五七〇年 鉄風雷問答
神明暦五七〇年
満月の夜。
生き物の気配がしない、傾きの急な岩山。
その山頂に、いた。
春先の分厚い風に撫でられて、三人の男女が酒を酌み交わしていた。
※※
紫色の髪をした小柄な少女が、二人に問う。
「お前達は、何を美しいと思う? イセ、どうだ」
名指しされた方の、ぼさぼさ頭の痩せた男は、顎に手をやって思案した。
「そうさなあ、鷹よな」
男は眼を瞑り、脳裏に猛禽の王を夢想する。
「あいつらほど速く飛び、力強い者を知らん。それに、人がうまく接すれば、狩りを手伝ってくれることもある。ああ、動物を手懐けるシャンケルやネママイアの異能とは違う。そんな無粋なもんを使わんでも、手順を踏めば、人と獣は通じ合えるなぁ」
無粋で悪かったな、とネママイアの異能者である少女が茶々を入れると、男がにやりと笑い掌中にある杯を傾けた。
「鷹でさえ、人の誠に応えようとする本能を持つ。オラぁはそういうものが美しいと思う。それが御袋様がオラぁ達に言う『敬』という考え方じゃねえかな」
「タカのケイこそが風神イセの美の根底というわけか」
そんな小っ恥ずかしい名前で呼ばんでくれよう、とイセと呼ばれた男は嗤った。そして反対に問う。
「ピッピ、そういうお前さんは、何を美しいと思う」
「月だ」
即答であった。
「見ろ、あれほど大きな者がこれほど大きな空にただ一つあるんだ。星の見えない夜でも、月だけはある。五百七十年前、九柱の神霊がマスカダイン島に降り立った時にも、月は空にあったという。俺達が生まれる前からそこにあって、十年二十年の人生で一喜一憂している姿も、全部見てるんだぜ。きっと俺達三人が全員死んじまった後も、いるんだ。その雄大な在り方は、畏れるしかないじゃないか」
少女は空を見る。ピッピと呼ばれた少女は、瞳に映る満月を、じっと見つめて酒を飲む。
「あれを、あの大き過ぎる者を見ている時だけ、俺は自分が小さい生き物であることを忘れられるんだ。自分が何か大きな者の一部になった気がして、安らぐ」
「この観月が鉄人ピッピの心を癒す、だねえ」
そういう言い方止めろと、少女も哂う。そして、先ほどから黙って二人を見ているもう一人の男に、声をかけた。
「ミカワ、お前もなんか言え。二人でこんな恥ずかしいやりとりしてたらたまったもんじゃないだろう。お前も恥ずかしいこと言え! お前の美しいと思う者はなんだ?」
だんまりとした男は、その問いにゆっくりと右手を持ち上げて、挑むような眼つきの少女を指さした。
流石に、豪気な少女も狼狽する。
「……え、ちょっと。そういうのは」
「違う。貴様の肩にとまったそれだ」
低く、静かな声で男は否定した。
それはそれで気に入らないという貌であるが、少女は自分の肩にとまるものが何かを調べる。
……一匹の、小さな甲虫がいた。
指先に乗せた、光沢のある虫を見つめる。
「虫? これか?」
「綺麗だと思わないか。この甲虫はツヅリという春先に生い茂る草葉を食べることで光沢が増す。こんなに、月の光を照り返すほどの美しい甲を持った虫はいない。これこそ甲の姫だろう」
男は自分の指を少女の指先に沿わせ、甲虫を自らの手に呼びこんだ。
「別に珍しい生き物というわけではない。この季節になれば見ることができるんだ。眼を凝らせばいつだって会える。身を守り仲間を呼ぶための美しい甲を持つ成虫になるのは、百匹の幼虫から一匹いるかいないか。それにそこを見ろ。あのヤマスミレ。こんな岩山でも力強く咲いている。俺はこれが美しさたと思っている。生命はただそこにあるだけで美しい」
男は二人を視る。
「イセ、ピッピ。お前達の話を聞いていると、やはり美とは憧れなのだと思う。美しくあるものへの尊敬。ただ生そのものに感謝するように懸命な命が、俺には憧憬を感じずにはいられない」
手の中にいた虫を地面に放してやり、ミカワは続ける。
「俺の人生に、生は関わることがない」
「ワノトギになって四十年だ。あるのは人の死と、人を死に追いやる死霊だけ。死に向かい続けるだけのこの人生に意味があるのか、と問うてしまうこともある。御袋様に聞かれたら、拳骨で殴られてしまうな……。それは美しくない」
少女は、すぐに応えた。
「お前が酔うと卑屈上戸になるなんて知らなかったな。人を救い続けた雷聖ミカワの人生に、意味がないわけないだろう」
痩せた男も、笑って続けた。
「そうやって悩むこと自体が、お前ぁさんが高貴な証拠さ。誰よりも御袋様の、三代目ゴウテツヤマクマゴロウの教えを受け継いでるのは、ミカワだよぉ」
ミカワは、何も答えることはできなかった。
ピッピは、そのままこの話を閉じようとする。
「明日にも御袋様は四代目を誰にするか口にされる。まあ、お前ら二人うちのどっちかだろう。そうしたら、残りの一人と俺が助けてやらなくちゃな」
握りこぶしを、二人に突き付ける。
「俺達三人は、生まれも育ちも、年もワノトギとしての時間も異能も、美しいと思うものも違う。それでも、仲間だ。そう決めた。だから、絶対だ」
二人の男も、拳を差し出してそれに応えた。
※※
神明暦五七〇年、春の終わり。
ワノトギの武侠集団ゴウテツヤマクマゴロウ組
その頭目三代目ゴウテツヤマクマゴロウは、ワノトギ・ピッピを後継と定めたことを口にした。