3 割れたのは
珍しいな。
夕食もその後のお茶も終えたのに、姫様は、私室に戻らずぼんやりとソファに座って。
でも、その眠そうな瞼。もう姫さまったら可愛い。
私は装飾品を磨いたり、小物をお手入れしたりお仕事中です。
「ねえシータはどんな異性が好き?」
唐突な質問に、一瞬手を止めて、うーんと首をひねりながら作業再開。
「難しいですね。あんまり思いつきませんが、尊敬できる人?ですか」
「そう…ゴダイも頑張り次第かしら」
はい?
「現在イシュ王には息子が三人。正妃のいる長男と次男は除外して、残るは三男。第一候補ね。あとはその従兄弟たち。ね、シータはどう思う?」
瞼を閉じたままの姫様は話題を急に変えて、う、この声の調子かなり機嫌が悪いみたい。
「イシュ王が言ったわたくしの結婚相手。ねえ、シータ」
嫌な予感。
「今度のお茶会にその方々が見えるらしいわ。あなた、代わりに出て下さる?」
少し仮眠して、深夜の空気の中をそっと静かに起き上がる。枕元に用意しておいた動きやすい服に手早く着替え、ナナカに纏めた髪を押し込んで、よし準備完了。
隣室のアンヌさんに聞こえないよう気をつけて、姫様の部屋の前ではそっとごめんなさいと呟いて、廊下に抜け出した。
辺りを伺いつつ、やって来たのは小さめの塔の上。
ゴダイさんから聞いた噂には、昔王族を怒らせた誰かが幽閉されたらしく、今でも人は寄り付かず見張りも少ないとの事。
実際に来てみようと思ったのは、姫様からの言葉。
結婚候補者に会うなんて、秘密がますますばれてしまいそうで、確認せずにいられなかった。
風が強くてはためくナナカを押さえながら、そっと塔の下を覗きこめば真っ暗な空間が広がっている。うん大丈夫、人気はない。
塔の周囲の小さな足場。あれを伝ったら逃げ出せるかな?
今日は単なる下見のつもりだったけれど、ちょっと降りて確認してみるのもいいかもと思い付いて、壁面からぐっと乗り出した。
下の地面まで、三階建て位の高さかな?
広い間隔で配置された灯りを避けて、暗がりに移動。壁面の僅かな足場はさらに暗闇を作っている。
予定していた通り、手首につけていた髪ゴムを外して飾りのガラス玉をぎゅっと握りしめる。狙いを付けてえいっと放り投げた。
軽い音がして、狙い通りに城壁の一部に髪ゴムは引っかかった。
もしも人に見られたら。
小さな不安はあったけれど、まさか。
「いーい眺めだなあ」
人に見つかるなんて。
背後からの声に、驚いて振り向けば若い男の人がにやにやしながら立っていた。
すっぽりとした外套も、略式のナナイの間からはみ出したぼんやり光る淡い金髪も風に揺れている。
「ああ足はそのままでいい、俺好みしているから」
足?
邪魔だから裾は太腿までたくし上げているけれど?
しばし考えて、そしてもう一度城壁の外側に乗り出す。狭い足場はぎりぎり足が乗る程度で、ひゆっと風が吹き上げた。
「おいっ」
急に両方の手首に痛みがして、見れば長い指が巻き付いていた。ぎりっと嫌な音と浮遊感。い、痛い。
「痛いですっ、放してください」
「この莫迦、自殺なら他でしろ。迷惑だ」
どさりと体が元の屋上まで引き戻されて、反動で後方に二人してごろりと転がった。荒い息を吐きながら、大きな声で罵倒される。
「じ、自殺?違います、ただ、あれを取ろうとしただけで」
念のために考えてきた口実が役に立ち、すらすらと言葉が口から飛び出す。ああ準備しておいて良かった。
ついと指で指し示すと、その方向に青年が顔を向けた。夜空の下でも分かるくらいの綺麗な澄んだ青い瞳が眇められる。
「落としてしまって」
「大事なものなのか?」
口実に使ってしまったけれど、あのガラス玉がついた髪ゴムは、私の本当の世界のものだ。まあ元は安い物だったが、大事にしていた事は本当で。
こくりと頷くと、仕方ないと青年は言った。
私の代わりに取ってくれるのかなと思ったら、ばさりと白い外套を払い腰元から小さな弓と短めの矢を取り出して、素早くぎりっと構える。
え、ちょっと何を。
止める間もなく、引き絞られた弓から勢いよく矢が飛んでいき、ぱりんと音を立てて命中した。
それはひゅっと空を切ってこちらに向かってくるものと、きらりと光りながら闇の中を落ちていくものに別れた。
え、え?
茫然としていると、こちらに飛んできた物体を、青年は軽く右手でぱんと掴んだ。
「ほら」
握り絞めた細くて整った指先を開くと、そこには黒い髪ゴムとガラス玉の小さな破片があって。私の手にころんと返って来たのだった。
でも、ガラス玉は、割れていた。
「…あの聞いていいですか、どうして矢を?」
「こちらの方に弾かせた。上手く当たっただろう?」
狙った通り矢が命中するなんて、確かにすごい。
どうだといわんばかりの表情ですがもしかしてここは、お礼を言うところ?
「あ、りがと、うございます…」
「なんだ、嬉しそうじゃないな。大事な物だったんだろう?」
怪訝な顔をして私の手から髪ゴムを取り上げ、目元まで持ち上げてしげしげ見つめた彼は、ようやくガラス玉が割れている事に気がついたようだった。
「割れたのか。ならそう言えばいいだろ」
「いえ落とした時に割れたのかも」
そんな訳はなかったけれど、口実のためにわざと落としたのは私だ。私が悪い。
「いや矢が当たった時に割れた。悪かったな」
自業自得さに落ち込むけれど、それでも無理に笑って声を張る。
「落とした私が悪いんです。あなたのせいじゃありません。あの、取って頂いてありがとうございました」
「お前、ありがとうなんてちっとも思っていないくせして。素直じゃないな」
素直じゃない、その言葉はぐさりと心に刺さった。
「これ、貸しておいてくれ。割れた欠片を探しておくから明日の夜、もう一度ここに来い」
その言葉に小さく、いいです、としか呟けなくて。
どうしても視線を上げることができない私は、結局、逃げ出すように踵を返した。
もちろん、次の日の夜にあの塔に行くことはなかった。
あの日から、胸の奥でガラス玉が割れる音が、何度も繰り返し響く。
ぱりん。
いとも簡単に。
いともたやすく。
その音は耳について、手先から急激に力を奪っていく。無意識に息を詰めていて、胸がどくどくと動きを速める。
ああ、私、どうしてあんなことしたの。
ああ、私、どうしてこんなにも囚われているの。
たかが髪ゴムが壊れたくらいで。
そして唐突に思いつく。
あのガラス玉は私自身だったのだと。
何日も一人さまよった時に衣服も靴もぼろぼろになり処分せざるを得なかったから、私の世界に属する残された物は、あの髪ゴム一つだった。
この世界においては異質な、髪ゴム。そして、異質な私。
何の躊躇もなく壊されてしまった髪ゴム。それは壊された私の日常に似ていて。
あの日、割れたのは私の心だったのだ。
今回暗い内容ですみません。お読み頂きありがとうございました。