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月下のラビリンス  作者: わたしです
血染めの死門
18/22

迷宮攻略――⑥

「【――光、あれッ】‼」


 先手必勝、クラウスは右手持った剣を振りかざしあらん限りの力で砲声する。

 片刃の刃を二つつなぎ合わせたような不思議な両刃の大剣、その刃と刃の間から光が溢れた。ただ辺りに無規則に降り注ぐのではなく、光は刃の形を取って真っすぐに伸びる。最初の一歩、迷宮攻略序盤にて、泉の上で数多の魔獣を屠った必殺の刃。


 それが再び振るわれた。

 ゴッバァ! と光は破壊のエネルギーとなって吠える魔獣を一掃する。

 まさしく必殺の一撃。圧倒的な破壊力を持つこの技には、当然ながら回数制限が存在した。


 三度。光の大刃を振るえる回数であり、すでに二度使ってしまった以上打てるのは後一度だけ。

 出来るのであれば、二回分を残して『迷宮の主』との戦いに挑みたかった。だがそうも言ってられない。

 劈く音の爆弾と溢れ出す漆黒の液体、そしてその中から蠢きだす魔獣の大軍を前にして、クラウスの脳裏で二文字が躍った。


『全滅』


 最初と同じだ。対処を間違えれば、少しでも出し渋れば致命傷を負う、壊滅する、この攻略が失敗する。

 瞬時に叩きだした未来を前に、クラウスは温存していた刃を解き放つ。

 結果は一目瞭然、逆に壊滅状態に陥ったのは魔獣の大軍だ。


(二発目も使ってしまったのは痛いが、仕方がないか。出し惜しみをして致命傷を負っちゃあ意味がない)


 取り合えずは凌げただろうと一息ついた彼の鼓膜を、ごぽり、と粘ついた音が揺さぶった。

 ありえない。クラウスの両目がみるみると大きく開かれていく。かの一撃は、こちらの戦力が放てる最強の一撃。耐えきるなど不可能な筈だ。


 ゆっくりと、次第に早く、クラウスの視線が巨大な円形をした黒い液体へとむけられた。

 未だに根っこから溢れ続けている筈の黒い液体だが、円形がこれ以上広がることはない。ただその表面に、ぼこり、と泡が膨れてはじけた。

 ぼこり、ぼこり、ぼこり。泡の数はみるみるうちに増えていき、脳裏を否定が埋め尽くすクラウスの視界の先で、ついに液体をかき分け腕が一本飛び出した。


「ば、馬鹿な……ッ」


 クラウスだけではない。光の刃の破壊力を知っている周囲の騎士たちもまた、愕然と顎を落とす。

 泡はいまだに増え続け、ゆっくりとだが再び液体の奥で魔獣の大軍が蠢きだす。

 

「クラウス! やばい、やばいぞ!」


 信じられない面持ちで見つめていたクラウスの意識を取り戻させたのは一人の少年の声。混乱しているのか『念話札』の事など頭からすっぽ抜けているようで、態々駆け寄ってきた少年、新月こよみは青白い顔で止めとなる言葉を叫んだ。


「あっこから魔獣が全部襲ってくる! 全部だ、この『血染めの死門』だけじゃあない! 世界中の魔獣が全部、今この場所に集まってるってアディアナが!」


 言葉を、失った。

 白髪の少年から齎された情報は文字通り声を奪い去り、じわりと絶望が流れ込む心を砕くような魔獣のけたたましい咆哮が再び沈黙を切り裂いた。



◆ ◆ ◆



【ガアアあああォオオオオオッッ】


 劈く不協和音が迷宮の空気をかき鳴らしていく。

 漆黒の液体から身を起こす魔獣の大軍を前にし、新月は喉が急速に乾き張り付いていく感覚を覚えた。

 神様と契約しようが、どれだけ力を得ようが、自信を取り戻そうが。結局、ちっぽけな少年にあの大軍を打破する術など持ちはしない。

 

 この大軍を打破できると思える技を、新月はたった一つだけ知っていた。血の湖の時はあまりの眩しさに目が眩み、その全容を目にする事は叶わなかったが今回は違う。新月が見たクラウスの力強い砲声と共に解き放たれた光の剣は、想像を絶する破壊力が込められていた。

 新月が知りうる最強の一撃。

 しかしそれでも、この状況を打開するには届かない。


「どうするんだクラウス、撤退か!?」

「撤退、か。一体どこへ?」


 答えることなく問いを返すクラウスは苦々しい表情を浮かべて続々と産み落とされる魔獣を睨みつける。


「そもそも一体あれはなんだ。世界中の魔獣が集まってくるってのはどう意味なんだ。説明してくれコヨミ」

「説明なら私がします」


 ぶわりと新月の肉体から染み出すように現れた黒い影に視線が集まる。


「あれは恐らく『獄門』です」

「『獄門』……? 初めて聞く名前だ」

「『獄門』とは簡単に言ってしまえば魔獣たちの通り道。門が開いてしまえば距離に関係なく、瞬時に移動が可能な代物」


 距離に関係なく。それはつまり、世界と世界すらも繋いでしまうと言う事なのだろう。

 かつての絶望。キャンプ場に異音と共に現れた魔獣の大軍を思い出し、新月の背筋を冷たい汗が流れ落ちる。


「距離にかかわらず、ね。成程、だから世界中か。参ったね、なぜ開いてしまったかわかるかい?」

「これも憶測になるけれど、『木』だと思います。『獄門』が溢れ出しているあの根っ子、あれを破壊してしまったから」

「木なら今までも何度か破壊している、戦いの余波でね。あれが特別だと?」

「あくまで推測です。ただその可能性が高いでしょう」


 この『迷宮』に置いて明確な敵と言えば『魔獣』のみ。そこに生える不気味な木になどさほど注意を割くこともないと、誰もが気にしなかった。


「『獄門』か、とんでもないモノが出てきたな。その上で聞きたい、あれをどうにかできるだろうか?」


 一体なぜ『獄門』等という存在を知っているなんて疑問は態々口に出さない。生き残るために、今にも進軍を開始しそうな魔獣の大軍を目にしてクラウスは簡潔に問う。


「あるにはあるけれど、何度も言うように確証がなくて……」

「それでもいい、生き残る可能性がるのならば」


 歯切れ悪くそわそわと言い辛そうにしていたアディアナだが、クラウスの言葉を聞いてなぜだか怒ったように腰に手を当てた。


「む。別に貴方に頼まれても頷けません」

「えっ?」


 ぽかんと口を開けるクラウスからそっぽを向き、黒い影は傍らに立つ白髪の少年へと向かい合った。


「どうにかできるとしたら、それは貴方です。こよみ」

「俺っ!?」


 アディアナの話に訳知り顔で成程などと適当に相槌を打っていた新月は、突然のご指名に分かりやすくポカンとした表情になった。

 そんな彼の脳裏に、鈴の音のような声が響く。


《私の力を持つこよみであれば、どうにかできるかもしれません》

《かもしれないって……》

《あれが『獄門』で、こよみが『神だったころの私と全く同じ力』を持っているのであれば"間違いなく"だけれど、あれが『獄門』であるという確証はなく、こよみが持つ力はあくまでも『人間サイズにスケールダウンした力』。ほぼ全てが不確定要素、"かもしれない"としか言えません》

《ぅんッ、ぐぬぬぅ》

《どうします? 逃げますか?》

《……。逃げるって、どこにだよ》


 見ていて面白いぐらいに顔色をころころと変え百面相に勤しんでいた新月は、アディアナの問いに先ほどのクラウスの言葉を繰り返した。

 結局、そこにたどり着く。


《世界中の魔獣がホントにあっこから出てくるなら、この迷宮に逃げ場なんてないよなぁ》

《ええ、ですね》

《はあぁぁ……》


 突然口を閉じ、向かい合ったまま動きを止めた黒い影と白髪の少年をクラウスは見比べる。

 例え言葉は聞こえずとも両者が言葉を交わしている事は察せられ、思わず挟みそうになった口をクラウスは無言で引き締めた。


 悩まし気に眉を寄せていた新月の投げる視線が遠く、木々の奥で固定された。

 淀んだ黒い泉、『獄門』と呼ばれたその場所を見据え彼は言う。


「もしかしたら何とかできる……、かもしれない……。――力貸してくれるかクラウス」

「それはこちらのセリフだよ、コヨミ」







【ギィきィアアアアアア!】

「舐めんじゃねええぞぉおおお!」

「死ねッ、【ライン・フレイム】」


 『獄門』から魔獣が溢れ出し、瞬く間にその場は激戦区へと姿を変えた。多種多様な魔獣たちの猛攻に、騎士たちは歯を食いしばり全力で抗う。一か所に固まり押し寄せる魔獣の津波に耐えようとする彼らから少し離れた場所で、戦場の隙間を縫うようにかける二つの影があった。


「(怖ぇぇッ! かすっ、今耳掠めたよ味方の魔法がっ)」

「(まあ、向こうも生き残るのに必死だろうし。そもそも既に僕らを完全に見失ってるだろうし、しょうがないよね)」

「(この男ッ! こよみの命を何だと思ってるんでしょう、もし誤射されそうになったら肉壁になって守るべきだと思うのだけれど!)

「(アナ、アナ。その結果クラウスが戦闘不能になった場合、当然俺もすぐその後を追うことになると思うんだ)」

「(生き残るために、全力で避けるしかないよね)」


 こそこそと声を潜め言葉を交わしながら、新月とクラウスは戦場を駆け抜ける。飛び交う魔術に身を竦めながら足を止めずにいる二人の傍を魔獣が咆哮を上げ横切っていく。犇めく魔獣たちだが、その中を走る二人には目もくれない。


「(しかし本当に凄いですね、完全に魔獣たちの目を欺いている)」

「(実は気付いてて泳がされてるみたいなのはない?)」

「(気付かれていたら僕らはとっくに魔獣共の腹の中さ、泳がせるなんて知能は魔獣にはないよ)」


 会話を続ける新月の目の前を通り過ぎる炎線の光に目が眩む。瞬間的に視界を奪われ身を固める新月へと、炎線によって粉砕された魔獣の血肉の雨が降り注いだ。

 血と肉が焦げる臭気に顔を顰め、白髪の上に乗る黒く焦げた肉を弾いた。


「(あぶねえ、早く進もう。いつか当たるぞこれ)」

「(賛成だ。味方の誤射で死ぬなんてごめんだ)」


 二人して頷き合い泥沼を踏みしめる足に力を籠める。例え血肉に塗れようと、彼らの存在に気づく魔獣はいない。狂ったように唸り声を上げ、爛々と輝かせる両眼は傍の二人ではなく、奥で抗う騎士たちへと向けられていた。


 二人は今、魔獣の認識外にいる。

 全身を覆う薄緑に輝く靄のベールが魔獣の認知を拒否していた。


 この魔獣の群れに飛び込む前の事。フィトーが唱える詠唱と共に風が巻き起こり、新月とクラウスの全身を覆った。

 極短時間かつ少人数限定ではあるが、姿は勿論、においや音、気配すらも遮断する風の鎧。その鎧の魔術のお陰で、こうして魔獣の群れを誰にも気づかれずに駆け抜けることが出来ている。とは言え、フィトーの魔術も完璧ではない、魔獣たちの気を引いてくれている騎士たちが居なければ見つけられていただろう。


 一刻も早く、世界中の魔獣が溢れ出る前に『獄門』を閉ざすために、一歩間違えれば自殺行為とも取れる無謀な行軍を敢行していた。

 目指すは『獄門』、今なお魔獣を生み出す黒い泉に手の届く距離まで近づかなければならない。


 姿勢は低く、飛び交う魔術の雨に被弾しないよう細心の注意を払って泥沼の上を力強く踏みしめる。犇めく魔獣の隙間に見えていた『獄門』の全容が近づくに連れて露になっていく。


 それは一言でいうなら闇だった。完全な黒、この世の物とは思えない淀んだ気配を漂わせる泉は、どろりとした粘着質な液体でできている。表面を波紋が走ったかと思えば、ぬっと腕が突き出され見るも悍ましい怪物が産み落とされる。


 その様子を固唾を飲んで新月たちは目撃していた。


「(さて、ここまで来た訳だけど……、行けそうかい?)」

「(分かんねえよ、やった事ないんだから)」

「(きっと上手く行きますよっ)」

「(ま、上手く行かないとまずいんだけどね)」


 最後にしっかりとプレッシャーをかけ、クラウスは腰に下げた剣の柄に手を乗せる。


「(時間だ。時期に魔術が解ける、最初に言った通り連続使用は不可能だ。効果が切れると同時にゴウトたちも合わせてくれる手筈だが、少なからず魔獣たちの狙いが僕らに向くのは間違いない)」


 決して叫んだり、切羽詰まったような声ではなく、ただ淡々と事実のみを語るような静かな声に新月は無意識に生唾を飲み込む。

 怖かった。どうしようもなく、恐怖がじわりと蘇る。忘れていた訳ではない、ここは地獄なのだ。それこそ腕の一振りで、容易く命をむしり取れる化け物が至る所を闊歩している。

 爆音を奏でる心臓を胸の上から押さえつけ、新月は大きく深呼吸を繰り返す。 


「(大丈夫だよ、僕が全力で君を守る)」

「(私もいます。こよみには指一本触れさせません。大丈夫ですよ、必ず上手く行きます)」


 きっとこの恐怖が消えることはない。二人に鼓舞され、どうしようもない恐怖を飲み込んだ。


「(俺だって死にたくない、絶対にやってやる)」

「(その意気だよ)」


 口元に薄い笑みを乗せたクラウスが、小さく息を吐き出しながら両目を閉ざす。その瞼の裏でどんな思いが渦巻いているのか、新月には皆目見当も付かないが、僅かな精神統一を経て開かれる深紅の双眸には底知れぬ冷たい光が宿っていた。


「行くぞ」


 声を潜めるという行為はもう意味をなさない。作戦開始の宣言を吐くと同時に、二人を守護していた風の加護が消えうせた。

 突然虚空から出現した二人の人間に魔獣達の視線が一斉に突き刺さる。否応なく死を予感させる視線の嵐に身を晒しながらも、クラウスは緊張など微塵も感じさせない表情で、邪魔にならない程度の装飾が施された鞘から白刃を抜き放つ。


「【目覚めよ(フラガラク)】」


 流れるように囁き声で紡ぐ言霊。透き通る声は刃に染み渡るように浸透し、クラウスの持つ剣が仄かに光を発した。

 幾度となく繰り返した事だが、彼の獲物は不思議な形をしている。片刃を二つ、背合わせで繋ぎ合わせたような両刃の大剣。その形状の意味を、新月は知る事になる。

 パキンッ、とガラスが砕けるような甲高い音が鼓膜を揺する。片刃を繋ぎ両刃となしていた接続部位が砕け散った音だった。


【グルァァアアアアアッ‼】


 けたたましい咆哮が全てをぶち抜いていく。クラウスの持つ剣の変化に目を奪われていた新月の頭上から、ぶわりと突風と共に深紅のカーテンを突き破り二つの頭部をもつ巨大な怪鳥が姿を現した。天を覆うように広げた両翼を目一杯羽ばたかせ空高く飛行していたのだろう、霧に紛れての奇襲に新月は虚を突かれたように顔を跳ね上げる。咄嗟に彼の脳裏を過る、ただ一言『やばい』という語彙力乏しい感情。


 二頭の上でぎょるりと回転する四つの淀んだ眼球で、ちっぽけな二人の獲物に狙いを定めた怪鳥が、両の嘴で雄たけびを奏で狂ったように突進した。驚愕する時、人は身を固めるものだ。新月も例に漏れず全身を強張らせた。今更声を上げようにも、一言発する間もなくあの巨大な嘴に食い千切られる事だろう。


 あわやという瞬間、幾千もの銀光が縦横無尽に中空を駆け抜けたかと思えば、勢いよく滑空していた怪鳥の全身が勢いはそのままに一瞬で細かな肉片と化し、慌てて頭部を庇う様に顔の前で両腕を交差させた新月を通り過ぎて、瞬く間に霧の向こう側へと消えていく。理解が現実に追いつくまで数秒の時間を有した。


《……とんでもないですね》


 唖然とした感情を滲ませる声でアディアナが呟いた。頷く事で同意を返し、視線を持ち上げるようにして宙へ向ければ、先ほどまで怪鳥が飛行していた位置に、二本の刃が浮かんでいた。空中で怪鳥の全身を細切れにし、瞬きの合間に命を奪った鋼の刃。


「足を止めている時間はないよ、コヨミ」


 そう語りかけるクラウスが握る柄には、有るべきはずの刃がない。ヒュンヒュンと風を斬る二つの刃こそ、先ほどまで両刃の大剣の形をしていたクラウスの武器。これこそが真の姿と言わんばかりに、枷を解かれた凶刃が魔獣目がけて殺到する。


「言ったろう。僕が全力で君を守る――」


 ゆるりとした動作で顔の前に持ってきたその鍔に、光が収束していった。収束した光は、飛び立った二つの鋼の代わりに敵を切り裂く刃の形を取り、文字通りの光の剣が完成した。


「――だから、僕らを助けてくれ」


 まさに魔法の武器の名に相応しい、三つの刃を携えて金髪の剣士は魔獣の群れと激突する。


 直後に新月も黒い泉を見据え力強く地面を蹴った。

 立ちふさがる数多の魔獣は強引に無視して視界を切る。障害の排除は、新月の仕事ではない。

 大きく息を吸いながら、左手に刻まれた星と蔦の模様に目を落とす。新月こよみがアディアナとの『契約』を経て手に入れた力。それは決して身体能力の上昇だけではなかった。『契約』を結ぶ際、激痛と共に刻まれたその模様の意味を新月が知ったのは最近の事だ。


 ゆっくりと息を吐く。

 固く拳を握りしめる。

 手の甲に刻まれた満月に見える金の新円が、端の方から月が満ちるように薄っすらと輝き始める。


《このっ!》

「はァッ!」

【グルガァッ】


 耳打つ断末魔に顔を上げれば障害は消え去り、まっすぐ黒い泉までの道が開けた。


(入った、射程距離ッ!)


 ここから先が、新月の仕事だ。間髪入れず握りしめた拳を勢いよく解き、まっすぐ眼前へ向けて突き出す。刻まれた満月と星、そして蔦の輝く模様が浮かび上がる。


「いっけェ!」


 叩きつけるような怒声に呼応するように、新月の手に刻まれた模様が一際大きな輝きを放ち、左手を中心に漆黒の蔦が爆発的に発生した。黒い蔦はしなるように力をため込み、辺りに満ちる霧を貫く速度で迸る。

 一直線に流れる漆黒の蔦の合間には、黄金に輝く無数の星形が絡みつき、二つが相まってそれはまるで夜空に見えた。


 獲物を見つけた捕食者のような荒々しい動きで、幾筋もの夜色の蔦が泉目掛けて殺到する。溶け込むように黒色の水面を貫いた蔦が、複数の小さな波紋を起こした。


(よしっ、感覚掴んだ。いい感じ……!)


 うぞうぞと蔦が蠢く左手首を掴み、そこから流れ込んでくる感触に思わず眉を潜めた。

 契約時に刻まれた模様が実態を持ったような蔦と、新月の感覚は僅かながらリンクしている。どろりとした粘着質の高い液体に、手を突っ込んだような不快感は気持ちの良いものではない。


 この黒い蔦はいわばエネルギーの塊、アディアナが操作する黒い人型と同じ物質で出来ている。

 つまりは新月からしてみれば正体不明、アディアナ言うには神の力の残滓というのが一番近い表現であるらしい。クラウスたちの魔力とも異なる力で出来た黒い蔦の手綱を握りしめ、慣れない手つきで操作する。


 今なお魔獣を生み出し続ける『獄門』を『封印』するために。


 かつての神々が魔獣たちに対抗するためにとった最後の手段、『封印』。それがアディアナが提示した生き残る手段。


《行けますっ。この規模であれば、命を賭す必要も、時間を掛ける必要もない! こよみ、後は教えた通りにっ》

「分かってるさッ」


 一度は水面へと潜らせた蔦を持ち上げる。かと思えば再び水面を貫かせる。何度も何度も、殆ど我武者羅と言っていいような滅茶苦茶な軌道を描き蔦は水面を行き来する。縫い付けるように、蓋をするように波打つ蔦が黒い泉を覆い隠していく。


「くっそ……、思ったよりきついぞコレ!」


 蔦は無尽蔵に発生し続けるわけではない。蔦を伸ばせば伸ばすほど、新月の体力は驚異的な速度で削られていった。次第に顔色は悪くなり、重たい空気を吐き出す新月は額に浮かぶ脂汗を右手で拭う。

 ぽつぽつと浮かぶ辛いきつい止めたいなんていう弱音は蹴り飛ばして、絶対に零さないようにと食いしばった歯の隙間で小さく呻く。止められるわけがない、今止めたら待っているのは『死』だ。『生きたい』、『死にたくない』という生存欲が弱音をあっさりと蹴散らした。


「生きるさ、生きる! 死んでたまるか!」


 腹の底から新月は吠える。

 だが新月ですらその宣言を聞き取ることは叶わなかった。


【ギィィィガルゥゥアアあああッ!】


 全てをかき消す咆哮と共に、一つの影が泉の中から蔦の隙間を貫いたからだ。

 巻き上がる風に顔を叩かれながら前を見る。愕然と目を見開かせる。

 閉ざされていく門の中から、その隙間をつくように、最後の魔獣が姿を現す。


 『龍』――――いや、『蛇』だろうか。

 周囲を覆う真紅の霧。それを身に纏い細長い体躯の魔獣が、牙をむき出しにして新月目掛けて突っ込んだ。

 殆ど反射的に新月の右手が腰の剣へと伸びる。身を守る術を、そう考えたときぱっと浮かんだのが鋼の剣だった。しかしそれと同時に頭のどこかで、冷静な部分がやれやれとでも言いたそうに首を振りながら突っ込みを入れる。


(いやいや、無理だろ)


 全くもってその通りだ。思わず笑ってしまいそうになる。

 剣なんて振ったこともない、体力は限界に近く、泉を閉ざすために集中を途切れさせる訳にもいかず、故に移動すら出来ない現状。

 どうしようもない。


 ――新月一人であれば。


 すっ、と新月の脇を金髪が通り過ぎる。守るように前にでる。

 前へ出ながら、彼は右手に持った剣を振るう。上から下へ、ただそれだけだった。


「邪魔はさせないよ」


 冷たい声色で宣告する。光り輝く刃は長細い魔獣の額から尾の先端まで、真っすぐに、真っ二つに切り裂いた。

 轟音を立てて二つに割かれた魔獣の屍が血泥に沈む。跳ね散る泥で頬を汚しながら、新月は今度こそ響き渡る声で叫んだ。


「これでェ終わりッ!」


 蔦が黒い泉を隙間なく覆った瞬間、左手を閉ざすように固く握りしめる。

 何もかもを閉じ込めるように、封印するように、ピンとはった大地を強引に引っ張る感覚。べちゃり、と泥団子を二つぶつけたような間の抜けた音と同時に、新月の立つ沼地が僅かに移動する。

 それで全てが閉ざされた。黒い泉があった場所に残るのは、縫い後のような僅かな夜色の蔦のみ。

 大口を開けて魔獣を吐き出していた『獄門』は、ともすれば呆気ない最期を迎えた。



◆ ◆ ◆



 一先ずではあるが、『封印』に成功した事でこの『獄門』騒ぎは収まった。『獄門』から溢れ出した魔獣の群れ、その生き残った残党の殲滅にはそれなりの時間を有したものの、滞りなく完了した。

 犠牲者は、八人に上った。


 八人も、と思うべきか。あれだけの数を相手にして八人しかと思うべきか。

 簡素な椅子に腰を下ろしてぼうっと考えていた新月は、早々に思考を打ち切って目を瞑る。ゆっくりと両手を握って冥福を祈る。会話をしたことすらなく、もしかすると顔を合わせたことすらないかもしれない彼らだったが、クラウスの命令だったとはいえ新月の案に乗ってくれた『仲間』だったのだから。


「ようコヨミ。水でも飲むか?」

「ん。パンもある」

「アラム、リーベ。ありがとう、貰うよ。二人が無事でよかった」

「お前のお陰だよ、助かったぜ。何したか良くわかんねーけど」

「んっ、貴方は魔力がないと聞いた、あの黒い紐のようなものが何なのか、とっても気になる」

「ああ、えーっと、それはだなあ……」


 神様との契約で得た力は、どうもこの小さな魔法少女の琴線に触れてしまったらしい。何時もは眠そうな半開きの瞳を、キラキラと輝かせて新月を見上げる。

 とはいえ、ここで彼女の期待に応え馬鹿正直に『神様の力なんだよ。劣化版だけどね』なんて答える訳にはいかない。

 言い訳を模索するべく脳内彼女へと助けを求めた。


(どうしよう、アディアナ、どうしようっ!?)

《落ち着いて。別にそのまま、記憶喪失だから分からないと答えれば良いんですよ。実際、良く分からないのは間違いないんですし》


 記憶喪失、何て都合のいい響きだろうか。

 アディアナの言葉に、新月は名案だと飛びついた。


「実は俺も良く分かってないんだ。無我夢中で……、ほらっ、記憶がないから」

「あっ、そっか。ん、ごめんなさい。無神経、でした」


 口を押えて忘れていたと目を丸くさせたリーベは、ひどく落ち込んだ様子で頭を下げる。仕方が無い事とはいえ噓をつき傷つけてしまった少女を前に、罪悪感に胸を押さえる新月だったが、隣でアラムがケラケラと笑い、髪が乱れるのも構わずにリーベの頭を乱暴に撫でた。


「そうだぞー、ホントお前はガキだから。なー、ガンキチョっ」

「んっ。調子に乗るなバカラム!」


 最早見慣れた二人のじゃれ合い。リーベの小さな足がアラムの脛へ向かって振りぬかれた瞬間、霧に包まれた迷宮の大地が戦慄いた。


「なっ⁉ どうしたどうしたっ」

「コヨミ、オレの傍はなれんなッ。リーベッ!」

「ん、準備できてる」


 ぐらりと地面が大きく固き、続けて血泥全てが激しく揺れる。外であればただの地震で済むが、ここは迷宮。地面が揺れ動く、それはまるで巨大な何かが迫ってくるようにも思え、迫る影があるかどうか新月は霧の向こう側へと必死に視線を凝らした。


 遠くでクラウスの警戒を促す声が響く。緊張が浸透し硬質化していく空気の中で、乾燥した唇を舌で湿らす。

 しかし彼らの警戒をよそに、何事もなく時は流れ始まりと同じように唐突に揺れは収まり、辺りには再び静寂が舞い戻った。


「何だったんだ……?」


 魔獣の影も形もなく、地震の前後で周囲の景色に特に変化は見当たらない。分からない以上警戒を解く気にもなれず、新月はじりじりとした緊張の中小さく首を傾げた。


「分かんねー。でも何かがあったのは間違いねーだろ」

「ん、同意見。すぐに結界魔術を使うべきだと思うけど……」

「クラウス様も分かってるさ、必要ならすぐ指示が――」


 懐から取り出した小さな手記をパラパラと捲り始めたリーベに、僅かな焦りを見て取ったアラムが、何時ものようなからかい口調を押さえて落ち着かせようと手を伸ばす。

 その彼の言葉を遮るように、一人の魔術師が大声を上げた。


「あッ! あれ、あそこですっ!」


 慌てたようなその声には隠し切れない恐怖の感情が見え、震える指が差す方角へと視線が一斉に集められた。

 魔術師は一点を指さす。どろりとした血泥が広がる沼地の一点、まさに今『獄門』が存在し、多数の魔獣を吐き出していた泥濘を指差していた。


「おいおい嘘だろ……ッ!」


 呻くように思わず誰かが呟いた。

 『封印』が施され、縫い後のようにがっちりと閉ざされていた『獄門』跡地が、ぽっかりと大口を開けていた。先ほどの地震のせいであることは疑いようもない、『獄門』跡地がピンポイントで崩落し、巨大な大穴が空いている。


(『封印』が解けたのか? こんなに早く!? 失敗した……、完璧じゃなかったのか⁉)


 どうしようもなく嫌な想像が頭をよぎる。もう一度あの大穴から魔獣が這い出して来るとなれば、今度もうまくやれる自信がない。

 息を止め、瞬きすら忘れ注視する崩落地点へと、しかし不用心にふらりと一つの人影が近寄った。

 いや、人影ではない。まるで影そのものが動き出したかのような漆黒のそれは、何時も新月を守るようにふわふわと浮かんでいる黒い人型で間違いなかった。


「アディアナッ⁉ いきなりどこ行くんだよっ!」

《大丈夫ですよ。『封印』は完璧でした、こよみが考えるような事はありえません。それに万が一があるとすれば、尚更私が見に行くべきでしょう? これは確かに私の身体ではあるけれど、『中身()』は入っていませんから》

「いやでも、むぅ……」


 あの黒い人型を操作しているのはアディアナで間違いないが、人型の中から動かしている訳ではない。魂自体は常に新月の中にあり、あくまでそこから操っているにすぎないという事を思い出し、反論の言葉をなくした口を噤むが、それでも心配なのは心配なのだ。

 はらはらと見守る中、黒い人型はゆっくりと大穴をのぞき込む。


《ふむふむ。これは……》

《なんだよ、何があんの?》

《まあ、直接見た方が良いでしょうね》


 取り敢えずの危険は無さそうだと伝え、手招く黒い人型に導かれるまま警戒を忘れず騎士たちは一丸となって動く。先頭を行くのはクラウスとゴウトの二人組、その直ぐ後ろをアラムとリーベに守られて新月が歩く。

 盾を構え腰の剣に手を乗せたゴウトが、慎重にアディアナに指示されるままにぽっかりと空いた大穴を覗き込んだ。


「こりゃ……、道か?」


 ぽつりと呟かれた言葉には、分かりやすい困惑の感情が含まれていた。暗い口を開ける沼地に突然空いた大穴は、斜め前へ真っすぐ進む地下道へと繋がっていた。上はゴウト程の大男でも余裕をもって歩けそうな高さがあるが、横幅は狭く並んで歩けるのは二人程度だろう。上下左右、隙間なく木の根が壁全体を覆っていた。

 大穴の淵で観察するように地下道へ目を走らせるクラウスが、眉にかかった金髪をかき上げながら隣で盾を構える大男へと言葉を投げる。


「ゴウト、どう見る?」

「十中八九罠だのう、これ程嫌な予感しかせん一本道も珍しい」

「いやいや団長、珍しいってかオンリーワンでしょ」


 癖なのかヘルム越しに禿頭をなでるゴウトに、肩をすくめてアラムが突っ込みを入れた。


「だよね、僕もそう思う。でもだから止めようって訳にもいかない。でしょ、コヨミ?」

「あん? なんで俺?」

「あー、コヨミじゃなくて貴女かな?」

「ええまあ、そうですね。この先から恐ろしく強い気配を感じます。貴方達の目指す場所は、恐らく道の先でしょう」


 ふわりと浮かぶ黒い人型は心地よく響く鈴の音のような声で答えた。

 この道の先に終わりが待っているとするならば、進まないという選択肢は存在しない。


「フィトー、明かりをくれ。ここから先は二列になって進む。先頭は僕とゴウト、最後尾はフィトーとアラムに任せる。コヨミはリーベと一緒に来てくれ、僕の傍にいてくれるとありがたい」

『応ッ!』

「この先には鬼か蛇か。……さて、何が出るかな」


 この先に待つ『終着点』へと思いを馳せるように赤い両眼を細める。そんなクラウスの隣で、新月もまた道の先に思いを巡らせる。

 何が待っているかは分からない、分かる筈もない。だがきっと、『終わり』は直ぐ傍まで来ている。


 この悪夢に終止符を。

 そして敵を取るのだ。

 親友に託された想いを胸に、少年は暗い一本道へと踏み出した。






 木の根で舗装された地下道が真っすぐだったのは初めだけ。

 次第に道はぐねぐねとうねる様に右へ左へ、時には急な坂道と姿を変えていった。

 ただ幸いにも今の所、分かれ道は存在しない。そのお陰もあり迷いはしないものの、不気味に続く一本道は作為的な何かを感じずにはいられない。新月は底知れぬ寒気に背筋をぶるりと震わせた。


「んっ、寒い? 魔術で温めれる」

「ああいやいや、大丈夫だから」

「遠慮することない」

「遠慮じゃないよ、寒いわけじゃないから気にしないで」


 両手を振って必死に寒さで震えた訳では無い事をアピールするものの、ではなぜ震えたのかとなると気まずそうに口を噤む。まだまだ小さな女の子であるリーベは平気そうな顔で歩いているというのに、その隣で恐怖で震えてしまったという事実は冷静に考えると少しばかり恥ずかしいような気がして必死に新月は隠す。

 だが奮闘空しく不思議そうな顔で首を傾げたリーベは暫し悩んだ後、震えた理由に気付いたのかぽんと手を打ち付けた。


「ん、もしかして怖い?」

「うぐ」

「ぷふっ」


 ド直球に図星を貫かれた新月は思わず胸を押さえて呻き声をあげ、すぐ前を行くクラウスも二人の会話に小さく噴き出した。


「ぷくくく……っ。リーベリーベ、そういう時は気づいても隠して上げなきゃ、コヨミが可哀そうだろう? ほら、謝りな」

「あっ、そっか。ん、ごめんなさい」

「大丈夫、大丈夫だから。てか謝られるとよけい辛くなるって分かってて言ってるだろクラウステメェ!」

「ぷっくくくく……っ」

「この男、性格悪いですよ! こよみこよみ、泣かないでください」

「泣いてないわい!」


 ふわりと出現した黒い人型にも噛みついて、未だに含み笑いが止まらないクラウスに金色の双眸を尖らせる。

 と、全てを聞いていたゴウトが呆れたように息を吐き、


「ここは『迷宮』、恐怖を覚えるのは人として当然の事。恥ずかしがる必要はないわい」

「そそそ、そうだよな! そうですよね!」

「そうだね。すまないコヨミ、少し揶揄い過ぎた」

「気をつけなさい、次あればぶっ飛ばしますよ」

「アナ、アナ。多分俺たちだと返り討ちにされると思うんだ」


 そんな軽口を叩きながら一行は暗い一本道を進んでいく。

 結局、みんな恐怖を覚えていたのだ。だから空気を少しでも軽くしようと冗談を言い合う。

 恐怖を紛らわせるための会話だったが、進むにつれて口数はみるみる減っていった。


 気配何て代物を読む事に関して、そこらの一般人レベルであろう新月でも分かる。近い。非常に近い、直ぐ傍まで来ている。

 何が、と問われても明確な答えは出せないが、分かるのだ。空気が確かな重さをもってぐっと体に伸し掛かる。静寂の中聞こえるのは靴擦れの音と、爆音を奏でる最早聞きなれた心音。ぎゅっと汗ばんだ手を握りしめ、一歩一歩確かな足取りで進んでいく。


 これは道だ。地下を進む道。地下へ伸びるこの道は、まるで地獄へ続いているようだ。

 地上にある『迷宮』そのものも十分悪夢で、地獄と呼んでいい場所だった。そこをさらに下って行った先に、一体何が待ち受けているのだろう。答えは出ない、想像もできない。だがすぐ知る事になる。


 ――道の終わりが見えた。


 今までの狭い通路ではない、奥には広々とした空間が見えた。重苦しい緊張の中、ゆるりと中を覗き込むクラウスが静かに息を飲む声が聞こえた。

 その肩越しに新月も見る。道の終着点、そこに広がる場所に、新月は見覚えがあった。

 右を見ても左を見ても鬱蒼と生い茂る樹木の壁。幾つもの樹木が隙間なく伸び壁を作り、天井は伸びきった枝や葉で完全に覆われ空は見えず、地面を走る幾筋もの太い根が地面も全て隠しきる。

 その大広間はまるで、初めてアディアナと出会った場所によく似ていた。


(これが『目的地』で良いのか? 本当にアディアナとあった場所に似て、――――ッ⁉)


 道の終わりに広がっていた場所に対する疑問や感想は、瞬く間に霧散した。

 視線が広間の中央に存在する物体へと吸い寄せられる。

 広間へと足を踏み出し、静かな動作で剣を抜き放つクラウスがぽつりと呟いた。


「鬼でも蛇でもなく狼か……」


 それは狼の頭蓋骨。一軒家程度なら軽々飲み下せそうな程、巨大すぎる狼の頭蓋骨が、異様な存在感を放ち広間の中央に鎮座していた。

 真っ白な骨が剝き出しになった狼の頭部には、最早生命の気配は皆無だ。

 だが新月は知っている。

 もとより、この『血染めの死門』に掬う魔獣たちに、生命の気配など微塵も存在しないことに。


「――――戦闘準備」


 静かなクラウスの声が木霊する。

 道を飛び出した騎士たちが、各々獲物を片手に大広間へと展開していく。


 呼応するように、巨大な頭蓋骨の窪んだ眼光に青白い光がぽつりと灯った。

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