4 さようならと
「では俺も、と言いたいところだけれど」
きまりが悪そうな表情をした彼。
「残念だが、生憎と何も用意していなくてな。お前の姿が見えて、飛び出して来たから」
空っぽの手を振る彼が言う、まさか今日会えるとは思っていなくてと。それは、私が胸に抱いていた思いと同じ。じわりと焼けつく音がして。
会いたかった。
彼も?
「…嬉しい。何よりの言葉、です。本当に嬉しい」
へにょりと笑えば、戸惑った顔を返されて。
「宝石も金も銀も受け取らなかったのに、こんな事で喜ぶのか。お前って、本当に」
「生きていてくれた。会いたいと思ったら会えた。それだけでもう十分です」
「お前は本当に、俺を、どうしたいんだ…」
あれ、喜んでくれていない。呻いて顔を覆ってしまうなんて、私、勘違いしていたのかな。
なあ、と少し甘える響き。
「仕事、頑張った褒美は?」
「大変でしたね、お疲れ様でした」
「それだけか。あの時みたいに言わないのか」
「はい?」
彼の望む言葉とは、一体何だろう。
「じゃあ、俺に白をくれ」
「もう渡してしまいました」
白は姫様に。
それとも、彼の言う白は、今度は違う意味?まさか、私の愛を求めるなんて違うよね。ああ、もう難しい人。
「だから、お前の相手は俺だと言っただろう。お前は俺の事が好きなんだよ、いい加減に分かれよ」
「そっ」
頬が赤くなった私をにやにやしながら見る彼は、本当に楽しそうで、なんて意地が悪いの。この人。
「それは、き、嫌いじゃないです、けど」
「俺の顔も好きだろ、よく見惚れていたじゃないか」
ちょっ、だって金髪が綺麗で。
青い瞳が王子様みたいだ、なんて思って。は、恥ずかしい。
「素直になれ、素直に」
向けられる視線には、ねえ、何でそんなどきどきさせる威力があるの。私の反応を見て楽しんでいますよね、ひどくないですか。
この時間はこんなにも。
「お前だって俺を翻弄したくせして」
翻弄って、ええ?
「何言って、私は何も…あ、そうだ、これ」
この時間が楽しくて、忘れてしまっていた大事なもの。
塔の片隅に置いておければ、そう自己満足で持参した物を胸の袷から取り出す。体温が僅かに移ったそれは、ナナイ。
髪に刺してもらった花、それを思い出す薄い青の布地。
ニーファから旅の合間に採取したハーブに、希少な薬草が混入していて、物々交換したもの。
「俺、に?」
はいと頷くと、彼は私の顔と手にしたナナイを交互に目にして、天を仰いで深い息を吐いた。
「まいった…」
「え、気に入りませんでしたか?」
だって高価な布地は手に入らなくて、なんてお金を持たない私はもごもごと言い訳を。
降参だ。
彼は、するりと巻いていた略式のナナイに手をかけて。え。
澄んだ青い瞳が、光る。
「天におわす神々よ、御照覧あれ。偉大なる太陽神に、って、こんな曇天じゃあ太陽神も月の女神もないか。しまらないな」
朗々とした声の宣誓は途中で力を失くして、ふうと息を吐きだしながらナナイを外す。こぼれる金髪。
あれ、ナナイって確か人前で外さないと聞いていたけれど、いいの?
唐突な行動にぱちぱちと瞬きするしかない私の前に、背中を向けて胡坐をかく。
「ナナイ、巻いてくれ」
と言われても。
ナナイは男性のもの、巻いた事なんてないのに。えっと、こう?
慣れない手つきで四苦八苦しながら形の良い頭部を包み込んで、あ、動かないで。
「なあ。呪い、解いて」
ほら崩れちゃった。え?
「お前にしか解けない。なあ、呪いよ解けろと口づけをくれ」
はあ?
く、口づけって、なんで呪いの解除はここでもそれなの、どうしてそういう設定なの。
できませんからと言いかけて。でも私を見上げる青い瞳には真剣な光が宿っていて言葉が詰まり、ああはい、負けました。言えばいいんですね、でも、口づけはしませんから。
「呪いよ呪い、遠いお山に飛んでいけ」
頭を撫でると、艶々した金髪が気持ち良くて。指の間から、するすると優しく滑って落ちる。
お母さんっぽいな、なんて思ったら可笑しくてつい笑ってしまい。だけど、みるみるうちに金髪の間に見える耳は真っ赤になって、指に触れるそれが熱を持っていると分かっては。
解けた、との声は、聞き逃すほど小さくて。
「…なあ、中、に入らないか」
「中に?」
「ああ、雨、降って来た、だろう?」
雨?
ぽつんぽつんと空から下降する小さな水は、時々頬に当たるけれど、そう気にならないのに。それよりも、もう少しだけ。
もう少しだけこの時間が続きますように、そう願うのは、いけない?
お別れの言葉は、まだ。
「もう少し、ここにいさせて下さい」
「…何故お前は分からないんだ」
はい?
どうしてこんなに鈍いんだとか、この雰囲気から普通察するだろうとかって、あの、意味が?
「お先にどうぞ。私はもう少ししたら、戻りますから」
「…俺の名はオーティス」
どんなに望んでも、終わりは、もう。
「オーティス・ローク・イシュだ」
目を大きく見開いてみれば、星のない空と、不思議な程優しい表情をした彼が。
「どうして」
「どうして?俺の名前を呼んで欲しい、なあ、だめか」
伸ばされた綺麗な長い指。
それに捕まる、だけども、彼の指が掴んだのは、空。
「…何故、離れる」
自分自身が驚く位に、足は素早く動いて。何度も握られた手首は、自由。
今度こそ。
「何故、泣く。俺は名乗った。次はお前だ」
ゆっくりと立ち上がるその動作だけ、それだけで、私達の距離は縮んでしまったかのように感じてさらに一歩後退。
まだこのままでいたかったと泣くなんて、どこまで弱いの私。
「…内緒」
「お前の名が聞きたい。お前の名を呼びたい。なあ、教えてくれ」
そんな辛そうな顔、しないで。
「…内緒、です」
「っ、この。お前が名乗らないなら、当ててやろう」
「だ、め」
「お前はルーシェルシィタ・セロ・ニーファ。ニーファの、姫」
ああ。
止めようのない涙に世界は水没していく。城壁も、円塔も、雨も、雲のかかる暗い空も何もかも全てが、そして目の前の彼も。
「は、ずれです」
「俺に嘘は通じない」
「はずれ、で、す」
飲み込まれて完全に沈んだ世界。そこから逃げ出すには、振り返らず走り去るしかなくて。
背後に迫る鋭い声。その声で呼ぶ名前は、抑止力を持たない。だって違うから。
私。
あなたの前だけではただの、真下 結子、だった。
もう誰も呼ばない、私の名前。
さようなら、と。
呟いたお別れの言葉は、風に乗り、届いただろうか。
あなたに。
お読み頂き、ありがとうございました。