六一〇年 宴の前
神明暦六一〇年の秋口は、これまでにない山の恵みに満ちたものであったと言う。
一〇年前に神の座を受け継ぎ、アマランスの山々を守り続ける、赤い髪の娘イオウェズ。
彼女の一〇年は、それなりに多くのことがあった。
天地に満ちる精霊ナトギの声を聞いて、世情の様子を見守った。
死したる者の魂が死霊となり人に憑こうものなら、死霊憑きの手を握り浄化を続けた。
彼女の浄化を受けた者の中で、その異能を受け継ぎ炎を操るワノトギを生んだ。
浄化を受けるのが間に合わず、人をとり殺してしまった死霊は悪霊となり、それは彼女の唯一のワノトギである青年カルヴァトが滅して回った。
一人の神器の御代において、ワノトギが一人だけしか生まれないというのは異常であったが、かのワノトギ・ゴウテツヤマクマゴロウは言った。
「因果関係があるのかはわからないが。ワノトギの数というのは、死霊・悪霊の数と比例しているらしい。あのイオウェズ様の見守る世界には、そもそも死霊が少ないんだ。人がみな満ち足りて、未練を残して死ぬこともない。そういうことだ」
山岳地帯アマランスは安定しており、その地には十五を超える集落が存在する。
人々は神霊イオウェズを信仰し、彼女の座す神殿に供え物をかかさない。
飢えを知らず食を必要としない神が、唯一口にする神房の果実マスカダイン。
夏の終わり頃から採集され、冬の訪れまで、神殿の食卓からそれが消えることはない。
神一人ではとても食べ切れないそれを、五人の眷属にも一緒に消費してもらい、なんとか腐らずに済ませている。
秋である。
収穫を祝う、神祭の時期である。
村々が、神への感謝を伝えるために、神殿のある洞窟の前でめいめいに収穫した獲物果菜を持ちより、大きな宴を行う。
その歓声に引き寄せられひょっこり顔を出すのも、神霊器の役目である。
明日の夜を祭に控え、洞窟の前には各村々の顔役や働き手、子供達が集まっている。
神殿の奥にあるこの世と隔絶された向こう側にある神域の神殿で、神霊であるイオは感じている。
見てはいなくても、精霊ナトギを媒介にして人々の息吹を感知する。
傍らで、彼女に仕える眷属の娘イルが声をかけた。
「イオ様、今年も豊作のようですよ」
「うん、そうみたいだね。ついこの前恐ろしい出来事があったけれど、皆の顔に笑顔が戻って嬉しいよ」
先日のことである。
マスカダイン島全てに影響を与えかねない巨大な悪霊が生まれ、島中の九柱の神霊が共同戦線を張る事件が起きた。彼女の分身に等しいワノトギ・カルヴァトも戦いに参加し、貢献したと言う。
このアマランスの民にも、死人が出た。
それでも、彼らはこうして自分への感謝の祭を行ってくれる。
イルが続けた。
「死したる者たちの冥福を祈り、その魂を神域に導くのも、神霊の務め。イオ様への奉納は、彼女達の鎮魂なのですよ」
「そうは言うけれど、神霊に魂を導く力なんてないよ? 肉体から離れた魂が神域へ行くのは、もう、果実が地面に落ちるとか、日が東から昇って西へ沈む、とか。そういう類の話なんだけれど」
「いいんですよ。人々は、あなた様が連れて行ってくれると思っている。だったら、それでいいんです」
そういうものか、と腑に落ちないものを感じたが、イルが言うならそうなのだろうとイオは思う。
いつだって、イルの助言は正しいものばかりだったから。いつも、一緒にいてくれたから。
「そう言えばイオ様、先ほどカルヴァト様がお見えになりましたが、御通ししても?」
もちろんいいに決まっている。カルヴァトは、イオにとって息子のようなものなのだから。
イルは主人の承諾を得ると部屋を出て、人を一人連れて戻ってきた。
深紅の髪をした、無駄に背の高い青年は頭をぶつけないように扉をくぐると、イオの前でひれ伏した。
「イオ様、お久しぶりです。ただいま戻ってきました」
「お帰りなさいカル」
七年前、ボロボロになって神殿にやってきた死霊憑きの少年は、魂に死霊を飼う異能の人ワノトギとなって生まれ変わった。そして世界を旅して人々を助けている。
あの時の頼りなさげだけれど、芯の強さを持った眼をした男の子は、たくましい男に成長した。
というか、成長し過ぎであった。
一般成人よりもはるかに高い。
おかしい、ワノトギも神霊ほどでないにせよ寿命が延びる分成長が遅くなるはずなのに。
イオは八歳で神霊を宿してから、この十年で拳一つ分も背が伸びていないというのに、目の前の分霊器は、倍近く縦に伸びている。
「また身長が伸びたね」
嫌みのつもりで言ったのに、彼は全く頓着せず、にっこりと笑って応えた。
「はい! また背が伸びちゃって困ってしまいます」
もう一言くらい何か言ってやろうかと思ったが、そんな笑顔をされては溜息をつくしかなかった。
神霊となって十年。
もう、あの小さな山村で、狩人の娘として生きていた時間よりも長く、この神殿の中だけで過ごしている。
自分も十八になった。見た目は子供のままだけれど。
あの頃のことは一度だって忘れたことはないけれど、父と母は自分のことを覚えてくれているだろうか、今会ったとしても、わかってくれるだろうか。
「……、わかるに決まってるか、全然顔変わってないし、背も伸びてないし、子供のまんまだし」
「イオ様、何か言いました?」
いえ、何も。と応えて話題を変える。
「シュシュは元気?」
カルヴァトは、自分の胸に手をやって応える。
「はい、お陰さまで。ただ、今は眠っています。三日前に強い悪霊を浄化するのに力を使い過ぎたみたいで」
彼の魂の中には、もう一つの魂がある。かつてカルヴァトにとりついた、死霊。今はトギと言う名の精霊となり、彼に力を貸している。
ワノトギの最大の異能。悪霊祓い。人を殺してしまった死霊は悪霊として人に害を加え続ける。そうなると神霊の力を受けても浄化はできなくなる。その最悪の場合、ワノトギだけがそれに対処ができる。最悪の場合、神が取りこめぬ穢れを打ち祓う神兵が、ワノトギの本質であった。
自分からその話題を振っておきながら、顔が少し曇る。
「向こうでは、まだ悪霊が出るの?」
「先日の大禍で死霊が大勢生まれ悪霊になってしまいましたがく、土地のワノトギが総動員で対処してなんとか落ち着きましたよ。向こうでも、神祭の準備は進めています」
それを聞いて、少しだけ安心する。
「ごめんね。まずは、カルが無事に戻ってくれたことを喜ぶべきだったのに」
「とんでもありません。俺はいつだってここに帰ってきます。今は、ここが俺の家だから」
なんとなく、湿っぽい空気になってしまった。
切り替えが下手な子供であるのを見越して、間に入ったイルが伝える。
「さあ、イオ様、カル。お祭りの準備をしなくちゃ。イオ様だって背が伸びちゃいましたからね、明日のために新調した神装も袖通してみなくちゃ。カル君だって、そんな旅してますみたいな格好しちゃダメだよ、明日は神の眷属としてもてなされる側なんだからね」
急に張り切る従者に目を丸くしながらも、彼女の優しさを肌に感じてしまう。
「今夜にも明日の祭の仕切り番の村の人が挨拶に来ますからね! イオ様は急いで準備しないと。ま、裾直しも終わってるし問題ないけど。お化粧もしないと。これは大忙し。ほらカル君、男の子は出てって出てって」
しかし、この挨拶というのがどうにも億劫だ。表の洞窟の祭壇でちょこんと座って祈りの言葉を捧げられるのはどうにも座りが悪くてたまらない。
カルヴァトが出て行ったあと、イルに服を脱がされながら聞く。
「いいですか、イオ様。今年は、ケス村の番なんですよ」
はて、そこはどこにあった村だったか。
ケス村。
……ケス村?!
「ちょ、それ私の故郷?!」
眼を大きく丸くするイオに、いたずらぽく年上の従者は続ける。
「しかも若衆頭が名代として挨拶に来るそうです」
嫌な予感しかしない。
「私さっき見てきたんですけど、なかなかな二枚目でしたよ。デンタナって若者」
それ、私聞いてない。と反論してやりたかったが、言葉が出なかった。