音琶、それが奴の名前
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私には大切な人が居た。
私にとってかけがえなくて、その人がいなかったら、今の私はここに居ないとも言える人......。
でも、その人とはもう会うことはできない。大切な人を失って、私は心に大きな穴が開いたままの日々を過ごしていた。
あいつに出会うまでは。
滝上夏音、それがそいつの名前。
ライブハウスで出会い、今は同じ大学に通っている。
夏音に出会ってから私の日常は変わった。もう二度と会えないあの人の代わりに一緒にバンドを組むため、新しくギターを買って何回も練習し、何回もアプローチをした。
最初は拒絶されたけど、それでも諦めることはできなかった。
それだと私の今までが全部無駄になってしまうから......。
幾度となく続けた結果、ついに私は成功した。
・・・・・・・・・
部屋に着いたときはもう日が暮れていた。
私の部屋は1Kで扉を開けると右側に浴室、左側にトイレ、仕切りを開けると居間があり、右側にキッチンがある。
自炊するかはともかく、最低でも一ヶ月に一回ぐらいは使ってみたい。
あの人が頻繁に使っていた場所だから、使わないのは申し訳ないし......。
今日の夕食は近くにある定食屋の持ち帰り弁当、自炊するよりもお金はかかるけど時間はだいぶ短縮できる。
外食が多くなったせいでお腹がつまめるくらい栄養を手に入れてしまったけど、それだってあんなことがなければ避けれた事態なんだし、私が全ての責任を背負う必要はないと思う。
それはともかく、昔からお金よりも時間を大切にしていたからその癖が今になっても治らないのだ。
お金が少なくなったらバイトすればいいし、そこはあまり気にしてない。
自分の体型は気にしないといけないかもしれないけど。
ここまで来たら、まずはサークルの全貌を把握しなきゃいけない、それが分からないと私がここにいる意味がなくなってしまう。
これから最低でも4年間は学生生活を謳歌しなきゃいけないんだし、逃げ出すわけにもいかない。
出会うはずのなかった奴とも何かが始まろうとしているんだし......。
サークル紹介の時は色んなサークルの人が配っていたビラをもらったし、勿論軽音部のビラももらった。
部会は毎週金曜日の18時30分からで、6月に1年生中心のライブ、その後も不定期に部内だけや一般公開のライブ、そして年度内最後は卒業生を送るライブをしているという。
でもそれだけじゃ足りない。あの人が言っていたことが本当なら、絶対にそれだけじゃない。
私は真実を知りたくて、そして、好きなことに熱中したくてサークルに入る決意をしたんだ、絶対に諦めてたまるか。
諦めちゃ、ダメなんだ......。
4月11日
金曜日は部会、とビラには書かれていたから時間になったら部室に足を運んだんだけど、
「ごめんね、新入生はまだ部会に参加できないの」
この前夏音のドラムを見たときに居たギターの先輩にこう言われてしまった。
新入生が参加するのに都合悪いことでもあるのかな、部室に見学ができても部会の参加はまだできない。
それはそんなにまずいことなのかな。やっぱりあそこには何かある、ほとんど勘だけどそう思ってしまった。
諦めて帰ろうとしたその時、夏音がいた。私と同じ事を考えていたのかな、なんて思うと少し恥ずかしいけど、そんなことはないよね......。
「お前も部会参加するのか?」
夏音が聞いてきた。
「うん、でも今は参加できないみたい」
「へえ」
返答はそれだけだった。
てっきり参加できないことに不満の声を挙げるんじゃないかなと思ったけどそうでもなかった。
「そういえば......」
今度は夏音から話しかけてきた。
少しは私のこと、意識してくれてるのかな......。
「明日、部室で新入生の歓迎ライブがあるみたいだけど」
「え?」
「お前行くか?」
そんなのがあるなんて初めて知ったな。
サークルの事は頑張って調べたはずだけど見落としていたのかな。
「12日にやるってポスター見たから」
キャンパスが広すぎてどこにポスターが貼ってあるかなんて気づかなかった。
でもこれはチャンスかもしれない。夏音から誘ってくるなんて思ってもいなかったから素直に嬉しい。
それに、やっぱりあの人の姿を重ねてしまう。
髪型もだけど、底知れない優しい雰囲気とか、ここまで簡単に想像出来るのは私だけの特権なのかもしれないとは思っている。
「絶対行く! 何時から?」
「15時から。今日部会参加できないのは明日の為の打ち合わせだったりしてな」
夏音の言ってることは本当だよね、私の勘は多分当たっている。
あまり焦りすぎてもいいことないし、ここは慎重に行った方がいいかもしれない。
部会に参加できないのは残念だけど、明日の楽しみが一つできたし、満足だった。
「それじゃあ開始10分前に部室前集合! 遅れたらダメだからね!」
私はそう言い残し、走って帰った。
***
人生で初めて女子を誘った。
別に意識していたわけではない、ただあいつの隠し事が気になっていただけだ。
確かに俺は音琶とバンドを組むと決めた。
音琶の俺に対する気持ちが本気だってこともわかった。
でもあいつは俺に隠していることがある。それが気になって仕方がなかった。
俺と関係があることなのか無いのか、どうしても落ち着かない。
いつか必ず話すとは言ってたが、そのいつかが何日後なのか、何ヶ月後なのか、はたまた何年後なのかもわからない。
別に触れていけない領域に入ったって構わない。だってあいつは俺を信じているし、俺だって音琶を信じたいとは思っている。それ以外の何ものでも無いのだから。
4月12日
時間通り、俺は部室前に来ていた。
既に開場はしているが音琶がまだだ。
「ちょっと早かったか」
そう呟くこと約5分、音琶が現れた。
なんというか、音琶の私服のセンスは物凄く花があると思う。
今はまだ春だから少し寒いのだろう、上着はやや厚手のコートを羽織っていて、中は白のワンピース型の長袖を纏っている。
ズボンは膝の部分に穴が開いてるジーパンを履いていた。
なんかこう、全体的に少し着崩している感じに魅力を感じた。
再会した時は大学生になってもツインテールとか子供かよ、なんて思ってたけどこの服装なら悪くない、むしろ良く似合っている。
「何じろじろ見てんの? 早く行くよ」
音琶にそう言われ、これ以上見てると変に思われるかもしれないと思ったから、音琶の前に移動しながら部室の中へと入っていった。