六一〇年 少女から青年への禅譲
少女は問う。
「ワノトギであることは、不幸なのかな」
青年は答える。
「ワノトギとは状態の一つ。それだけに左右される程に人というモノは浅くない。師匠、あなたが私に教えてくれたことですよ」
神明暦六一○年。
柔らかな風の吹く、小高い丘。
その頂上で少女と青年が、向かい合うようにして座っている。
ワノトギ・ゴウテツヤマクマゴロウという名の少女は一人、杯を傾ける。
ある果実を甕の中に付け、特殊な腐らせ方をすることで、不思議な香りのする飲み物が生まれることを、百年以上前にある<悪霊払い>が発見した。
それ以来、その果実発酵種の製法は口伝で伝えられ、製造甕を管理する者は、代々ゴウテツヤマクマゴロウと名乗っている。最初に発見した男の名であるとのことだが、もう伝承も残らぬ程昔のことゆえ、真偽は不明である。
ただ、その名を受け継いだ少女が、今夜も酒の味を噛みしめる。
青瓢箪の中身をくりぬいて作った器をくいとかたむけ、喉をうるおし、ほうと啼く。
至福を噛みしめ、空を見上げる。
少女は、観月を趣味としていた。
これまで人よりも長く生きてきた。月も何度も見上げた。それでも、いつになっても月光に翳りはない。 月の寿命とは、いかほどのものか。
益体もないことを想いながら、酒を煽る時。
何もかもが曖昧になる瞬間。
その時だけ、少女は素直になれる。
自分の目の前で、同じようにたたずむ一人の青年に、なんでも口にすることができるようになる。
「ギョクロ。お前はワノトギであることは不幸であると思うか?」
少女の言葉を聞いて、それまで微動だにせず身を夜闇に浸らせていた青年は、視線を少女にしかりと向ける。少し呆れたような声で、答える。
「師匠、ワノトギとは状態の一つ。それのみで人生が左右されることはないと、私に言い聞かせ続けてきたのはあなたですよ。天命に与えられた役割を十全に果たす。死霊に冒され、ワノトギとなってでも生きると決めた時。そういう生き方を、選んだんです」
十分に若い青年と、それよりも輪をかけて若いながら師匠と呼ばれる娘。
二人の関係は、外見には左右されない。
今から十年前、死霊に憑かれ死の分かれ道にいざなわれた青年。彼の前に現れ生きる道を示した少女。
青年の名はギョクロ。十年前にワノトギ・ギョクロとしての生を得た男。そのまま<悪霊払い>としての道を進み、彼女に師事し、共に十年の日時を過ごしてきたのだ。
マスカダインと呼ばれる島がある。
九柱の神霊により支えられた肥沃な大地。
そこでは、未練を持って死んだ人の魂は死霊となり、生きる人を襲う。
死霊と相対す者をワノトギと呼ぶ。
そして、ワノトギとは、一度死霊に取り憑かれ生死をさまよった者が、成る。
「俺達の務めは、死霊につかれた人を神殿へと導くこと。そして、間に合わず人をとり殺した悪霊を滅ぼすこと。俺達自身には、死霊を浄化してやる力もなく、間に合わなかった穢れをなかったことにするだけだ」
「師匠、そんなことも。そんなことも、師匠が最初に私に教えてくれたことじゃないですか。『自分の力で人を救ってやろう、などと考えるな。この力は残滓だ。死霊に憑かれた体を神霊に救っていただいたことで残った力の絞り粕で、それでできることをしているだけだ』と。何度も、何度も私に教えてくれた……」
「それがなあ。それが、最近辛くなった。はは、俺も年かな」
青年は焦った。
こんなに弱い言葉を使う彼女は、初めて見た。
そんな弱い言葉を使うことに、反抗するような、炎のような少女だったのに。
彼女の、オーキッド花弁のような髪が、ゆらと揺れた。
うなだれたのだ。
「ギョクロ、もしもの時は」
「もしもなんてありません。この世で一番強いワノトギ・ゴウテツヤマクマゴロウに、もしもなんて」
「ギョクロ、もしもの時は、お前が見届けておくれ。俺の死も。この島の未来も。俺達がやってきたことに意味があったのか、無意味な徒労だったのか、この島は死霊と悪霊に埋め尽くされて滅ぶべきなのか、俺達がこの島の美しさを守ってきたことは、正しかったのか」
そうして、少女は腰に吊るした青瓢箪を青年に渡す。
それは、ただの物の譲渡ではなく。
「今日より、お前が第五代ゴウテツヤマクマゴロウだ」
自然と涙が出ながら、手を伸ばし。
「師匠、私は……、酒飲めないんです」