2 許しこそ
死に関する表記があります。ご注意ください。
「姫様?」
アンヌさんの問いかけに、はっと頭を上げた。
ベッドを覗きこむアンヌさんの隣に、慌てて回り込んで。白いシーツに横たわる姫様の青ざめた顔。
そこには、隠し切れない黒い不安が渦巻いて。
息さえ潜めて見つめる私達の前で、姫様の薄くなった瞼が震えて。ゆっくりと押し上げられた向こうには、ずっと待ち望んでいた大地色の双眸が。
ああ。
「アンヌ、喉が渇いたわ」
掠れて聞き取りにくい声になってしまった主人の手に、アンヌさんはそっと額を押し当てる。眦に浮かぶ水玉を密かに払い、腰を上げた。
白く痩せてしまった手でひらりと呼ばれると、私は魔力で引き寄せられたように、その枕元へと身を寄せた。そっとそっと宝物のような、その白い手を握り。
「姫様」
「シータ」
以前より力を失ってしまったけれど、にんまりとした悪役の様な笑顔。私の大好きな。
泣いたらだめ。
笑え、私。せっかく笑えるようになったのだから。
「わたくしの天使様、どうか、わたくしの願いを聞いて下さる?」
「私は天使ではないので無茶なお願いは叶えられませんよ?」
ふふと目を合わせてほほ笑み合うと、姫様の瞳から透明な水が押し出され、青い頬に筋を引いてぽとんと落ちた。
しっとりと汗ばんだ手が細かく震え、私に伝わって。
途切れがちな弱い声を悲しく思いながら、涙を無理に飲み込んで、必死で耳を寄せた。姫様の一言も聞き漏らす事がない様に。
「お願い、ルーシェルシィタになって」
「わたくし、もうずっと前から祈っていたの。風の神様、わたくしを健康にして下さいと」
誰にも話さなかった秘密を今。
神様は意地悪ね、それは叶えて下さらなかった、とぽつんと漏らす声。
「だから、こんなわたくしではなくてニーファの姫に相応しい、もう一人のわたくしを下さいと願ったの。そうしたら、あなたが現れた」
わたくしと同じ髪と瞳をした、あなた。
「あなたは神様が下さった、わたくしだけの天使様」
私が拾われたあの日、姫様は死ぬ決意を固めたのだと、アンヌさんは静かな声で語る。
流行り病に一人生き残ったけれど、なぜ残されたのか、なぜ一緒に死ななかったのかと嘆いて嘆いて。さらに、イシュに取り込まれるニーファの象徴としての運命を、絶対に受け入れないと血を吐いて叫び。
その果てに見つけ出した死への誘惑は、余りに甘美で。
わたくしはニーファの姫。
城以外に知らないけれど、いつも窓の向こうで吹いていたニーファの風に還りたい。父も母もこの地で逝った様にわたくしも。そう願い、神が住まう湖に身を投げるつもりだった。
薄幸の姫の悲しい懇願を、お城の人達は涙を呑んで、それを許し。
だから、お城の人たちは何も言わなかった。
だから、アンヌさんも姫の意向に逆らわず、そっと見守って。
「あなたは本当に、神様に願ったとおり」
夢見るかのような姫様は、今にも風に消えてしまいそうで。
「ドレスを軽々さばいて、くるくるとダンスを踊って。兵士のみんなと打ち解け合って、いつも笑顔で」
わたくし、そうなりたかったの。
あなたみたいに、ずっとなりたかったの。
「私はそんな」
「ふふ、イシュ王まで落とすなんて、それは予定外だったわ」
姫様に呼ばれて、私の左右にはアンヌさんとゴダイさんが並び、それを満足そうに眺めて、重い息を吐きだす。
アンヌ、そう呼んで。視線を合わせるだけで二人の間には言葉を必要とせず、静かな沈黙ばかり。
「…わたくしの一番の理解者、あなたに感謝を。これからの事、お願いね」
「はい、姫様」
「ゴダイ…仕方のない人」
優しい響きで名前を呼んで、絡み合う二人の視線。
「誤解されている事に、まだ気が付かないの。それではいつまでも手に入らないのよ。どうしても欲しいのでしょう?」
二人だけに通じる会話は意味深で、一瞬、ゴダイさんが私を見たのはきっと気のせい。
「あなた次第なのよ」
「お言葉、胸に」
「シータ」
伸ばされた白い手、それを包みこんで、私の頬に当てればにんまりとした笑顔が見えて。
「許してね、天使様。どうか」
「何を、ですか」
「わたくしはもうすぐ死ぬけれど、あなたの中に一緒にいたいの。どうか受け入れると、そう言って」
死。
どうしても考えたくなかった、その。
「前に言ったわね、あなたの心をわたくしも感じるのだと。覚えていて?」
「わたくし、恋がしたいの」
ずっと憧れていたわ。
きっとそれは苦しくて甘くて、震える胸と切ない吐息を、あなたと一緒に感じさせて。
「わたくし、ニーファのために働きたいの」
たくさんの問題もあるけれど、皆のためにできる事を、あなたと一緒にしたい。
でも窮屈な立場を捨て、自由になって、遠くと行ってみたいとも思うの。
「考えるだけで決して出来なかった事を、これからもあなたと一緒にしたり感じたりしたいの」
姫様の大地色の瞳から溢れる涙は、数を増し、その頬に筋を残して滑り落ちる。
だから。
わななく唇。
「だから神の元へ帰らないで、天使様。どうか、わたくしと一緒にここにいて」
小さな爪が私の頬に薄く食い込んで、それでも痛いなんて少しも感じない。
姫様。
生きたい、と。
…本当の願いは言わないのですね、姫様。
「この地に天使を留める事を、風の神よ、どうぞお許し下さい」
そう言って微かにほほ笑んで、そして、姫様の意識は途切れた。
ああ。
私の中で、何かが音を立てる。
ぱりん。
それは、前に、私が割れた音だった。
だけど、今度は。
姫様の心が、私の中に。
そして、割れた私の欠片達を接いでくれる。
新しい私へと、再生の音が。
ぱりん。
「大丈夫か、シータ」
シータ?誰の名前?…ああ、私の名前だった。
あれ、おかしい。手足が動かない、まるで自分のものじゃないように。瞼が鉛の様に重たくて開かない。どうして。
ふわふわした感じ。
ああ夢を見ていたのかな。
姫様がもうすぐ死んでしまうなんて、なんて嫌な夢。
ゴダイさんの心配そうな琥珀の瞳、また芋虫抱っこされているのかな、とても顔が近い。そんなに力を入れて抱っこしなくても。
大丈夫ですよと思いを込めて、へにょんと笑って見せて。
「…お前に触れたい」
ゴダイさん、何故そんな目を?
あれ、耳がわんわんして聞き取れないです。これ耳鳴りなのかな、初めてでわからないけれど。
どうしたの、ゴダイさん。そんなに近づくとぶつかりますよ。
…ああ、ほら、ぶつかった。
でも、痛くない。ただ唇が温かくて。
「許せ」
ああ、世界が回る、ぐるぐると。
暗くなって、少し目を開けて、また暗くなって。
息が苦しい、ううん、しにくい。どうして?
目を薄く開けると、何か懇願するかのような琥珀色はすぐそこに。
「だめ」
勝手に口が動いてしまい、告げた言葉は、だめ。
ゴダイさん、どうしてそんなに辛そうなの。ああ、そうか姫様がいないから。
早く姫様の傍に行って、私は大丈夫だから。
「…お前こそが俺の姫。俺だけの」
そして世界は、また闇に。
息苦しさに再び目を開けると、ミルクティ色の睫毛が近すぎて、耳に鳴り響く警報。
「だめ」
何も考えていないのに、また口が勝手に。
「もう、その言葉は聞きたくない」
「だ、め」
「これ以上言ったら、また口を塞ぐ」
え、それはだめ。本当にだめ。
「…だめ」
「言ったな」
あ、また息が、しにくい。
どうして。
「他の言葉を聞かせてくれ、シータ」
まわるまわる、世界。
「例えば」
例えば、好き、だとか。
自殺を容認するつもりではありません。お読み頂きありがとうございました。