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月下のラビリンス  作者: わたしです
血染めの死門
17/22

迷宮攻略――⑤

「……おはよう、アナ」

「おはようございます、こよみ」


 大きく口を開けて欠伸を一つ。目じりに浮かんだ涙を拭って宙に浮かびこちらを見下ろす黒い人影に笑みを向けた。

 身体の芯に泥のよう溜まっていた疲労はすっかり解け、足元から広がるじんわりとした痺れに心地よさすら感じる。寝起きの程よい気怠さを引き摺りながら上半身を起こし、大きく両手を挙げて背筋を伸した。


「おっ、起きたか。おら食えっ」

「アラム、ありがとう」


 甲冑を脱ぎ、絹でできたラフな服装をしたアラムが突き出す、乾パンや干し肉といった保存食に礼を言って手を伸ばす。地球ではまず食べることがないであろう酷く簡素な朝食ではあるが、この迷宮という場所においてはそれがとても美味に感じられた。


 アラムとの会話に気づいたのだろう、水の張った桶を両手に抱えてとことこと小走りにリーベが近づいてくる。


「ん、使って」

「ありがとな」


 差し出された桶を受け取り、バシャバシャと顔を洗う。肌を突き刺すような冷水に、まだ残っていた暖かな夢の中に戻りたいという睡眠欲も一発で蹴散らされ、さっぱりとした表情で改めて周囲を見渡す。多くはアラムと同じように武装を解き、食事や装備の点検などに勤しんでいるようだが、中には昨日と変わらぬ甲冑姿で周囲を警戒している者もいる。


「あー、もしかして見張りとかあったのか?」

「まあなあ。結界張ってるとはいえ、最低限の警戒は必要だし。結界張る魔術師連中にだけ夜の見張り任せる訳にはいかねえだろ」


 迷宮内での防御を結界を張る魔術師だけに任せ、他はすべて熟睡するなど少し考えれば当然の事ではあるがありえない。交代で見張りを立てていたというアラムの言葉に、今に至るまでその考えに至らなかった新月は頭を抱えた。


「ごめん、俺ぐっすり寝ちまってた。皆も疲れてるだろうに」

「気にすんなって、一人や二人変わんねーよ。しっかり道案内してくれりゃ、それでいいんだ」


 適材適所ッ! と拳を握って吠えるアラムの隣でリーベも頷く。昨日霧払いの魔術の維持に回った彼女も、新月と同じく夜の結界維持は行わずぐっすりと惰眠を貪ったという。恐らく幼いという理由もあるのだろうが、彼女は半分瞼が落ちた眠そうな表情でいった。


「無茶して倒れたりしたら元も子もない。やるべきことやるために、休めるときは休むっ。ん! これ大事」

 

 力強く宣言したリーベは当然のような顔でアラムの手からパンを奪い取り、もぐもぐと頬を膨らませる。傍目から見れば完全に兄妹喧嘩にしか見えない小さな争いが勃発した所で新月は立ち上がって、寝起きで少し硬い体を解すために結界内を散歩でもしようかと足を延ばした。


 騎士たちが十分に休める程度のスペースを取っている結界内を特に目的もなくぶらぶらと歩く。足元の地面は血で濡れた泥ではなく、魔術で固く均された道路のようなものに変化しているお陰で移動も楽だ。周囲には剣呑な空気を纏い結界外へと鋭利な視線を投げるものも入れば、流石に気を抜きすぎではないだろうかと突っ込みを入れたくなるほどだらけた格好で干し肉を齧っている者もいる。


 まさに十人十色。休み方一つ取ってもバラバラで、一人一人の性格が表れているようで興味深く観察の視線を滑らせているとふと一人に視線が止まる。

 フィトーだ。片眼鏡についた汚れを熱心に布で拭っている彼に近づき声をかけた。


「フィトーさん、もう大丈夫なんですか?」

「シンツキ君か。ああ、もう大丈夫だ。心配をかけたかな」


 昨日の戦闘において霧を払った一陣の神風。攻勢へと転じる一手となったあの風を巻き起こしたのが他ならぬフィトーだった。鮮血の紅い霧はただの霧などでは断じてない。そんな血霧を広範囲に渡って吹き飛ばし、さらには魔獣たちの高度な擬態をも暴くのは当然容易いことではなく、アディアナは驚きをあらわにしていた。


 ただ、そんな魔術をノーリスクで打てるはずもなく。

 魔獣が一匹残らず切り捨てたられた後、ほっと一息つく新月が見たのは、ぐったりと青白い顔で気を失っているフィトーの姿だった。ゴウトに担がれた彼は荒い息を吐き額に脂汗を浮かべて見るからに辛そうな表情で、その場で休息をとることが決まった。


 最後に見た様子が様子なだけに、新月も心配していたのだがどうやらもう大丈夫のようだ。こんな場所だ、全回復とはいかないだろうが、随分よくなった顔色をみてそう判断する。

 レンズに息を吹きかけ拭った所で満足したのか、片眼鏡をかけて今度は位置を調整しはじめた。


「万全とはいかないまでも随分回復したよ。ただ私のせいで行軍の足を止めてしまった、全くもって不甲斐ない」

「あんまり深く気にする必要ないと思いますよ、もともとクラウスも休憩取るつもりだって言ってましたし」


 目元に暗い影を落とし、分かりやすく気落ちするフィトーに苦笑気味に言葉をかける。些か彼は真面目すぎるというか、一重に面倒くさい性格らしい。

 なんといって慰めるべきか、言葉を選ぶ新月の視線の先で、腰に剣を下げただけのラフな格好をしたクラウスが歩いているのを発見し、これ幸いと声を上げる。


「おーい、クラウス!」


 自分を呼ぶ声に顔を上げたクラウスにこいこいと手招きを送れば、首を傾げながらも彼は新月の元へ歩み寄る。


「どうしたんだい?」


 新月とフィトー、二人の間を視線を行き来させ疑問を口にするクラウスへ、簡単に状況を説明する。

 話を聞いたクラウスはすぐさま苦笑を浮かべて、


「コヨミの言う通りだよ、気にする必要はないフィトー。むしろ良くやってくれたよ」

「っ! ありがとうございます」


 言葉と共にクラウスが肩を軽く叩けば、歓喜極まったような表情で地に片膝をつきフィトーは深く頭を垂れる。

 頭を下げる直前に目元に涙まで浮かべていたのは果たして新月の見間違いだろうか? 新月からすれば些か大げさにすら見える想像以上のリアクションに、横に引き結んだ口をむにむにと動かして何とも言えない表情で固まった。


(いやまて、あくまでこれが大げさに見えるのは俺の感性。もしかしたら『こっち』ではこれが普通なのかも……)


 ちらりと薄く視線を動かしクラウスの顔色を窺ってみる。

 彼は横に引き結んだ口をむにむにと動かして、何とも言えない表情で固まっていた。

 どうやら世界が違えど感性にさほど差はないらしい。


「んんっ、まあフィトー、ゆっくり体を休ませてくれ。ところでコヨミ、出発前に少し話を出来るかな?」

「迷宮の事で?」

「他に話すこともないだろう」


 それもそうだと頷いて、片眼鏡の位置に満足したのか食事の準備に取り掛かり始めたフィトーに別れを告げ新月はクラウスの後を追った。


「既に僕らがいる場所は人類未踏の地だ、ここまでたどり着いた者はいない。今までも十分そうだったが、ここから先は完全に未知の領域になる。僕らの目指す『主』も、情報通りであれば従来の魔獣の危険度を一回りも二回りも上回る」

「アディアナもこっから先の事は勿論、『主』ってのも知らないらしいしな」

「私だって迷宮のすべてを知っているわけではないのですよ」

「そこで、だ。改めて聞きたい、ここから先、本当に最後まで僕らに力を貸してくれるかい?」


 前を行くクラウスが振り返り、真剣な表情で告げた言葉に思わず新月は笑ってしまいそうになった。

 『迷宮』は奥へ進むよりも、戻るほうが楽だとアディアナは言った。もしここで新月が戻りたいといえばアディアナは全力を尽くすだろうし、きっとクラウスも止めはしない。こんな事を言い出すぐらいだ、頼めば何人か護衛としてつけてくれるだろう。


 だけどそれはあまりに、今更な話だ。


「当たり前だろう」新月は笑みを堪えて「最後まで着いていくって入る前に決めたことだ」

「そっか……、それならいいんだ」

「でも今になってなんでそんな事を?」 

「君の身の安全を保障出来そうにないからかな。勿論全力を尽くすけど、昨日の時点ですでに最初に言った『案内だけでいい』という条件が崩れてしまっていたからね」


 クラウスの言い分に成程、と一つ頷いて今度こそ新月は堪え切れずに笑みを零した。

 それも今更な話だった。

 覚悟は迷宮に入る前に決まっている。ただ案内するだけで終わると思えるほど、新月はクラウス達の実力を信じていなかったし、迷宮を舐めてもいなかった。


「大丈夫」


 彼はゆっくりと頷く。


「全部分かってて決めたことだ。最後まで着いてくよ」




◆ ◆ ◆




 もうどれだけ歩いただろうか。薄暗い淀んだ空気に気が滅入る。輝く健康的な太陽の光を浴びたのが、新月には遠い昔の事のように思えてくる。

 疲労が強く滲むため息を吐き出し、額に浮かぶ大粒の汗を新月は荒々しく拭う。足に粘りつくヘドロの様な泥沼も相まって足取りは重い。唯一の救いは、着実に『奥』に近づいているという直感じみた感覚があるからだろうか。


 勿論その直感はただ理由もない『何となく』と言う訳ではない。

 アディアナの案内通りに進むにしたがって、幾つかの変化が目に見えて現れていた。

 一つは周囲の景色、見渡せば一目で分かるほどに随分と変貌していた。ぽつぽつと点々と生えているだけだった木々は、進行の妨げに成程数を増やしている。

 そして、なにより変わった事は――――。


「くそッ また来たぞ」


 うんざりしたように一人の騎士が吐き捨てる。睨みつける鋭い視線の先でボゴッ、と沼地が波打ち何かが泥をまき散らした。地面の下から血泥に塗れ表れたのは一本の腕。血に染まった赤黒い腕は病的に細く、所々が欠損し骨が顔を覗かせている。


 蠢く腕が地面を押さえ、その下にある身体を持ち上げようとした直後、風の刃が渦を巻き血泥の中に潜伏していた魔獣の肉体を細切れにした。


「気を付けろッ! 何匹潜んどるか分らんぞォ!」


 右手に持った大剣を今しがた足元から生えてきた腕の、その血泥に隠れた胴体目掛けて突き刺しながらヘルム越しのくぐもった声でゴウトが叫ぶ。

 大剣をふるう彼の傍に控えた二人の魔術師が、淀みなく両手を地につけ声を張り上げた。


「【ロック・アース】!」


 声が木霊すと同時に、僅かな揺れが襲い来る。瞬く間に新月たちの立つ地面が、どろりとした沼地のそれからまるで整備されたアスファルトのように固く隆起する。

 魔術師二人の一連の動作に迷いはなく、手慣れた様子で作り上げた『足場』。それもその筈、この魔獣による襲撃はすでに六度に渡っていた。


 魔獣の襲撃の増加。それが昨日と比べて最も大きく変わった事だ。一番最初の襲撃時こそ地中からの奇襲に戸惑い、数名の重傷者を出したものの、死者はなく全てを退けていた。最初の襲撃で重傷を負った者も、魔術という便利な回復手段のお陰で現在では元気に剣を魔獣に突き刺している。


 初めは戸惑った地中からの襲撃も、魔術によって強化された地面を魔獣たちが貫くことが出来ないとわかり、こうして地面を固め『安全地帯』を作り上げる事で手慣れた様子で処理していく。

 案の定今回も今まで通りに、地に潜っていた魔獣が足場を下から掘る事が出来ずに、円形に固められた足場の外側からのそりと姿を現した。


 その魔獣は、背中に巨大な十字架を背負っていた。上半身は他の魔獣と同じく人のソレと瓜二つ。ただし肩から伸びる両腕は異様に長く、人であれば一つしかない肘にあたる関節が数か所に存在し、ぐねぐねと気色の悪い軌跡を描く。

 腰から下には足はなく、代わりに蛇のような長い尾がずるりと地中から引き摺り上げられた。地中を早く動くための長い腕と尾は地上では獲物を殺す武器になる。何も見えていないような、腐った白目で前方を睨みつけ、魔獣は高らかに吠えた。


【カァッ! コォオオオオオ!】

「油断するなよ。今まで通り、向かってくる敵を殲滅しろ」


 決して大きな声ではないクラウスの言葉だが、魔獣の咆哮に搔き消されることなく新月たちの鼓膜を打つ。

 そこかしこから応答の声が上がり、戦士たちは静かに空気を張り詰めさせた。戦闘へと移り変わるぴりっとした緊張感も、最早慣れ親しんだものだ。新月は身体の硬さを取るべくゆっくりと息を吐きながら、両手で剣を握りしめる。


 この剣は遺品だ。

 昨日の戦闘で命を落とした騎士の武器を新月が受け取ったのは最初の襲撃を退けた直後。武器も持たずに戦場を駆け回り、怪我人の回収に勤しんでいた新月に謝罪と共にこの剣が手渡された。


『すまない。案内だけでいいという約束は、守れなかったよ』


 差し出された剣の意味とその言葉が指す意味はすぐに理解できる。

 勿論拒否する事もできただろうが、結局新月は受け取った。自分が強いとは思わないが、それでもリーベを助けた事が、少なからず新月に『自信』というものを取り戻させていた。何よりやはり、無手でいるよりは剣でも握っているほうが安心できるのだ。


 ただ剣を渡されたからと言って、即座に前線送り出されるわけではない。

 今の所、剣を渡されたもののその出番はない。あくまでこの剣は万が一の備えだ。


「兎も角、出来るだけ邪魔にならないよう守られながら、周囲の警戒だけしとこうか」

《つまり今まで通りですねっ!》


 元気よく返事をするアディアナに頷きを返して、腰を落とした新月は周囲を見渡す。

 足元からの奇襲を諦め奇声と共に飛び掛かる魔獣へと、容赦のない剣戟と魔術の光が降り注ぐ。盾を構えた騎士が飛び込む魔獣を受け止め刃の銀線を翻せば、そのすぐ横では幾多もの炎の剛球が魔獣を消し炭にする。


「はっはァ! 余裕だぜ単細胞共ッ!」

「アラムうるさい。静かにしないと魔獣と間違えて魔術打ち込んじゃうかも」


 吠えるアラムが剣を振るうたびに魔獣の死体が積み上がり、呆れたように嘆息するリーベが正確無比に魔術で魔獣を打ち抜いていく。すぐ傍に陣取ったこの二人がいる限り、新月に出番はないだろう。最低限の警戒と、邪魔にならないようすることが今できる新月の仕事だ。


「今回も順調だな」


 六度にもわたる同じ魔獣による襲撃。襲撃方法にも大きな差異はなく、『今まで通り』の言葉通り、戦闘の流れは細部は違うが、大まかなものは今まで繰り返されてきた焼き直しでしかないようだ。


 ――そう思っていた。


 誤算があった。

 『今まで通り』だと判断した――事実戦闘の流れ自体は今までと変わりはない――それが間違いだった。『今まで通り』ではない点が一点。それは新月自身『深部』へと近づいている理由の一つに挙げていた周囲の景色の変化。前回と今回の襲撃ではあまりにも違っていたのだ。前回の襲撃時点ではまだまだ少なく疎らに聳えるだけだった木々が、今では大きくその数を増やしている。周囲に生える無数の木々は、戦闘においては邪魔でしかなかった。


「あーもう邪魔ね、この木!」


 自らの攻撃を間一髪で回避され、飛び込むように大木の裏へと身を隠した魔獣を見て一人の魔術師が苛立ちの声を上げる。バラバラと乱暴に魔導書をめくり、開いたページから移動させた魔法陣が刻まれた掌を大きく広げて前方に突き出し、吠える。


「吹き飛べっ、【ライン・ブラスト】!」


 荒れ狂う暴風が規則性をもって一本の槍のように真っすぐ破壊を振りまいた。木の裏に潜む姿見えぬ魔獣へと、魔獣が盾に使った大木事、お構いなしに。

 魔術師の放った暴風は、苛立ちをぶつけるように魔獣も大木も判別が不可能になるほど細切れにして吹き飛ばす。


 溜まりに溜まった苛立ちを全てぶつけられた魔獣は呆気なく千切れ飛び、その爽快な光景に場所が場所なら笑い声の一つでも挙げたかもしれない。

 当然、今は笑い声など上げれるような状況じゃあない。

 それどころか、全ての苛立ちをぶつけた筈の魔術師はぞっと顔色を凍らせた。


 ビギッ――バキッ――ギキィイイイイイイイイイッ!


 余りにも近すぎる距離で、音の爆弾が鳴り響いた。

 発生源は細切れになった大木の残骸。風の暴虐に切り刻まれた根っこから、どろりとした液体が溢れ出す。


「がっ!? なんだァ?」

「んっ! うるさい」


 戦場に響き渡る暴音に多くの者が耳を押さえて目を瞬かせた。

 その音に、新月こよみは聞き覚えがあった。忘れられるものか、決して忘れられないものだ。

 人生を変えた始まりの音、絶望が奏でる前奏曲。


「うっそだろッ、これって……」

「こよみ、あそこですっ!」


 アディアナの声に視線を動かせば、一人の魔術師がだらりと腕を垂らして無防備に立ち尽くしている後姿が目に入る。魔術師の目の前にはずたずたに引き裂かれたような木の残骸があり、そこから止めどなく溢れ出す漆黒の液体が魔術師の足元をどろどろに汚していく。


「おっ、おいアンタ! どうし――」


 慌てて声をかけようとしたのは彼だけではない。音の発生源に気づいた騎士たちが、その魔術師へと手を伸ばす。

 だが言葉は最後までかけられることなく、伸ばした手が魔術師へと届くこともなかった。


 ボンッ! と容量を超えた風船のようなからっとした破裂音が炸裂した。


 それなりに距離が離れていた筈の新月の頬も容赦なく汚す破片は、真っ赤な血肉に塗れていた。

 無防備に立ち尽くす、魔術師の亡骸の成れの果てだった。

 あまりにも衝撃的な光景に、新月は大きく開いた眼で呆然と前を見る。実際に起こった事はとてもシンプルだ。ただ魔術師の身体が一瞬にして膨れ上がり、許容限界を超えた肉体がたまらず破裂した。

 新月はあそこまで一瞬にして人の肉体がボールのように膨れ上がる光景も、内臓をまき散らして破裂する光景も見た事はない。


 あまりにも衝撃的でシンプル故に、信じられないと一度二度と瞬きをして、白髪に絡みついた肉がぼとりと地面に落ちるのを見て、ようやく新月の喉を酸っぱいものがせり上がる。


「ぅげぇ、おぇぇぇええええ」

「大丈夫ですかこよみ!?」


 涙目で吐しゃ物をまき散らす少年の背中を、黒い影が慣れない手つきで優しくさする。

 人が死ぬ所を見たのは初めてではない。数週間前では考えられない事だがここ数日で多くの死体を見てきたし、なんならゾンビのような死体以上にグロテスクな魔獣も腐るほど見てきた。そんな新月のグロ耐性を簡単に崩壊させる程度に、人間爆弾は衝撃的で絶望的で恐怖にあふれていた。


 何とか息を整えようとする新月だが、異変は決して待ってはくれない。

 胃の中身を全部出し切り、荒い息を吐く少年は見た。

 あふれ出る黒い液体、それがまるで見えない壁に阻まれるように突然進行を停止し円形の形になったのを。

 その液体の中から、無数の腕が突き出されたのを。


 ぼこぼこと液体の中から溢れ出る、身を起こす、多種多様な無数の魔獣。

 ここに至るまでに見てきた魔獣の姿もあれば、初めて見る魔獣の姿もある。

 魔獣の大軍を前に言葉もなく震える少年の隣で、月が小さく呟いた。


「そんな、まずいです。魔獣全てが、この迷宮に限らず、世界中の魔獣がここに集まってきてしまう……っ!」


 それは絶望の情報。

 蠢く影に迷宮の空気が不気味に戦慄いた。

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