帰戻、新たな隠し事
8月19日
重たい瞼を開けて、部屋を見渡す。横を見ても隣で寝てくれる奴は居なく、起きたばかりだというのに虚無感に侵されている。
一人で朝飯を作り、出来上がったものをそのままテーブルに運ぶ。昨日は間違って二人分作ってしまったから流石に今日は同じミスはしていない。だが、自分で作った物にも関わらず、口に運ぶ飯には味がしなかった。
2日前、ライブ中に音琶が突然倒れ、あいつはそのまま救急車で病院に運ばれた。勿論ライブは中止になり、あのまま部員は撤収することになったのだ。
そして、俺があのまま音琶の元へ行かなかったのには理由がある。救急車が到着し、音琶を抱えて俺も乗ろうと思ったのだが、音琶が消えそうな声で、それでもしっかりとした声で、こう訴えかけてきたのだ。
''ダメ、行っちゃダメ。私は大丈夫だから...''
何故あんなことを言ったのか、意図がわからないものの、音琶の言うことを聞いた方がいい、あの時だけはそう思っている自分がいた。
だが、その時の音琶の顔色は青白く、生気が感じられなかった。幸い意識があったから僅かに会話は出来たものの、あの言葉がなければ間違いなく俺も乗っていた。今更だが、音琶の言っていたことにそのまま従って良かったのかという想いもある。薄情だったのではないか、あいつは俺が乗ることによって片付けを放棄することになり、点数が下がることを瞬時に恐れたのではないか、等々考えることもできるが、結局はあいつにしか意図はわからないのだ。
それに、今日の昼には戻ってくるとは言っていたものの、あいつが今、どこの病院に居るのかも分からないのだ。連絡していたのに、分かっていることはそれだけだった。
・・・・・・・・・
「は?音琶からはそれしか言われてないのかよ」
「うん...」
音琶に暫く会えなくて憂鬱だったから気晴らしに部室に行くとそこには結羽歌が一人で練習していた。相変わらず先輩達は居なく、閑散とした雰囲気はいつも通りだった。
結羽歌も音琶のことを心配していて、何度もLINEで連絡しているのだが、『大丈夫だから心配しなくて良いよ』だとか『すぐに戻ってくるから』位の返事しか無かったという。
「あいつ戻ってきたら事情聴取してやる。大体どこで入院してるのかも分からねえし」
「うん...、心配だね...」
「そもそもあいつ自体よく分からないことだらけだし、俺に隠し事ばっかしてるし」
「そうなの?」
「お前何も感じないのか?あいつ見ていて」
「えっと...、うん。特には」
「はあ...、まあいいけどさ、少しは周り見た方がいいだろ。特にあいつは何しでかすか分からねえし」
何も感じてない結羽歌に呆れつつも、俺は今までの音琶との出会った経緯を話した。意外にも結羽歌は人の話をしっかり聞く奴で、俺の考えていることに頷いていて、結羽歌なりに音琶について考えてもいた。
「照れ隠し...、なのかな?音琶ちゃんなりの」
「だとしたらあんなに夢中になって俺に話しかけたりしないだろ。初対面であそこまでする馬鹿はあいつくらいしかいない」
「確かに...、私は出来ないかな...」
「それに、あいつがどこに住んでるのかも分からねえし。バイトの履歴書とか見れば一発だろうけど」
「一応、見ようと思えば出来るけど、個人情報だから...」
「律儀だな本当に...」
結局、結羽歌からも有力な情報は得られなかった。互いに愛し合って、大切な存在だと認め合っているというのに、俺は音琶のことが全然分からない。そんなことでいいのだろうか。
「そう言えば、音琶ちゃん今のバイト1回辞めてるって...」
「ああ、そんな話だったな」
「オーナーなら何かわかったりするかな...?音琶ちゃんの高校時代とか、辞めた理由とか」
「あいつが自分で話さないことを他の人に話してくれるとは思わないけどな」
「そう、だよね...」
その時だった。音琶から着信があったのは。噂をしていた本人から来たわけだから若干焦ったが、何とか平静を保って電話に出る。
「俺だけど」
『あ、もしもし!今どこに居るの?』
「部室」
『そしたら私も行くね!』
それだけ言って電話は切れた。退院したのだろうが、声の調子はいつも通りで本当に倒れた奴なのかと思わせるほどだった。
「音琶ちゃん、何て言ってたの?」
「今から部室行くって」
「そっか...、元気になったんだね」
音琶の無事が分かって安堵の表情を浮かべる結羽歌だったが、俺は素直に喜べなかった。もしかしたら、またあのようなことがあるのではないかと思ったからだ。
音琶の隠していることが何なのかを考えて、考え抜いていった結果、様々な憶測が立った。勿論俺は音琶とこのままずっと一緒に居られたらと思っている。それが叶えば何も苦しむことはない。そのはずなのだが...。
いや、今は音琶が帰ってきたことを素直に喜ぶべきだ。とにかく、あいつがここに来るのを待とう。それから10分もしないうちに音琶は部室に入ってきた。もっとかかるものだと思っていたのだがそうでもなく、この時間だとどこに居たのかも大体絞ることが出来る。
「音琶ちゃん...!」
「ごめんね、なんか軽い貧血だったみたいで...」
「......」
軽い貧血、ね。今までそんなことがなかった分、そう解釈することもできるが、本当にそれだけなのだろうか。
「元気そうだな」
「うん!もう大丈夫だから!」
「......」
声のトーンも表情もいつも通り。痩せた感じもしないし、体調も万全といったところか。とても倒れた直後の姿からは想像も出来ないのだが。
「夏音...?」
「あ?」
「怒ってる、よね。ライブ中止になったって...。折角楽しかったのに、ごめん...」
「別に、お前が戻ってきただけで十分だ。他には何もいらねえよ」
「そっか、良かった...」
「取りあえず、体調管理はしっかりしろよ。鳴フェスもうすぐだろ。てか行けるのか?」
「行かないわけないじゃん!ずっと楽しみにしてたんだから!」
「それならいい。次もし倒れたら俺が抱えて病院送りにしてやるよ」
「ちょっと!言い方!」
いつもの下らない会話も出来たところで俺と音琶は部屋に戻ることになった。結羽歌は暫く練習するらしいが、あいつ夏休みに入ってからずっと部室に籠もっているのでは?帰省はしないのだろうか。
「お前、貧血じゃないだろ」
「え?」
帰る途中、ふと音琶に問いかけた。部室を出て少ししたら、何百メートルか先に大学病院が見える。恐らくだが、音琶はあそこに居たのだろう。あくまで推測だが俺の知っている中で入院できる所と言ったら、鳴成大学病院しか浮かばない。
「何言ってんの?貧血だよ。さっきそう言ったじゃん」
「......」
音琶の表情には嘘は無さそうだったが、俺は胸騒ぎが抑えられなかった。今まで沢山の人に裏切られ、俺の元から離れていった。そんな過去を持っている俺だから変なことを考えているのかもしれないが、どうも違和感が拭えない。音琶のことを信じているはずなのに、安心できない。そう、勝手に感じ取っていた。
結局、はぐらかされることを恐れて部屋に着くまで何も聞けなかった。




