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1 不安から

 初めは些細な事。

 あれ?

 そう思う回数が次第に増え。

 まるで穏やかな水面に墨を一滴垂らしたかのような、その。

 

 部屋の一番ゆったりしたソファには、クッションに囲まれて姫様がお昼寝中。

 新ニーファ領に関する会議にルーシェルシィタ姫の出席を請うと書かれた手紙は、足元に投げ捨てられたまま。苦笑しつつもアンヌさんは、それを拾い上げて、紙のしわを伸ばしてから私の手にぽんと乗せる。

「よろしくお願いします。ゴダイに指導を頼みますから」

 …そうきますよね、当然。


 ニーファはイシュ国に吸収されるとはいえ、戦に負けただとか多額の借金があったとかではない。ニーファの民が少しでもより良い生活を、未来を求めるために代表としてきちんと交渉する事は大切な事だ。

 なので、お勉強、頑張りました。

 私にできる範囲で、ですが。

 ただ、政治は難しくて。

 さらにこの処、ゴダイさんの機嫌がよろしくなくて。


「今日はここまでにしよう」

 琥珀色の瞳が少し和らいだ事にほっとする。うう、ようやく終わった。

「ありがとうございました。あの、お茶を淹れますね」

 深々と礼をして、未だ、自然に笑えない私はぎこちない顔のまま。

 それでも、こぽこぽとした音と温かい湯気が強張った背を解してくれて。

 そっとカップを、彼の前に差し出せば。あれ。

 私が手を離す前に、ゴダイさんの大きな手はカップごと包み込んでしまう。ええと、前にもこんな事がありませんでしたか。

 大丈夫です、お茶を零したりしませんよ。

「お前、好きなや…い、や、何でもない。この処姫の顔色が良くないようだが」

 すきなや?

 瞳に込められた言葉を飲み込んでゴダイさんは、話をすり替え。莫迦な私はすぐにその内容につられてしまうのだ。

 だって。

 確かに、姫様の顔色は青白くない?少し元気がない?食欲がないみたい?

 些細な疑問は少しずつ増えて。


 不安。


 不安に。


「…すまない、不安にさせたか。お前の顔色の方が悪くなった」

 労わる様な声音に、大丈夫ですと言おうとして、え?

「え?ゴ、ダイさん、あの」

 どうして私の指に唇が当たって?

「そ、こは、カップじゃなくて、私の指、です、よ?」

 柔らかで熱のこもった感触が、そっと私の指に押し当てられて。ぎゅっと喉の奥が締め付けられる感じで、上手く喋れない。

 なのに。

 返ってきたのは冷静な声。

「知っている」

 ゴ、ゴ、ゴダイさん?


 後からになって、ここは世界が違うのだから一種の慰めだったのかなと思い当たったけれど。

 その時には、ゴダイさんが指を放してくれるまで、莫迦みたいに私は真っ赤になったままで。

 ああ、心臓に悪い。


「あなたを入れるにはこの籠では小さすぎますが、ですって」

 顔どころか耳の先まで真っ赤になった姫様は、ブリード様から贈られた綺麗な色のカードをぽいと放り出す。ひらりと舞いながら絨毯に落ちていく。

 ブリード様からの贈り物。

 それは繊細な銀の鳥籠に、可愛い白い鳥を模した陶器が入れられていて。

 カードに書かれた文字から、片目を閉じる王子を思い浮かぶ。

 ブリード様は時々、素敵な物を贈って下さる。早咲きの一輪の薔薇に話題のお菓子。どれも短い言葉が綴られたカードが添えられて。

 その鮮やかさ。

 誰かにも見習ってほしいな、なんて考えたらつい口元が緩んでしまう。

 星空の下の誰かさん。


「シータ、あなたに贈られたんだから、お礼しておいてね」

「私じゃなく姫様に、ですよ」

 ほらとカードに書かれた宛名を指すと、まだ赤い顔をした姫様はいつもの悪役の様な笑顔。

 …良かった。

「ここでのルーシェルシィタはあなたでしょ、シータ」

「ルーシェルシィタ姫はどこにいてもあなたお一人です」

 壁際に控えていたゴダイさんが言うと、姫様はふんと鼻を鳴らす。

 ちょっと行儀が悪いですが、可愛いからいいです。

「鳥肌の立つカードに当てられて熱が出そうよ、しばらく休むわ。シータはそこの機嫌の悪い誰かを慰めてあげて」

 ぷいとゴダイさんに背中を向けて、姫様は私室へと向かってしまった。

 え、姫様、私には無理なような気が。


「嬉しそうにしていたな」

 低い声と共に鋭く見つめられて、姫様、ゴダイさんの機嫌は最高に悪いみたいです。私にはお手上げです。

 ちょっと怖い?

 その迫力に負け壁際までじりじりと後退してしまった私に、ゴダイさんは一歩一歩ゆっくりと近づく。

「俺には笑わないのに」

「え?」

 呟きは小さくて聞き取れない。

「俺には言わないのに、お前は。時々部屋を抜け出して、会っているのはこの王子なのか」

 握られた拳が、私のすぐ横の壁をだんと響くほど叩きつけられて、ひゅっと感じた風に身が竦む。

 こ、こわ。

「ちが」

「違っていない」

「違います。ブリードさ」

「聞きたくない。お前の口がその名前を呼ぶのを」

 熱い吐息がかかる程近い距離にいる筈なのに、私の声はゴダイさんの耳に届かない。一瞬ぐっと琥珀色の瞳が歪み、力が込められた掌を開いて彼は身を翻す。

 引き止めることもできず。

 部屋には一人、私だけが取り残された。


 あれ以来、塔には行っていない。


 ゴダイさんから疑われた事を思えば、部屋から出る事がためらわれ、約束した夜は一晩中寝返りしてベッドの中で過ごして。

 いつでも私より先に、夜空の中、待っていてくれたあの人。

 ごめんなさいが聞こえたらいいのに。


 大変気まずい雰囲気で、私はゴダイさんと並んで会談の間にやって来た。

 差し出される大きな手に怯えてしまい、彼の背後に漂うぴりぴりした空気が重くなっていく事に、どうしても手を出せなくて。

 いつものようにできない。

 近づいた距離は、ここに来てぐんと広がってしまったように感じる。

 ようやく不審者じゃないと、信頼してもらえたかもと思っていたのに。


 それでもイシュ王や側近の方々と、今後のニーファに対する処遇を決める会議が始まれば、足先を見つめてばかりじゃいられない。

 姫様の代わりをしっかり努めなければ。

 顔を上げて、発言する方の顔を見て、頷きながら話を聞く。語られた言葉を反芻するようにして、それから自分の意見を述べる。声はゆっくり、はっきりと。

 そしてようやく閉会。

 出来はともかく、ちょっとだけ達成感に息をついた。


 ぼんやり歩けば、風は夕暮れの赤を孕んでいて、私のナナカをふと揺らす。半歩前を歩くゴダイさんのナナイも同じ様に揺れて。

「ずいぶんブリードと仲良くなったようだね」

 そう最後にイシュ王が言った言葉。

 隣に座っていたゴダイさんの腕がぴくりと反応したので、背中がひやりとした。


 日々、小さな不安は少しずつ大きさを増していく。

 姫様。

 ソファに横たわる時間が長くなって。

 大好きなにんまり笑顔が少なくなって。

 お菓子もいらないのですか?

 お気に入りのお酒も?

 姫様?


 ゴダイさんに言えたら。

 でも、もう言えない。


 ようやく部屋にたどり着き自室の前でゴダイさんに、ありがとうと頭を下げた。

 視界の隅にあった握りしめられた彼の手は、さっと消えてしまう。

 その手が怖いくせして、以前の様に頭を撫でて欲しいなんて思った私は、本当に莫迦だ。


お読み頂き、ありがとうございました。

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