涙、それはやがて笑顔に変わる
「......練習はどうしたんだよ」
右頬に痛みを感じたが、そんなことお構い無しに音琶に問う。
「そんなの、メンバーが揃ってないとできるわけないじゃん」
涙を拭かずに、音琶は答える。
床が濡れてるんだけど、後でちゃんと掃除してくれるんだろうな。
「やっぱり俺には無理だったんだよ」
「何がさ......」
「お前となら、昔みたいに音楽を楽しめるんじゃないかって、本当に少しだけだけど思ったんだよ。でもな、そう簡単に治るわけがねえんだよ」
「......最後までやってみないとわかんないじゃん」
「さっきの見てもうわかったんだよ、無理だって事が。大体今まで練習してきて、他の奴らが上手くなっていってるってのに、俺は何一つ変わってないだろ。お前が見たいって言ってた俺のドラムはもう死んだんだ」
「......だからって、全部投げ出すの? 今まで頑張ってきたじゃん、確かに夏音の言ってることが全部間違ってるわけじゃないけど、それでも私は夏音じゃないと嫌なの!」
前にも似たようなこと言ってたよなこいつ、俺じゃないと嫌、その時と同じ言葉を今一度聞くこととなったわけだが。
俺の話を全然聞いてくれない所も、ちっとも変わってねえ。
「何でそんなに、あそこまで言っておいて俺と組みたいんだよお前は」
「それは......」
「また言えないって言うのか?」
「えっと......」
泣き腫らした目で戸惑う音琶、この期に及んでまだ言えないって言うつもりかこの女。
執念深いってよりかはただの頑固だな。
「とにかく! 一度やるって決めたことを投げ出したりしていいと思ってるの!?」
そうやってまたはぐらかす。はぐらかされたけど、一度決めたことを放り出すのはあまり良いことだとは言わないよな、時と場合に寄るけど。
でもこっちにもこっちなりの事情ってものがあってだな......、
「思ってるかどうかは置いといて、俺に何があったのかを知らないでそんなこと言っていいと思ってんのかよ。俺が一度ドラムを辞めた理由をな」
「......そうだね、私は夏音に何があったかなんて知らない。そんなこと別に知らなくたっていい、だってその話と私に何の関係があるっていうの?」
「ねえけど、だからと言って他人の事情を何も考えないで自分の都合を押しつけていいと思ってんのかよ」
「いいんだよ!」
「あ?」
音琶の表情には何の迷いもなかった。
こいつ、本気で言ってんのか?
「夏音を初めて見た時のこと、頭に焼き付いて離れないんだもん。ここで一緒にバンド組まないと絶対後悔する、私は後悔なんかしたくない!」
「音琶......」
「だから、もう無理だとか、言わないでよ。私も夏音が一番出来てないなんて言っちゃったけど、それは夏音じゃないと嫌だからで、夏音のこと信じてないわけじゃないし、きっといつかは絶対にあの時みたいな演奏を取り戻せると思ってるから言ったことなんだよ?」
「全く、お前って奴はいつもそうやって上手く話を丸めやがって」
「思ったままのこと言ってるだけだもん、だって私はいつまでも夏音の隣に居たいんだよ、だからもうあんなこと言わないで欲しいよ?」
「......考えさせてくれよ」
「うん、いいよ。でも明日も練習入ってるよね? その時までには答え出してよね。夏音はまだまだ行けるってこと」
「選択肢は1つしかねえのかよ」
「......当たり前でしょ」
そう言い終えて、音琶は俯きながらその場に座り込んだ。その反動で服の隙間から大きな胸の谷間が露出している。右肩まで露出しているせいで綺麗な鎖骨も丸見えだ。
冷静になって考えると、こいつさっきまでこんな泣き腫らした顔で、それに加えこんな露出の多い格好で外歩いてたってことだよな。
この服本番用のはずだけど何で練習の時も着てたんだよ。
「お前ギターはどこ置いてったんだよ」
「部室......」
「ドジだな」
「夏音のことが心配だったから、それどころじゃなかったんだよ」
「ギターよりも俺の方が大事なのかよ......。まあ、音琶のことだしそうじゃないかとは思ってたけども」
そう言って、俺もその場に座り出す。このまま胸ばかり見るのも申し訳ないしな。
「やっぱりその服、似合ってんな」
何気なく、俺は目の前に移る少女を見ながらそう言っていた。
別に慰めてやろうってわけじゃない、ただ思ったことをそのまま口に出しただけだ。
「そ、そうかな。そんなこと夏音から言ってくるなんて珍しいね」
「そうかもな」
「......」
「......」
それから暫く互いに見つめ合って、何かを言い掛けようとするが中々言葉が見つからず、二人して戸惑っている。
「......お前が本気なのは前から知ってたけどよ、ここまでだとはな」
「え?」
「俺をここまでして追いかけてくる位だし、バンドのこと、別に考えてやったっていいんだからな」
ここまでしてくれる音琶のことを見放すような発言をしたことに、後ろめたさを感じていた。
自分のことしか考えてないのは、俺の方だったんだな......。
音琶が顔を上げ、再び瞳からはみるみる涙が溢れ出す。
そして、物凄い勢いで俺に抱きついてきて、そのまま押し倒された。
「夏音! もう戻ってこないんじゃないかと思ったんだよ! 心配だったんだよ!」
「ちょ、お前何やって......」
「私達ここまで頑張ってきたんだもん! 練習大変だったんだよ、でも頑張れたんだよ! だから、だから居なくならないで! どこにも行かないで! ずっと私の側にいてよぉ!!」
「わ、わかった、わかったから静かにしてくれ、隣に聞こえるだろうが!」
「そんなの、そんなの夏音が居なくなることと比べたら大したことじゃないよ!」
音琶が俺に抱きついたまま離れようとしてくれない。
柔らかい身体が全身に当たってて色々困るんだが、どうしたらいいものか。
あと勢いで『わかった』なんて言ったから、もう明日からまた練習に参加する以外の選択肢残されてないな。
いや、音琶が俺の前に居る間は、バンドを辞める権利なんかないんだよな、全く図々しいやつだ。
図々しくて、放っておけない。
「......相変わらずだらしない腹しやがって」
「え?」
「色々当たってんだよ、ひでえ顔だし......。最低限の気品くらい持ちやがれ」
「私そんなに太ってないよ!? だらしなくもないよ!? 顔も酷くない!」
「とにかく、離れろよ。お前の身体が柔らかすぎるのが悪いんだよ」
「もう、本当に変態なんだから。触る勇気も無いくせに」
涙を拭う音琶の顔には、笑顔が戻っていた。
「......やっぱり、お前は笑ってた方がいい顔してるよな」
「むう、それって私の事可愛いって言ってくれてるのかな?」
「まあ、......そうなるよな」
本当は、素直になれてないだけで、音琶は充分に......、
「お前は可愛いよ、俺がそう思ってるんだから、間違いはねえ」
「夏音......!」
そして、さっきまで泣いていた奴とは思えないほどの、輝かしい笑顔が俺の目の前に映っていた。
「お前の我儘、聞いてやるよ。だからもう泣くな」
「もう、泣いてないもん」
ようやく音琶は立ち上がり、俺もそれに続いた。
俺にとっての大切な人って、もしかしたら音琶みたいな人のことを言うのかもしれないな。




