第2章 流れていく縁
西脇の俺様9か条。
テレビや雑誌、SNSでは、相も変わらず西脇の俺様9か条が取沙汰されている。
このところ、日本国内は余程暇なのだろう。こういう阿呆らしいニュースを流している時は、まあ、日本が安全だという趣旨と同義だからだ。
とはいえ、父母たちの暮らす本国では「日本人俳優のお粗末な発言」という小さなニュースが、ちらりと流れたらしい。
(ははあ、無様だわ、馬鹿者俺様俳優殿)
対談の日から、6か月が過ぎようとしていた。
メトロポリタン映画祭は、もう間近である。日本人監督や主演者たちなど、その多くがヨーロッパに旅立ったようだ。残念ながら、音子はその中に混じっていなかった。レッドカーペットなど、ライト下より始末が悪い。歓声と拍手の中、一言申し上げ候など、考えただけで卒倒しそうになる。
さて、映画祭の受賞結果から言おう。
当該映画は、なんと作品賞に選出されるという偉業を成し遂げた。奇跡である。父のコネでもない、原作小説は純然たる音子の力だ。
音子の代わりに、監督さんが作品に対する想いを語ってくれた。うん、素晴らしいスピーチだった。音子がスピーチなどしようものなら、途中から日本語を忘れて本国の言葉で話してしまうかもしれない。それだけは何としても避けたいものだと興奮しながらTVに顔を近づける音子。
ここで、映画作品のあらましをお聞かせしよう。
【梗概:概略】
警察庁に特殊捜査対策チームが創設される。
近年多発しているサイコパスによる犯罪と思われる捜査手法を、一から見直すことを目的としたチームだ。
チームリーダーをはじめとして、刑事、精神科医、犯罪心理学者、科警研、児童施設、医療班など、これまで犯罪とはおよそ縁のないような連中を取り纏めながら捜査手法を確立しようとする彼等。チームでは、精神科や脳神経科、児童施設といったおよそこれまでとは違ったアプローチでサイコパスの内容解明に努めようとする。
警察としての捜査権がないチームは、警視庁への出向という形で捜査権を行使し、殺人に摩り替る前にサイコパスを逮捕してきた。が、最後の敵は、強大だった。相手は、大学の教授。サイコパス特有の身勝手さを持ちながらも、持って生まれた才能だろうか。学生や周囲からの評判も良かった。
教授は、チームをあざ笑うかのように罪を重ねていく。命の重さも、彼には通じない。チームリーダーは、やむなく教授の射殺命令を上司に嘆願する。最後まで諦めないチームの皆。最後の瞬間、射殺ではなく手足への攻撃で教授を捕えた。医療班に引き渡し、サイコパスと思しき教授を尋問していく中で、最初に行われるのが猫などの虐殺、或いは自分が常識だと疑わない部分があることに気が付く。それでも、殆どのサイコパスが何らかの心の傷を負っていた。
チームでは、サイコパスは猟奇的なだけでもなく、快楽的なだけでもないと判断。生い立ちや脳の器質異常などが総合されて凶行に及ぶとの捜査結果を出し、報告する。小さい頃から親に受ける虐待やハラスメント、素行異状に注目すべきとの意見を付して。
一旦、チームは解散するが、チームの皆はまた逢えると信じていた。
「捜査権限のある部署で会うのは御免だが、是非また一緒に仕事をしたいものだな」
チーム長の一言に、皆が頷きながら。
了
サイコパスという特異な人間を、ただの猟奇的或いは快楽的犯罪者と同義にせず、生い立ち、脳の器質異常や親からのハラスメントや虐待など、様々な点から犯人の背景を追ったところが他の作品とは違っていた。その結果として、猟奇的になったり快楽を求めたりするという、逆転の発想が功を奏した可能性もある。また、脚本など他の素晴らしさも手伝ってのことだろう。
しかし、俺様西脇は、主演男優賞にノミネートこそされたものの、名前を呼ばれることはなかった。マイクを介して聞こえてきたのは、外国のビッグな俳優さんや女優さんが多かった。日本人の俳優が目立つような世界ではなかったのだ。
いや、ビッグとかそれ以前に、父の言うとおり、ノミネートされた俳優さんたちは何れもチャリティ系の運動を主宰していたり、難民救助の運動に協賛していたり、世界の小さな子供たちへの義捐金運動に力を注いでいた。何もしていないのは、男性では西脇だけ。そこにあのSNS騒ぎである。審査員の心証を損ねたのは至極当然だったのだろう。
俺様西脇がショックを受けていたのは、テレビ中継の画面を通して痛いほど伝わってきた。俺様ナルシストは、自分は絶対に目立っていると心の髄から思っていたに違いない。
今回の作品は、サイコパスを捕まえるチームのリーダーとして、チームを纏め危機にも臆せず果敢に挑む役、である。俺様野郎が字面で出来る程度の演技なら、外国のビッグネームに勝てるわけもあるまい。頑張りは認めるが、世の中なんてそんなに甘くないのだよ、俺様西脇くん。
(ま。あたしのせいじゃないから。恨まないでね)
(あんたが血統書でもついてれば話は違ったかもだけど。雑種だもんね)
と、嫌味の一つも言いたくなる。
でも。音子、そこは大人の24歳。決して俺様西脇に対して本心を口にすることなど、ない。
そこに、早くも来年のメトロポリタン映画祭に向けた準備会議が開かれるという情報が編集部から入った。
編集部からすれば、自社で発表した作品が選定されれば、大きく売り上げに貢献するほか、書籍を扱う出版業界でも大きな顔が出来るという、ミラクルな結果をもたらす。この時期の編集社は、どこもかしこも皆、ピリピリしたムードが漂っているものだ。
昨年のメトロポリタン映画祭の作品賞に気を良くした日本映画界は、次回の候補をいくつか絞っているらしい。
そこで、ひとつの作品が内定したと編集部から電話が来た。
担当新人編集くんが興奮気味に内定状況を報告する。
「神谷先生!おめでとうございます!また、神谷作品が映画祭作品として選定されました!」
「あら、ありがとうございます」
「やだなあ、もう少し驚いてくださいよお」
担当新人編集くんは、有頂天になっている。おい、このまま昇天するなよ、と音子は心配になる。そんな心配を余所に、新人編集くんは、声のボルテージがどんどん上がっていく。そこにブレーキを掛けるような、落ち着き払った音子の声色。
「それで、今度は何が選定されたんですか」
「それがですね、『彩雲の果てに』なんですよ!」
音子は、己の耳を疑った。
映画化などに興味のない、ましてやレッドカーペットなど絶対拒否の音子が書く小説である。まさかの二連荘で、どことなく戸惑いを隠せない。
「え?あれって、映画化は難しいような気がするんだけど。本当に映画化するんですか、何かの間違いじゃないのかな」
「今度は前回とは違った構成を組んでいるようです。前回は【動】の作品でしたから。今回は【静】で狙うみたいです」
戸惑いは心に仕舞いつつ、なおも落着き払っている音子。が、ひとつだけ徹底したいことを電話の最後に思い出した。
「そうですか。脚本でいくらでも構成変えることできますもんね。ではまた何かあったらお知らせください。あ、くれぐれも」
「何でしょう?」
「対談は極力避けてください。あったとしても、雑誌のみでお願いします。テレビには絶対に出ませんから」
「承知しました」
(本当に承知したのか、新人編集くんよ)
音子の新人編集くんへの疑いは、あのテレビ対談以来、一向に晴れない。
今回は、編集部が何と言おうが、絶対にテレビには出ないから。当日キャンセル行使してでも、テレビ局には行かないからな!
もう、連載の1本や2本、無くともええわ。猫と暮らすくらいのお金さえあれば、他には要らない。
音子は、腹を括っていた。
っと、作品の紹介が遅れてしまった、申し訳ない。
「彩雲の果てに」は、社会性ストーリーを主にした作品で、決して派手な立ち回りは無い。寧ろ、心の内を表現するのが極めて難しい作品とも言えよう。
作品名「彩雲の果てに」
★梗概★
高校1年になったばかりの金持ちの少年は幼少時から両親に虐待され、人格障害を発症しかける。家出した少年は、手始めに猫を殺そうとするが、一人の青年に制止された。
そして「この世に、勝手に奪える命などない」と諭される。
青年は29歳。
青年自身、金持ちの長男として生まれたが父親から執拗な虐待を受けた。高校生の時に家出し、29歳になるまでホームレスとして10年以上自堕落な生活を送っていた。
あるとき、目の前でホームレスの知人を通して知り合った病人の最期を看取ったことから、青年の中で何かが変わった。青年は一から勉強し直し、現在は昼間準看護師として患者と向き合いながら、夜は動物愛護団体に寝泊まりし、動物たちの世話をしていた。
青年は、少年のために児童相談所に相談するが、少年の親は、体裁を取り繕い少年の家出は癖だと決めつけ本性を見せない。児童相談所では、高校生でもあることから少年本人の意思を尊重するとした。少年を取り戻そうと躍起になる親と、親から逃げようとする少年。
結局、青年が少年を引き取り、面倒をみることになる。金銭的にも決して楽ではない暮らしだったが、驚いたのは、周囲に感謝の言葉さえ無い少年。
だが、少年は徐々に感謝の気持ちを覚えるようになる。そう、今までそういった相手に感謝するという『感謝のシチュエーション』に遭遇したことがなかったのである。
しかし、精神的に追い詰められた人間が我を取戻すまでには、途方もない時間がかかった。
そんなとき、青年の高校での同級生が精神科を開業していることがわかり、訪ねる青年。その医師に相談しながら少年の心理を見極めて行くのだった。人を殺したい、猫を殺したいと訴える少年に、怒るでもなく、放りっぱなしでなく、いつも抱きしめてあげる青年。
青年自身、自分が欲しかった親からの愛情を少年に注ぐ。
青年には好きな女性がいたが、少年の保護を巡って口論となり、青年は、少年の未来を選んだ。その女性とは疎遠になっていく。
自分が青年を不幸にしたと思い込んだ少年は、裏返しの心理から青年を偽善者と蔑むが、一緒になって猫の捕獲をしたり、一緒に病気の子を世話したり、一緒に子猫の世話をするうちに、少年の心は少しずつ解け始める。
青年は、将来、少年には獣医になって欲しかったが、人格障害が影響するのではと心配していた。少年も、血を見ると興奮しかねない自分を恐れ、2人は踏み出せないでいた。
そんな折、その地域に大きな災害が起こり、動物たちが保護施設に溢れ返る状況となった。青年も少年も一所懸命面倒をみるが、何匹もの命が消えていく。泣きながら、何とかしたいと訴える少年。青年は、思い切って獣医科学の勉強を薦め、少年は高校卒業認定試験を経て獣医を目指す。
6年の年月が経ち、少年は獣医として戻ってきた。傍らには、一緒に獣医を目指しながらも、獣医を諦め少年のために動物看護を学んだ女性がいた。
青年は、40歳を前にしてNPO法人を立ち上げ、まず地方自治体との共生を目指しながら、着実に歩みを進めるのだった。青年から一旦は離れた女性も、青年の心情を理解し、NPOの業務に従事してくれることになった。
すべてがこれからだが、チャレンジすること、諦めないことを皆で誓い合う。
10年後、少しずつではあるが、地方自治体との共生が進みつつあった。青年達も年をとってはいたが、今出来るそれぞれの役割に全力投球している。
そこに、突然少年の親が現れる。
青年は、少年のフラッシュバックを危惧した。案の定、少年の心は動揺し、動物や彼女に虐待を加える直前まで、心理状態は悪くなる。
両親の戸籍から抜ける覚悟をした少年は、両親から「遺産と動物のどちらが大切だ」と聞かれ、「弱いものの命だ、金など興味はない」と答える。
青年も、昔同じようなことがあって、実家を勘当された。少年を誇らしく思う青年。
貧乏暇なしの人生だが、今が一番充実しているという青年と少年。
二人こそが、本当の親子のようだねと女性達は笑いあう。そう、これからも、野良猫を助けるために生きる。それが自分たちの本分なのだと、これまでしてきたことへの罪滅ぼしなのだと。
了
「ふうん。『彩雲の果てに』の映画化か。世界の反感買うよなあ。分かってて映像化するのかねえ」
また、独り言だ。近頃独り言が増えた音子。
音子が望むと望まざるとに拘らず、満場一致で決定してしまった作品の映画化。編集部の情報では、主催者側の見解として、猫好きで父親らしい演技の出来る優しい雰囲気の青年を主役に、と考えているようだった。
だが、主催者側の意図に文句を付けるわけではないものの、原作者である音子からしてみれば、見た目優しげで平凡すぎる役者は、できれば起用して欲しくなかった。平凡なイメージの人間が演じたら、作品の意図が曖昧になってしまうのは明白であり、その時点で、映像化は『失敗』の二文字を意味していたからだ。
この「彩雲の果てに」は、高校生になるまで、成金とまではいかなくても、上昇の一途を辿る実家の稼業が元で、ブランドやハイソサエティな暮らしをふんだんに味わった主人公。それとは裏腹に、小さな頃から続いた両親からのハラスメント等の精神的虐待を振り切り、家出するところから始まる。
高校生まで、立派な屋敷に住み、物質的には何一つ不自由したことの無い役柄を演じるのだ。少年にしてもそうである。この映画の男性陣は、ある意味、セレブリティな生活が似合う顔立ちの人間でなければならない。そういった少年や青年が貧乏な暮らしをしたとしても、生まれながらの高貴さが失われることは無い。言うなれば、金持ち風情の俺様顔が、観る者にとって一番解り易いのだ。
俳優陣のセレクトを間違えれば、どんな名演技であろうとも、あの作品に込めたメッセージそのものが活きてこない。
一か八か。
音子は神谷琴音として、映画化が決まるや否や、西脇を指名し「是非、西脇さんの新しい一面を見てみたい」と思いっきり挑発、主催者側を説得することに成功した。
そして、神谷琴音として、コメントを発表した。
「彩雲の果てに:映画化に寄せて
題材的に、欧米諸国相手となれば不利な原作ではございますが、この映画が世界で注目されれば、国内の小さな運動がやがて大きなうねりとなり、我が国の動物保護活動が、徐々に世界から認められることでしょう。そのためにも、常に熱意ある演技を見せてくれる西脇さんに、今一度、トライしていただきたいと思っております。
神谷琴音」
西脇サイドからの返事は無かった。西脇自身、乗り気ではないようだった。
そりゃそうだ。
本人が知っているのかどうか分からないが、ブログ事件で諸外国の映画関係者の間で晒し者になったのである。その事実を知っているとしたら、どの面下げて演技しろっていうんだ、と今頃サンドバッグでも叩いていることだろう。
知らなきゃ知らないで、前回ぴったりとハマった役で主演男優賞を獲れなかったのに、こんな地味男で賞が獲れるかとふんぞり返っているかもしれない。
ましてや、派手なシーンが好きな俳優だと聞く。こんな地味男を演じるなど、本人のプライドが許さないのは目に見えている。
仕方がない。
奥の手を一つ残しておくとして、初めに自分の手でなんとかしてみようと音子は策を練った。
ある日の午後、音子は都内でも高層マンションの立ち並ぶ地域にある西脇の自宅を訪ねた。特に変装もせず、白Tシャツの上にJジャンを羽織り、ボトムスは白で黒のスニーカー、最早超絶普段着での訪問。
インターホンを鳴らしても、応答がない。あらかじめ俺様俳優の所属事務所に連絡して、今日午後はオフと聞いていた。事務所から西脇本人に連絡を取ってもらい、訪問の約束を取り付けていたはずなのだが。
もう1度、乱暴気味にインターホンを押してみる。
いるはずなのに、返事は無い。
段々、面倒になってきた。
音子は、ドンドン!とドアを蹴る。
手で叩く、ではない。
足でドンドン!と蹴り上げたのである。そして何度も叫ぶ。
「どーもー。神谷ですがー。いますかー?」
ドアの蹴り具合が半端で無かったため、凄い音が辺りに響く。
「いないんすかー。ドア蹴破りますよー」
同じ階の住人が、ドアを開けてこちらをみているのがわかる。
金髪女性が、こともあろうにマンションのドアを蹴っているのだ。さぞや吃驚したに違いない。これが男性だったら、別の筋の人間と思われたことだろう。
3回目のドア蹴りを準備して、体勢を立て直していた時だ。
やっとドアが少し開いた。すかさず黒のスニーカーを滑らせ片足を入れる、音子。
「なんだよ、何か用?」
音子の顔を確認すると、直ぐにドアを閉めようとする西脇。
当然、ドアに挟んだ音子の足が締め付けられるように痛む。
「痛い、痛い、西脇さん、痛い、痛い」
何処かで見たドラマを真似して、手をメガホン代わりに、音子は大声で叫ぶ。
「お前、性格悪いな。つーか、素行悪いよ」
「そっちこそ。いるんなら出な。ドアの修理代は持たないからね」
「何だよ、対談の時とは正反対じゃねえか」
「あんときは喋るなって言われてたんだよ。編集部から」
「帰れよ。俺は出ねえよ、あんな作品」
(あんな作品、ときたか。そうか、そうか)
ドアを少し開けたまま、また手でメガホンを作り、大声で叫ぶ。
「そんなに自信ないのかあ。仕方ないねえ、ワンパターンの俳優じゃ使えねえよなあ」
「なんだと、コラ。調子こいてんじゃねえぞ」
「主演男優賞獲ってから言いな。あたしは作品賞獲ってるから、何だって言えらあ」
「いちいち気に障る女だな」
「話があるんだよ、中に入れろ。それとも、此処で大声のまま話そうか?周りに聞こえてもいいなら」
やっと、ドアが半分まで開いた。
ほっそりと痩せた身体を滑り込ませる音子。目の前にその姿を現したのは、前髪を垂らして上下グレースウェットの西脇。服装からして、音子に会う気は毛頭なかったと見える。
音子は少し怒り気味に西脇を見つめた。西脇は音子に椅子を勧めるでもなく、自身もリビングの入り口で立ち尽くしていた。
「まったく。最初からこうしてりゃいいものを。あんたは馬鹿か」
「お前こそ。ドア蹴るなんて、女のする事じゃねえだろう」
「へん。あたしは別に男だろうが女だろうが、どっちだって構わないんだ」
「俺の理想とは、正反対の女だ。腹立つわ、お前」
「そりゃ結構。俳優殿があたしに興味持ったらおしまいだ」
「映画の話で来たんだろう、出ねえよ。帰れ」
「出ないのはあんたの勝手としてさ。あんた、自分の立場、理解できてんの?このままじゃ一生、海外の賞なんて獲れないよ」
「なんだよ、それ。どういうことだよ」
音子は溜息を吐く。
やはり西脇は英語やイタリア語、フランス語、スペイン語など一切外国語が解らないらしい。
「あんた、英語殆ど話せないだろう。他にも外国語まるっきり駄目なんじゃないか?」
「それがどうした」
「こないだ、あんた、どっかの猫ブログで問題起こしたそうだな」
「言いたいこと言っただけだ。別に謝る気もない」
頭がクラクラする音子。
「問題は其処じゃないんだよ。なんでメトロの主演男優賞獲れなかったか、本当にわかんないのか?あのブログにケチ付けて、murmurに投稿しただろう。だからメトロの関係者が、人間として賞を与えるに値しないってコメントしたんだよ」
自分だけリビングに戻り、ソファにどっかりと腰かけ、腕組み足組みでふんぞり返る俺様俳優。
「何で猫と映画が繋がるか、わかんねえ」
再び頭がクラクラするのを右手で押さえながら、つかつかと部屋に入り込み勧められてもいないのに向かいの椅子に座った音子は、俺様俳優を下目遣いでじっと見る。
「欧米では野良猫は保護されて当然の扱いを受けてる。日本みたいにガス室で殺処分なんて、先進国じゃ殆ど有り得ないの。ガス室ってわかるか?戦争時代、某国収容所で使われた死の方法だよ。ま、今でもアメリカじゃ死刑の方法としてあるけどさ」
「なら、変わりねえだろ。猫も人間も一緒じゃねえか」
音子は段々テンションが張り気味となり、声も次第に大きくなってきた。
「そりゃあ、アメリカじゃ電気椅子、薬、ガス室、近頃は銃殺ってのも死刑方法として認められつつあるよ。それだって死刑廃止論者からしたら殺人だろ?この二つの決定的な違いは、死刑になるような罪を犯した、ってことなんだ。あたしは日本で育ったから、死刑に対する賛否については傍観のみだ。でもさ、命を奪った代償って、何かの形で支払わないといけないだろう?片や、猫はどうよ?悪いこともしてないのに、捕まえられてガス室で殺される。生まれてきたことが罪なのか?無罪の生き物をガス室送りにする国なんて、あっていいのか?」
「某国収容所くらいは解るさ、俺だって。各国の死刑制度くらいなら大学で習った。言われてみれば、無罪ではあるな、動物は」
「そうだよ、年間20万匹前後。犬を混ぜたら、もっと殺されてる」
「犬も?」
「野良犬は地方中心に、今もいるんだよ。小さな犬や猫が、ガス室で死ぬんだ。薬を使って安楽死させてる自治体は、ほんの一握りしかない。欧米からしたら、野蛮極まりないことだろう。それをあんたは、やっちまった。murmurで世界を駆け巡ったあんたの発言を、映画関係者が見逃すわけがないだろう?結果、あんた自身が、野蛮な人間、下等な人間と判断されて、映画賞を授与するに値しないって言われたんだよ」
ここで、西脇の態度が軟化し始めた。足組みを止め、腕組みしたたま音子の方に向け身を乗り出してきた。
「そこまでは理解した。俺がmurmurで発言した内容が、世界中で非難を浴びた、ってことだな」
「そう」
「で、帳消しにするため、今度のあの映画に出ろと?」
「帳消しにはならないまでも、イメージが良くなるのは確実だよ。屈折した男や挫折した男の静たる部分を演じられれば、大きく羽ばたけるのは目に見えてる。あとは、悪役が出来ればパーフェクト」
「いやに発音良いな。それに、murmurの外国人関係者の発言の中身、どうやって知った。お前、外国人なのか?」
「ち、違うよ。友人が外国にいるだけ。翻訳して送ってもらった」
「ふーん。お前には悪いんだけどさ、あれ、地味すぎてさあ。気乗りしねえんだよ」
「主演男優賞は、其処を乗り切らないと獲れないよ。あ、後はね、社会貢献。チャリティでもいいし、それこそNPOへの支援でもいいし。外国では、そういった社会貢献もしてる俳優さんが殆どなんだとさ」
西脇は、作家の神谷琴音如きに、己の分野に口出しされ、面白くなかったらしい。
「お前さ、作家のくせに、どうして其処まで知ったような口聞くわけ?審査員じゃあるまいし。社会貢献とか、なんで知ってんだよ」
流暢に話し過ぎた音子も、流石に焦った。
「えー、まー、聞いただけだから。審査員じゃないし、わかんないけど。しないよりは、した方がいいかなというアドバイス、だね」
「けっ、面倒なこった」
「ふうん。じゃあ、これが最後の話だ。一度しか言わないから良く聞きな」
「どうぞ。聞く耳持たずって言っても、耳元で怒鳴るだろうが」
音子は、ふふーんと笑う。
「信じる、信じないは、あんたの自由」
「勿体ぶるなよ」
「今度のメトロで主演男優賞受賞して、なおかつ、あたしの出す9か条の逆ハードルを達成したら、1度だけ、海外への挑戦状をあげる」
「海外?」
「そう、あの有名処にトライできる。オファー来襲までは約束できないけど」
西脇の顔つきが変わり、ソファから立ち上がった。目元口元に怒りが見え隠れしている。
「お前、一体何様のつもりだ。受賞はわかるさ。なんだよ、逆ハードルって」
「別に。あんたが逆ハードル蹴るなら蹴るで、あたしは構わないよ。ただし、いくら受賞したところで、あんな9か条ハードル諸外国で披露したら、アジアの黄色いサルが、って馬鹿にされるのは目に見えてる。最低でも対等、若しくはフェミニストでないと有名どころでは使ってくれない」
「はっ、俺様のハードルに意見しようなんざ、100年早いんだよ」
「なら、国内で細々やってればいい。逆ハードルも忘れて構わない。その代り、海外への挑戦なんて甘い夢は、絶対に見ないことだね。今のあんたには無理」
音子の目にも、西脇の心の奥深くに、火が付くのがわかる。
「そりゃあ、海外に挑戦できるチャンスなんて、そうそうないさ。オファーだって、余程年月掛けて磨きかけて、やっと成功するかどうかだ。日本人の俳優なら、みな、夢見る世界だよ」
「みたいだね。アベケンとかキタシュウなんて、最初は英語レッスンから始めたもんね」
「・・・なんで目の前で見たような口聞いてんだ。大御所だぞ」
「あ、ははは。そうだね、失礼。違う世界の方だと思うと、つい・・・あはは」
大御所か。
なるほど、そうだった。
実は、音子の父母は映画関係者であり、父は監督業、母は女優だ。兄弟姉妹も同じような道を歩んでいる。俳優然り、映画界然り。音子だけが地味な世界に生きていると言っても過言ではあるまい。
アベケン、キタシュウと呼ばれる日本の大御所俳優たちの中には、父が日本に居た時代、父の下で指導を受けた者も多い。父は、海外に行きたいなら語学堪能であれ、と彼らに説いた。彼らも必死に英語を勉強しようと心に誓っていたらしい。英語レッスンしている時など、小さい時の音子が相手になって喋ったものだ。
などと、事実をひと言でも口にしてはいけない。
あくまで、神谷琴音として日本映画へのオファーを掛けるのが、今日の目的だ。さあ、西脇はどう出るか。
「いいよ、その逆ハードルっての、見せろよ。見てから決めるわ」
「ほい。わかった。手帖に書いて来たんだ」
バッグから手帳を取り出し、今一度見直す音子。
よっしゃ、これだ。
ふて腐れている西脇に、手帳ごと手渡した。
1 男女ともに、相手の仕事を優先すること
2 己の体調管理は己の仕事。女に料理云々求めるな
3 趣味の共有を求めず、互いの趣味の世界に入るな
4 社会貢献に力を入れろ
5 自分を律する心構え(例:禁煙)
6 イベントは家族で祝う
7 話し合いは頻繁に。言わないと伝わらない
8 英語で日常会話を行うこと
9 フェミニズムを理解できること
西脇の目が三角になり、眉が片方だけ上がる。その表情は、鬼のそれと化す。
「お前、これ、俺へのあてつけか?」
「まあ、それもあるけど」
「ふざけんな」
「それが守れなかったら、外国の映画界では成功するどころか、相手にもされないよ」
「じゃあ、俺の健康管理は誰がするんだ?」
「専門のシェフ雇えばいいさ。トレーナー雇用してトレーニングなんて向こうじゃ当たり前に行われてる」
「イベントは家族でって、何だよ」
「至極当然。独り者なら誰か誘ってパーティー行かないと。変わり者のレッテル貼られるに決まってんでしょうが」
「じゃあ、頻繁に話せってのは?」
「外国人は推し量ることを知らないから。俺を解ってくれ、じゃ駄目なんだよ」
西脇は、思い出したように煙草を手に取った。
箱から小指を抜いた4本の指で煙草を取り出すと、人差し指と中指だけに持ち替えて、そこにライターを近づける。ライターに火をつけ左手を添え煙草を近づけると、ライターの火が煙草に灯った。煙を緩やかに立ちのぼらせる吸い方が、とてもサマになっている。
「ああ、ステキなポーズだねえ」
「お褒めに預かり光栄です」
「でも向こうでは基本禁煙だから。スモーカーは自分を律することの出来ない下等な人って評価されるから気を付けて」
「お前さ、いるとすげえウザい」
「うん、あんたの言い分は、なんとなくわかる」
煙草を燻らせながら、西脇は音子をじろじろ見る。
「マジ、外国人みてえだな」
「良く言われます」
「はっ。ま、いいや。その賭け、乗ってやるよ」
「そう、交渉成立か。了解」
「その代り」
「その代り?」
「ああ、こっちからも条件出すわ」
は?と訝る音子。
「あんたのために来たつもりだけど、なんであたしが条件受けるわけ?」
「俺の出したハードルに乗る気は、毛頭ないんだろう?」
「ないね。クリアしてもあたしの利益にならない。ゆえに却下」
「もし俺が賞獲ってあんたのハードルをクリアして外国に行けるとして、一つお願いあんだけど。お願いじゃなくて、交換条件だな」
「何?事と次第によりけりってとこかな」
「俺向けに、小説書け」
「あんたをヒーローにした作品ってこと?」
「違う。俺があんたに書いて欲しいジャンルを指定する。賞を獲ったら指定する」
展開と構成が微妙にスライドしていくのがわかったが、小説は、音子の職業である。それは、その時考えれば済むだろう。
「わかった。以上で交渉は成立。OK?」
「OK。俺のハードルは嫁に対するハードルだ。あんたのは、外国でやって行くためのハードルに近いからな」
「じゃあ、これで」
「おう。今回は体談やるのか」
「今回は受けないことにした。表に出るの好きじゃないし」
「そんだけのタッパあれば、モデル出来るだろうに」
「あたしとは、かけ離れた世界だよ。あたしはライトの下で輝く人間じゃないから」
「ライトの下か・・・言い得て妙ってやつだな」
「じゃあ。あとはよろしく」
さっさと帰ろうとする音子を、西脇が呼び止めた。
「おい、待て。さっきのドア蹴りで報道陣、来てるぞ。見ろ、窓の外」
音子は、窓の内側から地上を見下ろした。なるほど、西脇の言葉どおり報道陣らしき人物やカメラが詰めかけている。神谷琴音がドア蹴りしたことが知れたのか、女が西脇の部屋に入ったからか。ああ、芸能人はいつもこうやって人の目に触れる職業なのかと思い知った音子。自分がこういったシチュエーションで生きていないから全然わからなかった。
「さっきドア蹴りしたからじゃないの?別にいいよ、あたしは」
「二人は親密とか書かれたら、どうすんだよ」
「そりゃあ、オファーに来たんですっていうだけだし」
「世間じゃ、通用しないっての」
「じゃあ、ドア蹴りしました、って言えばいい」
「お前なあ。作家がドア蹴りしてオファー掛けましたっていうのか?女がだぞ?」
「別にいいよ。あたしは週刊誌に興味ないから」
「俺が負けました、って言えば済むと?」
「ま、そういうことだね」
「しゃーねーな。少し待ってろ。着替える。2人で出て、オファー受けたって話すしかないだろう」
言われた通り少し待っていると、ラフなチェックのシャツとジャケットを着崩して、ベージュのパンツと白いスニーカーを履いた西脇が現れた。
「さ、いくぞ。正面突破だ」
階下へ降りる。
玄関前には、数社の報道関係者が、カメラやらマイクを持って待ち構えていた。2人が並んで外へ出ると、我先にと山のように押し寄せてくる。
「西脇さん、こちら神谷琴音先生ですよね。作品の映画化について、お話されていたんですか?」
「そうです。先生に熱心に口説かれましてね。今回の『彩雲の果てに』への出演を熱望されているということで。結果として、お引き受けすることにしました」
「神谷先生がこちらに、ということは、事務所を通さず個人的にお付き合いがあるということですか?」
「いえ、事務所に連絡して僕の連絡先を聞いたそうです。事務所からも連絡が入ってまして。お約束していたんですよ」
「なんでも、ドアを足蹴りされていたとか・・・」
「あれは間が悪かったんです。ちょうどシャワーを浴びていたので気が付かなくて」
カメラが、音子を映す。
西脇が制止した。
「神谷先生はカメラとか苦手だそうなので、映さないでもらえますか」
「いや、でも。ツーショットくらいなら、いいでしょう?」
「仕方ないな。神谷先生、よろしいですか?」
さすが役者だ。先ほどまでの俺様態度は、何処へ。
音子にもマイクが向けられる。
「神谷先生、ドア蹴り効果ですかね?」
「本当にすみません。インターホンが壊れているのかなと思ってしまって。周辺の方々にご迷惑お掛けしてしまいました。心からお詫び申し上げます」
心にもないことをほざく音子。
男性にしてみればそこそこ背の高い180センチを超える西脇と、これまた女性としては背の高い部類に入る170センチを超えた音子のツーショットは、実に目立つアングルだったらしい。
その2週間後に発売された諸々のメディアときたら、微妙なニュアンスで記事にしやがった。
『神谷琴音 決死のドア蹴りオファー プリンス西脇のハートを射止める』
あの時のツーショットが、週刊誌の見出しを飾る。
(いや、ハートは射止めてませんけど)
なんの勘違いですか?と物申したくなる。
そうこうしているうちに、来てしまった。
西脇ファンからの脅迫状、失礼、文句タラタラメールである。仕事パソコンメールは必要部署以外迷惑メールに入れてあるので件数くらいしかわからないが、ざっと見て500件は優に超えている。
記事を良く読め。おまえら脳みそあるのか。
男のハートを射止めたい女が、相手の家のドアを蹴るわけがなかろう。
編集部からは
「ドア蹴りとは何事か!」
とこれまた文句タラタラのメールと、暫くの謹慎を課された音子であった。
別に。
作家が謹慎も何も。
あたしは黒いショートのかつら被って黒目のカラコンすれば何処でもお出かけOKだし。服装さえ注意して裏口から出れば、何も怖くありませーん。
単純思考の小説家は、その後の展開を考えてもいなかった。小説家だからこそ、人間の心理という物を考えなくてはいけないというのに。
やはり、というべきか。
今回ばかりは音子が甘かった。
ペットショップ周りをするために外出の準備をしていた音子が窓の外にふと目を遣ると、SNSとやらで神谷琴音の部屋を嗅ぎつけた取材陣やら西脇ファンが、表も裏も固めているではないか。
いくら黒髪かつらとはいえ、身長だけは誤魔化せない。これでは抜け出そうにも、かつらを引っ張られそうな予感がする。
事実上の謹慎状態、いや、軟禁状態である。
ペットショップ周りをしたかった音子としては、些か困った状態になった。買い物は今や宅配という便利なものがあるので困ることもないのだが、猫は耳が良いのでこのざわつきは非常によろしくない。猫たちの環境を考えても、困ったと首をひねり、なんとかこの状況を打破せねばと考えを回らせる。
そこで音子は、本国の家族にヘルプを求めることにした。
本国にメールで現在の状況を伝えた。心配いらないと送ったはずが、メールを開くや否や、向こうの家族は大騒ぎになったらしい。
数日後、本国から勢ぞろいで音子のマンションに来た兄弟たち。音子は姉、兄、妹、弟の5人兄弟である。手回しのよい彼等は、編集部に連絡して別のマンションに引っ越す手筈を整え、引っ越し業者の荷物に紛れ、音子は猫たちとともに姿を晦ました。
猫たちには引っ越しが負担だろう。心配だったが、思いのほか、居心地の良い部屋が見つかった。
ブログの景色が変わってしまうのは致し方あるまい。
週刊誌では
『神谷琴音、突然の失踪』
『西脇とのゴール間近?』
言いたい放題だ。
ブログにまで、
「音子さんの引っ越しと神谷琴音の失踪時期、重なってますね」
「音子さん、神谷琴音だったりして」
「でも、西脇とは付き合わないでね」
などというコメントが寄せられる。
「神谷先生と一緒にされるなんて、光栄ですね」
そういって煙に巻くしかない。
引っ越し先は、元いたマンションから数キロ離れた場所で、西脇の家からも遠い。それでいて、外国人も多く住む地域だったので生活には困らなかった。以前からそうなのだが、音子は仕事用とプライベート用に、2LDKと1LDK、2軒分の部屋を借りている。
編集社から幾分近いこともあり、また、在留期間があと少しで更新時期に差し掛かっていることもあり、編集部からは大目玉を食らわずに済んだ。不幸中の幸い、といったところか。
編集部側からしてみても、作家に対し癇癪を起して延々と怒鳴り付けようものなら、しっぺ返しを食うのが分かっているから、最後の線は越えない。
「在留は取りやめて、本国に帰ります」
メトロの作品として映画化が決まったからには、音子からそのフレーズを聞きたくなかったに違いない。それだけは避けたいところなのだろう。
軟禁状態から一転、兄弟たちが協力してくれて、野生児の救出とペットショップ周りも一段落した。避妊オペも終え、兄弟たちは手分けしてペットショップ猫たちの貰い手を探してくれた。
ひと月半経ち、猫の体調が安定してから、兄弟たちは猫御一行様として本国へ旅立っていった。
あとは、「彩雲の果てに」の収録終了を待つばかりだ。
西脇には、大変申し訳ないことをしたと思う。
自分がドア蹴りさえしなければ、あんな厄介な記事も書かれずに済んだし、今頃理想の嫁を見つけられたかもしれないのに。
音子は元々が外国人だから、推し量る、という文化を腹の底から理解できない部分がある。かといって、今、西脇に連絡をとって謝るわけにもいかない。
心の中で祈るしかない。
(すまない、俺様西脇殿よ。撮影頑張って、引っ掻かれてくれ)
映画の撮影という作業は時間がかかると聞く。本国で作製されているSF系映画などは原作を書き終えてから2年から3年くらいかかるものが多い。
ただ、今回の『彩雲の果てに』は、心情が中心となる。
ロケ場所などは、国内に多々ある動物保護団体の施設になるだろうから、そんなに大がかりなセットは要らないはずだ。
西脇以外の少年役のキャスティングにも、同じような華を感じる少年を希望し、主催者側も了解してくれたので心配はしていないのだが。
別に西脇がメトロで賞を獲ろうが獲るまいが、どちらでも構わないけれど、どうせなら、あの青年役をきっちりと演じて欲しいと思う。
音子自身の作品賞のためではなく、彼の海外での汚名返上のチャンスを与えてあげたいと。
猫たち野生児への考え方は人それぞれだから、心の中まで変えろとは言えない。諸外国で口にしないで貰えれば、それで済むことだ。
なぜ、そう思ったのか分からない。
なぜ、損得にもならないような逆ハードルを課してまで彼にオファーを掛けたのか、分からない。
なぜ、彼の交換条件を受け入れたのか、自分でも分からない。
また、なぜなぜづくしの時間が始まった。
考えても仕方がない。
編集部からエッセイ締切の電話が来るころだ。早く仕上げねば。
ああ、そうだ。
思い出した。
ブログを滅茶苦茶にされた時、どす黒い感情のあまり、西脇に出来そうにないことを要求しようと思い立ったのだ。
音子にとって、大事なブログを滅茶苦茶にされた恨みは、メトロで作品賞を獲ることよりも大きかったと推察される。ある意味、その二つを天秤に掛ける作家は何処にもいないと思われるのだが、どうやら此処に天翔る真っ黒い小悪魔が誕生したらしい。
で、ブログ騒動を鎮圧しながら、チャンスがあったら、西脇の俺様ぶりを俺様キャラとして利用し、小説を書こうと思ったのだ。そのために逆ハードルを作ったんだ。本人に渡したものより、もっとどす黒い9か条を。これこそ、一石二鳥になるではないか、と。
音子よ、諺の使い方が、ちょっと気になる。
本当にキミは小説家なのか。
アメリカンスクールでは、日本の諺までは教えてくれなかったようだ。
その頃、西脇は猫たちに引っ掻かれながら撮影に没頭していた。大手の動物保護団体に交渉しロケ地に選んだことで、日本の殺処分行政の現状も教わった。弱肉強食と殺処分とは、全く違った意味を持っていた。
神谷琴音が某国の収容所と表現した意味が、ようやく解った。外国から非難されるのも当然だ。
クジラの捕獲も非難されている。良いか悪いかは、国によって判断や見解が分かれるだろう。
しかし、それは日本古来の文化と言えば文化である。犬や猫を食べる文化も世界の中にはあると聞く。文化ならまだしも、捕まえてガス室送りは、あまりに酷い仕打ちだ。それなら、野放しにして弱肉強食の方が余程自由ではないか。
まして、現在、都会では鼠が大繁殖していると聞く。要は、天敵の猫が居ないからだ。それでも猫を捕まえて殺すのが当然なのだろうか。
今まで見向きもしなかった地味なストーリー、演じたことのない地味な役柄。
(これで世界を狙うのか。無理だな。俺の負けか)
そう思いつつも、引っ掻き傷だらけになりながら、西脇と少年役の本城正人は、ほぼ毎日、猫たちの世話をした。この猫たちが、1匹でも幸せを掴めるようにと願いながら。撮影途中に幸せを掴んだ猫もいる。その様子も映画用にカメラが回されていた。
西脇と本城は、本当に親子ほど年齢が離れていた。西脇は、父親の愛情とは何だろうと日々考え、本城を実の子のように可愛がった。周囲でも、西脇への評価が変わったほどである。
女優陣も含め、地味ながらも皆が一つにまとまって、現場はとてもいい雰囲気だった。
撮影そのものは、動物が相手なので、2ケ月から3か月ほどだっただろうか。
西脇自身、クランクアップの時は、終わったという充実感と猫たちの面倒をもう見ないんだなという寂しさが残った。本城も同じだという。
動物たちの世話をしていると、映画祭とか主演男優賞とか、そういった生臭い話は一切頭から消えた。不思議と、クランクアップしてもそれは同じだった。
神谷琴音のいう「社会貢献」ハードルが頭にあったわけではない。
それでも西脇は、クランクアップ後も、動物保護団体への寄付を続けた。時間があると、手伝いに行くこともあった。
猫たちが卒業し、貰われて行くのが嬉しかった。一方で、虐待目的の譲渡がある実態も知った。動物たちのために何か出来ることがないか、初めて考えた。
神谷琴音と噂が立ったのは知っていたが、クランクインしていたので、取材は受けつけていない。
五月蝿い女だったが、俺達のように観られて当然の仕事ではないのに、今頃追い掛け回され家の前で張られていることだろう。気の毒に、と思う反面、腹立たしくもある。
(あれは、あいつがドア蹴りしたから悪いんだ)
(天の報いだ。甘んじて受けろ)
しかし、神谷琴音失踪の記事を知り、流石に吃驚した。
(あいつ。一体何処へ消えたのやら)
神谷琴音の連載エッセイがあると聞き、事務所を通して失踪の事実を確認してもらった。取材陣に家を知られ、引っ越しただけと聞き、安心した。
(どうして俺が安心するんだ?あいつの自業自得じゃないか)
(俺だって未だに、神谷琴音失踪の理由を取材陣にしつこく聞かれる)
そう、あのツーショットから流れは変わった。
西脇の周囲でも、事ある毎に神谷琴音の話が出るようになっていた。特にメディアはしつこかった。
「神谷先生の居場所、ご存じないですか」
「知りませんね。撮影中は外部の情報を耳に入れませんから」
「ゴールイン間近だったのでは?」
「みなさんが勘違いしたんですよ。さて、このまま居なくなったら、皆さん方が一番大変でしょう。もう、探さないでおいたらどうです?」
「どこにいるか、気にならないんですか」
「対談と、あのオファーでしか会った事ないですからねえ」
「西脇ハードルは?神谷先生、お受けにならないのかな」
「却下されましたよ」
「却下?」
「ええ、僕とは異世界に住んでいるから、だそうです」
「異世界、ですか」
「さ、神谷先生は別として、撮影の話でも聞いてくださいよ」
取材陣を誘導しつつ、西脇は音子の話を煙に巻いた。




