表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月下のラビリンス  作者: わたしです
血染めの死門
16/22

迷宮攻略――④

 リーベを真っ直ぐに見つめ勢い良く踏み出す。真っ赤な泥が飛びはね汚れた頬を強く拭った。


【あーっあっ! かぁっあっあっあっア―――――――ッ!】


 醜い翼で飛翔する魔獣の双眸がぎょるりと歪に回転し、駆け寄る新月の姿を捉える。まさに今幼い少女へ歯を突きたてようと霧を食い破った魔獣は空中で停滞し、僅かな逡巡の後朱色のベールに紛れるように姿を隠した。

 知能があるのか、本能か。

 眼前の獲物へ喰らいつく前に、邪魔者(新月)を取り除く方針に舵を切る。


 消えた後も絶えず霧の隙間から流れるような嗤い声に、一瞬脳裏に浮んだ足を止めて迎撃するべきかという選択肢を左右に振って霧散させた。

 あの様子だと、恐らく魔獣の数はそう多くない。仲間が集まるよりも早く叩けばそれで終わる事で、さらに言えば新月を襲ってくる確証も無い。リーベとの距離は凡そ百メートル弱、霧にも濃薄があり何とか視認出来ているが、今後の霧の動きによっては見えなくなってしまう可能性もある。見えない所で襲われでもすればどうしようもない。


(このままつっきるッ)


 一刻も早くリーベの元へと辿り着く事が先決。足を止める事無く、前のめりに近い体制で足を動かす新月の身体を包む黒い影が波打つように蠢いた。


《もう、結局こうなるとは思っていたけれど、しょうがないんですから》

《悪い。手伝ってくれるか?》

《勿論ですよ》


 アディアナの制止に真っ向から背く事になったが、それでも彼女は即答した。くすくすと楽しげに漏らす声に不快な感情は見当たらず、手伝うのは、守るのは当然だと彼女は断言して憚らない。


《取り合えず、合体を一度解きましょう》

《えっ、大丈夫なのかそれ。主に俺の精神は》

《大丈夫、あの声はあくまで恐怖を増幅させる程度の力。今のコヨミのように、固い意志を持つ者には通用しませんよ。揺らいでしまえばその限りではありませんが》


 だからしっかりと心を強く持つ。アディアナの言葉に頷いて、助けて見せると覚悟を決めて深く息を吸い込んだ。

 流れ落ちるように身体から黒い影が離れていくのと同時、水を吸い込み重くなった服を脱ぎ捨てるのに良く似た開放感と、心臓の隙間に滑り込んでくるような冷ややかな感覚が新月を襲う。


 ぶるりと背筋を震わせて、確かめるように拳を開閉させた。恐怖はある、情けない事にほんの少しだが震えてすら居るようだ。だが、立ち止まり蹲ってしまうほどのものではない。

 新月を離れた黒い影は、狼に似た獣の形を取って併走する。


《――来ます。右斜め上からっ》


 鼻をぴくぴくと震わせた黒い狼は、何かを察知したかのように耳をピンと立て鈴の音を思わせる声で警戒を促す。

 新月は口を硬く引き結んで一つ頷いた。じっとりと嫌な汗が首筋を伝う。次第に音を大きくさせる鼓動に喉を鳴らし、押しつぶされそうな重圧感の中その時は来た。


 ふわり、と。

 霧の中から飛び掛る魔獣は、無音。あの不快な笑い声をかみ殺し、気配を殺し、極僅かな音すら立てぬ襲撃。警戒態勢に入った騎士たちを欺き、二人の人間を屠った魔獣による暗殺術。

 今度の獲物も簡単だと言わんばかりの薄ら寒い笑みを浮かべて、霧から飛び出した魔獣は不意に標的を見失い一瞬呆気に取られた。


 何かが視界を遮ったと、気付いた時にはもう遅い。


(どんぴしゃッ)

 

 イメージするのは弓。岩石の如く硬く握り締められた拳を限界まで引き絞り、獲物が増えたと言わんばかりにゲラゲラ嗤い続ける憎き顔面へと叩き込む。


「オッッ、羅ァあッ!」


 とても拳の音とは思えない、劈くような轟音が炸裂する。インパクトの瞬間、肉を抉り、骨を砕く感触が芯まで響き、不気味な笑みを浮かべ続けた魔獣の頭部が呆気なく弾けた。夏場の砂浜でよく見られる西瓜割りのように、木っ端微塵に弾け飛び真っ赤な脳髄をぶちまける。


「うっわぁっ!?」


 態々手加減する必要も無い。本気で殴ってみたら想像以上にショッキングな映像を生み出してしまい、思わずたたらを踏んでこみ上げるすっぱいものをかみ殺した。錐揉みしながら霧の中に消えていった魔獣の骸が、遠くの方で地に沈む水っぽい音を耳にして大きく安堵の息を漏らす。


 直後に、襲撃とは全くの逆方向から、新たな乱入があった。


【カぁっ、ァア―――――ッ!】


 憤怒を宿す魔獣の金切り声が、安堵する新月を揺さぶる。今までの薄気味悪い笑みは影を潜め、釣り上がった両目に怒りの炎を灯す魔獣が肉を貪ろうと大口を開けた。

 どうやら魔獣にも仲間を想う心はあるみたいだと暢気な事が脳裏を過ぎる。涎を引く黄ばんだ歯並びを前に、余裕を持てる程に新月は彼女を信頼していた。


《こよみには手を出させませんっ》


 力強い宣言は残念ながら新月の脳内でしか響かないが、迸る気迫のようなものはしっかりと魔獣にも伝わっただろう。新月の背後から怒りを帯びる奇声を上げて飛び込む魔獣の、そのさらに背後から黒い狼が鋭利な歯を覗かせて飛び掛る。


 メギリ、と牙がトラバサミのように獲物の頭部に食い込み容赦なく噛み砕いた。ぶちまけられる粘り気の在る内容物を飛び退くように躱して、血肉の沼に砕いた魔獣の頭部の成れの果てを吐き出す黒い狼へと恐る恐る視線を向けた。


「容赦ねぇな」

「こよみも似たようなものでしょう」

「そりゃそうだけどさ」


 大きく息を吐き出して、左胸の上をかきむしるように強く掴む。

 耳鳴りのように木霊する心臓の音が煩い、定位置を見失ったのではと不安に成る程跳ね回る心臓が今にも口から飛び出しそうだ。

 【スケアリーボイス】のせいか、単純に新月が臆病なのか。

 覚悟を決めてもやはり戦闘というのは恐ろしいものに変わりは無かった。

 だけど。


 震えそうな膝を叩いてしっかりとした足取りで倒れ伏すリーベの元へ急ぐ。新月の索敵能力はまるで向上する事無く、そこらの常人並みである。周囲への警戒はアディアナへ全て分投げた。アディアナにだけ耳を傾けつつ、滑り込むようにリーベの元へ辿り着いた新月は、そっと彼女の小さな身体を抱きかかえる。


「……」


 視線を腕の中に落とし、気を失ったリーベを見る。外傷は頬についた僅かな切り傷だけで、大きなものは見当たらない。眉間に皺を寄せて、まるで悪夢を見ているかのような表情だが、事実その通りなのかもしれない。恐怖が精神を蝕んでいる。一刻も早くフィトーの元に連れて行くべきだろう。


 冷静に現状を分析する一方で、胸をじわじわと占める場違いとも言える喜びの感情に口元をもごもごとさせてしまう。

 救えた。自分の力で、彼女を救った。

 キャンプ場では出来なかった事だ。たった一人とはいえ、救うことが出来た。その事がどうしようもなく嬉しくて、にやにやと頬を緩ませる新月は、はっと思い出したように目を見開く。


「そうだ、確かこの辺にもう一人居る筈だったな。すまん、アディアナ頼めるか? 取り合えずその人探してから――」

「――こよみ」


 慌てた様子の新月の言葉を遮って、彼女は静かに告げる。


「今すぐ、戻りましょう。ここは危ない」

「いやでも」

「……こよみ。この辺りに居る『生存者』はこの場にいる私たちだけです」


 言葉は真っ直ぐに新月の胸を貫いた。

 結局、救えたのは一人だけだった。上出来だと、逃げて逃げて逃げ続けるだけだった過去に比べれば十分すぎると、言い聞かせて。

 それでも唇を噛む歯は強く、目元に暗い影を落とす。


 小さな声で一言、そうかと返事を返す。全ての目的が終了した今、仲間と孤立している今の状況は非常に宜しくない。

 急いで戻るべきだと分かっているのに、足取りは酷く重かった。


「なあ、アディアナ。何時か、全部丸ごと救えるぐらい、強くなれるかな?」


 それは絶対にかなえて見せるという意気込みではなく、ただの漠然とした願い。

 自分でもきっと無理だと内心で半分諦めた願望を口にする新月を、アディアナは笑顔で迎え入れた。


「ええきっと。貴方と私なら」



◆ ◆ ◆



 新たな襲撃も無く無事にフィトーの元へと辿り着いた新月は、リーベを任せた後、再び捜索へ向かおうとした所を止められて何をするでもなく所在なげに辺りを見渡していた。

 右手は未だに暴れまわる心臓を押さえるように胸に当てられて、緊張を少しでも取ろうと深呼吸を繰り返す。


「コヨミ、ここに居たのか。リーベを助けてくれてありがとう、君が居なかったらどうなっていた事か。考えたくも無いよ」

「クラウスか。お前は怪我とかないのか? 派手に暴れてたけど」

「僕は大丈夫だよ」


 手を振って見せて傷の少なさをアピールする彼は勤めて明るく振舞っているものの、僅かな含みを持ったその言葉に新月は視線を下げた。


「犠牲者はどんくらいだ?」

「……、六人だ。最初の襲撃で二人、その後【ボイス】で動けなくなった所を襲われ三人、それを守ろうとして一人死んだ」

「そっか」


 何と言っていいかわからない不思議な気分だった。先ほどまで立って歩いて、話だってしていたであろう人が六人も一度に死んだ。キャンプ場の時とはまた違う、あの時はただ只管怖かった。突然の惨劇に理解が追いつかず、訳も分からぬまま狂った前回と違い、今回はある程度の覚悟はあった。どれだけ入念な準備をしていようが、誰かしら犠牲者は出るのだろうと漠然と考えてはいた。


 だが実際に人が死んだと聞いて新月が胸中に抱いた感情は、恐怖とも悲しみとも怒りとも諦めともいえない、言葉に出来ないもので。

 ただ、嫌な気分だった。


「大丈夫かい? 皆、覚悟をしてここに来ていた。だからコヨミがそんな顔をする事はないよ」


 穏やかな口調で言われた言葉が自分に向けられていると気付き、新月は驚いたような顔で目を瞬かせる。


「あー、どんな顔してた?」

「見ているこっちも気が滅入るような悲痛な顔を」


 ともかく、と。

 クラウスは新月を元気付けるように笑みを浮かべて。


「フィトーのお陰で精神汚染からは回復できた。そろそろ出発するつもりだ」

「もうか、早いな」

「休憩はもう少し進んでから取るつもりだ。まだ『最奥』までは遠いんだろう?」


 最後の言葉はアディアナに向けられたもので、ふわりと浮ぶ黒い影が人の形をとって頷いた。


「ええそう。漠然とした感覚で距離が明確には分からないけれど」


 湖の出来事然り、今回の襲撃然り、迷宮の全てをアディアナが知っている訳ではない。『最奥』も『迷宮の主』も全てはクラウスたちが名付けた名である。目印となるのは『終着点』もしくは『巨大な力を持っている』という事。


 現在アディアナはこの『迷宮』内の凡そ中心付近に存在する『力』を感知し目指していた。『迷宮』の構造全てを理解している訳ではない故に、明確な距離を図ることが出来ない。


「了解だ。それじゃあ僕は行くよ、向こうでアラムとリーベが待ってる」


 頷く事で返事をし、その場でクラウスとは一度別れ、示された方へと歩を進めた。周囲では【スケアリーボイス】の精神汚染から回復した者たちが、それぞれ魔術で作り出したであろう簡素な椅子に腰掛身体を休めている。


 霧のせいで見失ってしまう事を恐れ、出来る限り一箇所に集中して休息をとっているものの、目を凝らしてもぼんやりとしか人影を確認できない。幸いにも結界魔術なるもので周囲を守られているために今は襲撃の心配はないと新月は聞いている。それでも恐怖を感じてしまうのは、最早仕方が無いのだろう。


 新月の意を汲んでかアディアナは警戒を怠らず、そのお陰もあって二人は直ぐに見つかった。


「おうコヨミ、聞いてるぜ。ちびっ子助けてくれたんだってな、やるなあ。ありがとよ」

「ち、ちびっ子っ!?」


 頭を抱えるように額に手を当て椅子に腰を下ろしていたリーベは新月の姿を確認するや否や、飛び跳ねるように直立し、同時にアラムから放たれた言葉に愕然と両目を見開いた。

 眠たげな表情を浮かべている事が多い彼女がこれでもかと言わんばかりに両目を開き、がっくりと肩を落として小さな声で再び「ちびっ子……」と繰り返すように呟く。相当ショックだったらしい。

 そんな隣の少女の様子に目もくれず、ずんずんと歩を進めたアラムが力強く新月の両肩を叩く。


「ホントありがとな。今回の事はちびっ子から目ェ放したオレの責任でもあるし、助かったぜ」

「んっ! 別にアラムに守ってもらう必要はない。私は『ウィズ』」

「どの口が言ってんだよ、コヨミに助けて貰ったくせに」

「ぬうぅ……」


 不満げに頬を膨らませながらも、分が悪いと察したのかリーベは一つ咳払いをして仕切りなおすように新月に視線を向けた。


「助けてくれてありがとう。本当は私が守らないといけないのに……迷惑掛けてごめんなさい」


 しょぼん、と肩を落としたリーベはそこで気合を入れなおすように両手で拳を作る。


「この恩は絶対忘れない。必ず返すっ、んっ!」

「おーおー、気合はいってんなー」

「無償の恩なんて存在しない、受けた恩は必ず返せってきつく言われたから」


 気合十分、小さな拳を握り締める彼女に何気なく新月は尋ねる。


「へえ、そりゃまた誰に?」


 こんな小さな子に教えるには些か冷たすぎやしないかという好奇心からの問いだった。子供にあまり気負いして欲しくないという気持ちも含まれていたかもしれない。

 それに少女は胸を張ってどこか得意げな表情で口を開こうとして、動きが唐突に止まる。得意げだった表情が段々と曇り初め、僅かに首をかしげながら額に眉を寄せた不思議そうな顔でリーベは言う。


「んー……、えと、あれ。忘れた……」

「なんじゃそりゃ」


 ケラケラと笑うアランに頬を膨らませるリーベは不満げだ。

 ド忘れしちゃったとぶつぶつ呟きながら彼女は笑うアランの脛を蹴る。その様子はまるで仲のいい兄妹のようで、新月も思わず笑みを零した。


「出発だッ! 隊列を組め」


 のんびりとした空気が流れたのも束の間、響くクラウスの出発の号令を受けピリッとした緊張で空気が引き締まっていく。一糸乱れぬ動きで集まっていく騎士たちに遅れを取らぬよう、新月もアラムの後を追うとふいに袖を引かれて視線を落とした。そこにはリーベが守るように傍に控え、改めて深く顔を下げる。


「ほんとうに、ありがとうございます」一度言葉を区切り、気合と共に息を吸った彼女は頭を上げて「今度は私の番。期待してて」

「ああ、頼むよ」

「んっ!」


 力強い返事に笑みを零して衝動的に少女の頭を撫でる。丁度良い高さだったのだ。しかし彼女はお気に召さなかったらしく、頬を膨らませてそっぽを向く。アラムのように強い口調で向かってこないのは『恩人』であるからだろう。新月が笑みを苦笑に変えて手を離すのと、ずるりと黒い影が身体から溢れるのは同時だった。


「っ!?」

「うおっ、びっくりした」


 影は瞬く間に人の形となり腕を組んで浮遊する。まだアディアナの出現に慣れていないリーベ他周囲の騎士たちが反射的に身体を固くさせるが、彼女はその全てを無視して静かな声でこういった。


「ふっ。まあ貴女の出番は私が居る限り、未来永劫ないのだけれど」

「……アナ、突然どうした」

「こよみこよみ。私がしっかり守りますから、この娘に頼る必要は皆無ですよ」

「えーと、あれっ?」


 ぽかんと新月は首を傾げる。彼女はメラメラと分かり易いほどに対抗意識を燃やしている。こんな少女相手にだ。

 ここまで彼女は子供っぽい性格だっただろうかと思案して、すぐさま思い直す。確かにアディアナとの付き合いは相当濃いレベルだが、比べて期間は非常に短い。性格の把握には時間があまりにも足りないというもの。迷宮脱出時の頼れるイメージが強かったが、そういえばここ最近所々で子供っぽさは出ていた。


「そう言う訳で貴女はしっかり自分の身だけ守りなさい」

「私は『ウィズ』、もう不覚は取らない」

「あの体たらくでは信用ないです」

「受けた恩は必ず返すっ」

「必要ないです」

「それを決めるのは貴女じゃないもん」


 二人の舌戦に口を挟むのは野暮というものだろう、『何とかしろよ』という周囲からの視線を華麗にスルーし新月は目を伏せる。

 緩やかに前進を始める隊列に遅れを取らぬよう進むリーベとアディアナだが、依然口論は続き次第にヒートアップしていく始末。飛び火を恐れてかぽっかりと二人から離れていく騎士たちに混じる新月の肩をアラムが叩く。


「あれ、なんとか――」

「――できないです」

「そうか……。しゃあないな、まあ(、、)触らぬ神に祟りなし(、、、、、、、、、)って事で(、、、、)


 やれやれとでも言いたげに首を振るアラムの言葉に一瞬引っ掛かりを覚えて首を傾げた。


(ん? なんだろ、違和感が……?)


 何かが引っかかった。だがその正体が掴めず、暫しの思考の末に感じた違和感を勘違いと処理して放り捨てる。


(まあいっか)


 それよりも気になるのは今尚舌戦を繰り広げる二人の事で。

 既に新月を守る云々の話ではなくなっているらしく、『子供』だの『謎生物』だの低レベルで醜い言い争いへと発展してしまっている。


 二人のいい争いから耳を塞ぎ、首を回して周囲を見渡すとふいに気付いた。迷宮攻略に挑む人数はそう多くなく三十人程度。騎士たちの中にはヘルムを被っているものが多く、しかし逆に被っていない者の顔は印象に残っていた。

 その顔がない。どこにも見当たらない。もしかすると戦闘が終わった後でヘルムを被っているのかも知れない、だがそうでないとするならば。


「……」


 続く少女と黒い人型の舌戦に顔を引き攣らせるアラムの後を追いながら、新月はゆっくりと後方へと視線を投げた。

 霧のベールは濃く、静寂と共に全てを隠してしまっている。

 化け物も、戦闘の後も、屍も。全ては霧の向こう側に消え去った。


 沈んでいきそうな気持ちを切り替えるために一瞬だけ目を閉じる。

 どうか安らかに。消えていった六人に祈りを捧げて、隊列はさらに霧の奥へと歩を進めた。



◆ ◆ ◆



 依然終わりの見えない攻略に新月は疲れを滲ませた息を吐く。

 霧はさらに濃さをましていき、今では常に魔術で視界を取っている状態だ。そうでもしなければ僅か数歩先をいくアラムの背中すら見えなくなっていただろう。

 だがやはり魔術を常に行使し続けるというのは無理があるらしく、数人の魔術師が一組になって当たり、さらにこれまで二度に渡って小休止を挟んでいた。


 そのお陰もあり肉体的疲労は少ないものの、精神的疲労は増すばかり。

 風景に変化といえば木の数が少しばかり増えたかその程度、終わりの見えない霧の迷宮は容赦なく精神力を奪っていく。


《僅かに右にずれていってますよ、こよみ》

「あー、クラウス。右にずれてるらしい、左に少しばかり修正してくれ」

《了解だ》


 『念話札』からクラウスが言葉を返す。ここらは既に新月にとって未知の領域となっている。新月とアディアナが出会った場所よりもさらに深い場所に彼らはいた。アディアナの案内も抽象的なものが多くなり、今では方向を示す事しかできなくなってしまっていた。


 それだけでもありがたいとクラウスは言う。


《本当に君たちが居てくれて助かったよ。この霧の深さだと、まともに真っ直ぐ歩く事すら叶わない》

「まさに一寸先は闇って状態だもんなあ」


 魔術を使っても完全に視界が取れている訳ではない。「全くだよ」と同意するクラウスが吐き出すため息交じりの息も、深紅の霧の中に溶けるように消えていき、同時に『念話札』越しのため息と重なるように、もう一つ小さな吐息が傍で零れ落ちた。


「大丈夫か? 大変そうだけど」

「ん、平気。『ウィズ』だもん、このくらい余裕」

「辛いときは言えよー、オレがおぶっちゃる」

「ん、これで死んでも言えなくなった」

「なんでだよー」


 現在霧払いの魔術を行使しているリーベの冷めた視線を受けて、アランは冗談めいた表情で肩を竦ませて見せる。穏やかに会話を重ねれる二人だが、空気はピンと張り詰め周囲の警戒は怠っていない。常に周囲へと意識を向けるという行為はひどく体力を使う。けらけらと笑うアラムの顔にも時折疲れの気配が見え隠れし、同時に魔術を行使しているリーベは強がっているものの滴るほどの汗を流し荒い息を吐いた。


「クラウス、その、そろそろ……」

《ああ、分かってる。もう少し進んで一度大きな休憩を挟もうと思ってる》


 新月の言葉を最後まで受け取る前に、先をくみ取ったクラウスが、僕も疲れたしね、と茶化すように言葉を返した。


「休憩? マジで? やたーっ!」

「ん、アラムみっともない。男のくせに」


 隣で会話に耳を傾けていたアラムがようやく休めると両手を突き上げ満面の笑みでガッツポーズ。その様子に眉を顰めて苦言を漏らしたリーベもどこかうれしそうな表情を浮かべていて、先ほどの言葉はやはり強がりだったのかとアラムがにやにやと追及した。


 そんな事を言われて黙っている彼女ではない。ぷくっとほほを膨らませるリーベの足が泥をはね上げ、にやけた面を浮かべる男の脛へ向けてフルスイング。甲冑で守られたそこへと明確なダメージを与えるためか、どうやら魔術的なもので強化されていることが伺える。だがそんな攻撃を受けるアラムではない、ひょいひょいと避けていくアラムにリーベはむきになったように攻撃を重ねた。


「おい馬鹿、二人ともよせって……」


 呆れたように言葉を吐く新月は額に当てた手で白髪をかき上げた。

 小規模な二人の争いだが、それだけやれば当然目立つ。瞬く間に「もうすぐ休憩らしいぞ」と情報が駆け、騎士たちの集団がにわかに騒めいた。気を抜いたわけではない、今もアラムを含め騎士たちの意識は常に外へ向き襲撃を警戒している。ただやはり終わりの見えない行軍から、終わりの見える行軍に変わったことで気持ちというのはいとも容易く軽くなるものなのだ。もう少しすれば休憩だと、疲れた息を吐きだした。


 その時だった。


《――-―静かに》


 新月の手元の念話札からではない、すべての騎士たちにも届くように、クラウスの声が脳裏で響く。

 一瞬だった。にわかなざわめきは水を打ったように消え去り、くだらなくも本人たちは白熱していたアラムとリーベの争いもぴたりと止んだ。瞬間的に緊張が、敵意が、殺気が高まり渦のように放出されていくのを新月は肌で感じていた。先ほどとは打って変わって疲れを微塵も感じさせない様子で、皆一様に己の武器へと手を乗せた。


《アナ、敵は……》

《感じません、少なくとも周囲にはいないと思いますけれど》


 ちらりと視線を向けて脳裏でアディアナへ問う。

 彼女は首を振って、敵の存在を否定した。

 同時に、手元でわずかに光を放つ念話札から声が投げかけられた。


《コヨミ、アディアナさんは何か言っていないか?》

「敵の気配はないってよ。クラウス、なんか――」


 『あったのか?』と本来繋げるはずだった言葉をごくりと唾液と一緒に飲み込む。中途半端に言葉を引っ込めざるを得なかった。ぐいぃ、と引っ張り上げれるように衣服が捻じれる、足裏から踏みしめていた血泥の感覚が消失し空を掻く。


 強靭な力で新月の全身が持ち上がった。


「がッ、なっあぁ!?」

「「《コヨミ!》」」


 傍に控えていた二人と、自身の中から一人の声が重なって叫ぶ。その声に構っている暇はない。驚愕に目をむき咄嗟に自らを持ち上げる「モノ」を押さえつけようとした両腕が呆気なく中空を握りしめて、再び新月は愕然と顎を落とした。


 胸のあたりをかきむしるように握りしめる、一本の木の大きさ程度の紅い物体。霧の中から突き出されるように伸び、新月を捕まえ持ち上げるそれは腕に見えた。だが必死に抵抗する新月の両腕は虚空を握りしめるばかりで一向に自らを持ち上げるものに触れることすらできない。宙へと持ち上げた剛腕は新月の体を霧の中へと引きずり込もうと力を込めた。


 確かに存在し向こうからは触れている筈なのに、こちらからは触れることが出来ない。

 抵抗の方法が思いつかず、意識に瞬間的な空白が生まれた。どうやってこの拘束から逃れるか、このまま霧の中へと消えていけば待ち受けているのは間違いなく終着点()だ。方法を模索するために一瞬思考の海へと身を沈める。そのわずかな瞬間と重なるように、凛とした声が鼓膜を揺さぶった。


「【アイス・ヘル】」


 ハァっと吐き出した息が真っ白に染め上げられる。幼い少女の、しかし誰にも負けないような迫力を伴った一言に新月の視線は吸い寄せられるように動き、直後に霧の中へと引きずり込もうとしていた深紅の腕が氷の結晶と化して砕け散った。


「うぉぉおお!?」

「よっと。無事かよコヨミ!」


 自ら釣り上げていた巨腕が白く崩壊していき、支えを失い落下した新月を下で待ち構えていたアラムが受け止める。


《大丈夫!? だっだっだっ大丈夫ですかこよみ!》

「あ、ああ。何とかな、ありがとうリーベ、アラム」

「んっ!」

「まあオレぁ特になんもしてねーけどなっ」


 アラムの手を取りふら付く足で血泥を踏みしめる。最大限冷静に対処しようとしたが、それでも限界寸前だったようで心臓を締め上げているかのような錯覚が解け、耳元でドクドクと脈打つ心臓の不協和音ががなり立てる。緊張をほぐすために深呼吸をしつつその場で小さく足踏みをすれば、帰ってくる確かな地面の感触に思わず安堵の息が零れた。


《警戒ッ!》


 ナイフのような鋭い一言で周囲の騎士たちがまるで同じ意思を持つ一の生命体のように淀みなく動く。胸を押さえ激しく息を吸う新月を中心に守るように、騎士たちが盾を片手に丸く陣形を組んだ。


「霧が……」


 そんな警戒は無意味だと言わんばかりに、陣形の内側に深紅の腕は再び出現する。

 霧払いの魔術を使い視界を確保している内側に、流れ込む幾筋もの血の霧が瞬く間に腕の形を取ったかと思えば、盾を構える屈強の騎士たちを次々と空中へと釣り上げていく。


「まずいッ!」


 陣形の内側からの出現。まさしく想定外の出来事に対処が数舜後れを取った。


「がああああああッ!?」

「やめっ、離ぜぇああッ!」


 二度も同じ間違いは繰り返さない。深紅の腕が釣り上げた騎士たちを霧の中へと瞬く間に引きずり込み、尾を引く絶叫が深紅のベールの向こう側で静寂に飲み込まれていく。


「くそッ!」

「撃てッ! 【ライン・フレイム】!」


 紅の腕の本数はおよそ十本、続々と出現する隻腕めがけて魔術が飛び交った。乱れ飛ぶ炎や氷、雷といった超常の閃光が炸裂する。激突と同時に呆気なく霧散する腕だが、予測できない出現場所と続々と増えていく本数に対処が遅れた者からじわじわと霧は飲み込んでいく。


「やばいやばい! 俺もなにか……っ」

《こいつらは完全に霧と同化しています! 私の感知能力では捉えられない! お願いですからこよみ、動かないでくださいっ》


 絶叫と砲声が飛び交う戦場の真っただ中で、腰をかがめた状態で己の役目を探そうとする新月の頭を殆ど泣きそうな声でアディアナが押さえつけた。その際に手心を加え忘れたのか首が勢いよく曲がり、些か不安になる異音が首から発生したのはご愛敬。例え医者に見せても笑顔で湿布を渡されるだけだろうが、少なくともこの時の新月は自身の首の骨に異常が発生したことを確信した。


「ぐぐぐッ! だ、だけど!」

「いーやアディアナさんの言うとおりだ、そのままじっとしてろコヨミ!」

「アラムっ!?」


 引きずり込もうと襲い来る紅腕に一閃、散り散りに霧散させたアラムは返す刃でもう一本の腕を断ち切りながら新月に怒鳴りつけるように声を張り上げた。


「変に動いたりしたら巻き込まれっぞ!」


 何に、という問いは空気を震わせることはなかった。

 それよりも早く戦場を遍く駆ける深緑の神風。荒れ狂う風に血の霧が流れ、霧と同化していた魔獣の擬態を引っ剥がしていく。風がやみ、久方ぶりに広がる鮮明な視界に浮かび上がってきたのは身体に比べて不釣り合いなほど巨大な両腕を持つ魔獣たちの姿。


 肋骨が浮かぶほどやせ細った人体の両肩から延びる腕は、大木の如き太さを誇り明らかに人のものではない。腕を覆う獣のような短毛は所々血に濡れ、バギボギと硬質なものを砕く異音に目を向ければ、握りしめられた拳の隙間から鮮血が零れ落ち、甲冑の鈍い銀色の光が見えた。


 魔獣はきょろきょろと窪んだ眼孔を彷徨わせ首を傾げるような所作を見せた。

 その首目掛けて横薙ぎに刃一閃。


 片刃を二つ、繋ぎ合わせて作ったような不思議な両刃の大剣。

 血に濡れた刃の上に指を滑らせて、冷ややかな光を灯す紅の両眼が魔獣を射抜く。


「殺せ」


 それ以上の言葉は必要ない。

 霧が暴かれ、実態が白日の下にさらされた魔獣は最早恐れるに足らない存在。一度は風で流れた霧が戻り、再び周囲を満たす前に、怒号と共に地をかける騎士たちの剣戟の下に一匹残らず魔獣は沈んだ。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ