六〇三年 神霊イオウェズ 初めてのワノトギ
ありえなかった。
神明暦六〇三年。
神となり三年。人よりも長い寿命を得て、成長もその分遅くなった身ながら、背も少しだけ伸びた自負があった。
彼是、十五人の死霊憑きを救った。救えなかった七人を、決して眼をそらすことなく見送った。
民草から供えられたマスカダインも、もう数えられないくらい口にした。
眷属であるスフから、文字というものを教えてもらった。
神殿にあった『書』というものを読むこともできるようになった。
髪を、自分で梳かすようになった。
そうして、自分の在り方に少しだけ自信をもって過ごせるようになった。
それは、その自信を全て打ち崩す、出来事だった。
「なんで? 試練は成功したのに。どうして死霊が体から離れないの?!」
夕闇の迫る刻。
その少年は一人、神殿を訪れた。
すぐに死霊憑きだとわかったのは、イオの眼に映る精霊ナトギ達の騒ぎ方が尋常でなかったことと、その少年の肌という肌に浮かんだ赤い疵のせいである。
死霊に憑かれた者の体に現れる蚯蚓腫れ。
それが、彼の体を締め付ける縄のように、彼にくらいつく蛇のように、全身に在った。
神殿に足を踏み入れるよ同時に意識を失った少年はイオの眷属によって運び込まれ、即座に試練が実行された。
彼の手を握った時の、ぞっとするような冷たさをイオは覚えている。
もう、間に合わない手遅れやもと言うような少年の右手を、強く握りしめて、力を送った。
試練は、成功した。成功したのだ。
疵は見る見る消えて、息は落ち着き、肌に血の気が通い始め、手にぬくもりさえあった。
ほっとして、彼の顔を見て、イオは怖れた。
彼の体の中に、死霊がいまだいたからである。
死霊は、神の力を受けて浄化され、神域の中に溶けて消えていくのが、条理である。
なのに、そこにいる。
「どうして……死の力は消えているのに、何で」
うろたえる。初めて試練に失敗した時のことが、脳裏に浮かぶ。初めて眼の前で民が死んだあの日のことが。
神霊は、眼に涙を貯めながら従者の名を呼んでいた。
裏の神殿に待機していたイルが慌てて神殿に現れ、神霊に駆けよった時。その眼の前にある状況を見た時。
イルは、祝うように口にした。
「イオ様、おめでとうございます。ついに、あなた様のワノトギが生まれましたね」
ワノトギ。
その言葉を眷属より聞かされた時、イオの中の神霊が、それを思い出した。
「この男の子が、私のワノトギなの?」
※※
それから三日が経ち、少年は未だ眼を覚まさないでいた。
今は裏の神殿の一室で休ませている。
神霊の力を受け継ぐと、それまで神霊の器として生きてきた者達の知識も受け継ぐため、彼女はワノトギというものがどういうものかの知識はある。
神霊の力によって死霊憑きが試練を受ける。成功し浄化されるか、失敗し人諸共消滅するかの二択。
ただし、例外がある。
試練に成功しながら、神の力で浄化された魂として人の体の中に残り続ける霊が存在する。
それは、トギと呼ばれ、神聖なるものとなる。
そして、それを体内に取り入れた人は、トギを介して神霊の力を使うことができるようになる。
神殿に座し、守護の柱となる神霊器。
大地を彷徨し、異能でもって人を助ける分霊器。それがワノトギ。
そういうものに、少年は成った。
「いや、そんな大したものではありませんよ」
ワノトギの娘は、そう言って恥ずかしそうに否定した。
少年が眠りについたままの昼間。太陽が天頂に来た頃に、現れた娘は、定期的に神殿を訪れていた顔なじみであった。
曰く、彼女はワノトギであるという。
島の集落を渡り歩き、島に五つあるという神殿を巡礼し、死霊に憑かれた者を最寄りの神殿まで案内し、行く先々で揉め事が起これば、己の範疇で介入し島の治安を守る。
この神殿に来る時も、大抵は死霊に憑かれ苦しむ者を運んでくる時だった。
ワノトギというもののあるべき理想を体現している者として、有名であることを眷属から聞いている。
紫色の髪をした、自分と同じくらいの背の少女。
しかし、自分は実年齢と変わらないが、彼女の方はかなり年上であるらしいことはわかった。下手をすれば、二十や三十は上ではないか、と思う。神霊ほどではないが、ワノトギも寿命が長くなり、成長と老化が遅くなる。
気心の知れた少女を裏の神殿の自室に案内し、マスカダインを勧めながら話をする。
話題はもちろん、新しく彼女の手でワノトギと成った少年のことである。
神殿を出ることなく一生を過ごす神霊の代わりに島を守るワノトギという仕組みについて語ったところ、そのワノトギである少女は困り顔で
「いや、そんな大したものではありませんよ」
と言うのであった。
「ワノトギは眷属とは違い、神霊に仕える務めが発生しないのです。確かにほとんどのワノトギは死霊憑きを探して神殿に連れていくことを生業としています。それなら食いっぱぐれがありませんからね」
「ワノトギは、お腹が空くの?」
「ええ、基本的には寿命が長いことと異能がある以外は人間ですから。正体を隠して人の中で生きる奴もいますし、その異能を使って全く違う職に就くこともあります。鉄を扱う職人衆の開祖はユシャワティンという神霊から力を授かったワノトギと言われています」
「そう言えば、神殿の書庫にもそう書いてる記録盤があったよ」
「(羨ましい)まあ。そういうことです。しかし、いい面ばかりじゃない。力の使い道を間違えたアホもいます。有名から言えばポリアンナ、ヨシュア、危うさならべセナート、ミカワがヤバイ」
「それも記録盤にあった」
「(やっぱりな)ワノトギは、自分で生き方を決めることが許されるのです。俺が島を回ってるのは、まあ御袋様がしていたことを真似しているだけで、それがワノトギがしなければならないということではありません。集落によっては自分達で神殿に仲間を運ぶこともあるだろうし、一人で来る者だっている」
「そうか……よかった」
「?」
「もし、私に出会ったことで、ワノトギになったことで生き方を押し付けられてしまうことになるんじゃないかって、怖かったの」
「……。イオウェズ様」
「イオでいいよ。友人は皆、そう呼んでくれているから」
「イオ様。あなた真面目すぎる。そんなに必死に神様やらなきゃならないなんて、思わない方がいい」
「皆にそう言われる」
「ワノトギがまず選ばない道というのがあります。自分の故郷に戻ることです」
「……」
「死霊なんてのは、殺しか飢饉でも絡まなきゃ生まれません。それに憑かれなきゃいけないような現場にいた人間は、概ね何かしらの事情を持っているんです。そして、そんな死霊の成れの果てを体の中に残したまんまの人間が、村に受け入れられるかどうかと言えば……」
「そんな言い方しないで。それじゃあ、ワノトギは幸せになんてなれないって言ってるみたいだよ」
「どのような選択をするにしても、それはあなたのせいでもお陰でもなく、そいつ自身が決めたことだってこと、わかって欲しいんです」
そうして、どちらも続ける言葉を失って……。
『おい、嬢。お前どうしてそんな言い方するかね。まるで俺らトギが厄病の神の類みてえじゃねえか。新しい神様がトギとワノトギに偏見持つような言い方するんじゃねえよ』
少女二人、どちらでもない声がした。頭の中に直接響くような、不思議な感覚。
ワノトギの娘は苦々しい顔になり。自分の頭上辺りに視線を向けて言う。
「トギ・ナルカミラ。今は娘同士で大事な話の最中なんだ。化物は眼瞑って黙ってろ」
まるで宙に何か在るように声をかけると、また妙な声が響く。大人の男性の声である。
『お前自身がワノトギというものに懐疑的なのはいいが、それを純粋無垢な神様に押し付けるな。それはこの娘さんが自分で判断することだ。後、イオ様の言う通りだ。自分は幸せになれないみたいな言い方はすんじゃねえよ』
「お前がイオ様言うな。それは友人の呼び方だ」
『ツッコムとこ、そこかよ』
イオはとりあえず会話に介入した。
「あの、誰かいるの? その、トギ・ナルカミラって今言ったけれど。もしかして、そこにいるのが、あなたのトギなの?」
ワノトギはしぶしぶ認める。
「ええ、恥ずかしながら、俺の魂と共にあるトギです」
『はじめましてだな。神様。俺がトギ・ナルカミラだ。普段は宿主の中に在るんだが、今日は出てきちまった』
トギが喋るということは、今日初めて知った。
『浄化されることで、本来の意識を取り戻したのさ。とは言っても魂が再構築されているから、生前の本人そのものってわけでもないんだけれど。まあ大体同じもんだ』
「だから、お前なんで出てくるんだよ」
『お前の言い方じゃ伝わらねえからだよ。あのな、イオ様。こいつが言いたかったのは、ワノトギにはそれぞれの生き方があるけれど、それは人として責任を持って選ぶことだから、あんたがそんなことで悩んだり苦しんだりして欲しくねえってことだ。それだけはわかってやってくれ』
「うるせえ! 崖から突き落とされて死んだヤクザモンの死霊が大人ぶるな。なんで私に憑いたんだよ」
『お前の母親に憑いて悪霊から守るつもりだったのに、間違って胎ん中にいたお前についただけだっての』
仲がよさそうに物騒なやりとりをしている二人に眼が点になっているイオに、ようやく両者が気付く。
おろおろするワノトギに、微笑んで見せる。
多分、そこにいるであろうトギに、視線を合わせる。
「トギさん、大丈夫ですよ。私、ワノトギさんが優しい人だって、わかっていますから」
自分がこんなに優しい声が出せることを、イオはこの時まで知らなかった。
「女神だ」
『女神だな』
※※
次の日、ワノトギを神殿に寝かせている少年に会わせた。
「先代のイオウェズ様から試練を与えられたワノトギの知り合いがいます。このガキが目覚めたらそいつに面倒を見させましょう。同じ異能を持つ同士、うまくやれるでしょうから。もし神殿にいたいと言うのなら、それはイオ様にお任せします」
本音を言うと、神殿にいてくれると家族が増えてうれしいなと思ったりしていたが、眷属達の手前無表情でいた。
次の日、少年がついに眼を覚ました時、第一声が「帰らなくちゃ」だった時は、少しがっかりだった。
紫色の髪のワノトギは、この試練を受けてから赤毛に変わってしまった少年に、念を押す。
「ガキ、お前自分の立場を理解しているな? 死霊に冒され、試練より生還した。ただし、もう前のように生活はできないぞ。故郷の者たちがお前を見る眼も違うだろう。おそらく村を出る時に、死出の旅路であることは覚悟したはずだ」
少年は、まっすぐに答えた。
「そう言う偉そうな君は誰さ」
「俺はワノトギ・ゴウテツヤマクマゴロウだ」
「何それ、本名なの?」
「うるせえ、ゴウテツヤマクマゴロウ組の頭領は代々名乗らなきゃいけないんだよ。ま、お前を救ってくださったのはそちらの神霊イオウェズ様だ。礼は言っておけよ」
神霊の名を聞くと、少年はベッドから飛び降り、同じく赤い髪の少女にひれ伏す。
何か言いだす前に面をあげさせ、椅子に座らせた。
「神様、ありがとうございます。何もお礼ができず申し訳ありません。お渡しできるのは僕の命くらいしかありませんが、どうか、一度故郷に帰らせてもらえないでしょうか。すぐに戻ってきます。約束します」
「対価を求めるつもりはありません。死霊からの救済こそが、信仰に対する対価と思っていただいていいのです。故郷に、帰りたいのなら帰ってもいいのですよ。君が自由に選んでください」
「帰れません。帰れないんです」
深くは聞かない。
「けれど、シュシュが、シュシュがここにいるんです」
少年が、自らの胸に手を当てる。
視えはしない。けれど、いるのだろう。
ワノトギとなったからには、その胸の内に、そのシュシュというトギが。故郷を見せておきたい誰かが。
「ワノトギ・ゴウテツヤマクマゴロウ。この新しいワノトギのことをお願いしても」
紫髪の少女は、姿勢を正し、眼を細め、跪いて応えた。
「御意のままに、火神イオウェズ」
その夜、一泊して、朝早く二人のワノトギは神殿を旅立つこととなった。