クラスもあるんだから知らなくて普通だろ。その反応。もしかしておまえ、友達少ないタイプだろ」
「な、そんなことは、……ありますけど」
「そこは否定しとけよ」
ふふ、と岡倉さんの笑い声が聞こえてくる。恥ずかしい。
「でも、名前がわからないのは確かに不便ですね」
田中さんが静かに言った。そのことばから、なぜかみんなで僕の呼び方を考えることになった。
「――かわいくしましょう!」
いままでで一番元気な気がする岡倉さんがいった。
「太郎とかでいいんじゃないか。呼べればいいんだからよ」
「せっかくだし、あだ名っぽくしましょうよ」
ああでもないこうでもないと二人が話している。なんだか近所の公園にいる、犬の名前でも決めているみたいだと思った。
「もうぼく自分できめるよ。自分が呼んでもらいたいのが一番いいから」
僕がそういうと、わずかにつまらなそうな視線を感じる。でも、どうつけたらいいのか。ぽんぽんと二人が名前の候補をあげていく。たまに田中さんも加わる。
「そうた」
声の主は田中さんだった。その声が、みょうにあたまに響いて、入りこんでくる。
「そうた、――そうたか」
なぜかしっくりくる響きだと思った。
「そうたがいいです」
そうたくん、岡倉さんがよぶ。うん、とぼくは返事をした。
□
「さる」
「る、るびい」
「いぬ」
「ぬいぐるみ」
暇をもてあまして、僕らはしりとりをしていた。田中さんはあまり発言しないものの、しりとりには参加してくれている。
「み、み、――あー、暇すぎる!」
まどの外は相変わらず晴れた雪景色で、ずっとなんの変化もない。
「外走りてえ」
「せめて、トランプがあればいいんですけどね」
岡倉さんの言葉に、そういう問題ではない気がする、と心の中でつっこみをいれる。
「でもしりとりなんていつぶりだよ」
「電車でしりとりなんて、遠足みたいだね」
「わたし、むかし買い物帰り、よくおかあさんとこの電車にのってしりとりしたんです」
岡倉さんが言う。僕もむかし、この電車に乗ってたんだよな。
「なあ、――どうしてお前らは、コードの授業でこの電車をつくったんだ」
萩尾さんがつぶやくようにいった。
「俺は親父の実家がこの電車が走る場所にあってさ。おれ、この電車の田舎っぽい古い感じが好きなんだ」
懐かしそうな表情。わずかに柔らかい顔をした萩尾さん。
「ここにいる全員、今その近くには住んでないよな」
あいかわらず車内は、透けるように青かった。電車は、ランプが点滅しておらず、バーのさがっていない踏切をとおりすぎる。
「わたしはおばあちゃんがそこに住んでいて、長い休みはよく遊びに来てたんです。それが、とても楽しくて。もう、学校の夏休みでここにくることはないんだなあ、っておもったら、この電車をつくってました」
懐かしむように岡倉さんが言った。ふたりは僕をみる。話せということだろう。
「――僕は、住んでたことがあったんだ。たのしかった、っていうと違うんだけど、一番最初にこの電車が浮かんだからさ」
特に、熱意をこめてつくるつもりもなかったから。思い入れなんてないはずの、この田舎の電車を選んだ。
「さびしいなぁ。大人になんて、ならなくたっていいのに」
岡倉さんのつぶやきは、静かな車内に響いた。
「……おれも、就職しなきゃならないからな。したくねえなあ。このまま進学とかする奴はいいよな。楽しそうだ」
しんみりとした空気。卒業って、おとなになるって、悲しいことなのだろうか。
「いいじゃないですか。私はずっと、はやく大人になりたかった。……大人になったら、誰にもさしずされず、なんだってできる」
田中さんは、出入り口のところに立って言った。
「おとなって、なんだろうね」
自分の口から零れていた言葉におどろく。
「おれたちって、もう大人なのか」
静かだった。
「少なくとも、子供ではないよね」
「でも、おとなでもない」
ぴしゃっと、田中さんがいった。みんな、なにかをかみしめるような表情で、でも田中さんだけ、すこしちがう。彼女だけ、まっすぐと窓の外を見ていた。
あるときから、電車は暗いトンネルへと入ったようだった。トンネル特有の音も、耳の違和感もしないから、はっきりとそうはいいきれないけれど。
「おれら、どこに向かってるんだろうな」
萩尾さんの目は遠くを見るようだった。トンネルからはまだでられていない。
「トンネル、ながいですね。……いつまでつづくんでしょうか」
「もしかしたら、ずっとかもしれないね」
それはいやだなあ、不安そうに岡倉さんがいう。
「出口のないトンネルなんてないですよ。はじめは出口がなくたって、掘り進めていけば、そのうちでられます」
田中さんはまだ出入り口から、真っ暗な窓をみている。まどには、すこし厳しい顔をした彼女がうつっていた。
「まあ、ここがそんなまともな空間であることを願うしかないよな。きのうの窓のくもりかた、あれは現実とは思えなかった」
あれは本当に曇ってなってたのか。萩尾さんはまた前のめりになって、けわしい表情をしている。
もしかしたらぼくたちは、この空間に順応しつつあるのかもしれない。田中さんのはっきりとした言葉で、やっぱりここは現実なんじゃないかと、そんな考えの割合が多くなっていた気がする。――でもまだ、ぼくたちはお腹が空かないし、トイレに行きたくもなっていない。
「やっぱり僕たち、空想コードなのかな」
こんどは、だれの返事もかえってこなかった。
急に、窓が黒から鮮やかな色になった。全員が立ちあがって窓にはりつく。
「山……?」
田舎の山や、田畑のあいだを電車は走っている。あざやかで、深い緑だった。――まるで蝉の鳴き声がきこえてきそうなほどに。
「夏みたいだ」
唖然とつぶやく。先ほどまで、たしかに雪景色だったのに。太陽はさやわかだけど、じかじかと照りつけてきて、とてもまぶしい。横をみると、ぶあつい冬服をきた皆がいる。不自然な光景だった。
「やっぱり現実じゃない」
萩尾さんが言った。そのあと言葉もなく、ぼくたちはしずかに席にすわる。なんとなく、みんな並んでいた。
夏休みだったらわくわくしそうな光景なのに――感じる雰囲気は、どこか異様だった。太陽がおとす影で、外とは対照的に、車内はまっくらだ。夏のあついのにさわやかな空気は、ここまで届きそうでとどかない。とってつけたような夏だ、とおもった。
「もう私たちには来ないはずなのにね。――高校生の、夏なんて」
田中さんが感情のはいっていないような声でいった。気温は、暑くも寒くもない。
「空想コードなんて、嫌です。わたしたちずっと、このままなんですか」
岡倉さんの声は震えている。
流れるけしきは、僕たちに夏を見せる。ただただ水平に、音もなくすすむ電車。こんなにも、のどかな夏の景色をこわいと思ったことなどなかった。ひまわり、置き去りになった子供用じょうろ、麦わら帽。――ひとはいない。
よこでみんながつらそうな表情をして、顔をさげていた。こんどは僕だけが、ただ外を見ていた。
「――じゃあ、ここからそっちが男子、こっちが女子のスペースね」
田中さんが車両の中央、ちょうど真ん中に立っている。
「ここまでする必要あるかな」
「ずっとこのままかもしれないんだから、プライベートスペースは大事でしょ」
寝るときは男女わけようというのは、いつのまにか敬語のとれた田中さんの提案だ。男子は進行方向の前、女子は進行方向の後ろ。
「まあ、一理あるっちゃ一理あるし、それでいいぜ。寝るとき以外は普通にするんだろ」
「そう。衝立があるわけでもないから、ざっくりわけるだけだけど」
反対なわけではない。迅速に物事が決まっていく様子に、ただ驚いていた。ぽかんと口がひらく。
「――いいでしょ、そうたくん?」
う、うん、ぎこちない声で返す。もう田中さんのなかでは決定事項のようだ。
「それじゃあ、おやすみなさい」
岡倉さんのあいさつに言葉を返すと、男女は別々になった。
どかっと、左側の座席の上に寝転がる萩尾さん。あたまは進行方向にむけ、両手で支えるようにしている。僕もそれにならって、反対側にゆっくりよこになった。目線の先に荷物置きが見える。水色がかった無機質な銀色は、電灯の光を反射してちかちかひかる。目の端にみえる窓は、まっくらだ。これで寝るのか。なんだか落ち着かない。
ふー、と隣からおおきくいきを吐く音がした。
「就職は嫌だったんだけどよ。……嫌だったんだけど、ずっとこうなのは、いやだな」
あらためて、状況がぼくをつつむようだ。いろいろなことが、ぼんやりとあたまを過る。
「なあ、……おれらって、空想コードだったのかな」
すこしよわきな、萩尾さんの声。
「かも、しれない。でも、はっきりとはわからない」
夜でも消えることのない車内の電気。
「ぼくは、ほんのすこしだけ、この状況に、ほっとしてる」
音で萩尾さんがこっちを見たのがわかった。
「ぼくは、なんにも行動を起こさない人間だ。今にさほど不満もない。……でも、このままなんにもおこらず、高校生活が終わっていくんだなって、思ってた。だから映画や漫画みたいなことが僕にもおこって、ほんのすこしだけ、ほっとしてるんだ」
まあ、それよりも怖いって気持ちのほうが強いんだけどね、ぼくは笑った。
「そういう、もんなのか」
「僕が変なだけかもしれない」
「そうかもな」
ふー、とぼくも息を吐いた。ただ、静かだ。怖いくらい何の気配もないこの空間で、感じるのは、ただ四つの息づかい。
おれさ、ぽつりと萩尾さんがいった。
「おれさ、暗くないと眠れないひとなんだけど」
一瞬、ぽかんとする。このタイミングでそんな言葉をきいて、なんだか笑ってしまった。なんだよ、と萩尾さんがおこったような照れているような口調でいう。ひとしきり笑って、やっぱり静かだけど、すこし心がほぐれた気がした。
「僕たちのほかにも、こういう体験をしてる人がいるのかな」
「案外、となりの車両にいるかもしれねえぞ」
「え、僕たちがですか」
「おまえ何いってんだよ。なんか怖くなるからやめろ」
青い車両は僕たちをのせて走る。どこに向かっているかなんて知らないけれど、まだ心にたくさんのこる、ぼくたちの青をのせて。
□
「……いてえ」
仏頂面の萩尾さん。
「いてえ! この座席せますぎる!」
「まだ言ってるの」
田中さんは呆れ気味だ。
「座席からおちて何回も目が覚めたんだぞ。おかげで頭と背中がいてえ」
なんで飯も風呂もいらねえのに痛覚はあるんだよ、痛さを主張するために立ち上がっていた萩尾さんは、ぶつぶつとつぶやいている。
時刻は昼前くらいだろうか。僕たちは起きたあと、ちょうど電車のまんなかにあつまっていた。こんなに広い列車のなかで密集しているのが、なんだかすこし滑稽だ。車内には時計も、ましてや電光掲示板みたいなものもないから、時間はわからない。太陽の高さから判断するとそのくらいだ。その太陽も、正確な位置にいるかはわからないのだが。
「でもずっとここで過ごすようになるなら、けっこう重要な問題だよね」
「萩尾さんは背が高いですからね。窮屈そうです」
うろうろしていた萩尾さんは、きいたか、というような顔で田中さんを見た。
「食事も排泄もいらないなら、意外と睡眠なしでもいけるんじゃない」
「お前なあ」
僕たちは植物の生えていない田んぼのなかをはしっている。遠くを山に囲まれた大きな平野には、うすい茶色以外いろがない。昨日の夏の山とくらべると、寒々しく感じた。
「睡眠ってさ、記憶を整理するためにあるんだよね。もし僕たちが空想コードなら、記憶は脳でつくられてるんじゃなくて、データじゃないのかなあ。そしたら、睡眠はいらないかもしれない」
「いっかい、夜は寝ないでおきてみましょうか。まず時刻がふつうに進んでいるのかも、あやしいですもんね。お昼と夜の長さは、ほんとうに現実とおなじなんでしょうか」
ぼくと岡倉さんは、この空間への疑問を口にする。ここに慣れてきている僕たちの口調は、まるで夕飯のメニューを予想しているときみたいだった。のんびりとしていて、どこか無気力だ。
「ずっとこの空間で過ごすとなると、ここで起こることに従わなければいけない。考えすぎたら負けかもね」
そういったのは田中さんだ。
「考えたいことはたくさんある。けど、私たちが空想コードなのかなんなのか、前提がはっきりしない以上答えはでない」
彼女のはっきりとしたものいいは、ときに僕たちを落ち込ませ、ときに僕たちを安心させた。
窓の外をながめることが癖になっている。あいかわらず田んぼのなかではあるけれど、線路のわきには少しずつ、工場のようなものが見えるようになった。点々と通りすぎる程度だが、人の手がくわえられた建物がこんなにあるのは、この電車で目覚めてからはじめてかもしれない。
「なあ、おもってたことがあるんだけどよ」
席にすわった萩尾さんが、ぼーっとしたような顔で話しはじめた。背もたれに、脱力するように寄りかかって。彼の目は、どこを見ているのだろう。
「急にどうしたの」
「すこし、青くなくなってないか」
あいかわらず彼の目はあまり焦点があわず、きょろきょろとさまよっている。同じように、ぼくはわずかに上を見てみる。いっている意味がわかった。
「――ほんとだ」
座席の色は、はっきりとした青に。床はうすいアイボリーに。ポールや扉の銀は、鉄っぽく。
ぼくは立ち上がる。手すりをつかんで、みあげた。
「きいろい」
黄色が、こい。前よりも現実感がある。車内全体を見渡してみると確かに、気がつかなかったがわずかに、青がうすくなっていた。
「なつかしい」
岡倉さんがつぶやく。
――すこし出した本来の色。電車はいままでより、懐かしい香りがした。
「おれさ、この電車にサッカーボール忘れたことあるんだよな」
話の途中、萩尾さんはそんなことを言った。
「帰りの電車でわすれてさ、家に帰ってから気づいたんだ。それで親父にこっぴどく叱られて、あんなに楽しかったおでかけが急に、つらいもの、というかかなしいものに変わったんだ。サッカーボール、あんなに大切にしてた癖にな」
なぜそんなことを言いだすのだろう。
「そのサッカーボール、見つかったんですか」
「おー。荷物置きに置いてあったのを駅員が見つけて、預かっててくれた。俺は泣きながらボールを受けとったよな」
しーんとする。
「で」
田中さんだ。
「そのボール、ここにあったりしねえかなって」
萩尾さんは、昨日より銀色のふかい荷物置きを見上げて言った。
「なんでもありな空間なら、そんなことおこんねえかな」
無理でしょ。田中さんがいう。
「……だってよ、サッカーしたいんだよ。体動かせなくて窮屈なんだよ」
どっしりとしたイメージだった萩尾さんは、慣れてくると砕けた雰囲気を出すようになっていた。そんな子供みたいなこと、田中さんは言う。
「萩尾さんからしたら大きな問題なんじゃないかなあ。かけっこなら、電車でもできそうだけど」
「……でもほんとうに、ひま、ですねえ」
あーと、萩尾さんは力なくずっと声をだしていた。
□
ぞうっとする不気味なそら。――わずかに朱のまじる、藍のような紫のようないろ。雲はまるで閉じこめるかように、ぼくらを圧迫する。
正午をすぎただろうか。まだ平野の中央をはしる電車。線路のまわりには工場のようなものが多くなってきた。大きな建物が間隔をあけながら窓にうつりつづける。雲も多いはずなのにぼやけた顔をだす、しろい太陽。廃れた工場や錆びついたベルトコンベアの機械を、うしろからあやしく照らす。ものと空との境界線が、――あかく、ひかる。
「なんか、こわい」
わずかに俯いた顔に、濃い影ができる。にんげんはこんな風景に出会うと、なんだかさびしくて、なつかしくて、かえりたいような。そんなおちつかない気分になる。胸がぎゅうと、熱く冷たくなって。なんだか狭くて、気持ちが悪い。
僕は出入り口にたっていた。かあかあとわらう鳥が、まどからみえる窮屈な空にうつった。ひかりを反射した紫色の車内。ぼやけて境界のわからない幾つもの影が、ぼうっとおちている。
「はやく、おわらないかな。この景色」
しんと静まった空間に響くこえ。
いつものように、はやくすがたを変えてしまえばいいのに。
「……わたしたちは」
岡倉さんが口をひらいた。
「永遠に、このままですか」
ぼくたちは、彼女をみる。うつむいた彼女の表情は、悲痛だった。
「このままずっと、年をとることはなく、ただ、ただこない終わりを待ちつづけるんですか」
「――岡倉さん?」
「わたし、こわいです」
ぼたぼたと大粒のなみだが頬をすべる。
「おとなになることがこわいって、変わってしまうことがこわいって、そう思ってた。でも、変わらないことのほうがずっと、おわりがこないことのほうがずっと! ずっと、こわい」
ぬぐってもぬぐっても流れてくる涙に、彼女は手を動かすことをやめた。
「だって、だってずーっと、このままなんだよ?」
――想像した。ぼくは、吐きそうになった。はじめて恐怖に襲われた。彼女の涙を止められる者なんてだれもいない。きっとみんな、恐怖しているから。
もしかしたら、もしかしたらずっと、このままかもしれない。想像なんてしたことのなかった、永遠のせかい。ご飯もたべず。学校にも仕事にもいかず。年をとることもなく。ぼくたちはずっと、電車のなかだ。――えいえんに。
だん、萩尾さんは床を踏んだ。田中さんはつよく唇をかみしめた。ぼくは僅かに震えていた。後ろからさす光は、白いようで暗かった。
流れが、ゆっくりになっていく。ちかりと目をさした太陽。いつのまにか、空は澄みわたった青をとりもどしていた。スピードを落とした電車が、どこかに入っていく。橋の下を通ってすこし進むと、動きを止めた。
赤褐色の線路がいくつにもわかれて、大量にならんでいる。
「みて」
振動のない電車の変化に気づけたのは、出入り口に立つ僕だけだった。うえを見あげると、たくさんの線が見えたのと同時に、乾かない冷や汗でシャツが貼りついた。小さな鉄塔に似た骨組みが、いくつも視界にうつった。
「駅だ」
僕の声をきいて、いちばんに顔を上げたのは萩尾さんだった。萩尾さんはまどの外の変化に気がつくと、勢いよく立ちあがった。田中さんも外をみると、黙って下を向いたままの岡倉さんをうながした。
全員が、あたらしい景色に気がついた。
「……すげえ」
つぶやいた萩尾さんは、となりで呆けたような顔をしていた。
「すげえよ、駅だ! 駅!」
車両の前のほうへ駆ける萩尾さん。駅なんて、電車に乗るなら珍しいものではないのに、なんでこんなにも嬉しいのだろう。車内のみんなの顔を見る。先ほどまでの暗い瞳が嘘のように、きらりと光が輝いた。
「降りれねえかなあ」
窓に両手をくっつける萩尾さん。顔もつけそうなくらい近づけて、のぞきこむように足元の線路を見る。
僕も一番目の出入り口へと移動した。左の窓からみえた駅のホームは、薄汚れた白で、新しいとはいえないが古いともいえない。右の窓からは、たくさんの線路が横に並んでいるのがみえる。とおくにはやはり、ホームのようなものがあった。
駅はいくつか路線があるようで、待合室や電工掲示板もあった。文字はまどの反射でよくみることができない。車両は見える範囲では一両もなかったが、あまり小さい駅ではなさそうだ。やはり、ひとは一人もいない。
「もしドアがあいたら、……おりる?」
女子も車両の前方へとやってきた。進行方向右側。まぶたを大きくもちあげ、みんなの目を見つめる田中さん。はしゃいでいた空間は、急に冷静になった。
「たしかに、おりていいのかな」
「おりればいいじゃねえか」
僕のことばに、すぐそう返した萩尾さん。田中さんが萩尾さんをみる。
「ここは空想の世界かもしれないんだから。――おりたらほんとうに帰れなくなるかも」
ドアがあく気配はなく、この線路はホームにはつづいていない。電車から出たらすぐ、ホームに足をつけることはできない。
岡倉さんは、不安をためた瞳でこちらをみていた。
「でも、うごかなきゃ、はじまらない」
それは、彼女の声だった。落胆していたはずの声にそんな言葉がのせられたことに、ぼくは驚いた。
「……とりあえず、あけてみよう」
ぼくは一人、目の前のとびらの右に手をかけた。
「おう」
萩尾さんが僕と対になっている方へ手をのせる。岡倉さん、そして田中さん。両側からひらくドアに、ふたりずつ手をおいた。
「いくぞ――」
ぎゅー。体の中で音がする。たいして筋力もない腕で、ドアをあけようと踏ん張る。
「あかない」
たなかさんが扉から手をはなす。そんなのかまわず、ぼくは力をこめ続けた。もういちど、田中さんはとびらに手をかける。
「――だぁっ」
萩尾さんの大きな声で、いっせいに手を放した。みんなが手をぷらぷらと振る。
「片方だけに、ちからをいれてみよう」
こんどは左側だけに、全員が両手をのせる。
「いくよ」
ぎゅーっ、耳元で音がする。すきまに力をこめているため、指先が痛い。
どんと、車両が揺れた。ぼくは床にしりもちをついた。弾かれたほかの三人も、おなじようにすわりこんでいる。とびらは、かたいままだ。
あー、と床にねそべる萩尾さんは、息を切らしている。田中さんはしたを向いていて、岡倉さんの顔は真っ赤だ。両手をひろげてみると、指先からあかくなっていた。
「いま、電車がゆれ――」
前進している。まどのそとのけしきが、またゆっくりと変わりはじめる。列車はふたたび動き出していた。
外をみた田中さんは両手をゆかにつき、整わない息を吐きだしている。表情はかわらないが、なんとなくやるせないような、そんな様子だった。まどを見つめる彼女に、ほかのふたりも外をみる。みんなのことを見たあと、ぼくは後ろをふりかえった。
――そのとき、二両だけ電車がみえた。
「電車だ!」
ぼくは反対側の窓にはりつく。青くない、二両編成の電車がある。急に速度をましていく僕たちの電車。ぐんぐんと、駅と車両が遠ざかっていく。あがった息が、窓に白いまるをつくった。
すれちがった動かない車両には、なんだかきのうまでの自分たちが見えたきがした。
□
また一段と色をとりもどした車内。電車はゆうゆうと、たいらな土地をすすんでいる。線路のわきにはちいさな花。茶色だった田んぼは、かるく黄緑のスプレーをふったように、淡く色づいていた。まえよりも人を感じるような家が、ぱらぱらと遠くにたつ。
「えき、すぎちまったな」
座席に腰をつけたぼくたち。萩尾さんは魂でも持っていかれたかのように、ゆっくり呟いた。
「チャンス、のがしたかな。まどを割ったら、もしかしたら外にでれたかもしれない」
「それは危険すぎると思うけど」
田中さんがすぐつけくわえる。危険という言葉は正しいが、いざとなったらそうするしかないと僕は思う。顔をあげるとみえる窓。すうーっと何ごともなかったかのように、景色はのんびりすぎていく。
「それよりおれは、びっくりしたんだ!」
きゅうに萩尾さんが、彼の向かいに座る岡倉さんをみた。へ、と彼女から声がきこえる。
「おまえが言ったから、俺らはドアを開けようとしたんだ。あとすこしで行動できなかった空気を、お前の言葉が変えた」
彼のすこし笑みを浮かべた真剣な顔。それをみて、岡倉さんこそ驚いているようだ。え、あの、とわたわたしている。
「私も、そう思う。あんな言葉がでるなんて思わなかった」
「ぼくもあの言葉がなかったら、動けなかったかもしれない。ありがとうね、岡倉さん」
彼女は少しずつほおを赤らめていく。最終的には真っ赤になったかおを隠すように、うつむいてしまった。
僕の向かいにすわる田中さんは、それをみてわずかに微笑んでいた。はじめて感じた、車内の本当にやわらかい空気。現状は何も変わっていないのだけれど、なんだか一歩、わずかに、まえへ進んだきがした。
また夕方。オレンジ色が電車をつつむ。まだ車内にうすくのびる水色が、電車じたいもオレンジへとかえていく。きらきらした空間を、きれいだと、すこしだけ思った。
となりの萩尾さんが立ちあがった。すこしあるいて前方の端までいくと、こちらをみる。
――にぃっと、わらう。瞬間。
ばら、ばらばららら。走り出した彼は、頭上の手すりをおもいきり触っていく。手すり同士がたたきあって、おもったより心地良い音がふる。
左がわの手すりが全部、からからと笑い声をあげるように揺れている。走って制服の擦れる音が、耳にのこる。座る三人は、取りのこされたように、ゆれた手すりを見あげていた。車両の最後から、たのしそうな笑い声がきこえてくる。
「むかしっから、してみたかったんだよな! これ!」
前のほうに座る僕たちにむけて、おおきな声をだした。かれは、満面の笑みだ。
「……なにやってんだか」
むかいの座席から、ちいさく田中さんの声がきこえてくる。
「沈んでるだけじゃどうしようもねえ! ここでしかできないことをしようぜ!」
ガキの頃こうしてみたくてたまんなかったんだ。そう言って、ジャンプをするように手すりにさわる萩尾さん。髪がふわりとうごいて、制服がまたしゃか、と擦れた。
「でもたしかに、私も思ってたかも、ちいさいころ」
楽しそう、つぶやく岡倉さん。
僕はたちあがった。頭の真上、揺れのおさまりそうだった一つを、おもいっきり叩いた。ぐわんぐわんと音をたて、革の部分が軋むようにしなる。
「ここでしか、できないこと」
そんな岡倉さんのこえがきこえた。僕はまだ、揺れる手すりを目で追っていた。
太陽が、もう朝日ではなくなってしまいそうだ。
「検証してみようと思ったんだけど、やっぱり寝ないっていうのは無理みたいだ」
僕はよる、ひとりで寝ずに朝をむかえようと試みた。そして結局寝てしまった。
「やっぱり眠りは必要なんだな。そういえば最初の日、お前いちばんに寝落ちてたし」
そういう萩尾さんも、ついさっきまで寝ていたはずだが。僕たちの制服はシワシワで、髪は全体的に変な方向にむいている。女子が僕たちを起こしにきていた。
「ここに来てから、なんだか起きるのが遅くなりました」
岡倉さんが落ち込んだように言う。
「時計も、めざましもないからね」
「私は日の出まえから起きてたけど、花乃が起きるのは、そんなに遅くはなかったと思う」
ほんと、と聞きかえす岡倉さん。ふああ、と萩尾さんが大きなあくびをした。髪を手で整えようと、かきあげている。
「きょうは、なにすっかな」
そのことばに反応はない。
「……何か、あそぶ?」
「まあ、それ以外することがあるかっていうと、なにもないよな」
えんえんと空想コードのこと話し合ってても、仕方ないしな。萩尾さんがいう。
「なにがしたいですか」
岡倉さんの問いに、まただれも反応を返すことをしない。正直、することがないと思う。
「なにもしなくていいんじゃない」
田中さんを見る。
「いくらだってここにいるんだから」
なぜだかわからないけれど。田中さんのことばには、有無をいわせない力がある。ぼくは、ずっとここにいるからこそ、楽しく過ごす方法を探さなくてはいけないと思いこんでいた。
女子たちは静かに座席にすわる。
「わたしじつは、考えたことがあって」
すこしの静寂のあと、僕の左どなりに座った岡倉さんが話しだした。
「きのう、この電車は駅にとまりました。だから、もしかしたら、この電車にはちゃんと目的地があるんじゃないかって」
ななめ下をむいて、じょじょに目線をまっすぐにあげる。その目はすこしだけ、はじめて見たときより頼もしくなっている。
「たとえばの話ですけど、空想コードには空想コードの街が、あったりするんじゃないかなって」
「空想コードの……」
ぼくはかんがえる。同じように、向かいの萩尾さんと田中さんも考えている。
「たしかに、その可能性もあるのかもしれねえな」
あごを触る萩尾さんは、低めの声音をだす。
「あの噂では、じぶんがつくった空間に空想コードを押しこむ、って言ってた。そしておれらは、この電車をコードの授業でつくってた。だから、ここに閉じこめられたと思いこんでたが」
「でも、駅についた」
田中さんがかぶせるように言う。
「つまりそれは、ここが最終的な場所じゃないかもしれないってこと?」
「可能性の、はなしではありますけど……」
岡倉さんがいった。
「いや、よく気づいたな。たしかにそれも、否定できない」
まどのそとの、のどかな景色。前はほとんどなかった民家をみる。人の気配を感じるようになったと思うのは、気のせいだろうか。
「でも、空想コードのあつまるところかあ。ほんとにあるとしたら、どんなところだろう」
「にぎやかだといいですね」
「俺はグラウンドがほしいな」
「意外と普通なんじゃない」
みんなは言う。
「でもけっこう、電車のなかもわるくないかもね」
□
太陽が一番上にのぼる。
「おれは断然サッカー」
「バトミントンですかね。柚子ちゃんと、そうたくんは?」
「バレー」
「ぼくはとくには……」
いまの話題は好きなスポーツだ。
「運動したあとはやっぱ飯だよな。あー、腹へった」
「お腹はすかないはずだけど」
田中さんに、萩尾さんはいやそうな表情をむけた。
「たしかに腹はへらねえが、心が腹へったんだよ、こころが!」
「ことばが矛盾してます、はぎおさん」
岡倉さんは楽しそうに笑うが、田中さんは呆れ顔だ。
「いま食べるとしたら、なにが食べたい?」
ぼくは質問する。
「カレーだな。絶対カレー。いや! カツカレーか」
「どっちもたいして変わんないでしょ」
「お前いまけんか売ったな」
まあまあ、といさめる僕。
「わたしは、甘いものが食べたいです。マカロンとか」
「私は湯葉」
「ぼくは、おにぎりかな」
ふつーだな、萩尾さんがいう。
「でもわかります。お腹が空いてるときって、王道なの食べたくなりますよね」
たわいのない会話。おにぎりはどのコンビニか、という話になったり、具は何派か、という話をしたり。
でも、そんな雰囲気が。この空間が、すこしだけ心地よいと思いはじめている自分がいた。
そのときだった。背景が、止まりだしたのは。
ぼくたちは戸惑う。萩尾さん、田中さん、そして僕。速度のゆるやかになる窓の外を、落ち着かずにうかがう。明るいような、はたまた暗いような空。
音もなく僕の右どなりのドアが開いた。
「行かなきゃ」
岡倉さんが立ちあがった。はっとしたように、どこか遠いところをみるような目。
「――岡倉さん?」
纏ったくうきは、不自然で。彼女はしっかりとした速度で、あいたドアへ向かう。
――そのまま、外へとあしを、踏み出した。
「はなの!」
こちらをみた。降りたのはなにもない、ただの線路わき。
おおきな風がはいりこむ。おもわず目をつむる。あけると、扉が閉じるところだった。
「まって」
電車が動きだす。はなの、おいまて、おかくらさん。声は彼女に届いているのだろうか。決意のついたような。切なさを、ほんのわずかな暗さを湛えたような。潤む大人びた眼光が、こちらを見すえていた。それでも彼女は、どこかとおくをみているようで。
くせっ毛だといっていた髪が、風に舞う。足もとには緑色の田んぼ。彼女の後ろには、ちいさな町。
僕たちは窓にへばりつき、岡倉さんをみた。暗いような、明るいような空。とおくなる岡倉さんの姿。車両の後方へ走ることさえ、できなかった。
車両は動揺に満ちていた。ほんの一瞬の出来事。一人少なくなった、ひえた車内。
「どういうことだ」
怒ったように言う萩尾さんに、だまって俯く田中さん。二人とも、けわしい顔に不安が隠せていなかった。
「おかくらさんは、どこへいったの」
聞こえたぼくの声は、弱々しく震えていた。
「うしろに、家がたくさんたってた」
口をひらいた田中さん。
「ほんとうに、空想コードのまちが、あったのか」
ぽすんと、座席にすわる萩尾さん。
ぼくはちらりと、田中さんを見る。彼女はまだドアに手をつき、うつむいていた。
きゅうな、喪失感。身体は、まだうけた風を忘れていない。席にすわる。音もにおいも、ろくにしないこの電車のことを、ぼくはおもいだした。
□
電灯が痛い。はずなのに、まばたきは少ない。目は冴え、正面の荷物置きをみつめている。
恐いのか、それともべつのなにかか。底知れぬ感情がせまってくるような。でもそんなもの、もとからこの電車にあったのかもしれない。
忘れかけていたのだろうか。この空間の不確かさを、どこにつづくかわからない、感覚を。
「なあ」
よこを向く。
「おきてるか」
萩尾さんは荷物置きを見つめたままだ。彼の隣にのぞく何もみえない空。真っ暗なまど。
「眠れねえんだ。お前もだろ。きっと田中も、起きてる」
無言のあいだ、やはり列車が走るおとはしない。
「ここも、ずいぶんと田舎の電車に変わったきがしないか」
「……そうだね。前より、現実的だ」
「わすれてたのかもしれない、電車が、青いことなんて」
「でも、やっぱりまだ」
やっぱりまだ、あおい。ふたたび荷物置きをみる。
「岡倉がいなくなったのが、衝撃だったんだ。不安なのかもしれない。でも、それだけじゃない。かってに、ずっとこのままだって、嫌なくせに、どこかで安心してたんだ」
だから、わからないんだ。萩尾さんはたんたんと話す。ととのった口調だった。
「どういう感情になるのが正解なのか、ここから先、どう動くのか」
ほんのすこしだけ震えた、かれのこえ。
萩尾さんの隣のまど。あかりは見えない。かわりに揺れることのない手すりが、彩度が低く、でも鮮明にうつる。
「おかくらさんはさ、行かなきゃ、っていってた」
静まりかえった小さくてひろい空間に、自分のこえが響く。
「じぶんのいし、だったんだよね」
声はかえってこなくて、ぼくはとなりに目線をやる。かれの瞳はぱっちりと開かれていた。頭の下においた手をすこし動かして、ぼくはやっぱり銀色に光る荷物置きをみつめた。
空が白んでくる。ふかい紺だった色が、ぼくのこころを置き去りにして、黄色や赤にひかってみせた。どんどんあかるくなる空が、まあるく円を描いてみずいろにかわっていった。電車は暗がりから出て、必要なくなっていく電灯が名残おしそうに、わずかにうれしそうに光をよわめていく。
ぼくは緊張をためこんだ、疲れた目をこすった。身を起こすと、朝の光をためた電車をぼーっと眺める。水色を塗ったような車内は見慣れてきたはずなのに、なんだか新鮮にかんじた。
ごそごそと音がして隣をみると、座席にすわる怠そうな萩尾さんと目があった。無言のまま、ぼくは横にむけていた足をおろして、きちんと座席にすわる。はじめて話したときの空気を、思い出した。
「よお」
萩尾さんは低いちいさな声で、つけたしたような挨拶をした。目つきの鋭さや、目の下のむらさきのような色をみて、もしかしたら萩尾さんも一睡もしていないのかもしれない、と思った。
すこしのあいだ無言になる。そのじかんも空はいろをかえていき、電車が浴びるひかりは完全なみずいろになった。
「きょうも、進んでんな」
「はい」
電車はまたすこし緑の強くなった田園風景をはしる。
「……田中のとこ、いくか」
たちあがった萩尾さんについて、ぼくは列車の真ん中へと移動する。
「おはよう」
挨拶をした田中さんは、すでに車両の真ん中の座席にすわっていた。
僕たちも田中さんと同じ方向、左側の席にすわった。右から、萩尾さん、僕、田中さんの順に、こころなしか、あいだを狭めてすわった。僕たちは三人とも正面を見すえ、だれも声をはっしなかった。
「また、だれかがおりるの」
沈黙をやぶったのは田中さんだった。途方もなく先の話のようなのに、また誰かがいなくなることを予感するような、焦った気持ちがどこかにあって、落ち着かない。
「おりたら、なにが待ってるんだろう」
ぼくのつぶやきは小さかった。
「なにも待ってなかったら」
不安な気持ちのはずなのに、僕の声は感情がはいっていないかのような音をしていた。
「考えたって、どうしようもねえよ。いいところだったら楽しめばいいし、わるいならそれまでだ」
一拍おいて、萩尾さんがいった。淡々としていて、でも力強かった。
また、無言になった。
「なあ、きっとまた、あえるよな」
え、と田中さんの口から音がこぼれた。萩尾さんだった。そんなことをいったのは。ぼくたちは、彼をみる。たちあがった彼の、顔の横あたりを、きいろい朝のひかりがてらしていた。
「俺も、いくわ」
左目にかかった光。かれはまぶしそうに片目をほそめる。茶色い髪が、ひかりを透かす。つきものがとれたような、晴れやかな表情だった。
「――萩尾さんっ」
ぼくは立つこともできないまま、彼の名前をよんだ。すぐよこの出入り口にたった彼が、こちらをみる。
そのとき、扉があいた。
「じゃあな」
長方形のとびらから溢れる白いひかり。萩尾さんはそれを、からだいっぱいに浴びる。わずかにあおい空がみえて、かれの前半分がとけこんで。
萩尾さんの笑顔は、なんだかすこし、あどけなかった。
□
電車は進む。
ただ二人しかいなくなった車両。座ったままの僕たち。そんな空間のはっきりとした、変化。ゆっくりと、僕たちからすると急速に、姿を変えていく。
太陽がてっぺんに近づきそうになったころ、口をひらいた。
「こわいな」
電車は、あの電車だった。あの、田舎の電車。
「もし、ちゃんともどれたとして。いつもの生活に、戻れたとして。そこがそっくりにつくられたコードの世界だったら、どうしよう」
ふるびている、けれど鮮やかにみえる、色のそめられた空間。僕が授業でつくったものよりも、もっと、あの電車だ。
もう、青さはない。
「それがもとと変わらないなら、べつにいいんじゃない。ふつうに過ごすだけ」
田中さんのその声が、すうっと胸にとけていく。私、と彼女が言った。
「コードの授業でこの電車をつくったの」
「うん。しってた」
小さなおとが、きこえる。しだいに大きくなる。
列車のはしる音がする。
心地よい音。無音なんて最初からなかったみたいに、一部になる。外は青々しくなり、田畑のまわりの葉は、その身をのばす。太陽があたり一帯をてらす。車両のさきのほうに、平野のおわりがみえていた。
ゆっくりと速度をさげた電車の音は、まだこころなしか小さい。電車がとまったさきは、少し建物があるだけの、田畑のなか。文字の書かれた白いプレートだけが、日光を受けてたっている。
――とびらがひらく。
「そうた」
田中さんをみる。
「行くんでしょ」
うん、ぼくは答えた。馴染んだ座席からたちあがる。色をまして、はっきりと青になったそれ。
どこかからアナウンスがきこえた。それがきっかけのように、――いっきに、たくさんの音がきこえてくる。ばらばらなそれらは、喧噪というおとになった。
たなかさん、ぼくは名前をよぶ。
「だいじょうぶ。つぎが終点らしいから。……きっと、つぎでおりる」
言いきかせるようなことば。田中さんは車両の前方に目をやる。近づいた山。とおくに建物があった。
「――次がきっと、私の目的地」
彼女が、僕を見る。
「遠慮なんかされたところで、迷惑なだけだから」
彼女らしい口調。言いおえた田中さんは、笑って僕をみた。
出入り口に立ち、僕はまえを見据える。なんだか晴々としたような気持ちだ。一歩、あしをだす。ひかりがまぶしかった。茶色い地面を踏みしめる。まっすぐだ。
ぼくは一定の速度で、しっかりと歩き出した――。
□
気がつくと、そこは道路だった。
顔をあげると、歩道がない、線すら書いていない道路の真ん中に、ぼくはうつぶせで倒れていた。おかれた状況を理解しようとして、――はっと、気がついた。
ぼくは全力で坂を駆けあがった。
つめたい空気が肌にくっつく。まかれたマフラーが呼吸をじゃまする。息が切れたって関係ない。走って、足がついてこなくてもはしって。
門に入って、靴を脱いでそのままに、昇降口を通りすぎた。白い床は靴下を滑らせ、もたもたして速度が遅いように感じた。
僕は自分の教室ではなく、もう一つの棟へとはしる。ほぼ三年過ごした校舎。見慣れない廊下は、人でごちゃごちゃしていた。
ぼくは立ち止まって、落ち着きなくあたりを見回す。
廊下の先に、彼女をみつけた。
「――田中さんっ!」
振り返るその人。目があう。
「なに」
彼女の表情は、不機嫌そうだった。
「……あの」
なんと、いったらいいんだろう。ことばが出てこなかった。
迷惑、というような表情をする彼女。田中さんはそのまま、歩きだしてしまった。まるで、初めてあったような態度だった。
僕はすこしのあいだ彼女がいたほうをみつめて、それからそちらに背をむけた。
『――』
ぼくは勢いよく振り返る。
きこえたそれは。だってそれは、自分の名ではない、電車内での、あの呼びかただったから。
「目的地、たどりついたから」
彼女は不敵な笑みをうかべていた。
パソコン室。ぼくはひとり、機械に小さなユーエスビーみたいなものを挿す。
デジタル上にうつしだされた空間。この空間に、きっと大人になった生徒がかえってきたとき、懐かしいとおもうのだろう。手抜きだったはずのそれは、やっぱり少しあおいけれど。けれど前よりずっと、あざやかにみえた――。