1 姫様に
見知らぬ場所。
右に行ったり左に行ったりやっぱり元来た道を戻ったり、ともかく歩いて歩いて、頭上に広がる空に渡っていく太陽を何度目にしただろう。
ずっと一人で。
転んで泣いて、立ち上がってまた転んで、そしてもう一歩も歩けなくなった。
そんな私を拾ってくれたのは、小さな国の姫様。
「大丈夫よ、心配しないで。一緒にいらっしゃい」
ガタゴト揺れる馬車の中でお水と食料を手に乗せてもらい、恐る恐る口にした時、初めて涙と鼻水があふれ出して。
優しい言葉が冷えた心を温める。
一人はさみしくて、怖くて。もう一人は嫌。
止まらない涙を無理に飲み込むと、ひくひくと痙攣する喉からは変な音しか出てこなかった。それでも姫様は深い色の瞳を悪戯っぽく光らせながらほほ笑んで。
「お礼にわたくしの影になって下さる?天使様?」
ひぃっく。
護衛兵さんにじろりと睨まれた。
はい?
天使様?
影?
ええっと、涙はぴたりと止まりましたが、聞き違えでしょうか?
「実はわたくしとても困っているの。わたくしの国ニーファが無くなってしまうのですわ」
黒いまつ毛を伏せると、ルーシェルシィタ姫は震える声で話し出す。
ここニーファはとても小さな国。山々に囲まれ、谷間を吹き抜ける風と神が住まわれる湖畔、咲き乱れる色とりどりの花。豊かな自然に恵まれて、素朴な人々が住んでいる。
けれど、国が立ち行かなくなるほどの国難に襲われた。
初期には軽度の発熱、だが高熱は幾日も続き、あっという間に体力を奪い人命を落とす病気が流行した。手を尽くす甲斐なくその疾患は国中に蔓延し、民を半分失うどころか、王様と王妃様にも襲い掛かり奪い去った。
王族では、たった一人ルーシェルシィタ姫を残して。
幼少時より病弱であった姫様は、隔離されていた事が幸いし罹患することなく済んだけれど、疲弊した国を立て直す能力を持ち得ず。
結局、ニーファは隣国に吸収合併され、新たな領地として領主を隣国から迎えることになったらしい。
「お可哀想な姫様。父王も母君も亡くし、保護して下さるとはいえ生国を離れなければならないなんて」
泣き崩れる姫様に膝を貸しながら、侍女のアンヌさんはそのふくよかな指で、姫様の濃い色をした髪を優しく梳いて撫でている。
たった一人で。それはどんなに心細い事か。
「可哀想と思って下さるのね、天使様。ではわたくしを助けて下さいますね?」
ぱっと顔を上げた姫様の白い頬に涙が一粒つっと流れた。
大泣きしていたはずの姫様は、にやりと口角を上げる。
あれ?
なんでこうなったんだろう?
ええとええと、しきりに首を傾げるしかないのですが、ルーシェルシィタ姫の涙と笑顔の巧みな話術に説得されて、気が付けば頷いていて。
そして。
私は姫の影として隣国イシュについて行く事になったのだった。
もちろん影といっても、歴史小説の中に出てくる影武者の様な事はとても無理です。そこはどうしても譲れません。
無理です無理ですからと繰り返し、なんとか役割の範囲を交渉したけれど。
「普段は侍女として働く、ね。まあそれでもいいわ、今はね」
姫様、その笑顔、悪役っぽいのでやめて下さい…。
こんな素性の怪しい女を傍においても大丈夫なんでしょうか?
私自身でさえ感じる危惧は、姫様には全く通じていなくて不思議ですが、部屋の壁に控えていた男の人が代弁してくれた。腰に刷いた剣、かっちりと首元で絞められた制服からすると、護衛の兵士さんのようだ。
「姫、そのような得体の知れぬ者を部屋に通したあげくにイシュに同行を許すとは」
ごもっともな意見に、うんうんと頷くと鋭い琥珀色の眼差しが降り注ぎ、彼は苦々し気に口元を歪めた。
「あらゴダイ、よく見て。わたくしと同じ色の髪に瞳、これだけで十分ではなくて?」
「風の神シル様と同じ大地色を纏うのは、ニーファ王族のみに許された事」
そう言うアンヌさんも兵士さんもアジア民族に似ていて、濃淡の差はあるけれど髪と瞳は薄い茶色をしている。
ぐっと言葉を詰まらせた兵士さんから視線を私に戻すと、姫様はふふと笑う。
「わたくしと同じ色をした、同じくらいの年頃の女性を拾うなんてありえないでしょう。きっと神様のお導きだと、そう思わない?」
病弱だったルーシェルシィタ姫様は、今までお城の外に出かけた事はおろか、お城の限られた場所にしか足を向けた事がなく、もちろん馬車に乗った経験もなかった。
隣国へ行く準備として馬車に乗る訓練時に私を見つけてくれたらしい。
「だから、わたくしに神様が遣わして下さった天使様だと思ったのよ」
いえ姫様、残念ながら私は普通の人です。
交渉の末、隣国イシュへに旅する間、慣れない馬車での姫様の疲労を考慮して、私は手を振ったりご挨拶をしたりする役割を担う事になった。
その位ならなんとかできそう。
ほっとしたのもつかの間で、この慎ましいニーファのお城を離れ隣国に出発するまでに、私は姫様と共に教育を受けることになった。
何故姫様も一緒に?
そんな疑問はすぐに解決された。
「指の先まで意識して優雅に手をお振りください。姫様、もう少し手を上げて」
「だって疲れてしまったもの」
えっとまだ始まったばかりですが。
「笑顔で。姫様、笑顔ですよ」
「だって面白くもないのに笑えないでしょ」
えっとまあそうですけど。
「立礼は膝を折って、そうです。姫様、頭だけでも下げましょう」
「だってそんなに膝を曲げたら転ぶわよ、っと、ほら」
すてんと音がするほどの転び方でしたが、姫様、大丈夫ですか?
駆け寄って手を差し出すと、姫様はよたよた立ち上がり、疲れたから休みますと言って私室に戻ってしまう。どうやらこの調子で姫様教育は進んでいないようです。
ドアの前で振り向いて私に手を振る姫様。
「あなたはまだ頑張るの?偉いわね」
いやだって始まってまだ30分も経っていませんから…。
深く息を吐いたアンヌさんは姫様の後を追い、部屋には私ともう一人の先生、護衛の兵士さんが残されたのだった。