VS『迷宮の主』――上
巨狼の頭蓋骨の窪んだ眼孔に暗い炎が灯る。ゆらりゆらりと形を変える青白い炎には、見る者を凍えさせるような冷たい死の気配が漂っていた。
小さな炎は淀んだ空気を吸い込み、一気に爆発するように火力を増し――
「放てッ!」
そこへ幾多もの流星の如き魔術の雨が降り注ぐ。いちいち相手の動きを待ってなどいられない。一目見た瞬間から、頭の中で警報を打ち鳴らす第六感が嫌になるほど告げている。目の前にいる奴こそ『迷宮の主』だと。
「後の事など考える必要はない! 死力を振り絞れ! 我らの力で終止符をッ!」
フィトーが内に秘めた激情を爆発させ咆哮を上げた。
不安に眠れぬ夜に安眠を。終わりなき戦いに終戦を。この終わらぬ悪夢に終止符を。
迷宮に潜る前に建てた誓いを胸に、次々と戦士たちは砲声した。
己の手で、この時をもって、全てを終わらせるために。
――【ライン・フレイム】【ライン・ボルト】【ライン・アイス】
言霊が反響し、炎が、雷が、氷が、命を奪う事を目的とした光線となり穿たれる。迷宮の主に動きはない。魔術の全てが容赦なく襲い掛かる。粒子のような光の粒を含んだ粉塵が、辺り一面にもうもうと立ち込めた。
「やったか?」
どこかで誰かが呟いた。
思わず新月は顔を顰める。抵抗する間もなく『主』に全力が突き刺さったように見え、その言葉を言いたい気持ちもわかる。
だが、それはフラグと言うものだ。
立ち込める粉塵が内側から爆発した。
【グるルゥァオォォオオオオ!】
長く重苦しい咆哮と共に全てが吹き飛ばされる。反撃に備え盾を構えていた騎士たちが、顔色を失った青白い表情でまとめて倒れこみ膝をつく。
ただの咆哮ではない。ここに至るまで苦しめられた《スケアリー・ボイス》、その強化版に近い主の雄叫びに脳を直接ぶん殴られたような衝撃を覚え、新月はふらつくように膝を落とした。
(これ、やば……)
喉が引きつる。頭の奥で耳鳴りがする。息苦しさに世界の全てが水の中に沈んだような錯覚覚えた。ぐらりと視界が歪んでいく。
《こよみ、しっかりしてください!》
アディアナの励ましの声も、ガラス一枚隔てた向こう側から呼びかけられているようにおぼろげなもの。
ふらりと歪む視界を何とか前方に移動させれば、全てを吹き飛ばした主の姿が映し出された。
以前変わらず中央で鎮座する、狼の頭蓋骨に傷はない。
あれだけの攻撃を受け、なお無傷。
【ルルルァァォオオオオオオオオッ!】
燃え盛る青白い爆炎が、暗い眼孔の奥で爆発し大口を開けて獣が吠えた。
そして変貌が始まる。
◆ ◆ ◆
轟く咆哮を放つ『主』の燃え盛る眼孔の奥から、どろりとした黒い液体が溢れ出す。どこまでも飲み込まれてしまいそうな、見ているだけで不快感を催すような、不気味な液体が見る見るうちに巨大な狼の頭蓋骨、全てを覆い隠して行き、漆黒の球体へと変化していく様をじっと真紅の双眸を光らせクラウスは見つめていた。
(まあ、あれだけで終わる様なら苦労はしないな……)
魔術による集中砲火。無傷という結果には終わったが、一切の誇張なくクラウスに落胆はない。もとより、あの程度で終わるなどとは考えていなかった。
(数えきれない悲劇を生み出してきた『迷宮』、その『主』ともあろう魔獣が、あの程度の攻撃で死に絶える訳はない)
冷静に思考を巡らせながら、真紅の双眸で戦場をゆるりと観察した
『主』が放った『スケアリー・ボイス』は今までの魔獣のものとは一線を画す強力無比な一撃だった。
咆哮の衝撃に顔色を失い、膝をつく騎士たちを見た。
だが、今尚地に屈する騎士はここにはいない。血の気を取り戻した表情で、歯を食いしばり、瞳に闘気を燃やして剣を握る。
彼らは地獄を終わらせる為にここにいる。もう恐怖で蹲る事はない。
(うん、大丈夫そうだ。ここに来て一度、折れたのが大きいかな。あの経験があったから、心をより強く保てている)
《スケアリー・ボイス》に引き起こされた恐怖の経験は記憶に新しい。そこで一度折れた者も折れなかった者も、二度はないという覚悟と共に強く心に深く刻まれていた。
小さく安堵の息を零したクラウスは、そこで見落としていた影に気が付き僅かに驚きで目を丸くさせた。
(あれは、コヨミ⁉)
この迷宮攻略の案内を買って出てくれた白髪の少年が、ぐったりと力なくアラムに背負われていた。彼の傍を憑いて離れない、不可思議な黒い人型も不安そうに彼らの頭上を漂っている。
「何があった、彼は大丈夫なのか?」
「クラウス様っ! ええどうも、《ボイス》にやられたようで」
「何だって? コヨミには《ボイス》は聞かない筈じゃあ……」
「俺もそうだと思ってたんすけど」
危険のない位置まで下がろうとするアラムの元へ駆け寄り、背負われた新月の顔を覗き込む。色を無くした蒼白な顔色に焦点の合わない瞳、何かを言おうとしているのか唇が時折ぴくりと動くが、意味のある言葉は出てこない。
(《ボイス》に中てられた割に症状は軽い方だな。深く飲まれた訳じゃあない……)
新月の状態を見て簡単な判断を下しながら、解けない疑問に首を傾げる。
つまり、《ボイス》が効ない筈の新月こよみが何故こうして倒れているかという事。前回、完璧に防いで見せた事を考えるとどうにも腑に落ちない。
「私が悪いんです」
クラウスの疑問に声を上げたのは、不気味な見た目とは裏腹に綺麗な声を持つ黒い影だった。
「君が?」
「私が守るのが遅れてしまったせいで……」
どこか沈んだ調子で語る彼女の言葉によると、今まで《ボイス》を防いでいたが、今回は防御に移るのが遅れてしまった結果らしい。
成程、とクラウスは一つ頷いて、アラムの背でもごもごと口を動かす白髪の少年と目を合わせると、落ち着かせるようにゆっくりと口を開いた。
「大丈夫、元々君は戦わないで良いという約束だ。僕らの勝利を最前列で見ていてくれ」
「――――」
「アラム、コヨミをフィトーの傍へ。恐らく彼の傍が一番――」
言葉の続きを言う事は出来なかった。
轟! という爆風が、音の全てを掻き消したからだ。
驚愕に目を見開く前に、次の動きがあった。
爆風の中心点。漆黒の球体がごぼりと零れ、中から白濁の骨が顔を見せた。
何かが起こる。
――――否、ここからが本当の戦い。ついに『主』が反撃に出ようとしている。
敏感に肌で感じ取った確信に近い予感に、クラウスは紅い双眸を鋭く尖らせた。
「行け」
「了解ッ」
慌てて駆け出していくアラムを背にクラウスは腰の剣を引き抜く。
「――【目覚めよ】」
言霊を唱え三つの刃を顕現させると同時に、視線の先で漆黒の球体が崩壊した。どろりと糸を引きながら初めに顔を出したのは巨大な狼の頭蓋骨、違ったのはそこから先。べちゃりと水滴を飛ばしながら、巨大な片腕が地面を叩いた。
「これは凄いな……」
見る見るうちに人と同じ、正し人など軽く握り潰せそうな大きすぎる両手が現れる。流動する黒い液体で作られた両腕を支えるのは、狼の頭蓋骨の下に生えたこれまた巨大な体躯。頭部とサイズを除けば人の上半身にも見えるその身体を作っているのは、ウゾウゾと喚く屍だった。
【ギィッキィ!】【ガアァァァゥウウゥゥ】【イキィァ! カァッコォ!】
口々に耳障りな声を上げる屍の集合体、それが『主』の『肉体』だった。
巨人の如き『主』に両足はなく、代わりにあるのは太く長い触手。黒い液体に溺れているような屍たちで出来た触手の数々を蠢かせ、ゆっくりとした動きで『主』が動いた。
進軍する。進撃する。狼の頭部を持った屍の巨人。
全身から死臭を発し、背筋の凍る死のイメージを突き付けてくる『主』に負けじとクラウスは叫ぶ。
「恐れるな! 撃てッ」
閃光が煌めき、魔術による砲撃が始まる。
一身に魔術の雨を受けながら、自らを形作る屍全てを統括する狼の頭蓋骨で『主』は咆哮を上げた。
【ガルゥゥアアアアアア!】
再びの《スケアリー・ボイス》。今度は膝をつく者すら居なかった。
しかし、今度の《ボイス》は精神だけではなく、物理的な破壊力を持って放たれる。
ゴッ! という爆音と共に。
撃ち放たれた魔術の全てが掻き消えた。
『主』を中心に全方位にまき散らされる音の爆撃は、魔術を打ち消すだけに留まらず盾を構えた騎士たちの壁に激突する。
明確な殺意をもって放たれる魔術を、さらに上回る破壊力に全身を打ちすえられる騎士たちは、自らの肉体が上げる悲鳴を聞きながらも、決して膝を落とすことはしない。
――【オーバー・フィジカル】
魔術とは炎や雷といった、かくも派手な砲撃ばかりではない。人ならざる化け物を屠るために、自らの肉体を強化し人の枠組みを超えた力で対抗する。
「この程度かッ! のう、『主』よッ!」
挑発するように『主』をせせら笑い、大剣を片手にゴウトが駆け抜けた。強化魔術で全身を赤く染め上げるだけに留まらず、体躯が一回り膨れ上がったと錯覚させる程の猛々しい気迫が、真紅の蒸気となって立ち昇る。
「るるルォオ雄ォッ!」
老兵が老いを感じさせぬ獣の如き咆哮を上げた。ヘルム越しの隙間から除く眼光すらも紅に染まる。血の色に染まる。
重たい全身鎧を身に着けているとは思えない速度で『主』へと肉薄し、握りしめた大剣で斬りかかる。
「おおおおおおおッ!」
その広く頼もしい背を追うように、全身を赤に染め騎士たちも地を蹴った。
終戦を。終止符を。その為だけにここまで来た。
何度でも。反芻しよう。忘れぬように。折れぬように。
何度でも。剣を振るおう。力の限り。命を賭して。
【イィィ! キィッキィッ!】【ウカォォオッ!】【カァカァカァ! アァァアアッ!】
全身全霊を賭した大連撃に、『主』を造る屍の大群が聞くに堪えない悲鳴を上げた。
あるいは剛人の振るう大剣で木っ端微塵に粉砕されて。
あるいは修練の末に研ぎ澄まされた騎士の剣に斬り裂かれて。
あるいは再び始まった降り注ぐ魔術の豪雨に身を焼かれて。
屍の群れは苦悶に満ちた絶叫を上げる。
木々に覆われた大広間に重なり合うように悲鳴が反響していくが、『主』の表情に変化はない。
ゆらりと動く炎の眼球で、眼下の争いをくだらなそうに見下ろしていた。
「――気に入らないな」
声は意外にもすぐ傍で聞こえた。
どこまでも静かで、響く喧騒の渦に簡単に飲まれてしまいそうな囁き声が、確かな熱をもって『主』の傍で空気を震わす。
ぎょるりと炎が回転した。声が聞こえた場所へと『主』の視線がよせられる。
「最高にムカつくよ、何余裕ぶってんだオマエ。殺すぞ」
立っていたのは金髪の剣士。何もない筈の虚空を靴底で踏みしめ、迷宮の空に仁王立ちに立ちはだかる。
その時浮かべた表情を、彼は誰にも見せるつもりはない。その時吐き捨てた言葉を、彼は誰にも聞かせるつもりはない。
ただ一人、目の前の『主』を除いては。
殺意が爆発した。
「疾ィィィ!」
弾ける闘気を声に乗せ、進軍する騎士たちの遥か上空をクラウスが駆けた。靡く純白のコートの尾を引きながら疾走する。二つの紅い瞳が軌跡を描く。
鋼が二つ、光が一つ。
手にした三つの刃を、屍の巨躯目掛けで振りぬいた。
ズァ! と斬りこんだ刃が『主』の頭部、白濁とした巨狼の頭蓋骨に深々と入り込む。
【グルゥガガァァアアアアッ!!】
轟く絶叫と共に膨大な烈風が吹き荒れた。
目の前で炸裂する衝撃波に、小さく丸まって対応するクラウスの体が弾かれた様に吹き飛ばされ、後方の木々で作られた壁に激突する。
「何だ、怒ったのか?」
ダメージはない。仄かに発行する純白のコートが、激突時の衝撃の全てを吸収していた。
口内に溜まった唾を吐き捨てクラウスは薄く笑う。
対して。
返答があった。『主』の眼球ががらりと色を変えた。底知れぬ冷たさを内包する青白い炎が、どす黒く染まっていく。熱く燃え滾る中心から、飛び散る火花の末端までドロドロとしたナニカに染まっていく。見る者に不快感しか与えないような、薄汚い邪悪なものへ。
じゅうじゅうと焼けるような音が響き煙が立ち昇る。幾筋も立ち昇る煙は全て、剣戟や魔術によって傷ついた個所から溢れていた。
クラウスが斬りこんだ頭蓋の斬傷も例外ではなく、黒く濁った煙が消えた後、確かに『主』に刻まれた筈の傷が全て消えていた。
クラウスは口元に浮かべた笑みを拭い去り、剣の柄を再度握りなおす。
どこかでかつて、ある人が言った。『目は口ほどに物を言う』。古くから伝わる言葉の一つ。
成程と、彼は真剣に頷いた。確かにその通りだ。
全ての傷を再生させ、燃える黒い炎の眼球が、痛い程に意味のあるメッセージを突き付けてくる。
――たかだか羽虫が、歯向かうな。
己が強さを疑わぬ、遥かなる高みから化け物は大咆哮を打ち上げる。
【ゴォッ! ガァァァルゥウアアアアアアアアッッ‼】
ぐしゃり、と。
果実がまとめて潰されたような音が響いたのは、直後の出来事だった。
「なッ……、あぁッ!?」
何が起きたか分からなかった。『主』から距離を取っていたクラウスですら直ぐには分からないのだ。『主』の足元でクラウス同様に『主』からのメッセージを受け取っていた騎士たちにも、当然理解出来なかった事だろう。
理解出来ぬまま、死んでいったのだろう。
全てが終わった今なら分かる。大木を何本もまとめ上げたような巨大な剛腕を振り下ろしたのだ。どろりとした液体で出来た拳が、木の根に覆われた地面にめり込んでいる。
じわり、と隙間から漏れ出す赤い命の雫に、亡者が焦がれるように手を伸ばしている。
再びぶちゅっ、と粘着質な音がクラウスの鼓膜を揺する。
またもや『主』の体制が変わっていた。めり込ませた拳とは反対側の手を広げ壁に押し付けている。そこから滴る夥しい赤色に、零れるように落ちた千切れた人の頭部に、思わず眩暈を覚えた。見れば魔術を放っていた魔術師がごっそりと数を減らしている。
(何が……。何が起きた、何をしたんだ! 何も見えなかった!)
『早すぎる』、『目で追えない速さ』、何て話ではない。
全く見えないのだ。振り上げた拳を振り下ろす、魔術師を掬い壁に押し付ける、その一連の動作が微塵も見る事が出来ない。
急速に干上がる喉に唾を流し込む。愕然と顎を落とし、渦巻く謎に脳を回転させていたクラウスは睨むように『主』を見つめ、そこではたと息を飲む。
どろりと燃ゆる漆黒の焔。何一つ映していないような瞳に、クラウスは確かに己の『死』を垣間見た。
「――――ッ‼」
全身の血潮が沸騰した。濁流のように体内を廻り、耳元で轟音を立てる。背筋が凍りつき、次の瞬間真っ赤に燃える。
そこから先はただの勘だった。ただし、今まで幾つもの死線を搔い潜り培ってきた『第六感』だ。
刹那の猶予も許されない。自らの勘を信じ、クラウスの脚が中空を蹴り飛ばす。
身を強引に捩じってサイドステップ。無理やり体制を崩すような無様さで、垣間見えた死神の鎌を回避する。
直後に額から流れ飛び散った汗の雫を磨り潰すような剛拳が、クラウスの背を擦るように掠めていった。
否、それは聊か正しくない。
気づけば、今の今までクラウスが立っていた宙を押しつぶす形で、拳が木々の壁にめり込んでいる。
じんじんと白熱する背中の傷に、まだ失っていないと『生』を実感しながらクラウスは笑った。
自信満々に。自らの勝利を信じて疑っていないような、物語に登場するハッピーエンドが約束された勇者が浮かべるような笑みで笑う。
笑って、言う。
百パーセントの強がりで、彼は言う。
「何だ。躱せない事もないね、それなら楽勝だ」
対峙する怪物が黒を燃やし剣士を見る。金髪を焼き付けるようにじっと瞳に映し出す。
【ガァァ――――――――――ッ!】
気品など欠片もない暴力的なまでに獰猛な、猛る憤怒で叫喚する。
◆ ◆ ◆
ぼんやりと思う。
心配そうに浮遊する黒い人型を視線に収めながら。
新月は思う。
(何やってんだろ、俺……)
力なく横たわる身体には力が入らず、動かす事ができない。視界は霧が掛かった様にはっきりしない。もうどれだけこうしてるのか、時間の感覚もとっくに失われた。
フィトーが怒声を上げていた。ベールに包まれた向こう側で、見たこともない形相を浮かべた片眼鏡の人物が、必死な様子で叫んでいる。最初は治療してくれようとしていたようだが、どうもそんな事をしている余裕がなくなったらしい。
周囲の騒めきで人が死んだのだという事が何となく察せられた。だからといって何かしようなんて思いは欠片も浮かんでは来てくれない。すぐ傍で起こっている筈の喧騒だが、新月にとっては何故だか遠い世界で起こっているように感じられる。
(……どうでも良いや)
これが心が完全に折れるという事なのだろう。靄がかかった頭でのろのろと結論を出した。
何時かアディアナが言っていた。《スケアリー・ボイス》は恐怖を増幅させる声。心を強く持っていれば、飲まれる事はない。
つまりは怯えてしまったのだ。覚悟も何もかも揺らいでしまったのだ。恐怖し、あっさりと。《ボイス》は心の内側に滑り込み、笑えるぐらいに簡単に、欠片も残さず砕いてしまった。
(仕方ねえじゃん。俺は戦う訓練も、剣を振るったことすらない、ただのちっぽけなガキなんだよ。皆とは……クラウスとは、違う……)
《ボイス》を受け弱り切った心がひび割れる。空虚な世界が崩れていく。ぼろぼろと視界の隅から解けていく。まるでパズルだ。
情けないと誰かが言った。心の内側で何をしているんだと、なじる声が聞こえてくる。そんな声も今はただ煩わしい。
怖かった。主が。迷宮が。死が。
今あるのはどうしてこんな場所に来てしまったのだろうという後悔だけ。
覚悟も、思いも、全てが消え去っていく。いや、もうとうに失われてしまったのか。
余りにも情けない結末。
自らの無様さを笑おうとして、笑う事も出来ずに。何もかもに嫌気が差して。
涙が零れそうになる、その瞬間。
「――――」
自らをちっぽけと称する少年は見た。
金髪を靡かせ、紅の双眸を尖らせ、三つの刃を手に『主』と真っ向から激突する彼の顔を。
たった一人で死の化身に果敢に挑む、同年代の少年の横顔を。
――――見た。
◆ ◆ ◆
長引く戦闘に疲労が募り、吐き気がする。喉まで競り上がってくる不快感を無理やり飲み下し、クラウスは宙を蹴る。
空気が押しつぶされる嫌な音がした。振り返れば先ほどまで立っていた場所に巨大な拳が突き刺さっていた。
「くッ!」
的を絞らせないよう不規則な動きを続けながら、『主』の燃える双眸を睨みつける。
一見予備動作も、過程すらも見えない『主』の攻撃を躱すのは不可能に思える。だが違った、予備動作ならあったのだ。『目は口程に物を言う』とは本当によく言ったものだ。『主』の目を見れば何となく分かる。誰を、どこを狙っているのか。
ほんの僅かな違和感。他の騎士や魔術師たちも同じだ。死線を超えて今まで培った『第六感』という不確かな物を頼りに、クラウス達は怪物と渡り合う。
最早それは綱渡りに近い。何とか生の上でバランスを取り、『主』へと反撃を食らわせる。
ゴシャッ! と『主』の拳が木の根に突き刺さったのを見て、クラウスは宙を駆け一気に接近する。幸い『主』の動きはそれほど早いものではない。一度攻撃をした後、二度目に移るのに僅かなインターバルが存在する。
その瞬間を突く。轟音を響かせ『主』目掛けて殺到する魔術の砲撃に紛れ、右手に持った剣を握りしめ、輝く光の刃で『主』の屍の体を切り裂いた。同時に操作した二つの鋼が『主』の体に突き刺さったのを確認して、素早くクラウスは距離を取る。
『主』との距離はそのまま『死』との距離に近い。あまりに近すぎては避けようがない。
「――――クソッ」
いや、例え離れていても避けることは難しい。限界ギリギリで取るバランスは、一瞬のミスで崩れて落ちる。振り下ろした『主』の拳の隙間から鮮血が漏れるのが見えた。
一発、二発であれば躱せるだろう。だがそれが三発、四発と重ねていけば全てを避けるのは至難の業。それも一発でも当たれば即死とあれば尚更。死の恐怖は動きを鈍らせる。
こんな場所には一秒だって長居したくない。長引かせるだけ不利になっていく戦闘。
分かっているのに、決着を着けられないのには訳がある。
「は……。本当、ムカつく……!」
口の中で呪詛を吐く。『主』との戦闘を長引かせる原因が、眼前で繰り広げられる再生だった。どれだけ斬撃を浴びせても、どれだけ魔術を撃っても、『主』は傷ついた体を瞬く間に修復してしまう。
ジリ貧だった。あるいは、『主』の再生力を上回る超火力で押しつぶせば、勝てるかもしれない。その超火力のカードは未だ切らず、たった一枚手元に残ってはいる。
(……駄目だ。今『光あれ』を撃っても、勝てるビジョンが浮かばない……ッ!)
強く存在感を放つ光の剣を握りしめる。
まだその時ではないと首を振って、彼は何かを探すように視線を彷徨わせた。
(弱点を探すんだッ。何かある筈なんだ、どこかに弱点が……)
一心に動かしていた視界に、ボッと弾ける黒い炎が映った。
(来るッ!)
たった一つの予備動作。研ぎ澄ました『第六感』が警鐘を鳴らす。
だが背筋が凍る予感はない。死神の鎌は見えず、狙いは自分ではない事を直感した。
では誰が狙われる?
疑問の答えは直ぐに出た。
世界が切り替わるように、気づけば『主』の攻撃は完了している。巨大な拳が振り下ろされた場所を見たクラウスは、反撃に移るのも忘れて目を見開いた。
「リーベ……」
幼い少女が必死に結界魔術を使い、『主』の拳の下で抵抗していた。
【グルァアアアアッ!】
小さな標的に抗われたの不服だったのか、『主』が轟く号砲を放つ。
それと同時に攻撃が来た。今までのインターバルは何だったのかと叫びたくなるような短い間隔での連続攻撃。
必死に抗う彼女にはもう逃げる力も残っていないのか、膝をつき振り絞るように結界へと魔力を込めた。その顔色は酷く悪く、弾むように息が荒んでいる。
(……あっ)
脳裏で零れる馬鹿みたいな声。そういえば、戦闘を開始してから一体どれくらいの時間がたったのだろうと今更ながらに気付く。
一体どれほどの時間、彼女は一撃死に怯えながら戦っていたのだろう。
気力、体力にも限界はある。一撃死という緊張感の中での戦闘だ、限界は普段以上に早く来る。成人もしていない幼い少女であれば当然、クラウス達よりも早く限界は訪れる。
黒い炎が弾けた。再びの攻撃、狙いは変わらず小さな少女。
ひしひしと感じる死の予感にクラウスは息を飲む。
直後に振るわれる拳。三度振るわれた拳を受け止めた結界が、ぴしりと嫌な音を立てた。
リーベが作り出した結界が、崩壊していく音だった。
三度『主』の攻撃を受けた結界が崩壊していく。あの攻撃を三度も受け止めた事は誇れる事だが、今はそんな事は関係ない。
限界だったのだろう、糸が切れた人形のように彼女はふらりと横たわる。完全に無防備な姿を『主』に晒す。
「~~~~ッ!」
そこまで来て漸くクラウスの脚が空気を蹴る。時間にして数秒という普段であれば僅かな時間、だが今現在の戦闘中であれば余りに致命的な時間。
一瞬だった。ほんの僅かに意識に空白が生まれた。命を削る死闘を繰り広げた代償は小さくない。疲労は間違いなくクラウスにも蓄積されていた。
ただそれだけの遅れが決定的に状況を手の届かない場所へと追いやった。
(何をやっているんだ僕は……ッ!)
視界の端でまるで気を引くように、騎士たちが雄たけびを上げ突貫する。
降り注ぐ魔術の砲撃は確かに威力が上がっていた。
だがそれでも『主』の狙いは変わらない。クラウスの手は間に合わない。待ち構えるのは一つの悲劇。散漫な時の流れの中で、クラウスは近い未来に訪れる凄惨な結末が見えた気がした。
「リーベッ!」
そこへ。
手を伸ばした先に。
巨大な剛腕が突き刺さる。再三に渡る怒涛の連打を受けた木の根の床は崩れ、辺り一面に木屑が舞った。
今までと同じだ。振りかぶる瞬間も、振るった瞬間も見えず、ただ気づけばそこに拳があった。どろりとした液体で出来た腕が木の根を容赦なく破壊していた。
ただ今までとは違う点もある。砕かれた木の根と拳の隙間から、滲むようにして赤い液体が溢れる事はない。
大きく見開いた目を僅かにずらす。拳の着弾点の後方、紙一重の場所に仰向けでアラムが転がっていた。その腕にがっちりと気絶したリーベを抱いて。
救いの手は間に合っていた。例えクラウスのものは届かずとも、別の手はしっかりと。
リーベを腕の中に抱いたアラムが、ずるりと這いずるように動く。
直撃は受けずとも掠りはしたのだろう。片腕がおかしな方向に折れ曲がり、甲冑が砕けて下にじわりと広がる赤い染みを見た。
脚を止めることなくクラウスは駆ける。
最早見るまでもない、膨れ上がる怒気が『主』の五度目の攻撃を告げていた。
(間に合うか⁉)
全身が熱を持つ。疲労に引きつりそうな脚を限界まで酷使した一条の疾走。風圧で荒れる金髪の下で紅の双眸を光らせる。灼熱の闘気が身体を白亜の一矢へと変え、穿つままに二人へと手を伸ばす。
「届い――」
指の先端が触れた。
その時すでに、『主』の攻撃は終わっていた。
始動が見えない。過程も見えない。見えるのは僅かな予兆のみ。そして当たれば一撃必殺。
余りに理不尽な暴撃に、小手先無しの『力』で歯向かう豪傑が一人。
「ふんヌぅううッ!」
全身を真紅に染めたゴウトが、盾を両手で支え『主』の必殺を真正面で受け止めていた。
「ゴウト! 無茶苦茶だッ、大丈夫なのかッ⁉」
「当たり前だろうのォ! 誰に向かって言っとるか、えェ⁉ クラ坊が一丁前に儂の心配なんぞ百年早いわァ!」
ぶちまける怒声には、はっきりと血反吐が混じっていた。銀に鈍く輝いていた甲冑は見る影もなく完全に粉砕され、その下から現れる筋肉の鎧は弾けた血肉と満ち溢れる闘気で朱色に染まっている。
一目で分かる生の極致。死の奈落へと転がり落ちる一歩手前で、烈火の如く滾らせた筋力で抗う。
「儂に構わず、早う行けェッ!」
「ッツ!」
飛び散った血がクラウスの頬を汚す。
燃えるように熱いそれに押されるように、立つ事すらままならない様子の二人を抱え上げ空中へと躍り出る。一先ずの安全地帯まで一気に加速し、魂を削る攻防を繰り広げるゴウトへと向き直る。
そして叫ぶ。
「ゴウトッ、二人は無事だ! 今すぐ退避を――」
ゴグシャァッ! と鈍い音が木の根の下から炸裂した。
そこらの建造物程度であれば問題なく磨り潰せる、巨大な撲殺用鈍器が間違いなく役目を果たしきる。地をも砕く衝撃に大気が震え、吹き飛んだ木屑が雨のように降り注ぐ。
あれだけ力強い覇気を放っていたゴウトの巨体が、見る影もなく消失していた。
『主』の巨大な拳に押しつぶされる形で、完全に。
(…………………………)
頭が回らない。
思考に生じた空白を埋める事が出来ない。
それでも戦いは終わらない。終わることはない。
響く絶叫と轟く爆撃音に何とか意識を取り戻す。
(……必ず。どこかに、どこかに弱点がある筈だ……。ある筈なんだ……ッ。諦めるか、諦められるか! ここで諦めてしまったら、僕は……、何のために僕はッ!)
木の根を撃砕し、めり込んだ拳の隙間から命の雫が溢れ出す。
じわりと零れ見る見る広がっていく赤い色の液体を、クラウスは見ていた。
ただ、見て――――。
「――――あ」
小さく言葉が零れた。
表情が変わった。紅の双眸が細かに揺れた。
固く硬く心の奥底に閉じ込めていた感情が、僅かな亀裂から顔を出す。
その感情を人は『恐怖』と呼んだ。
◆ ◆ ◆
――――見た。
新月は見た。彼の横顔を。見えた顔に浮かんでいたのは、決して新月の思っていたような表情ではなかった。
自信満々に笑みを浮かべて、敗北何てこれっぽちも考えていない、物語の勇者のような表情ではなかった。
「あ――――」
あまりに一瞬の事で現実の事だか分からない。
涙で歪む視界では確証が持てない。
それでも見えてしまった光景は、瞳に深く焼き付いて。
(何してんだよ……、俺はァ……ッ!)
怖くない筈がないのだ。
誰だって死ぬのは怖い。あんな力を持った巨大な『死』そのものに、恐怖を覚えない筈がない。
彼も同じだ。新月と同じく、心に恐怖を持っていた。
だけども、彼は新月とは違う。地に付せず、立ち上がり、立ち向かっている。
(誓ったから! 終わらせるって!)
自分も誓ったのではないか。
皆と同じように。ここに来る前に。亡き友に。
何度でも。何度でも何度でも何度でも。
思い返そう。反芻しよう。忘れぬように。折れぬように。
(誓ったんだ、『仇』を取るって! 誓ったんだ、今度こそ『アイツ』を助けるって!)
もう一度。剣を握ろう。例え手に馴染まずとも、誓いを胸に力の限り振るうのだ。
(誓ったんだよ!)
身体の震えは止まっていた。
驚く黒い人型を視界の端に捉えながら、新月こよみは立ち上がる。
立ち向かう。




