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猫ブロガー・桐谷音子  作者: たま ささみ
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第1章  恋愛できない女

神谷琴音

 24歳

 職業 作家、エッセイスト

 主な著書「犯罪者のレクイエム」「マジカル・フォレスト」「紅いスニーカー」等々


「神谷先生、略歴はこんな感じで如何でしょう」

「あ、はい。大丈夫です」

 某テレビ局のスタジオである。スタッフさんが略歴などの確認に歩き、ボードに大きく書き込む。スタジオ内のカメラさんに分かるように、なんだろうか。


 神谷先生と呼ばれた女性は、聞かれたことに思わず答えると、あとはぼんやりとスタジオ内を眺めていた。

 テレビ局のスタッフさんは、忙しそうだ。皆スタジオ内を走りまわり、指示を出す側と実行する側に分かれて自分の職務を熟している。


(ふうん、こんな感じで対談って進めるのか)


 台本を貰い、パラパラと中を捲ってみる。分刻みで、司会者の質問と自分の答え、そして対談相手の答えが載っている。ここから大きく外れなければOKらしい。どこぞの国会中継と同じ原理というわけか。

 ああ、馬鹿らしい。この時間があれば、と、溜息がいつしか口を衝いて出る。

 気落ちしながら出番を待つ一人の女性。


 女性は、自称作家の神谷琴音こと桐谷音子。そう、あの有名猫ブロガーである。

 なぜ、自分が神谷琴音だとカミングアウトしないのか。

 なぜ、神谷琴音として猫ブログを書かないのか。

 なぜ、猫本を出さないのか。

 なぜ、作家なのにスタジオでテレビの対談に出ているのか。


 なぜなぜづくしの謎めいた作家、神谷琴音。


 ひとつだけ、「なぜ」の理由を明かそう。

 今、彼女がなぜスタジオにいるのか。

 その訳は、至極簡単なものだ。

 神谷琴音として書いた小説モドキが、このたびめでたく映画化されたからである。通常の作家にしてみれば、アニメ化、ドラマ化、映画化は晴れがましいことなのだと聞く。

 そりゃあ、印税が入れば喜びも一入というものだが。

 そんな理由のために、こうしてライトの下というのがいただけない。もっと対談場所は吟味して欲しかった。


 琴音=音子、名前がいくつもあると面倒くさい。この2つだって、実は偽名、もとい、ペンネームとハンドルネームだ。

 本名は、今は断じて教えられない。

 だから都合上、音子と呼ぶことにする。


 音子の場合、心の奥深く眠る感情が、『ライトの下では生きられない』と叫んでいる。だから、こういう華々しい場所には縁がないし、縁など持ちたくもない。

 本音を吐露するならば、どこか静かな場所を選んで、雑誌での対談形式を組んで欲しかった。

 音子が編集部に何も言わなかったのが悪いのだろうが、何故に編集部ではテレビ対談なんぞを組んだのか。

 スタジオ内の熱気に当てられて、音子は頭がクラクラすると同時に、一種の吐き気のようなものが喉のすぐ先まで出かかっている。

 誰かが音子に、どうしてテレビがいやなの?と聞いたならば、すぐさま『人前に顔を晒すのが大の苦手だから』と、なんとも心許無い答えが返ってくることだろう。


 音子は作家だ。本来なら、如何なるメディアにも顔を晒す主義は無い。

 作家という職業は、活字で勝負する世界だと、常々自分に言い聞かせている。何を着て部屋の中をうろついていようが、朝から晩まで何を食べていようが、書くものさえ書いて、編集者にダメだしを食らいながら締切に間に合えば、それでいいと思っている。

 音子の部屋は、およそ女性が、いや、違う、人間が生活できるような部屋と呼べる代物ではない。

 だから、他人は絶対に中に入れない。

 仕事部屋には、作家として仕事を進めるための資料が散乱し、足の踏み場もないくらいときている。唯一、応接部屋を設けて編集さんとやりとりをするに過ぎない。

 遊びに来るような友人もいない。

 俗にいう、お一人様どころか、誰もが味わうであろう、青春すら味わった記憶が無い。

 数カ月に一度、兄弟姉妹が部屋の掃除等々手伝いに来てくれるだけだ。

 猫部屋の方はと言えば、通常何匹かの猫たちがご主人さまの如く、デカい態度で暮らしている。猫たちは入れ代わり立ち代わり、都内の保護施設から譲渡される。あるいは商業用に売れなくなった猫たちがペットショップから買われて、音子の部屋の居候になる。街角でリターンマッチを繰り広げ、引っ掻かれながらも捕獲する猫もいる。

 音子は人間様の部屋は汚いままだったが、猫部屋をいつも綺麗に掃除し、猫たちはいつもご機嫌の空間で生活していた。中には自然猫に帰りたい者もいたようだが、よほど人間サマとの相性が悪くない限り、猫たちはこれまた入れ代わり立ち代わり人間宅へと卒業していくのであった。

 世間に顔を晒すのが大嫌いな音子は、編集部の大御所の伝手を辿り、都内でも有数のボランティア団体を介して新しい飼い主を見定め猫たちを卒業させていた。


 その意味で、音子が猫の下僕というのは、強ち嘘ではない。真っ正直に、あるがままを記しているに過ぎないのである。


 そういった地味な日々を送っている人間が、果たして煌びやかな生活を体験し、生活様式をそうそう変えられるだろうか。

 音子の答えは「否」である。

 下手にメディアに露出し、煌びやかな世界に万が一染まりでもすれば、作家という垣根を飛び越えて、タレントが本業か、作家が本業かわからなくなる。棲み分けができる器用な作家さんなら、こんな簡単な対談などお手の物に違いない。綺麗に着飾り自分の思いの丈を語りつくし、本の売り上げにも貢献することだろう。

 そういう器用さがないからこその、『ライト下恐怖症』なのである。


 今日は、編集部からの「連載、打ち切られたくないでしょ。」

 ある意味、怖さ100点満点の一言で仕方なくスタジオ入りした次第、というわけだ。

 受けたからには腹を括らなければいけないのだが、隙あらば此処から逃げたい、というのが音子の本音だった。


 音子は普段着る物に頓着しないから、何を着ればいいのかさえ見当がつかない。さて、どうしたものかと悩んでいると、雑誌の新人編集くんからアドバイスされた。

「先生。どうせテレビに出るのなら、テレビ局にお願いして、上から下までスタイリングやメイク、お任せしたらどうです?それに先生、煌びやかな場所での経験も、作家として活かせるときがくるはずですよ!」

「ああ、そうですねえ。テレビ局の方に、伝言お願いできますか?」

「はい、承知しました。任せてください、神谷先生」


 なるほど、そういうことが可能なら、是非ともお任せしよう。

 メディアへの露出経験が生かせるかどうかは別として、メディア関係の裏方さんの仕事や表情なども、垣間見えるというものだ。番組は前もっての収録と聞いた。ライブ形式じゃないから、思わぬ想定外が無いとも限らない。本番はそこをカットすればいいのだから、これまた恰好のエサである。

 というわけで、素顔のまま、ゆるふわロングの髪も束ねずに、適当なロングシャツにライダースジャケットを羽織り、黒いパンツにエンジニアブーツというカジュアルな出で立ちでテレビ局入りした音子だった。


 はて。 

 局内ですれ違う人々が、皆、驚いたような表情で音子を振り返っていく。

 そんなに変な顔だろうか。可笑しな格好なのだろうか。

 これだから人の群れは苦手だ。

 人と違うからといって、何故にここまで視線を感じなければいけないのか。

 そんな中、音子を安心させたのは、控室が準備されていたことだった。

「神谷琴音先生」と紙の貼られた、申し訳程度の広さを確保した控室に入る。


「あらっ!」

 控室にスタンバイしていたスタッフとみられる女性たちは音子を見た瞬間、驚いたように一言だけ発した。皆が凍りついたような表情になっている。このメンバーには、スタイリストさんとメイクさんと思われる女性も含まれているようだ。

 音子は相手の真意を測りかね、一言だけ尋ねた。

「何か?」


(どうした。あたしの素顔が悪いのか。服装が悪いのか。はっきりしろ)


「こんなに背の高い方とは、お聞きしておりませんで・・・。160cm弱で見積もっておりましたものですから」

 向こうは、やんわりと言い訳する。

 この語り口からすると、どうやら、用意していたワンピースやらパンプスが入らない、というお粗末なものだったらしい。早くも出た、想定外。

 音子は、いくつか準備されていた洋服や靴のサイズを、とっかえひっかえじっと見つめる。

「このサイズでは、どうやら無理のようですね」

 そして、スタッフさんたちの前で、ふうっ、と溜息を洩らした。


(こりゃーどういうことだよ)


 音子的には別にスタッフさんたちを責めているわけではない。だが、相手はそう受け取らなかったことだろう。


 音子がターゲットとして憤懣やるせない思いを抱いたのは、編集部と担当新人編集くんに、だった。

 おのれ編集部、おのれ新人編集モドキ。

 どうして神谷琴音が170cmを超える巨大女と言わなかった。

 どうして神谷琴音の足の大きさを、25センチのデカ足と告げなかった。

 清楚で可憐が売りの女優でもあるまいに。

 新人くんよ、お前を信じたあたしが馬鹿だったと、後悔しきりの音子であった。


「先生、ちょっと失礼します」

 引き攣り笑いを浮かべながら、スタイリストさんとメイクさんが部屋の外に出た。何か話し込んでいるようだ。デカ女の機嫌を損ねず、如何にしてこの場を上手く乗り切るか、策を練っているのだろう。そのくらいの想像は小学生でもできる。

 暫くして、スタイリストさんとメイクさんたちが音子がいる控室の中に戻ってきた。

「神谷先生、大変申し訳ありません。私どもの手違いで、お洋服を準備できませんで」

「で、どうすればいいんです?」

 音子は、低い声で尋ねた。地声で話しただけなのだが、余程怒っていると相手は感じたらしい。

「本当に申し訳ございません、申し訳ございません」

「謝罪は結構。私は、何を着てスタジオ入りすればいいんです?」

 音子の声は、もっと低くなる。

 相手の引き攣り笑いが一層、激しさを増す。

「実は、もうお洋服が手配できないことと、先生の今の御姿が丁度良くお似合いですので、このままナチュラルメイクのみでスタジオ入りされては如何かと思いまして」

「ああ、着替えなくて良いということですね」

「ええまあ、そういうことでご了承いただければ・・・」

 とって食われるんじゃないかという顔のスタッフさんたち。


(まさか。あたしは食う物には頓着しないが、不味いものは口にしない主義だ。あんたたちを取って食らったりしないから、安心しろ)


「了解です。息を抜いていいですよ。私はそこらの芸能人じゃないですから」

 音子の言葉に、やっと相手の顔色が土色から人間の肌色に戻る。

「有難うございます、先生」

「現場にも報告してまいりますので」

 スタッフと見受けられる小柄の女性が、部屋を飛び出していく。ディレクターにでも報告しに行くのだろう。


 というわけで、メイクだけはしてもらったものの、服装はそのまま自前と相成った。ナチュラルメイクとはいっても、ライトを浴びる都合上、ある程度、はっきりとしたメイクが必要になるらしい。

 一般の女性が「ナチュラルメイク」と考えがちな軽い感覚のメイクだとスタジオ内のライトに負け、顔が薄っぺらに見えてしまう、というメイクさんの話は興味深いものがある。

 ファンデーションやらドーランみたいなゴテゴテは苦手だが、致し方ない。ギラギラとしたライトに負けないベースを準備して、あとは、いかにナチュラル感を演出するかである。何はなくとも、目を際立たせるアイラインは必須らしい。音子の白い肌に合わせ、オリーブ色のアイラインとオリーブ色や薄茶系のシャドウでナチュラル感を演出するようだ。こういったメイク方法も、小説を書くときの細かな描写には効果満点だ。

 音子の眼は二重で眉と眼の間隔が狭い。そういった顔の輪郭に似合うよう、アイラインの他は、心持ち薄めのメイクが続く。


 そう、こういった時間さえも、何もかもが描写の勉強材料に、そしてネタになり得るのである。


 着替えなくてもいいのは、実にラッキーであり、気楽だった。

 だが、ひとつ問題があった。素のままでいいとの約束でテレビ局に向かったものだから、当然、総てが素のままである。

 ここに至るまでの音子の動きを思い出そう。

 何故皆が振り向いたのか。

 音子が、その理由に心当たりが全然なかったのか、それとも面倒で考えなかったのか、それは音子の心境にならないとわからない。

 しかし、そこには変えることのできない、ひとつの事実があった。

 何故なら、音子の髪は根っから金髪に近い茶髪である。亜麻色を通り越し、ライトに当てると金髪にしか見えない。


 何を隠そう、実は、音子の両親は日本人ではない。外国人である。ということは、音子自身も外国人である。目の色も、心なしか薄い。


 そういった想定外を想定しない自分に非があるのだが、音子は、今、神谷琴音が外国人だとはどうしても知られたくなかった。

 さてはて、どうしたものか。

 必死になって、並べ立てるための嘘八百を考える。

 自分のボキャブラリの中では、上手く言い訳できる言葉が見つからない。

 少し焦りつつあったその時だ。


「先生は本当にお洒落ですね、ハーフか外国人に見えますよ」

 メイクさんの一言で、名案が浮かんだ。

「元々、髪や目の色が薄いので、この際、金髪にと思いまして。今はカラーコンタクトも豊富ですし」

「そうですか、よくお似合いです」


(メイクさん、良く見ればわかると思うんだが。地毛だよ、地毛。カラコンだって使ってないよ)


 まあ、この際そんなことは、どうでもいい。

 早くメイクを終わらせてくれと、音子は心の中で叫ぶ。


◇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◇


 音子自身、日本の国籍はない。

 両親が外国人なのだから当然、国籍は本国にしかない。

 厳密に言えば、日本国籍を取得する機会はあったらしいが、両親が拒んだのだという。


 音子の場合、たまたま、両親が日本に来ているときに日本国内で産まれたので日本国籍を取得したと両親は思っていたがそうではなかった。日本での在留資格しか持たなかった両親は、日本国では二重国籍が認められないと聞き、音子の国籍は本国のみに、と考えたのでる。

 ゆえに、音子本人も在留資格のみを持ったに過ぎない。兄弟姉妹はみな本国で産まれた。日本に来たこともあるが、再入国資格を持たずに本国に帰った。

 在留資格の更新や本国への出国、日本への再入国など、面倒な手続きは多い。パスポートひとつをとっても、面倒この上ない。行き来するたびに感じることだった。

 指紋押印を求められたときは、まるで犯罪者であるかのような扱いを受けた。本気で人権侵害だと叫ぶ寸前であった。でも、日本でやることがあるから在留資格は手放せない。

 かといって、日本に骨を埋める覚悟なぞ、さらさらない。

 日本に帰化するなどと口にしようものなら、両親が許すわけがない。口走った時点で、本国に強制連行されてしまうのは、火を見るより明らかなのである。


 日本人のふりをしているのは、日本で執筆活動する限りは、日本人としてペンネームやらハンドルネームを統一することにしているだけだ。

 海外での活動は、別のペンネームがある、いや、本名で活動してもいい。今は主に日本で活動しているので本国での執筆活動は疎かになっていたが、何れは本国に戻り執筆活動を続ける予定だ。


◇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◇


 苦痛のメイク時間が終わり、スタッフさんに連れられスタジオへと向かう。

 どよめきが一瞬辺りを包んだが、それは直ぐに、静寂へと姿を変えた。聞こえるのは、裏方さんたちが一生懸命にスタジオ内を走り回る喧噪だけである。

 プロデューサーかディレクターか知らないが、年配の男性が音子の近くに寄ってきた。

「いやあ、神谷先生ですか?はじめまして。最初、外国の方が現れたかと思って吃驚したよ」

「はじめまして。よく間違われますから、お気遣いなく」

「日本人ですよね?」

「はい」

「こう、華のある作家さんだというのが印象的なので、それで推していきましょうか」

「はあ」

「本当に、先生の迫力には絵になるものがあるなあ」

 テレビ局のスタッフさん方は、小柄で地味な作家を連想していたのに、金髪のデカい女が出てきたものだから、驚きを隠せなかったようだ。陰でかつらがどうのこうのと聞こえてきたが、金髪自体、それはそれでどうにかなるということで、すったもんだの末に見栄え的な問題は落ち着いたと見える。


「対談相手の西脇博之さん、入りまーす」

 先ほどとは違うスタッフさんが、声を張り上げる。


 天井のライトがギラギラとして、音子は蒸し暑いものを感じ、対談前だというのにもう汗びっしょりでへろへろとしていた。

 そんな音子の状態を知ってか知らずしてか、右側のそでから爽やかに軽やかに歩いてくる男性がいた。そう、今回の映画化での主役俳優のご登場だ。

 黒いシルクのシャツに黒ジャガードのジャケット。少し抜けを印象付けるために、褪せた質感のヴィンテージのブラックデニム。そして、靴はイタリア製か。シャツの合間には、プラチナのペンダント。

 

(豪華じゃないか、俳優さんよ)


 スタイリストさんの腕がいいのか、貴男の体型が良いのか、それとも豪華だから誰にでも似合うのか、3択という線だな。

 背丈は、180cmを超えたくらいか。音子と然程変わらない。

 どれ、顔は。髪型は。

 目は二重、やや目尻が下がっているので優しさも感じられるが、本人的にはクールな目つきを演出したいと見える。口元をきゅっと結ぶことで表情筋が活動しているのがわかる。

 ま、人気の顔立ちと言えば、そうなんだろう。なんというか、派手な青年以上、おじさん未満の顔立ち、という印象を受ける。可もなく、不可もなく。

 音子にとっては、およそ興味のない顔だ。けれど、こういう顔が今の日本では受けがいいのかもしれない。髪型も、およそ派手に決めたものではなく、黒っぽくナチュラルで短めの髪だ。ああ、映画でも短かった。長い髪で犯人との追いかけっこは出来ないからか。でも、たぶん凄く綺麗な髪だと思う。金髪は、そういう綺麗な黒髪に憧れるのは確かなのだ。

 このキャラ設定、次回の小説でモデルにでも使うとするか、と頭の片隅に俳優殿のイメージを植え付ける。


 と、今気が付いた。

 音子が周囲を見回すと、女性スタッフがウキウキとした表情だったり、うっとりと見惚れている。成程、人気があるんだと、今初めて気が付いた。音子は普段テレビや週刊誌は見るものの、興味の無い範疇は頭に入れないので、実際に目の中に入れたのは、今日が初めてというわけである。

 神谷琴音。どれだけ世間に疎い小説家なのかがわかる。


 カメラは、3台ほどあっただろうか。

 右側のカメラが男性俳優を追う。男性俳優が座ったところでカメラは真ん中に切り替わり、二人を挟んで、若い女性司会者がにっこりと笑う。

 有名な女子アナだ。

 確か、「天使の微笑み」こと、氷室冴子、だったような気がする。音子の記憶が正しければ、の話だが。

 さっきまで、裏方さんに向かいヒステリックに叫んでいた。

 本性はこうだったのかと、可笑しくなる。

 

 テレビ対談と聞いて、スタジオに来るまで嫌な予感はしていた。

 多分そうだろうと察しはついていたが、やはり間違いではなかった。裏方に回ると、怒鳴り声やら何かセットを運ぶような一斉に上がったりする声が始終響く。時間が迫るほど、皆の顔つきが豹変する。

 特にアナウンサー。

 実際に収録が始まると、さっきまでヒステリックに怒鳴っていたのが嘘のように、天使の微笑みを満面に湛え、爽やかさと可憐さをプラスして、お茶の間へとラブリーポーズを振り撒く。

 ある意味ではペテン師、ある意味では女優、いや違った、プロのアナウンサーなのであろう。

 音子としては、一刻も早く時間が過ぎ去ることだけを願いつつ、収録が始まった。


「こんばんは、みなさま。本日は、『サイコの童話』映画化記念として、主演の西脇博之さんと、オリジナル小説を執筆された神谷琴音先生にお越しいただきました。こちらの作品は、メトロポリス映画祭や日本アカデミック映画祭など、各方面で注目されています。今日は、わたくし氷室冴子が、お二方に色々なエピソードなどお聞かせいただきたく思います。それでは、西脇さん、神谷先生、どうぞよろしくお願いします」

「よろしく」

 なんとまあ、素っ気ない男だ。

「よろしくお願いします」

 音子は一応、地味に振舞うことにしてある。編集部の方針がお達しと称して音子に伝えられた。別に、こんなところで汗ばみながら自分の思いの丈を話す気もしないのだが、編集部では、まさかの想定外を100%失くしておきたいのだろう。


 氷室アナがこちらを向く。

「さて、今回の作品『サイコの童話』ですが、神谷先生はミステリー中心にご活動を?」


(ちゃうわ)


 とは、口が裂けても言えない。

「いえ、ミステリーに限らず色々な分野に挑戦していきたいと思っているのですが」

「先生にも苦手分野があるんですか」

「はい、総じて恋愛ものは苦手ですね」

「あら、先生の年齢なら恋多きお年頃でしょうに」

 音子の眉がピクリと動く。お前如きエセラブリーに言われたくないわ、という表情になりかけるのを、理性で一生懸命普通の顔に押し戻す。それだけでも、音子の中のエネルギーが枯渇していくのが分る。


「こればかりは、お相手が必要ですから」

「先生のようなインターナショナルな雰囲気をお持ちの方だと、男性も高嶺の花になってしまうのかしら」

 氷室アナと互いに、おほほ、と上品に笑う。

 音子は、見えない場所で氷室アナの足を踏みつけたくなる小悪魔に変化しそうになってくる。


 カメラが俳優殿に切り替わった。

 音子は、漸く姿勢を崩せる時が来て安心した。ふくらはぎが痙攣しそうなそうでないような。やはりライト下でマイクが向けられるのは嫌いだ。


 でも、隣の氷室アナや俳優殿は楽しそうに会話を始めた。本当に楽しいのか、これも芸の内なのかは分らない。

「西脇さんは、この作品で、ストイックな演技で体当たりする役どころでしたが」

 俳優さんっていうのは、こういう時も演技するんだろうな、この氷室アナと同じように。

 音子の推理は見事に当たる。いや、こういうのは推理とは言わない。所謂ところの、公然の秘密というやつだ。

「僕は普段からストイックな面がありますから、こう、自分と重ねて役に溶け込むことができましたね」

「そうですか。恋人にしたい男優ナンバー1というのも、伊達ではないみたいですね」

「いや、そんな。烏滸がましい限りです。それに、ハードルがありますから」

「ハードル?といいますと、女性の好み、という意味で伺っても?」

「ええ、僕の恋人や奥さんになってくれる人には、ハードルを課したいと思います。9つほど、ハードルがあるかな」


(映画の話と、どう繋がる。台本まるっきり無視しとるで、あんた)


 心の中、大声で叫ぶ音子だが、にっこり微笑み続ける。

 突然、真ん中のカメラがこっちを向いたからだ。

 氷室アナを間に挟んだ格好で、俳優西脇は滔々と語り始めた。

「第一に、何よりも僕の仕事を優先させてくれること、第2に、役どころを掴むため色々出かけますが、追ってこないこと。第3に、料理上手で僕の体調管理をしっかりしてくれること。第4に、クリスマスやバースデイといったイベントに拘らないこと、第5に、女の気持ちを推し量れと言わないこと、第6に、西脇パーティーの場では、きちんとした立居振舞でホストを務められること、第7に、音沙汰無い間に他の女性といても文句を言わないこと、第8にプレゼントを求めないこと、最後に、ディナーが豪華ホテルでなくとも、場末のラーメン屋でも、一緒ならどこでも良いと言ってくれること、ですね」

「まあ、凄いですね。これは難問だわ、みなさん、ボードに書いてみたので、あらためて読んでみてください」

 テレビ局のスタッフさんが慌てて書いたと思われる、乱雑な字で書かれたハードルとやらがお披露目される。

 どうやら、台本にもなかった超アクシデントらしい。


1 何よりも仕事を優先させてくれること

2 役どころを掴むため色々出かけるが、追ってこないこと

3 料理上手で体調管理をしっかりしてくれること

4 クリスマスやバースデイなど、イベントに拘らないこと

5 女の気持ちを推し量れと言わないこと

6 西脇パーティーの場では、きちんとした立居振舞でホストを務められること

7 女性と噂になっても騒がないこと

8 プレゼントを求めないこと

9 ディナーが豪華ホテルでなくとも、場末のラーメン屋でも、一緒ならどこでも良いと言ってくれること


(あっはっは~。このド阿呆が)


 音子は、吹き出す寸前だった。

 お前はナルシストか、はたまた俺様か、と。


 日本の女性達は、こういう男に弱いんだろう。みんな今頃「じゃあ、今のあたしでもなれるかも?」なーんて、泣いて、笑って、ほざいているに違いない。

 流石に、口の端から笑みが漏れた。決して嬉しさ満点の笑みではない。馬鹿らしさ満点の笑みである。

 日本に限らないのだろうが、どうして女性は、虚像に対し夢を持てるのか。フェミニストの多い国や女性を持て囃す国なら、まだわかる。優しく接してもらえば、夢が膨らむのは当然なのだから。

 それにしても、このハードルとやらは俺について来い、というわけでもなく、完全に「俺様」優先の事象ばかりではないか。こんなん手を挙げる女性の気が知れない。

 

 ライトの下で額に汗しながら、音子は今更ながらに気が付いた。

 この収録は、生放送ではなかった。生放送だったら、放送事故扱いだったかもしれない。

 ちっ、惜しいことをした。放送事故なら、「さぞやご満悦でしょうね」と腹を抱えて笑ってやりたいところだったのに。音子は心の中で大きく舌を打つ。


 事実、プロデューサーとかディレクターとかいう、別のオジサンが奥から出てきた。

「申し訳ない、西脇さん。今日は対談の時間が押しちゃうから、今のシーン、この次、是非使わせてくださいよ」

「OK。その時はまた、いい顔で撮ってもらわないと」

「任せてくださいよ、好みの子、用意しますから」

 西脇に向かい、男性たちが小声で囁く。氷室アナはじめ、女性アナから見えないように。


 音子だけが、男性たちのやり取りと、口の動きを見ただけだった。

 口の動きや目の動き、そして何より下品な顔つきからして、何を話し込んでいたかは察しがついた。

 女子アナ連中が聞いたら、さぞ怒り出すような内容だろう。

 それとも、日本の放送界というメディア世界も、男性社会なのか。

 男性には絶対服従、出る女性は釘として瞬時に打たれてしまう世界なのかもしれない。

 これだから、未だに日本は女性人材発展途上国と先進国では揶揄されているのだ。技術の発展は目覚ましいのに、残念だ。日本製の商品は確実だし素晴らしい物を作っている。世界に誇れることだ。それなのに、女性の人材登用に力を注がないから、良い女性人材が育たない。

 世界各国に比べ女性の人材登用率は群を抜いて低く、男性社会を物語る一例として、先進国から鼻で笑われる、というわけである。


 女性側にも問題があると音子は思っている。自立し、夫と対等でいようという気構えが今の若い女性には無い。男性の稼ぎで楽をしよう、そのために玉の輿に乗るのだ、と考える若い女性が増えていると聞く。今の若い世代に就職口がないのも大きな要因だが、それにしても、あからさま過ぎる。

 男性の稼ぎで優雅な生活を送ったところで、それはあくまで男性が懸命に働いた報酬だ。だから、俺様俳優殿のように、ハードルも課したくなるのだろう、と音子は思う。


 日本の主婦の皆様方に言ったら、吊るし上げられるような台詞なのは重々承知している。

 色々な環境があって、専業主婦で過ごす人もいるだろう。または、2馬力、いや、違った、ツインカム?何かしっくりこない。まあ、要は夫婦二人で働くとということでお許しいただきたい。

 こういう時だけ、外国人だからボキャブラリが少ない、と言い訳をする音子である。

 そうだ、共働きだ。色々な事情で、子供の有無に関わらず夫婦共働きで生活する家もあるだろう。

 それについては、音子自身が口を挟む筋合もない。

 音子は昔、女性を指して「勝ち組」「負け組」と分けてしまう言葉を聞いた。未だにどちらが「勝ち組」なのかわからない。たぶん、音子のようなお一人様は負け組で、西脇の彼女になったような人が勝ち組なのだと思う。それならそれで、負け組でも構わないと思う音子だった。


 本国では、男性の稼ぎが良いから専業主婦という観念があるのかどうか、音子の知る限り、男性が高給取りでも、自身も働いている女性が周囲には多かった。

 そう、女性自身が自立し、夫と対等でいようという気構えの為せる技である。そうでない家もあるのだろうが、少なくとも「玉の輿」という言葉は、音子にとって縁遠い世界であった。

 少なくとも、本国の実家では自立した女性を目指すことは女性として当たり前だったし、お互いに仕事をしながら助けあう男女こそがあるべき姿と教えられて生きてきた。

 それゆえか、音子自身、男性の稼ぎで媚を売りながら生活していくなど、真っ平だった。

 

 脱線した。


 こういうときの切り替えの早さが尋常でないのが、アナウンサーと俳優の神髄と見た。くるりとカメラに向き直った女子アナと俳優殿は、どちらも、何事もなかったかのような顔に戻っている。

 そして、台本通りに質問と答えが繰り返されていくのだった。

 氷室アナが最後を締める。


「半年後には、メトロポリタン映画祭がヨーロッパで開催されますね。この作品もエントリーされました。西脇さん、ご感想を」

「とても面白い原作ですから、映画化するに当たっても、筋書きの深さに監督が考え込む場面が多かったのを覚えています。ヨーロッパで是非、この作品の名前を呼んでほしいと願っています」

「西脇さんご自身も、主演男優賞にノミネート間違いなしと伺っております。受賞への意気込みをお聞かせください」

「そうですね、僕自身、魂を込めて演じることの出来た作品です。勿論、俳優としての頂点である主演男優賞をいただければ嬉しい限りではありますね」

「日本中が期待していますよ」

「いやあ、プレッシャーですねえ」


 氷室アナが、オマケ程度に音子の方を向く。

「神谷先生、ご感想を」

 来た。これだけは絶対にくるから原稿を用意してくださいと新人編集くんに口酸っぱく言われていた。面倒なので放っておいたら、編集部から原稿が送られてきたくらいである。自分では考えるのも拒否っていたため、音子は素直にその原稿を何回も何回も読み、丸暗記していた。

「自分の中では、活字が動くという不思議さがありましたが、みなさんの一生懸命な演技で、とても素晴らしい作品が出来上がったと思っています。わたくし自身はヨーロッパには行くことができませんが、この作品の名前が呼ばれることを願っています」

「お二方、本日はどうも有難うございました」


 座ったままお辞儀しろというのが、ちょっと難題だった。

 会釈でいいのか、どのくらい頭を下げるのか分からない。氷室アナが、目配せして気を利かせてくれたから、音子は助かったと冷や汗をかく。社会通念上の一般常識で、氷室アナが音子に慎み深く挨拶する。音子最大の難関に、氷室アナから救いの手が差し伸べられたような気がした。


「神谷先生、本日はありがとうございました」

「いいえ、こちらこそ。御呼びいただき、光栄です」


 此処からは、マイクを通さない、オフレコ状態の会話である。

 俳優殿を目の前にした氷室アナは、超絶ご満悦のようだった。

「西脇さんも、ありがとうございました。あの9か条、ウチの局で絶対出しますから!」

「氷室さんも、是非検討してくださいよ」

「あら、いいんですか?」

「勿論。僕はね、女性達が僕のためにどこまで尽くしてくれるのか、知りたいんですよ」

「じゃあ、あたしは一番乗りってことかしら?」

「そうですね、期待していますから、頑張ってください」

「がんばって尽くしますから、よろしくお願いしますね」


 氷室アナはテンション駄々上がり。

 音子自身は、阿呆の会話には、ついていけない。ついて行く気もさらさらない。


(尽くす?なんだ、それ)


 あ、時間が押してしまった。早く家に戻らねば。

 聞こえないふりをして、そっと席を立つ。


「おい、そこのノッポ」

 誰だ。

 声を掛けるなオーラ全開の音子。

 デカい女だろうがノッポだろうが構わないが、時間が押してんだよっ!ブログ更新の時間なんだ!ブログの自動更新は、しない主義だから。

 音子は鬼のような顔つきになる。


 それでも、編集部との約束は破れない。音子は、にっこり笑って後ろを振り向いた。

「はい、何でしょう」

 俳優殿が、少し音子をバカにしたような目つきで、にやりと笑ってこちらを見ていた。

「キミも参加して見るかい?」

「遠慮します」

 即答した音子。

 俺様西脇は、数秒間、言葉を発するのを忘れているようだった。心底驚いたような顔をしている。まるで豆鉄砲をくらった鳩のようだ。

「どうして?西脇の彼女に成れるんだよ?放っておく手はないだろう?」

 アホか。

 俺様ナルシスト男の超馬鹿さ加減に、歯止めを掛ける方法はないものか。

 音子は、またまた、にっこりと微笑む。

「1カ所、決定的に無理ですから」

「どこ」

「あたしは料理とか、家庭一般のことは苦手ですので。では、お先に」

「何をそんなに急いでんの?待ち合わせ?」

 西脇。お前、かなり性格が悪いと見た。

「はい、猫と待ち合わせています」

「猫ぉ?犬だろう、飼うなら。犬の躾ほど楽しい事は無い。猫なんて、どこが良いんだか」


(おいこら、俺様野郎。あたしに喧嘩売るつもりか)


 氷室アナが、慌てて仲裁に入る。

 音子の、鬼が如き目線を感じ取ったに違いない。

「でも、西脇さん、結構有名な猫ブロガーさんって多いんですよ」

「猫ブロガー?写真貼って『可愛いでしょ』で終わりじゃない。みんなそうだろ」

「本とか出しているブロガーさんは、猫に多いみたい。神谷先生、猫ブログは?」


(間違っても、お前達には教えない。ふん)


「ブログは、書いてないです。写真撮るのは好きですが」

「猫の?へえ。じゃあ今度、見せて」

「はい、お時間があったら」


 二人から離れた瞬間、音子はダッシュで局内を走りだした。来た時とは別の意味で、皆が振り返る。もう、どうしてだなどと考えている暇はない。玄関に出ると、ちょうど一台のタクシーが停まっていた。客を降ろしている最中のようだ。そこにへばりつき、ドライバー目掛け乗りたいアピールをする音子。もう、通常の更新時刻は過ぎている。

 手持ちのタブレットを使って、ブログに接続した。


『アクシデント』という題名。

 前に撮った猫たち写真の中から一枚の写真を選ぶ。ぶーぶーふてくされるような顔の猫写真を一枚、アップした。

 写真の下に、一行ポエムを添える。勿論、英語バージョンも添えて。

「ツイてない日だってあるよ。そんな日は、ふて寝しちゃえ~」


 本当に、ふて寝したい気分である。


(畜生が)

(忌々しいったらありゃしない)

(てめえらの好みやバカみたいな世間話聞くのは、あたしの仕事じゃねえよ)

(あたしゃ、文章書いて、猫たちを愛し、猫達の写真を撮りながら、老いてくのが夢だ)


 小説だって、自分のためじゃない。猫のご飯のために書いているようなものだ。

 それこそが、音子が日本にいる理由だ。


 そう。猫を愛する自称『猫の下僕』、桐谷音子。

 自分で言うのも照れくさいが、猫ブロガーとして、あまりにも有名な存在なのは確かだ。

 時に、写真を4つ並べ、起承転結の4コマストーリーで爆笑を買い、あるときは、猫の素の表情を切り取り、たった一行のポエムを添えて、載せる。このギャップが話題となり、今や押しも押されもせぬNo.1猫ブロガーと呼ばれている、桐谷音子である。


 現在、桐谷音子の正体を知る者は、誰一人としていない。


 ブログの登録名は本名だったが、日本で本名の自分を知る人間など、殆どいない。編集社の上層部のみである。

 そして、まさかのその正体は、さきほど伝えてしまったような気もする。

『自称、日本人(実は外国人)作家、神谷琴音』である。


 ほどほどに有名な作家だという自負はある。日本で書いた小説が、マンガやアニメ、映画など別の媒体に姿を変え、世の中に出ていくこともあるからだ。

 中には原作から大きくストーリーが外れ、『別物?』ということもあるが、それはそれ、各編集部や制作者側の意図があってのことだろうから、考え出したらきりがない。


 勿論、作家であることはブログ内でも内緒であり、作家稼業でも決してブログのことは口にしない。

 壁に耳あり障子に目あり。どこでバレるか分かったものではない。

 各社編集担当さんですら、音子が猫ブロガーと知る人間はいない。

 だから、ブログ内でも安易に判断できないよう、些細な文体すらも、総て変えている。文体という物は、得てして個性が出てしまうものだ。それを感じさせない素晴らしい作家さんもいるが、文体を見ただけで、個人が特定できてしまう作家さんが多いのも事実。

 写真の構図も然り。自分では気が付かないが、個人のクセが出ているものなのである。作家として写真を載せる機会はないので、こちらは心配ない。


 本業は・・・どちらなのだろう。ブログが好きなのは、間違いないのだが。


 音子は、恋愛に興味がない。

 男にも興味がない。

 猫が猛烈に好きなだけだ。

 自宅はマンションを2部屋借り上げ、猫ルームと仕事場になっている。

 猫ルームでは現在、7匹の猫を飼っている。今は殺処分寸前の野生児たちが主だ。ペットショップの可愛い猫達も好きだが、買い手の付く猫なら、他人に任せる。その代り、たまにペットショップを覗き、買い手が付かず大きくなった猫達を買ってくることもある。殆どの店では、買い手の付かない猫は厄介者扱いされるか、純血種に近いほど、交配に使用されると聞く。欲しいと名乗りをあげると「貰ってください」と言わんばかりの店もあれば、交配させるからと断られる店もある。


 先日も、ペットショップ周りをしたところだ。

「すみません、こちらで買い手の付かなかった大きな猫ちゃん、譲っていただけませんか。お値段は言い値で結構ですから」

 こういう時はショートの黒髪かつらを被り、黒目コンタクトをする。流石に金髪デカ女ともなれば、神谷琴音と知られかねないからだ。

「ああ、うちは交配に使うから駄目だよ。あとは保護団体に寄付するしね」

「そうですか、ありがとうございます」

 別のショップに足を運ぶ。

「すみません、こちらで買い手の付かなかった大きな猫ちゃん、譲っていただけませんか。お値段は言い値で結構ですから」

「いいの?いるよ、3匹ほど。もう3歳になってどうしようか迷っていたから」

「では、3匹とも譲っていただけますか?」

「3匹で30万、どう?子猫なら2匹で30万だ」

「構いません。では、お願いします」

 ぼったくりだなと思いつつ、猫達を撫でようと手を伸ばす。みんな、怖がって震えていた。たぶん、普段から虐待されているのだろう。

「大丈夫だよ、新しいお家に行こう」

 3歳猫を3匹は重い。歩けない。タクシー移動で家に帰る。こういう時は、本国から姉と妹が来てくれている。

 世話を姉と妹に任せ、数軒、ペットショップを回った。


 野生児以外は、ブログには載せない。

 店や猫種から、神谷琴音、あるいは外国人との絡みで、ブログ内で足が付く恐れがある。

 日々進化しているペット商売の邪魔をするわけではないが、命を売買するのは、どうも性に合わない。だから、悶々と鬼のような顔になり店を後にしては、憤りを感じ得ずにはいられない音子である。


 と、あるショップに、人だかりが出来ていた。中を覗くと、なんと俺様西脇らしき後姿が見える。

 音子は入ろうかどうか、一瞬迷った。

 しかし、今日でないと時間が無い。そうだ、俺様西脇に気付かれなければいいんだ、と自分で自分を納得させて入店する。


 西脇は、猫ではなく、犬たちの方を見学している。これ幸いと、ショップスタッフに声を掛ける。

「すみません、こちらで買い手の付かなかった大きな猫ちゃん、譲っていただけませんか。お値段は言い値で結構ですから」

「今、店長に確認してくるのでお待ちください」

 猫たちのガラス越しに、西脇の動きを観察する。店長が相手をしているようだった。先ほどのスタッフが耳元で何か囁くと、店長がちらりと音子の後姿を見たのがわかった。スタッフが戻ってくる。

「2匹ほど、殺処分に出そうと思っている子がいます。お代は結構ですので、どうぞお持ち帰りください」

 ただとか、そういう問題ではない。殺処分するには費用負担がある。そのお金が惜しいだけだろうが。

 猫たちの取扱い状況は、店の名前とか、全部メモしてある。此処は、「要注意」だ。これからも保健所に持ち込む犬猫がいれば、殺処分前に連絡するようお願いしたメモを店長さんに渡してください、と編集部の名刺を差し出す。

 出版社の名刺を出しておけば、店の奥で動物たちに対する虐待のような真似は、そうそう行われないだろう。ブログには載せないのだから、編集部から突っ込まれても、猫は友人に託すと言えば良い。

 

 今日、助けることが出来たのは、それこそ純血種の大きな子、総勢5匹。

 家では、姉と妹が先ほどの大きな猫たちの世話をしてくれていた。

「カレン、ジェーン、この子たちのお世話、宜しくね」

 5匹の猫たちは、避妊オペされていなかった。交配させていたのだろう。音子たちは、動物病院に飛び込むとすぐに避妊オペを予約した。猫たちは最初に健康診断を受ける。そしてオペ。オペが終わり1ヵ月半から2か月ほど、音子の家でのんびりと過ごす。そのあと、再度健康診断を受け予防接種をし、姉たちと一緒に本国に旅立つことになっている。

 姉たちは、長期滞在出来ないときは一度本国に戻り、また来てくれる。

 向こうではもう、あらかじめ貰い手が決まっている。

 諸外国では動物保護に力を入れているからだが、こういった猫たちを引き取り、終生面倒を見てくれる家庭も多いと聞く。


 父も母も外国育ちで、職業柄、たまたま日本で暮らしている時に音子が生まれた。

 音子は学校もアメリカンスクールに通った。

 ハウスキーパーさんと、小さなころから面倒を見てくれたベビーシッターさんが週に一度くらい通って、メンタル部分のチェックをしてくれていた。ハイスクール時代までは。

 あとは我が道をのんびりと散歩しながら生きているようなものだ。

 他の兄弟たちはみな、本国で産まれ育ったので、日本に短期滞在した時期こそあれ、日本に長期滞在しているのは音子だけだ。


 日本滞在当時から、父母は犬猫の売買には大反対だった。『野良猫や野良犬は守られて当然』が、音子宅の家訓なのである。

 此処だけの話、動物の殺処分の話を聞くたび、父母共に、日本人を野蛮人呼ばわりする事さえあるほどだ。いや、本国でも虐待もあれば殺処分もあるハズなのだが。


 当然、父母は娘を日本人に嫁がせようなどとは、一欠けらの思いもない。

 フェミニズムを熟知し、心から女性を大切にするフェミニストでなければ、娘たちとの交際すらも許さない、と父は常に捲し立てている。姉や妹に伴侶がいたかどうか思い出せない。確かボーイフレンドは、多分いるはずなのだが、結婚するという話は聞いていない。父の御眼鏡に適わないのかもしれない。でなければ、父に恐れを為して逃げてしまった可能性もある。

 姉妹に伴侶がいるかどうかも覚えていない不束者のために、わざわざ本国から駆けつけてくれる涙ぐましい真心に、心から感謝しなくてはならない音子である。


 かくして、小さな頃から小さな島国で暮らす音子。

 恋愛の動機もなく、恋愛を薦める親もなく、恋愛できる環境も無く、恋愛できない女が此処に一人、出来上がったというわけだ。


 父母とは現在別居しているが、耳にタコができるくらい、本国に戻ってきて欲しいというコールやメールの嵐が音子を待っている。

 執筆は向こうでも出来るだろうという、至極尤もな理由だ。

 ただ、向こうにいくと、日本国内で殺処分される野生児たちを助けることが出来なくなる。だから音子はまだ、日本の在留資格をポイ捨て、ではない。手放したくない。

 たまに実家に帰る時は、猫達を連れて行く。実家や海外の知り合いたちに飼ってもらうために。そうすれば、またニャンコ野生児たちを少しでも救うことができる。自分の力など微々たるものだろうが、何もしないでいるより、出来ることを少しでもしたいと思うのだ。



 それから2週間ほど経っただろうか。

 例の音子と西脇の対談が放映された。

 勿論、俺様俳優の言い放った9か条シーンは、カットされていた。


 とはいえ、人間とは恐ろしいものである。

 ソーシャルネットワークナントカとやらを介し、9か条は、瞬く間に女性達の間に浸透していた。どうやら、あの場にいた誰か、若しくは発言したご本人が匿名で事の次第を暴露したのであろう。

 無論、氷室アナの属する放送局は、対談の中でとは言わず、別の日に、さもご本人から聞いたかのごとく、独占的に放送を垂れ流した。

 どうして別の日と判ったかと言えば、服装が違っていたからだ。爽やかなブルー系の衣装に身を包んだ俺様俳優殿。対談時の服装では、流れ的に不味いと思ったのだろう。あたかも、ご本人さまを突撃取材したかのように見せたかったようだ。


 その日から、朝から午後にかけての情報系番組、昔は「ワイドショー」とも称された番組や、各女性向けの週刊誌では、こぞって俺様俳優殿を取り上げた。9つのハードルを掲げながら、俺様俳優の変遷を毎日お茶の間へと垂れ流す。

 この発言に賛否両論あったのは、言うまでもない。

「いやあ、驚きましたね、このタイミングで突然のハードル。もう心に決めた女性がいるということでしょうか」

「いえ、それがですね。関係者や事務所への取材によれば、そういった密なお付き合いをされている方はいないそうです」

「とすると、本格的に『婚活』ということになるのかな」

「西脇さんは現在35歳です。生涯の伴侶を、とお考えになってもいい時期ですよね」

「もう、9か条をクリアしようと、世の女性たちは必死だと聞きましたよ」

「お料理教室が一番賑わっているみたいですね。あとは、色々な資格を取られる女性が増えているということです」

「資格?どんな?」

「食関連が多いようです。アスリートの食事管理ですとか、やはり身体を作ることから始まりますからね」

「なるほど。で、女性から見て、一番の難関はどこ?」

「女性の心を推し量らない、これは結構キツイですね。あとは、ラーメンディナーかもしれませんね」

「どうして?」

「折角2人で出かけるのに、場末のラーメン。他の女性は、どう思っているんでしょう」

「あはは、僕なら大歓迎だけど」

 といった具合だ。


 ジェンダー廃止論を唱える女性団体は「今どき、そんな男性がいるから、日本は欧米に近づけない」と怒りを露にした。

 そりゃそうかもしれない。欧米辺りのソレとは違う、と音子も思う。

 しかし、世界中を見渡せば、女性が虐げられている国は多い。

 日本はまだ、選択の自由という逃げ道が残っているだけマシかもしれないと考える音子だった。


 一方で、俺様俳優が「恋人にしたい男性No1」の名を与えられているのも伊達ではない。素直に、見かけだけは素敵なオヤジ未満の男だ。

 各種週刊誌や写真誌は、特定のお相手がいるのかどうか、俺様俳優の周辺をパパラッチしているようである。その収穫はと言えば、俺様俳優は、お友達の女性がとても多く、居酒屋デートなどを繰り返していたので相手を特定しかねているらしい。


 何故、音子がそこまで知っているのか。

 正直、本当は俺様俳優、西脇博之に興味があるのでは?

 

 何のことは無い、テレビをつければその話題。

 編集部の新人くんが届けてくれる新聞や雑誌を見れば、目に飛び込んでくるのが、その話題。

 新聞や雑誌を届けてもらう理由は、現在の国内外情勢を流し読みし、できることならマーケティングの世界も垣間見ておきたいという欲求からである。世の中の人々が、どういったことに関心を持っているのか、世界中で何が起きているのか、知るためである。

 今現在、何が売れていて、今後どういった方向に流れていくのか見通す力が無ければ、作家稼業は務まらないと音子は考えている。世界情勢は当然、本国にいる家族から仕入れる。

 インターネットという手もあるが、インターネットは検索して初めて情報を入手する。そこにあるのは、自分が知りたい情報だけを受け取る受動的立場にある、という事実だ。だから、敢えて様々な雑誌を手にすることで、音子は自分が主体ではないものの、能動的立場に身を置ける状況を作り出している、というわけだ。

 ただし、取材は極力しない。

 取材には、鬼の心が必要である。相手を慮っては取材にならない。ノンフィクション作家ではないから、その辺りは手を抜いている。いや、それでは語弊があるというものだ。取材に時間を割かない主義、ということにして欲しい。

 手を抜かない唯一の情報が、各都道府県別の猫の殺処分数と、都内劣悪ショップの判定表だ。これだけは足繁く通い、状況を見極めるしかない。音子が唯一自ずから足繁く通っているのは、ペットショップだけだった。


 それにしても、もう満腹です、とばかりに、毎日のように出てくる俺様西脇の顔。そして、9か条。

 もう、どうでもいいじゃないか、人の事など。

 俺様西脇の彼女に成りたい女性が精魂込めて手料理に精進し、男性を立てれば済むだけの話だ。何をそんなに大騒ぎしたいのだろう。そんな話よりも、日本と世界を比較した動物殺処分の現状を伝えて欲しいものだと切に願う。

 この異様さが日本人の特性なのか、それとも音子が外国人だから変わっているのか、それはわからない。


 そんなある日のことだった。

 音子のブログ「うぇるかむ・音子ハウス」に、1件のコメントが寄せられた。そのコメントを巡り、アクシデントが発生、それは正しく(まさしく)悪夢と化していった。


 コメントの内容は、次のようなものだった。

「桐谷音子さんへ。初めまして、俳優の西脇博之と言います。つまらないブログですね。僕には笑えない。ていうか、写真に雑種を使う理由は何?ペットショップで猫を買うお金すらないの?血統書付きの猫も買えないなら、飼うの止めれば?雑種なんて、みっともない。せめて他の猫ブログのように、血統書付きの猫にしたら?」


 そして、あろうことか、世界中の人々が瞬時に情報共有できるようなmurmurマーマーという囁き系SNSの類いに、音子ブログの悪口を並べ立てたのである。内容は、推して知るべし。

『野良猫ほど無粋な物は無い。血統書付きだから、意味があるのだ 西脇博之』


 音子ブログの読者は、何故音子が野生児雑種MIX猫を飼っているか知っている。

 殺処分寸前の子を救い出し、貰い手(場合によっては外国人とは決して書かないが)がつくと、また新たな猫を救い出すのを知っているからだ。勿論、ブログ内でそういった記載はないものの、卒業や入学という言葉で、野良猫たちを救い、譲渡活動をしていることを知っている読者が殆どだった。

 西脇のコメントは、彼らの爆弾スイッチを押すのに十分すぎる内容だった。音子ブログファンたちは、揃いも揃って怒り心頭に発し、西脇への攻撃を始めた。


「俳優だか何だか知らないけど、ミックスの何処が悪いのよ。あんた、馬鹿じゃない?」

「つまんない?笑っちゃう。自分のブログで、音子さん以上のネタ書いてから言えば?」

「お前のブログなんて、ただ1行『今日は雨です』だけじゃねーか。みっともない」

「雑種を馬鹿にする俳優なんて、世界に通用するはずないよね。馬鹿男優賞ならOKか」

「そういう貴男は血統書あるの?それとも雑種なの?血統書ないなら、俳優止めれば?」

 

 そこに通称荒らしと呼ばれる祭り屋たちが参入し、はたまた西脇ファンが雑種猫を馬鹿にし、コメント欄はパンク寸前と成り果てた。

 いつもは皆のコメントに一言だけでも返している音子だが、今回ばかりは身動きが取れなくなってしまった。


 仕方ない。

 すぐさま音子は記事を更新した。


 題名【取り急ぎ、今後の方針を明らかにします】


「とある物議を醸すような発言に、善悪入り乱れたコメントが寄せられ、本来のあるべき姿ではない状況です。


 俳優の西脇様とやら、今後、貴方様からの発言は一切受け付けませんので、あしからず。

 血統書猫の好きな方は、私のブログには来ません。みな、理由をわかっているからです。

 その理由さえ貴男は知る必要がないし、教える義理もありません。

 貴男は自分の世界で輝けば、此処には用が無いでしょう。私たちを巻き込むことのないように。

 最後に、これは決してお願いではありません。私の言い方を見れば、すぐにお分かりですね。反論などして、これ以上、ご自分の恥を晒すことなどあってはならないのです。


 そして、従前からの読者のみなさま、解り合えない言霊に踊らされて、どうかこれ以上怒らないでくださいね。

 私はこの子たちが大好きだし、微々たるものだけど、これからも活動を続けます。

 そうだ、春になる前に、この子たちも新しいお家に行くんですよ。春になったら、また子猫が増えるから。

 今日は物凄い状態で、皆さまにお返事できそうにありません。ごめんなさい。

 では、また明日。みなさま、ごきげんよう。


                                                               桐谷音子」



 西脇のコメントは削除するつもりが、記事アップした直後、またまたブログ内で激戦が巻き起こる。

 腐れ頭の西脇とやらが、またもや爆弾コメントを投稿したのだ。

「ああ、野良猫保護ってやつ?馬鹿馬鹿しい。世の中、弱肉強食じゃない。食うか食われるか、でしょ。食われる野良猫が弱いだけ。どうして保護しなくちゃいけないの?」


 また、嵐が吹き荒れる。野生児保護派の言い分だ。


「殺処分の現状知らないの?戦時中の某国収容所に行けば?ガス室が貴方を待ってるよ」

「うわあ、知らないんだ。外国でそんな野蛮な発言したら、完全に干されちゃうわあ」

「今度の映画。折角出来良かったのに。作品賞はまだしも主演男優賞は120%無しだね」

「あんたのように野蛮な男に賞くれるほど、世界は甘くないんだよ。お・ば・か」

「弱肉強食か。芸能界もそうだもんね。ただし、外国には通用しないね、その馬鹿頭じゃ」

「馬鹿につける薬って、ないんだねえ。此処まで馬鹿な俳優って見たことない」


 頭が痛くなってきた。

 この際、コメント欄は嵐の中の小舟だ。

 西脇の奴に、新しいコメントを書かれると厄介だ。また書かれる前に何とかしないと。

 確かこのブログ、出禁【出入り禁止】機能があったはず。音子はサイトを探しまくって、そこをポチッと押した。もう、西脇からのコメントは来なくなった。

 個人的なメッセージメールはご本人さまから何回か届いたようだが、頑として、全て無視しゴミ箱に入れた。


 困ったのが、murmurである。

 世界中に拡散したことを、西脇ご本人様はご存じなのだろうか。

 欧米における、野生児、そう、野良猫保護活動の重要性を、西脇俺様殿は、果たしてご存じなのか。こんな発言したら、拡散してしまい、どこかで映画祭審査員の耳に入るだろう。作品自体はまだしも、動物愛護にケチを付ける発言者に対し、栄誉ある主演男優賞を授与しようとは考えないのが、一般的かつ常識的な判断と言えるだろう。

 日本と国外は違うのだ。

 特に、欧米のそれとは。


 やはり、murmurで増えていく意見の中で、国外から批判が殺到した。勿論文化の違いがあるから賛成意見だってある。俺様俳優にとって致命的だったのは、映画祭が開催されるほとんどの国が、動物愛護に力を入れていたことである。

 賛成意見の多い文化の違う国々では、猫を食する習慣が残っていたくらいだ。比較対象として成立するはずもない。

『こういう動物愛護精神のない人間に、いかなる賞をも授与すべきではないね』

『小さな命を大切に出来ない人間が、素晴らしい演技をできるとは思えないな』

『映画は見てみないと分からないけど、彼には失望したよ。人間として期待薄だ』

Murmurerミュルミュレと呼ばれる彼らは、murmurマーマーという囁きにて、噂を世界中に発信している。


 ブログとは違い、英語で捲し立てた意見に、英語でディベート張りに反論できる日本人は殆ど居なかった。いたとしても、内容的に勝てる勝負ではない。

 結局は、俺様俳優の株を、大いに貶める結果となったのである。


「あーあ、人が折角、消してやろうと思ったのに。くそ西脇。作品そのものが台無しになりかねないじゃないかあ」

 思わず、普段口走らない独り言が、音子の口を衝いて出るのだった。


 そこに、murmurとブログを見ていた父母や兄弟姉妹から、コールやらメールやらが鳴り響く。

 父は、動画サイトで映画化の対談も見ていたらしく、メトロポリタン映画祭主催関係者に、本気で電話しようとしていたらしい。

 兄弟姉妹も揃って、人権無視や愛護精神無視で訴えろと言う。

「みんな、怒らないで。日本はこういう国なんだよ」

「キャシー。そんな国に何故留まるの?」

「だからいつも言ってるじゃない。そちらは愛護精神に溢れているから動物たちも幸せだけど、こちらの可哀想な動物を少しでも助けたいって」

「あ、パパが代わりたいみたい」

「キャシー。もう我慢できない。メトロの関係者に情報を流すよ。こんな失礼な男性、初めて見た。お前のためじゃない。映画に携わる者の一人として、こんな野蛮で恥知らずな発言を許すわけにはいかないからね」

「パパ。そう怒らないで」

「いや、こればかりは審査員を務める側の人間としても、見過ごせない。いくら役を演じるのが上手だったとしても、本当の姿が醜ければ、それは当然、検討材料に入るべきことだよ。諸国の俳優を思い起してみなさい。何がしかの活動を行っている人が多い。そういった社会貢献は当たり前に行われるべきことだ。わかるだろう?」


 反論の余地もない。

 それでも、自分を心配してくれる家族がいるからこそ、今こうして暮らしていられるのだと、あらためて神に祈る音子だった。そのお蔭で、音子自身、少し冷静に戻れたような気がした。

 来月あたり、また姉と妹に渡日の約束を取り付けて、電話を切った。


 とはいえ、日本語の意味さえ分からず、2度もコメントをしてくるなんぞ、やはり超の付く大馬鹿者だ。

 普通なら、音子からの返信は「お願いします」とか「してください」とか、下から目線でお願いするのが一般的だ。

 しかし、一方的な通告とは言わずしても、お願いではない言い方がある。それが、緊急記事の内容である。下から目線の物言いはしない。お願いします、の代わりに「~するように」という言い方を用いる。

 これは、ストーカーなどに内容証明郵便を使って「もう近づくな」という通告などにも使われたりする。近頃は、その言葉遣いの違いにさえ気が付かない馬鹿が増えているのだなと、今日あらためて悟りを開いた気分だ。

 悟りを開いたとはいえ、音子は仏様でもキリストでもない。


 馬鹿は許すまじ。


(なんとかして、報復の手立てを考えてやる)

(見てなさい、馬鹿な俺様ナルシスト俳優、西脇殿)

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