弱者の覚悟
「なるほど、言えなかった訳だ」
驚愕から完全には抜け切らない表情で青年は言った。靄の集合体のような、影が立体になったような黒い人型は、例えその意思がなくとも不気味な存在にしか見えない。納得の表情で笑みを口に浮かべて、彼は背後で身構える二人を手で制す。しかし彼らの身体にはいった力は消えておらず、依然鋭い目付きで黒い人型を見据えていた。
間違いなく高まった室内の緊張感に新月の喉がなる。一瞬とはいえ向けられた『敵意』、『殺意』は心臓を握り締め全身から嫌な汗が吹き出した。『迷宮』に挑むという彼らが弱い筈がない。垣間見た底知れぬ『武力』を前に引き攣った口元を手で隠す。武人のようだと感じた新月は間違っていなかった訳だ。
「説明をしてくれるかな?」
「勿論。けれど、決して危害を加えないと約束してくれますか?」
「ああ、当然だ。エイビスに誓おう」
大きく頷く青年へ、首を傾げて新月は問うた。
「エイビス?」
「神様だよ」
あっさりと答えを返し、彼は少しだけ顎を引いて、
「本気で知らないんだな。これは記憶喪失というのも嘘じゃないのかもしれないね」
「嘘じゃないって言ってんだろ」
どうやら『神エイビス』というのは知っているのが常識であるらしい。だがアディアナによるとこの世界に神は存在しない筈。彼女へと視線を向けると、本人の不思議そうな感情が胸中で広がった。同時に脳内に響く声に、軽く目を見開く。どうやら脳内会話は外に出ていても出来るらしい。
《エイビス、はて、知らない名ですね》
《って事は造られた神様かね。人間、拠り所を求めちゃうもんだし》
《ですね。ところでこよみ、怒っていませんか? 勝手に出てきてしまった事を》
《まさか。むしろ助かったよ》
あのまま黙っていても妙案は浮んでこなかっただろう。
そして何より、背筋を張っていた恐怖は消え去った。少し会話を交わしただけで、驚くほど新月の心は平穏を取り戻す。
アディアナは僅かに笑って、ゆっくりと語りだした。
少しだけ嘘を交えた、『迷宮』の脱走劇を。
◆ ◆ ◆
透き通る声の説明は止み、沈黙が降りた部屋の中で金髪の青年は腕を組んで唸る。
彼の背後に並んでいた二人は話の途中で引き摺ってきた椅子に腰を降ろして同じように首を捻っていた。
「信じがたい話だ。……彼女でいいのだろうか? ともかく、初めて見る存在だ、前例がない」
「『迷宮』で生まれたようだが、邪悪な気配はない。魔獣とは別もの見たいだのう」
「いや、『迷宮』で生まれたかどうかも定かではないね。魔獣とは別物という意見には賛成だ」
話の内容を吟味するように相談しあう三人の対面で、新月も同じように進められた椅子に座り込む。
アディアナが元神だという話はしていない。あくまで彼女は気付いたら『迷宮』の中に居たという設定だ。偶然近くにいた新月と共に『迷宮』を脱したというところまで話して、嘘を交えた脱出劇は幕を下ろす。
「信じるのか? アディアナが不思議生命体なのは認めるけど、それでも二人だぜ?」
「そうだね、君たちが『迷宮』を経験した事に関しては既に疑ってはいない。実を言うと僕らが『迷宮』に挑むのはこれが始めての事じゃあない、二度目だ」
一度目がどうなったかは、聞くに及ばず。
肩を竦める彼の表情には苦々しいものが広がった。
「一度目に持ち帰った『迷宮』の情報が、君たちの話の内容と一致する。中には『迷宮』の情報が公開されている場所もあるが、リングビーの『迷宮』は情報規制が引かれているからね」
「『迷宮』ってのはそれぞれ中身は違う場所なのか?」
「全くといっていいほどに。中の世界も、徘徊する魔獣も含めて全てが別物だ」
おっかないなと背筋を震わす新月の脳裏に浮んだのはキャンプ場での光景。確かにあの時、甲冑やナメクジなど多種多様な化け物が徘徊していたが、あの門の中で見たのは人間の面影を強く残した化け物ばかり。少しばかり毛色が違ったようにも思える。
(化け物、じゃなくて『魔獣』か。どっちでも変わんないけど)
言葉一つで印象も本質も変わるほど、その二つは乖離していない。とどのつまり人の命を貪る怪物に違いないのだ。
「なんにせよ、信じてくれて助かるよ。いっとくけどもう何も無いからな」
「こちらも聞きたい事は聞けたからね。想像以上の収穫だ、感謝する」
ついでに非礼を詫びようと頭を下げて、再び上げた青年の顔にはどこか新月の心をざわつかせる笑みが広がっていて。
何となく嫌な予感がした。この船に乗ったときに感じた予感がぶり返す。あの島へ向かっていると知って、アディアナの事を喋ってしまった時点で予感が確かなものへと変わってしまうのは必然だったのかもしれない。
「感謝ついでに、一つ頼まれてくれないかな?」
「嫌だ、無理だ、不可能だ、絶対に断る」
「まだなにも言ってないんだけどなあ……」
短い否定の言葉を立て続けに重ねて、両手も首も全力で横に振る。大げさにも見える態度で兎に角拒否を示す。
件の『頼まれ事』すら聞く前に、頭から否定を示すのは失礼に当たる態度だろう。だが金髪の青年は苦笑を浮かべるばかりで、怒りを筆頭に悪感情を浮かべる事はない。無茶な頼み事だと、新月の反応は予測できたものだったからか。
それでも金髪の青年は言った。
「『迷宮』攻略に協力してくれ」
「返事はもうした」
「僕らも命が掛かってる。彼女の案内は『迷宮』攻略に大きなメリットになる」
「勝算はあるんだろうが」
「あるとも。だが言ったはずだ、万全を期したいと」
――彼らに協力するのは嫌ではない、それはきっと『仇』に繋がるから。そう思っていた。だけど、直ぐに命を賭けれるほど、それは大きくはなかった。覚悟を決めるには、あまりにも早すぎた。心のどこかで思ってしまう、所詮は夢だと。刻まれた恐怖は大きく、大きく、遥かに上回って。恐怖を克服するには余りに時間が無さ過ぎた。
力なく首を振って、新月は背を向けた。
「話は終わりか?」
「……ああ、取り合えず話は終わりかな。さっきの部屋でゆっくり休むといい。案内は居るかい?」
「いや結構、お言葉に甘えて休ませて貰うぜ」
無言でやり取りを見ていたアディアナは、ふわりと浮かび上がり空気中に溶けるように消えていく。じんわりと胸のうちが温かくなり、戻ってきた事を確認して新月はドアノブを捻る。疲れた様子の背中へと、金髪の青年は声を投げた。
「考えておいてくれ」
あれだけ拒否したというのに、まだ諦めていない言葉に。
新月は。
何も言葉を返す事無く、閉じたドアの向こう側へと姿を隠した。
◆ ◆ ◆
ゆらり、ゆらり。
天井に吊るされた照明が、彷徨う蛍のように波の動きに合わせて揺れる。じんわりと痺れるような疲れはあるが、瞼はぱっちりと開いたままで眠る気になれない。仰向けになったベッドの上で、何をする訳でもなく揺れ動く天井の影を見つめた。
「これで良かったんだ」
何度となく口に出した言葉を、壊れたレコードのように繰り返し呟く。
たかが夢に本気になって、死にに行くなんて馬鹿げてる。
だから。だから。だから。理由を重ねて、言い訳を連ねて。新月は自身の記憶から目を逸らし、蓋をする。
幾重にも言葉を積み重ねて、自己を正当化させようとするのには訳がある。
《迷いがありますね、こよみ》
結局は、そう言うことだ。
どれだけ『行かない』理由を探しても、迷いが消えない。消えてくれない。夢にしてはあまりに鮮明に記憶に焼きついて、罪悪感という縄で雁字搦めに心を縛る。
「分かってるっ。俺は、なんで、こんな……っ」
どっちつかずの自分の弱さを嘆いた。あのキャンプ場の夜以来、新月は自分が弱くなってしまったように思えて仕方が無い。迷い、迷って、一歩を踏み出す勇気が出ない。
癇癪を起こした子供のように膨れっ面で寝返りをうつ新月に、アディアナは静かな声色で囁くように言葉を吐いた。
《迷う理由を聞いても?》
「――――。夢を見たんだ」
《夢?》
「『契約』した時に、死んだ奴と話す夢を。お前も言ってたろ、雰囲気変わった気がするって。その時だよ。ちょっと面倒な事頼まれてな、まあ所詮夢だし俺の願望が作り出したモンなんだろうけど」
一息で言い切るように舌を滑らせて顔を覆う新月は、小さく息を呑む音に首を傾げる。
新月の言う『夢』にアディアナは心当たりがあって、一つの勘違いに気付いた。慌てて口を開こうとして、僅かに躊躇を覚える。これを言えば彼はきっと覚悟を決める事は分かっていた。刻まれた恐怖は強大で一歩を踏み出す事を躊躇うようになってしまったけど、最後ではしっかりと覚悟を決めてきたのだから。
《――――》
少しだけ迷うように彼女は息を吐いて。
ぽつりと。呟くように。
ある一つの真実を語る。語らないなんて事は出来なかった。それはきっと、新月を裏切る事になってしまうと思ったから。
《それは『夢』ではありません。恐らく、実際に起きた出来事です》
「……え?」
《契約した際、一瞬ですが力が高まりました。その時、こよみの傍に別の魂が見えたので、何かしらの干渉を受けたのでしょう。それが夢という形であれ、実際にこよみが魂と交わした言葉は本物です》
「……………………、は」
新月は。新月こよみは。
両目を覆う手に力を込めて、震える口元に笑みとも泣き顔とも取れる表情を浮かべた。
胸に芽生える感情の名を、荒れ狂う嵐のような激情を知らない。形にする事が出来なくて、随分と奇妙な表情を作る事になってしまった。
瞼の裏に思い浮かべる運命の日、キャンプ場の夜の事。あの時、彼は逃げ出した。全てを投げ打ってでも生きる為に。
しかし。彼は思うのだ。もしあの時に『力』があれば。全てを葬れる力とまでは言わない、ただ少しでも『力』があれば。
生きたいと思う気持ちは変わらずに、ただ皆と生きたいとそう願ったのではないだろうか。
その願いはもう決して叶う事はないけれど、もしもあの夢で交わした言葉が本物ならば。
例え魂であろうとあの地獄にまだ居るかも知れないのだったら。
今の新月に一体何が出来るだろうか?
少しだけ考えて、脳裏に親友の言葉が蘇った。
夢であって、夢でなかった世界の記憶。
あの時彼はこう言っていた。
――何時かでいいからさ、『仇』とってくれよな。
悩む必要なんて無かった。
嘗ては無かった力が今、あるのだとすれば。
『仇』を取るチャンスがあるのだとすれば。
今からでも遅くないのだとすれば。
《覚悟は決まりましたか?》
からかう様な声色で、彼女は問う。
新月は頷いてベッドの上で身を起こす。
浮かべる表情はもう変わっていた。
刻まれた恐怖は絶大でも、決して超えられないものではない。
逃げるか、立ち向かうか。
答えはとうに決まっていた。
◆ ◆ ◆
「入るぞっ、話がある!」
乱暴に拳を叩きつけて、返事を待たずにドアノブを捻る。気が変わる前に早いところ逃げ道を塞いで起きたかった。自分の意思がそこまで弱いとは思いたくはないが、念には念をだ。今しがた新月は自身の心の弱さに触れたばかりなのだから。
「さっきの事で話が……、あー。ごめん」
「待ってくれ、君はきっと何か勘違いをしている」
「良いんだ、イヤホントごめん。失礼だったな、出直すよ」
「僕の事を思っていっているのであれば、見当違いだぞ。待ってくれよ! 説明させてくれっ」
部屋の中に居たのは金髪の青年と傍らにもう一人。禿頭の大男も、片眼鏡の青年も見当たらないが変わりに幼い少女が居た。背中を流れ、腰まで届くしっとりとした艶やかな黒髪。瞼が半分落ちているような、眠そうな瞳は氷のように真っ青で、突然の乱入者にも驚く事無くマイペースに小さな口で欠伸を一つ。人形のように美しく整った容姿をした彼女は、どう見ても12歳程度。細身で小柄な背丈は、まだまだ幼いという言葉がぴたりと当てはまる。
さて、それを踏まえた上で再び現在の部屋の状況に目を向けてみる。
件の幼い少女が身に付けたふわふわとした可愛らしい寝巻きを捲り上げ、真っ白な肌のお腹に手を当てる金髪の青年。
「……うん」
「黙って出て行こうとしないでっ」
泣きそうな声で叫ぶ彼だが、依然その手はお腹に当てられているままだ。口を横に引き結んで、なんともいえない表情を浮かべる。取り合えず、R18展開突入寸前に空気を読めずドアを開け放った訳ではないらしい。
「説明しづらいんだけど、必要な事でっ。卑猥な行為じゃないから!」
必死に弁解を続ける彼の手元を再び視線を向けてみると、入って来た時には見えなかった異変が気付いた。添えられた右手がぼんやりとほの暗い光を発し、先ほどまでは無かったはずの少女の腹部に浮かび上がった幾何学的な模様が呼応する。脈打つように瞬く赤い光が青年の手から少女の模様へと注ぎ込まれているように見えた。
輝くそれは新月には所謂、非科学的な何かに見えて。
《流石は異世界。魔術見たいのもあるんだな》
《私は知りませんよ?》
《あれ、そうなのか?》
《ええ。私の知る人間は、何の力も持たない弱者でしたから。話した通り、昔は争い一つない平和な世界だった。けれどそれは、争うだけの力も持っていなかったからです。少なくとも彼らのような強い人間は存在しませんでした》
《強いのか、お前から見て》
《かなり。だから私はこよみに反対しなかったんです。勿論、諸手を挙げて賛同しているわけでもありませんけど》
少しだけ不満を滲ませる声に頬をぽりぽりと掻いて心中で謝罪を伝える。
脳裏での会話に意識を向けていた新月は、ふと視線を感じて顔を上げた。金髪の青年の右手で光は次第に弱まり、少女のお腹に浮んだ模様と共に消えていく。一仕事終えたように息を吐き出して額を拭う動作を見せた青年は、立ち上がって新月と視線を合わせた。
「待たせて悪いね」
「別にいいよ、行き成り来たのはこっちだし」
服を戻した少女は目をしょぼしょぼとさせて大きく欠伸をした。酷く眠そうに椅子へと身体を沈め、両目を閉じて身体の力を抜く。どうやら会話を聞く意思はなさそうだ。
「出て行かせようか?」
「構わない」
「そうか、それで……期待してもいいのかな?」
真紅の双眸の奥に見える期待の光に思わず苦笑して、新月は深く頷いた。
「ああ。今度の『迷宮』攻略、俺も手伝うよ」
「――感謝を」
短く、しかし大きな気持ちが込められた言葉を吐き出して、続けて。
「必ず成功させる。君が危険な目に会わない事を誓うよ」
「頼むぞ、俺は戦えないからな」
「勿論だ。案内してくれるだけで構わない」
どこか安堵した表情を浮かべた青年は、突然何かを思いついたのか目を瞬かせて手を打った。
「そういえばまだ名乗っていなかったね」
遅れてしまったと、頭を下げて。
彼は片手を差し出して名乗りを上げる。
「クラウスだ。クラウス=V=アイランド」
「新月こよみ。こよみが名前だ。よろしく」
記憶喪失を語ってはいるものの、既にアラムに名乗った後だ。今更隠す事も出来ないだろう。差し出された手をとった新月は、じっと反応を探るような目に気付き首を傾げる。
「……、君が記憶喪失だというのは本当なのかもしれないな」
「? 本当だって」
「そうか、そうだな。すまない」
何が原因で確信へと至ったのかは分からないが、どうもクラウスの中で新月の記憶喪失の信憑性は上がったようだ。
「改めて、よろしく頼むよコヨミ」
繋いだ手を握り締めて。
覚悟をより深く硬いものにしながら、新月は静かに顎を引いた。




