迷宮攻略――①
懐かしの、と形容して過去にするには些か早すぎる砂浜に立って大きく潮の香りを吸い込む。正面を向けば不気味な森が何処までも広がっていて、聳え立つ巨大な門からまるで視覚化した悪意を思わせる黒々とした靄が掛かっている。
帰ってきた。この世界に置いて、ある意味で新月の生まれた場所。何時か戻ってくると考えていた場所で、二度と帰ってきたくないとも考えていた場所。そんな島に二本の足でしっかりと立つ彼の心は想像以上に平穏だった。緊張はある、恐怖も忘れた訳ではない。だが、きっと既に覚悟は決まったという事なのだろう。
「しっかし早いご到着で。……もっとゆっくりしてけば良いのに」
「あらあら、もう怖気ついてしまったのですか?」
「ちっげーよ」
彼の隣で浮遊する黒い人型がくすくすと口元に手を当てて笑う様に、唇を尖らせて強く否定の言葉を吐く。それだけは断じて違うと、怖気つく過程を越えて今ここにいるのだ。
「ただちょっと予想外で、ビックリしただけだ」
「ふふっ、そうですね。確かに随分早く到着しましたけれど、それだけ彼らにも時間が無いという事かもしれません」
アディアナは耳元に口を寄せ、声量を抑えた囁き声で。
「彼らには焦りが見えます」
「焦り?」
「ええそう。ちらほらと、焦りを抱えた人を見かけます」
そう言われて辺りを見渡せば、砂浜にテントを建てるなどをして準備に駆ける船員たちの中に、確かに緊張や焦りと言った類の感情を浮かべる者を幾人か見かける。
「だけど、まあそれも仕方が無いんじゃないか?」
緊張は勿論、焦りという感情も分からなくもない。
ただ化け物の巣窟がそこにあるというだけならば、こんな武装を整えて、敗北を一度経験して尚挑もうなどと思わないのではないだろうか? 触らぬ神に祟りなしという言葉もある。あくまでこれは新月の想像だが、きっと祟りを覚悟してでも神に触る理由がある筈だ。
つらつらと予想を立てて口を回す新月は、丁度いいとばかりに手を打って。
「気になるんなら聞いてみるか」
「誰にです?」
「アイツにだよ」
指で指した方向には布で出来た簡素なテントが一つ。他のものより幾分か大きなそれの入り口で、朝日を反射する金髪を潮風に靡かせて笑顔の青年が手招きをしていた。
「やあ、話を聞かせてもらいたいんだけど、いいかな?」
「今更嫌だなんて言う訳ないだろ」
それもそうかと快活に笑うクラウスの後についてテントの中に入る。中央に置かれた簡潔に組み立てられた机の上に様々な紙の資料が散らばっていた。入ってきた新月へと視線を向けるのは、机を挟んだ向かい側で散乱する資料を片手に会話を重ねていたフィトーと禿頭の大男。話し込んでいた頭を持ち上げて、こちらの姿を認めた大男が机の向こう側からスイカでも握りこめそうな巨大な手を差し出す。
「クラウスから聞いとる、よう覚悟したのう。ゴウト=スヴェリンだ。宜しく頼む」
「こよみです、宜しくお願いします」
目上の人には敬語を使うというのは、誰しも子供の頃に習う事だと思う。初対面の時はタメ口を聞いていたが、今後は迷宮に仲間として共に潜るのだ。礼儀正しく行くべきだろう。
見るからに強そうなゴウトの印象を少しでも良くしようという気持ちがあるのも否めないが。
「丁寧だね、僕にはタメ口なのに」
「お前とは同い年ぐらいだろ?」
「そっか、それもそうだね」
何が可笑しいのかケラケラとクラウスが快活に笑う。
一歩後ろで丁寧にお辞儀をしていたアディアナは、こっそりと新月にだけ聞こえる声で元気よく宣言する。
《ハイ、ハイっ! 私も目上なのだけれど?》
《アナは別枠だから》
どこか期待した声をばっさりと切り捨てた。
アディアナは余りにも簡単に期待を切り捨てられて悲しくなって、同時に別枠と特別扱いされた事が嬉しいと複雑な感情を持て余す。そんな隣の彼女の様子には一切気付かず、新月はマイペースに片手を上げて。
「ちょっと聞きたい事があるんだけど、いいか?」
「勿論だ。何でも聞いてくれ」
「んじゃま、お言葉に甘えて」
両手を広げて大げさに歓迎を示すクラウスを流し見て、何と聞こうか言葉を選ぶのに一拍間をおく。
「なんで、迷宮に挑もうと思ったんだ?」
「――――」
「このリングビーは無人島で、大した広さも無い。態々命を掛けて攻略しようって思ったのは何でだ?」
「ふむ、……そうだな。もし迷宮が、ただそこにあるだけだったならば、僕らも手を出そうなんて考えなかったかもしれない」
そういって、どこか遠くを見るようにクラウスは視線を持ち上げた。
「迷宮は魔獣の巣窟だ。人を食らう化け物共は年に一度、多いときでは計三度を超えて、海を渡る」
「それって」
「僕らは『大進行』と呼んでいる、一種の災害だ。迷宮の魔獣共が海を越えて国へ押し寄せて来るんだ。不幸中の幸いと呼ぶべきか、魔獣たちは一晩暴れた後に勝手に帰っていくんだが年々被害は拡大している。これ以上は国が持たない、だからこそ元凶を断つ為にこうして攻略に乗り出したって訳さ」
「……。因みに、次の『大進行』は何時ごろ来ると予想してんだ?」
「前回の『大進行』は凡そ10ヶ月前。そろそろ、何時来ても可笑しくはないのう」
禿頭をごりごりと掻きながら、疲れたため息を吐き出すゴウトが言う。
あの悪意を詰め込んで形にしたような化け物が、家族がいる場所に押し寄せてくる。それも何時来るのかは定かではないと来た。焦る理由も迷宮攻略に挑む理由も一度に理解できた。地獄が姿をとって襲い来る恐怖を新月は知っている。彼らの恐怖が、想いが痛いほど良くわかった。
「それは、怖いな」
「ああ。言葉ではとても言い表せないほどに」
視線を戻したクラウスの表情に、悲しみや憎悪、怒り何ていう簡単な単語では表現できないぐちゃぐちゃに入り混じった暗い影を垣間見た。覆い隠すように口元に置いた手は、幻かと思わせる程鮮やかに暗い影すらも拭い去って、瞬く間に何時も通りの笑みを浮かべる。
「さて。それじゃあ今度はこっちが質問する番だね」
「別にそう言うつもりでいったわけじゃあないんだけど。ま、ドンとこいだ」
「それじゃあ遠慮なく。これを見てくれ」
手渡されたのは机の上に乱雑に散らばっていた紙束の一つ。どうやら同じ内容の紙束を幾つも作っているようで、同様に片手に持ったフィトーが人差し指で表紙をノックする。
「これは前回の迷宮攻略時に得た情報だ。これにシンツキ君、君の情報を加えたい」
興味深げにペラペラと捲っていけば、血の池や城、這いずる屍などの情報は載っているものの、その先は穴だらけだ。ギリギリ血の霧が情報として乗っている紙束に、思わず新月の頬が引き攣る。
「これは、その。酷いな、情報が少なすぎる」
二度目がある以上、一度目は失敗したのだろう。だがこの情報の少なさ。嫌な予感を覚えてごくりと音を鳴らして唾を飲み込み、おずおずと控えめに尋ねた。
「一度目の生存者は、何人だ?」
「0だ。正確には一人は帰ってこれたが、彼も情報を話して直ぐに死んでしまった。文字通り全滅だよ」
「――――」
穴だらけの情報が指し示すのは、つまりはそう言うことだ。
愕然と口を開閉させる新月に、クラウスは説明を重ねていく。
「一度目の攻略も決して手を抜いていた訳ではなかった。今でも思い出せるよ、国の期待を背負って迷宮へ向かっていった勇者たちを」
「ならなんで、そんな結果に?」
「認識が甘かった、という事だろうね。嘗て攻略に向かった騎士団の中には、主力が居なかったんだ。何かの手違いがあったんじゃないかと思うぐらいに、決定打に掛けていた。向かっていた騎士たちは皆優秀だったが、結局単なる『優秀』止まりでは迷宮には歯が立たない」
冷たい迷宮の現実は、一体どれだけの戦士の命を飲み込んだのか。
「前回挑んだのは騎士団、って事は今回もそうなのか?」
「ん? ああ、そう言えば言ってなかったっけ。皆国の期待を背負う騎士さ」
「……大丈夫なのか?」
一体何に対しての確認かは言うまでもない。
クラウスは拳を握り締めて、力強く瞳に炎を灯らせる。
「勿論だ。前回とは違う。記憶のない君には分からないかもしれないが、ゴウトもフィトーも大陸に名を轟かせる武人だ」
「さらに今回は『ウィズ』もいる。シンツキ君の不安も分かるが、前回とは全く違うんだ」
「『ウィズ』? 人名ですか?」
フィトーが若干頬を上気させ、興奮した息を吐きながら言った聞きなれない単語に首を傾げる。
「『ウィズ』は時代の最強の魔導師に送られる称号だ。ここ数十年不在だったんだが、幸運な事に我が国から選出された」
「ほら、コヨミも知ってる筈だよ。今朝僕の部屋で会ったでしょ? あの娘だよ」
「あー、あの」
思い出すのは眠たげな眼をした少女。だが彼女はとても戦える年齢に達していない程幼かった筈。
「でもあの娘、すっごい幼いだろ。大丈夫なのか?」
「頼り切るのは良くないだろうね。でも彼女自身も望んで同行してくれている、幸いな事にね」
一息吐く様に言葉を区切って、彼は握り締めた拳を胸の前で手の平とぶつけさせた。
「それに何より、僕が居る」
「自信満々だな、強いのか?」
言外にそうは見えないと言葉を滲ませる新月に彼は気分を害した様子も無く笑みを深める。
「勿論さ。この一団の中で最強は僕だ」
「そりゃまた、おっきくでたな」
「しかしまあ、事実だしのう」
「そうは見えないかもしれないが、シンツキ君、安心して欲しい」
次々と連ねていく言葉の中に否定はない。一目で、クラウスへ向ける全幅の信頼が見て取れた。
「そっか。まあ、今更止めるだなんて言わないから。頼りにしてるぜ」
「頼りにしてくれ。それじゃあ話を戻そうか」
アディアナを交えての情報提供は日が落ちるまで行われた。
◆ ◆ ◆
水平線の彼方から朝日が顔を出し、世界を光で照らし出した。まだ仄暗く青白い空に鮮やかなオレンジの光が混ざっていく景色に目を奪われながら、テントから這い出て胸を張る。肺一杯に吸い込んだ海の香りを一頻り楽しみ、新月は両頬を手の平で軽やかに弾いた。
「よっしゃ、やったるぞっ!」
「その意気です、頑張りましょう」
揺らめく影が人の形を取ってぐっと両の拳を握って鼓舞する。
今日はきっと忘れられない日になる。確かな予感を胸に背後の、『悪夢』をその双眸で睨み付けた。
攻略当日。覚悟が揺らぐ事は無い。
「ついにこの日が来た」
陽光がギラギラと反射する海辺を背にして、厳かに始まりを告げた。
灼けた砂浜の上に並び立つ重装備の騎士たちの重々しい視線を一身に受け止めるクラウスは、臆す事無く堂々と胸を張り鋭く目付きを光らせる。
黒服の上に初雪を思わせるま白のコートを羽織り、風を裂いて抜き放つのは一振りの剣。柄に両手を置いて砂浜に突き立てた切っ先は双刃に割れた不思議な形状をしており、刀身に刻まれた金の刻印が陽光を反射して煌いた。
「大進行が始まり百余年。魔獣どもは罪無き人々の命を奪い、『迷宮』は多くの戦士たちの魂を呑み干してきた。家族を、友人を、奪われてきた者は多いだろう」
ギシリ、と噛み砕かんばかりに歯を食い縛る音を聞いた。
出口を探して身体の中で荒れ狂う脳が沸騰するような怒りに、握り締めた拳から滴らせる血で砂浜を濡らす者が居た。
瞼の裏に浮んだ過去の光景に、胸を締め付けられ歪めた頬を涙で濡らす騎士が居た。
晴天の砂浜に、似つかわしくない激情が渦を巻く。この中に悲劇を経験していない者は居ない。『迷宮』に齎された恐怖は、怒りは、後悔は皆一様に胸に秘めている。
「八年前の悲劇を、僕は今でも思い出せる。片時も忘れた事はない。誰もが凱旋を信じていた。二度とあの悲劇を繰り返してはならない、繰り返す積もりは毛頭無いッ!」
叩きつけるような咆哮が、後方で聞いていた新月の胸を貫く。
新月は何も知らない。一度目の迷宮攻略に挑んだ八年前の悲劇も、大進行によって引き起こされた悲劇も。しかし、この場に居る者たちと気持ちを共有する事は出来る。
恐怖も、怒りも、後悔も。全て彼は知っている。うなじが逆立つような熱気に、否応無く新月の気持ちも高ぶった。
「行くぞ」
迷宮内で新月が何度も口にした言葉を、彼は粛々と唱え突き立てた剣を天に掲げる。
「我らの手で、終わらぬ悪夢に終止符を打つッ!!」
『雄おおおおオオ―――――ッ!』
咆哮が大気を焦がす。踏み鳴らす轟音が砂地を揺らす。炎の塊のような熱い戦意に、新月も胸の奥から底知れぬ感情が湧き上がるのを感じた。
異世界においても、新月にとっても悪夢の代名詞である『迷宮』。
多くの命を奪ってきた『血染めの死門』の攻略が、今始まる。




