六一〇年 神の娘、成長した狩人の青年と再会する。
洞窟の奥に広い空間があり、そこに巨大な石造りの神殿がある。
そこが表向きの神殿。
人が神と接することのできる入り口。
今年の神祭の仕切り番となるケス村の代表達が、祭壇の前で伏して神の到着を待っている。
松明の炎が揺れる。壁にいくつも掲げられた光が洞窟内部を照らすが、神殿の奥は照らさず、陰を作る。
その陰の中から足音がして、少女が一人現れた。
深紅の長髪。白絹の服。幼い少女。本来ならもっと年を重ねているはずなのが、神の力を宿したその時から、時間の流れ方が変わる。
その周りを、神の眷属とされる赤髪の男女が囲む。傍らには、神と同じ深い赤髪の長身の男が控える。
自分達と絶対的に違う、神域の一団であった。
その一団を統べる娘が言う。
「イオウェズです。顔を上げてください」
伏せていた男達は、その声に従って、顔を上げた。
男達の中で先頭にいた男は、名をデンタナと言う。
ケス村一の猟師となった彼は、十年前まで、神霊となった娘と共に過ごしていた。
いつも何考えてるのかわからない顔をしながら、優しくしてくれた幼馴染。
神の加護がなくなり、痩せて行った村を救うために、神殿にいってしまった初恋の娘。
村を出て行こうとする彼女のために、彼は何もできなかった。
ただ、山の活気が戻り、猟に出れば獲物がよくとれるようになり、村の人々が口々に「神霊様のお陰だ」と言いだしたことから、どうなったのかはわかっていた。
何もできずに、デンタナは二十歳になる。
ついに、自分の村が神祭の仕切りをする番になった。村一の若者であった彼は自動的に名代として神霊の元へ赴くことになった。
緊張していた。
十年ぶりに会うのだ。
自分と同じくらいに成長しているはずだった娘は、アラナは。
あの時と、同じ声で。
あの時と、同じ姿だった。
再会したら、なんて言えばいいのかわからなかったはずなのに。
「神霊様」
そう、呼んでいた。
※※
「イオ様、どうしたのですか?」
村人達との挨拶を受け、祈りの言葉を捧げられた後、イオは奥の神殿に戻り自室のベッドに突っ伏した。
従者であるイルは、イオが村を出て行く時、最後まで彼女に声をかけ続けた少年のことを覚えていたし、今年神殿に挨拶に来る若者がそれだとわかっていた。
正直、気を利かせたつもりだったのだが、それは全くの逆効果であるらしかった。
「イオ様、その、会われたのでは?」
「……会ったよ。会ったけれど普通に流された。神霊様って呼ばれた」
「そ、それは一応公式の場ですから、建前が」
「眼も合わせてくれなかった」
「だって、神様の顔じっくり眺めるとか、不敬でしょう?」
「きっと、私の背が全然伸びてないから、ドン引きしてた」
「してないって、本当に背が伸びたから」
「この新調した服、全然寸法変わってない」
「うぐ」
困っていると、カルヴァトが勝手に部屋に入ってきた。
「いやあ、終わった終わった。イオ様もお疲れ様でした。しかし、イケメンでしたね、イオ様の初恋の人」
イルは頭を抱えた。何故こいつは急所をえぐっていくのだろう。
「俺はあの人の子供の頃なんて知らないけれど、すっごく格好よくなってますね。イオ様も自慢してくればいいのに」
のそりと体を起して、不機嫌そうな神が言う。
「……何を自慢するの」
「私があなたを守ってきたんだよって」
「そんなこと言ったら、デンタナが傷付く。すごく繊細なんだから。私に、格好いいところ見せようとばかりしてた」
「……化物と思われるのが、怖いんでしょう」
「何それ」
「本当は、彼の眼を見たんでしょう。あの怯えた眼。今のイオ様と同じ眼をしている」
「何それ、わけわかんない」
「いつか、俺に言ったじゃないですか。大事な人のことを想うためだけに生きたっていいって。私は大好きなあの人のことを想う……」
「うるさーい! そんな恥ずかしいこと言うわけ……え、いつ言ったの? 私いつそれ言ったの?!」
枕をブン投げられて、顔にぶつけられながら、カルヴァトは続ける。
「村人達は帰ったのに、神殿の祭壇の前で、一人だけ帰らない男の人がいるんですよ。多分、イオ様が出てくるまでずっといる気じゃないですかね。先方は、通じ合ったつもりでいるんじゃないかな」
其れを聞くや否や。
神は走りだした。
部屋を駆け出てゆく少女を見送り、従者の娘と、分身の青年が取り残される。
「青春ねえ」
「青春ですね」
「カル君、ないの? ああいうの」
「俺にはトギ・シュシュがいますから。イルさんこそ」
「眷属は子を産めないしねえ。今はイオ様一人でお腹いっぱいよ」
※※
息を切らせて走るのは、何年振りか。
自分の体力がおそろしくなくなっていることに驚愕しながら、神霊は男の前に現れた。
洞窟の奥の空間には、石造りの神殿があって。
壁には松明が並べられ、揺れる炎が。
アラナとデンタナを照らす。
「アラナ」
そう呼ばれるのは、十年ぶりだった。
「デンタナ」
そう呼ぶのも、十年ぶり。
何も、言えない。
言いたいことはたくさんあった。
十年前のあの日から会話を続ける自信があった。
もし、あの日に戻れたら、何から話そうか。
そう考えながら眠りに着く日もあった。
今しかない。わかっている。
この洞窟を抜けて、仲間の元に帰ればデンタナは彼女をアラナと呼ぶことはできない。
この洞窟を抜けて、役目に戻れば、アラナは彼に軽々しく口を聞けない。
今しかない。
デンタナの眼は怯えたように泣きそうに震える。
言葉に詰まってしまう。
言いたい言葉は決まっているのに。いや、だからこそ詰まる。
そうして、一番大事な言葉を口にしようとして。
「お父さーん。どこー?」
子供の声が。
洞窟の入り口の方から聞こえた。
「お父さーん。皆待ってるよー」
声が、どんどん近付いて来る。
松明に照らされる世界。洞窟の入口に向かって奥は照らされる陰ができる。
その陰の中から、それは現れた。
小さな、小さな、男の子。あの頃の自分達よりも、もっと小さい、ケス村の子供に多い、薄い茶色の髪の気の少年は、デンタナを見つけると、あの頃の自分達のようにまばゆい笑顔で、駆けよる。
「お父さん」
……あれ?
アラナは、我に帰ると、デンタナに確認をとる。
「あの、その子は」
デンタナは、泣きそうな顔で応えた。
「俺の、息子だ」
震える声で、さらに確認をとる。
「結婚、したの?」
「六年前だ」
「十四って、早くない? いや私下界の世情に詳しくないんだけれど、そんなもんか。……え、誰? 相手誰? 私の知ってる人?」
「隣村の娘だ。俺が何時まで経っても塞ぎこんでるからと、ちょうど同い年だから、と。そろそろ家庭を持つように父に」
「いや、いい。もういい」
すると、デンタナに抱かれた男の子が訊く。
「お父さん、このお姉ちゃん誰ー?」
「こ、この人は……」
デンタナは、震えながらなんとか口にしようとして、うまく言えない。
代わりに、神霊自ら答える。
「初めまして。私はアマランスの守護神霊。名をイオウェズと言います」
「僕はアラタナ、五歳です」
「ふーん、アラタナって言うんだー。素敵な名前ねー」
「お父さんの命の恩人の名前をもらったんだよ」
「いい話ねー」
その会話を聞いて、今にも泣きそうな顔のデンタナの顔を見てると、なんだかなんでもよくなってきてしまった。
「さあ、お父さんを連れてお帰りなさい。お祭りの支度をしなくちゃ」
「はーい。……お姉さんは?」
「私は、神様だから、ここにいなくちゃいけないの」
「寂しくないの?」
「寂しくないわ、お友達はたくさんいるし、こうして訪ねて来てくれる人もいる」
「僕も来てあげる」
「……ありがとう」
「また、ここに来たら会える?」
「ええ、いつでも。私は、ここにいる」
デンタナの眼をしっかりと見つめる。
「あなた達を、見守っている。あなた達の幸せを、願っているわ」
※※
二人を見送り、洞窟の中に一人いる。
帰りが遅いので迎えに来たイルが、何か言いたげだが言い出せない様子でいるのに気付く。
「別に哀しいとかじゃないわよ。もし、私のためにデンタナが人生を台無しにしているなんてことになったら、神様になった意味ないじゃない。ま、ちょっとがっかりだったけれど」
「……アラナ」
「イルにそう呼んでもらうのも、十年ぶりよね」
抱きつき、胸に顔をうずめる。
「本当は、知ってたんだ。精霊ナトギの声を聞けば、命が生まれた事も、亡くなった事も手に取るようにわかるから。デンタナに寄りそう女の命も、二人の間に生まれた命も、わかってた。実際肉眼で見ると、衝撃は大きいけれど」
涙は出したりしないけれど、決着のために言葉にする。
「アマランスに生きる全ての人の子は、私の子よ。アラタナが生きるこの世も、私が見守るの。皆私のことクソ真面目で、必死で神様し過ぎる、我慢し過ぎるって言うけれど。愛おしいんだから、仕方ないじゃない」
「アラナ、ごめんね」
「謝ることじゃないの。少しも。ただごめん、一言だけ言わせて」
大きく息を吸い込んで
「ちっくしょおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
神の叫びは、洞窟中に響いた。
※※
祭が、始まる。