着替え、目当てに備えて
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「やっと手に入ったー!」
長蛇の列を並び続けて1時間弱。ようやく目当ての商品を手に入れた音琶は喜びを露わにしていた。音琶が買ったのはTシャツと缶バッジで、それぞれバンド名のロゴと今日の日付が書いてあった。
「ね!早速着たいんだけどいいかな?」
「好きにしろよ、着替えるとこなんてあるかって話だけどな」
「む、そう言えばそうだねー」
「何も考えないで言ってたのかよ...」
「だってだって...!」
上目遣いで俺の持っている物を見つめる音琶。そう、俺が買ったのは...。
「夏音とおそろなんだから着たいに決まってんじゃん!」
「あー...」
俺が買ったのもTシャツだった。最初は缶バッジ1個だけにしようと思ったけど、誘惑に負けてTシャツにしたのだった。色違いもあったのに、音琶が買ったのと全く同じものを選んでしまった。
「ま、折角同じの買ったんだから、今着ないでいつ着るんだって話になるよな」
「そうこなくちゃね!」
「そしたら、どこで着替えるかになるけどな」
「うーん...」
着替える場所、ね。こういったフェスに参加すると汗を掻いて着替えたくなるのは誰だって同じだろうから、更衣室くらいは設けてそうなものだが...。仮説トイレの中で着替えるってのも考えたが、あの中は想像以上に汚いし、とても用を足す以外の目的では使いたくない。泊まり込みで来てる奴らはテントで着替えてるんだろうけど、そうじゃない人ってどうしてるのか...。
こういう時のためにもっと予習しておくべきだったな...。取りあえず人気の無い場所探すしかないのだろうか。
「夏音、着替える場所あるみたいだよ!」
会場内を見渡していると、音琶が地図を俺に見せつけてきた。これによると更衣室用のテントが用意されているとのことだった。これなら問題ないな。
「行くか」
「うん!早く着替えて次の見に行こ!」
・・・・・・・・・
「......」
通気性のいい生地に、ロゴと日付の書かれた黒。今の時間が夕方だからよかったが、これを昼の間に着ていたら熱中症になってたかもな。袖を出しても暑いというのに、黒の服は触るだけで火傷してしまいそうになる。大袈裟か。
にしても、音琶の奴遅いな。まさか中で熱中症にかかってたり、なんてないよな?どうもこの前倒れた時のことがフラッシュバックされる。どう考えてもただの貧血とは思えないし、大学病院に居たことなんてわかってるのに、何故誤魔化すのだろう。
決して悪気があってしてることではないとわかってるが、どうもモヤモヤする。ここまで他人のことを気にした事なんて無かったのにな。
いや、音琶に対して他人は禁句だな。発言は愚か思考の片隅に置くことすら許されないだろう。
「お待たせ!」
カーテンが勢いよく開けられ、黒のTシャツに着替えた音琶が姿を現した。流石に倒れてたなんてこと無かったか、取りあえず安心だ。
「にしても遅かったな」
「うん、缶バッジ付けるのに苦戦しててさ」
そう言って音琶は胸元に付けられた缶バッジを指さした。よほど苦戦したのだろう、ロゴの向きが斜めに曲がっている。だが...、
「取れよ、危ねえぞ」
「えっ?」
「ライブの時取れるかもしれないだろ、そんなに頑丈じゃないんだからさ」
「えー」
「それにお前、中にシャツとか着てないだろ」
「うん、着てないよ、ほら!」
そう言って音琶はTシャツを臍が見える位置まで捲り上げた。
「ちょ...!お前何してんだよ...」
「何って?」
「いや、見せなくてもいいだろって話でだな...」
「ふーん...」
未だにTシャツを戻そうとせず、音琶は俺に近づいてくる。やめろって、こんな公共の場で何企んでやがる。俺は音琶に危険なことはするなって言っただけなのによ...。針だって刺さるかもしれねえのに、あんな人の集まった所でそんなもん付けてたらどうなるかわかんねえだろ...。
「前から夏音は私の胸に視線を向けるおっぱい星人だと思ってたけど、お腹にも興奮するんだね~」
「だから...、そうじゃなくてだな」
「嘘、顔真っ赤だもん」
「いや、それは暑いからで」
「さっきよりは涼しくなってると思うけどな~」
「いいから、とにかく外せよ」
どうせ何言っても誘惑してくるだろうから、半ば無理矢理胸元の缶バッジを外そうと手を掛けた。中の針を外すべく、肌に触れないように意識して...。
「あっ!ちょっと何外してんの?」
「いいから黙ってろ。怪我したらどうすんだ」
自分でも何をしてるのかと思わざるを得ないが、これも音琶のためだ。缶バッジなんて通学に使うリュックや筆箱にだって付けられるだろ。
音琶も折れたのかこれ以上何も言わなくなっていた。じっとしてくれたから針は外れ、あとは生地から話すだけなのだが...。
「......」
手の位置が音琶の豊満な胸から数ミリの距離になっている。そんな状況に何も感じないわけがなく、どさくさに紛れて触れてしまおうかなんて俺の中の悪魔が囁いていた。
いやだめだ。部屋でするならまだしも外でするわけにはいかない。「ふれる」のなら仕方ないかもしれないが、「さわる」のはダメだ。だから何とか抑えてそのまま針を...。
「ほら、取れたぞ」
「あ、ありがと...」
「あと服戻せよ、風邪引くぞ」
「うん」
取って貰っている間、ずっと裾を捲っていたけどわざとか?まあいいとして。
「LoMの時のこと想像してみろ。多分、てか絶対に押される蹴られるだぞ」
「そだね、ごめんね」
「別に謝ることねえよ」
「でも、ちょっとくらい触ってくれてもいいじゃん...」
「何言ってんだ?」
「ちょっとした愚痴だもん、でもありがとね」
「...お前も顔赤いぞ」
「うん、わかってる」
公共の場で何をしているのだろう。にしても、音琶から仄かに甘い香りしたけど、女ってみんなこんな良い匂いするのか?汗掻いてるはずなのに。
「も、もうさっきのことは忘れて!早く行くよ!」
「そう、だな。この時間から確保しとかないとLoMで最前取れないだろうし」
一瞬変な空気になったが、当初の目的を果たすべく俺と音琶は歩き出した。




