1 祈りしか
あの夜から、姫様の熱は引かない。
「シータ、落ち着いて聞いてくれ」
そうゴダイさんが告げた内容に、落ち着いていられる筈がなくて。
姫様が発病した。
姫様の父王を、母君を、そして数多くのニーファの民の奪い去った、その疾患。
潤んだ瞳で、おかえりと言って下さった姫様。
「ああ、約束通り白い花を取って来てくれたのね。ありがとう、わたくしの天使様」
消え入るような言葉を残してから、姫様は熱にうなされるばかり。
枕元に飾られた白い月花は、僅かな間慰めをくれて、そして音もなく萎れ。
ああ、姫様、どうして。
ニーファはとても保守的で排他的。結果、限られた範囲で繰り返された婚姻に、ニーファの人民は脆弱になった。
信仰深さゆえに病気は神の試練として、積極的な治療を受け入れず、治癒するまで一人じっと耐えるものと考えられている。
医学の知識は愚か、お医者様さえいない。
熱があれば冷やす、汗は拭いて清めることさえしないなんて、そんなの。
イシュへの旅の途中、姫様にそうした行為をしたらひどく驚かれた。
「ニーファはどれだけ保守的なのかしら」
今も一生懸命、朝も昼も夜も、姫様に付き添っているけれどこんな事で病気は治らない。私はそう知っているのに。
イシュ王に医者の手配を願いましょうと提案しても、姫様もアンヌさんも頑なに拒否して。
だって、だってどうしたらいいの。私には何もできない。
神様、どうか姫様を奪わないで。どうかどうかお願いします。
そう祈る事しか。
手が温かい。
ふと気が付いて目を開けると、姫様の手を握っていた筈の手は、さらに大きな手で覆われていた。日に焼けてごつごつした大きな手。
その手を辿れば、広い肩にすっきりとした首筋。短いミルクティ色の髪。
「ゴダイさん」
知らない間に眠ってしまったみたい、ここ二人の邪魔だったかな、席を換わらないと。慎重にゴダイさんの手から引き抜いて、姫様の手に重ねた。
「シータ?」
上手くできたと思ったのに、ゴダイさんの手はすぐに姫様から離れて。
取り繕うように、お水を交換しますねと言い訳して、怪訝な表情のゴダイさんを残して姫様の傍を離れた。
「…俺に触られたくないという事か」
「シータ、少し休め」
「はい、じゃあこれが終わったら」
姫様が目覚めたら喉を潤せるよう飲み物を準備しておこう。砂糖とお塩を入れて、爽やかな香りがするように柑橘を絞って。ああ、柔らかなタオルもあった方がいいかな。
「シータ休め」
「あの、もう少し」
そうだ、シーツも取り換えよう。その時一緒に体を拭けたなら、じゃあお湯も用意しないと。あ、ハーブはどこにしまったかな。
「っ、シータ」
ゴダイさんの鋭い声にびくりと体が震えて、持っていたシーツが床に落ちた。それに手を伸ばしたけれど、大きな手が先に拾い上げて、琥珀の瞳で睨まれてしまう。有無を言わさないその迫力に、大人しく休憩を取る事に。
疲れてなんか、いないのに。
私はいつも姫様が休んでいたソファの隣に腰を下ろし、その冷たい肘置きにゆっくりと額を付けた。ああ温もりがないことが、こんなにも淋しい。
じわりと目が熱くなる。
…もしかしたら姫様がここに座りたいと言うかもしれない、もう少しクッションを取ってこないと。
立ち上がると、え、目の前には真っ白な大きな何かが広がって。
シーツ?
「え、ゴダイさん。な、に」
くるりとシーツが視界を覆って、それは顎先から足先まで拘束するかのように私を巻き上げて。まるでミイラの様になった私は何の抵抗もできずに、その腕の中に収められた。
「外に行くぞ、じっとしていろ。アンヌ殿、しばらく頼む」
どんなに抗議をしても、自分で歩きますと言っても全て無視するゴダイさんは沈黙を貫いて、静かな中庭にある小さな四阿まで、私を抱き上げたままだった。
えと、せっかくのお姫様抱っこなのに、どうしてミイラ若しくは芋虫状態なの、私。
ようやくゴダイさんは腰を下ろし、解放されるとほっとしたのに、彼の膝の上に乗せられて、抱っこは続行。え、なぜ。
「お前が嫌がるなら、触らない」
そう囁く声は、どうしてこんなにも切なく聞こえるんだろう。
「お前、今にも倒れそうな顔色をしている。休め」
「でも」
何もできていないのに、私。
ただ、祈る位しか。
毎日ゴダイさんは休めと繰り返しシーツを取り出しては、私を芋虫にする。抱っこは日課になってしまい。
人の体温は優しい。
どんなに心を固めていても、たやすく溶かしてしまう。
初めのうちの抵抗も、この甘い時間は心地良くて、いつの間にか受け入れて意味のないものになった。自分の弱さに罪悪感を抱きながら、なのに、ひどく安堵してしまうなんて。
ああ、この腕は、姫様のものなのに。
そんな私を怒っているかのような、責めているかのような強烈な日差しは、瞬きして我慢するけれど、涙を溢れさせる。
こんな事、だめなのに。
「触って、いいか?」
だめ、そう言ったはずなのにゴダイさんの手は頭を撫でて、ゆっくりと頬に滑らせる。
「お前が泣くから」
「や、さしくしたら、だめ。ますます泣いてしまい、ます」
「優しくしたい。俺の前でだけ泣いてくれ」
なんでそんな事言うのかなあ。
恨みがましく見上げれば、ふっと笑うゴダイさんに顎を持たれて、指で涙の雫を払われる。何度も何度も。
この指を拒否できない私は、本当に弱くてだめだ。
もう知らない。
投げやりな気分で大泣きして、そうしたら、きらきらした光に冷えた手足が温められて、瞼が重たくなってくる。
ああもう、子どもみたい。
このまま眠ってしまったら、目が腫れてしまうのに。
激しい睡魔の渦に抵抗できず、瞼を落とした私の耳に、額に、頬に、そしてシーツ越しの唇に、そっと触れたのは何?
「…このまま遠くへ連れ去る事ができれば」
ぼそぼそと遠くに聞こえる声。
サディ。
聞き覚えのある名。それはイシュの国境近くにある大き目の街の名。
月の様な薄青の花をくれた人が、口にしていた。そこに行くと。
「今やサディは情勢が不安定らしい」
「あそこの領主は、以前から王政に口出しし王に反抗的な態度だったではないか」
「ああ、この間開かれた夜会では、こっそり支援者を募っていた。兵を集めて一体何をするつもりなのか」
「いずれにせよ、戦が起こる可能性が高い。避難を促さなければ」
温まった手足が再び凍り付いて。
幾日か後。
サディ領主が国に反抗し戦闘状態になったと公式に発表された。幾人かの死亡者もいるとの報告は、悲嘆のため息を伴って、王城内を飛び交い。
その犠牲者の中には、金髪に青い目をした若い貴族もいて。
聞きなれないその名前。
彼の名前を、私は知らない。
夜空の下のあの人に、私は名前を尋ねなかった。聞きたくなかったから。
私の名前も、告げなかった。
内緒です、そう言って。
帰ってきたら、と約束した。
以前の約束は守られなかったけれど、今度は。
だから、死んでしまったなんて。
そんな事は信じない。
信じないの、神様。
お読み頂き、ありがとうございました。