(3)
昼休み、卯月先生にやたらと色っぽい忠告を受けた後、大急ぎで教室へ戻った。
およそ5分で弁当をかき込み、弁当を作ってくれた姉に「味わえなくてごめん……」と心の中で懺悔をした。
その後の5限のこと。
俺は小さなメモ書きに、
「今日の放課後、俺たちと話さない?」
と書いて、それを畳むと後ろにすっと手を伸ばした。
ちらりと後ろの皐月の様子を見ると、一瞬戸惑った様子だったが、すぐににこりと笑って頷いてくれた。美人という印象が強かった分、愛嬌のある表情に胸を撃ち抜かれる。
……何この子、超可愛いんですけど。
内心どきどきしつつ、前を向いたまま右腕を背中に回して、びしっと親指を上げた。
攣った。
その後、クラス内で壮絶にイジられたんだけど気にしない。「ぬがぁぁぁぁ!」とか言っちゃった……。
そして迎えた放課後。
教室の中でダベるクラスメイトが完全に居なくなるまで、俺と薫と更紗は三人で話していた。事情が事情なので、今日は薫と更紗は上手いこと理由を付けて部活を休んでくれたようだ。
皐月は何やら文庫本らしきものにブックカバーを付けて読んでいる。
なんかすごい文学的な本とか読んでそうだなぁ……などと思いながら、ついついチラ見をしてしまっていた。
時折、皐月と目が合い、にこりと微笑まれる度にどきどきしてしまう。
……俺、ちょろすぎでしょ……?
「あ、もう皆いなくなったね」
薫の声で周りを見渡してみると、確かに、もう周りは誰もいなくなっていた。
やっとかと思いつつ、三人で皐月の下へと向かう。
皐月の前の席は俺、皐月の右隣に更紗、そして右前に薫が座る。
すると、皐月が本に栞を挟み、にこやかに微笑みながら顔を上げた。
「こほん、えーと、まずは……」
自己紹介からした方が良いのかと思っていると、皐月があっと声を上げる。
「ああ、それなら大丈夫だよ。上原更紗ちゃん、乙瀬薫くんでしょ?」
更紗と薫にそれぞれ目を合わせながら、名前を確認して行く。
そして、俺と目を合わせると、
「そして君は……年上好きで、巨乳好きの、橘匠くん」
……。
……にこにこ笑顔で、すんごい恥ずかしいことを言われた……。
「何照れてんのさ匠。ただの事実でしょ?」
「そうだよ匠くん。厳然たる事実だよ?」
「そんなに!? そんなにか!?」
「そりゃあもう。匠くんの好み及び性癖はもう、シュレディンガーの猫くらいはっきりしてるからね」
更紗がにっこりと笑って言葉を返す。
「それむしろめっちゃフワッとしてんじゃねえか! もっと良い例えはねえのかよ!?」
俺のことを分かってくれてるのかそうでないのか、まるで分からない。近いようで意外と遠いのが友達というものなんだろうか。
「もう、ツッコミが無駄に厳しいなー匠は。あれだよ、あれ。つぶやきシローの物言いくらいはっきりしてるよ、匠の変態性は」
やはり、俺のことを分かってくれてるのかそうでないのか、まるで分からない。近いようで意外と遠いのが友達というものなんだろう。
「なんでまたフワッとした例えをチョイスした!? あと変態性って言うんじゃねえよ! 間違ってないけど! ……ん?」
薫と更紗に猛烈にツッコんでいると、皐月がいつの間にか机に顔を突っ伏してぷるぷる震えていた。
「え、えーと、皐月さん……?」
皐月の異変に三人が驚いていると、彼女は急に顔を上げた。
「……あっははははは! は~~~~もうお腹痛い! やー、今までも少し遠くからずっとこのやりとりを見てたけど、改めて目の前で見ると……また格別だわ! ひーっ……」
「お、あ、え、そ、そうか?」
「あー楽しい……あ、そうだ。私のことは皐月って呼び捨てにしてくれていいわよ、匠くん。なんだかさん付けするとむずむずしちゃうでしょ、お互いに」
「あ、ああ、そうか。よろしく……皐月」
「ん、よろしくね、匠くん」
皐月は笑い過ぎたのか、目尻に涙を浮かべたままにっこりと微笑んだ。
ほんの1分前までの、不思議な雰囲気が漂うお淑やかな美少女のイメージが吹き飛んでしまったけれど。
今目の前で素敵な笑顔を浮かべる彼女には、人間味が溢れていて。
尚更、惹かれてしまう俺がいた。
「卯月先生から、ある程度は事情を聞いてるんだよね? だからこうして、他に誰も居ない状況になるまで待ってくれてたんだろうし」
皐月はそう言うと、にこやかに微笑んだ。
「ああ、そうなんだよ。正直言えば、先生から『あの子と仲良くしてやってくれ』って言われたんだけど……」
言うと、薫と更紗が驚いた表情をした。
二人の視線を気にせず、話を続ける。
「俺は先生にそんなこと言われなくても、お前に興味があったから、話しかけるつもりでいたよ」
にっと笑うと、皐月は一瞬目を見開いた後、にひっと悪い笑みを浮かべて、
「……そっか、ありがと。嬉しいよ。……そんなに、私の胸が気になるんだ?」
胸元をさっと手で隠した。
「……は、はあ!? そんなこと……!」
「あるでしょ」
「あるよね」
薫と更紗からの温かみのある援護射撃。漏れなく俺の背中に飛んできたけど。
「わー、筋金入りだね、匠くん。一ついただけないことがあるんだけど……良い?」
「な、なんだよ?」
こほん、と咳払いをする皐月。
「まだ会ったばかりの女の子を『お前』呼ばわりするのは感心しないぞっ」
すげえお姉さんっぽく言われた……。
「あ、いや、その、ごめん。どう呼ぶといい?」
「あ、今のはあくまで普通の女の子について、ってだけだよ。私は大丈夫」
「あれ、いいんだ?」
「うん、大丈夫だよ。さっき言ったように『皐月』って呼び捨てにしても良いし、『お前』でも良いよ」
むしろ――と、皐月が意味深な微笑みを浮かべて、言葉を続ける。
「『肉奴隷』って呼んでくれても構わないよ」
おっと、突然の衝撃が全身を駆け抜けたぞー?
「俺はそんな鬼畜な呼び方をこれまでしたこともこれからすることも無い!」
裏返りそうになりながらツッコんだ。
「あっはは、やっぱり匠くんは面白いねー」
皐月がけらけらと笑う。
……くそ、お淑やかなイメージとのギャップで、いちいちどきどきしちまう……。
……ん?
そう言えば、何で俺は同じ学年の皐月にどきどきしてるんだろう?
更紗もそうだけど、同い年以下の子は例えどんなに可愛くても、どきどきするまでは行かなかったのに。
……まあ、この子が大人びてるってだけなんだろう。
下ネタもすごいし。
……それが理由になるのかは甚だ疑問だけど。
更紗が興味深げに話を切り出す。
「皐月ちゃんってさ、あたしたちのことは今までの一ヶ月間、ずっと見てた、んだよね?」
「ええ。皆の意識の外に居るだけで、近くで読書をしながら、たまに読書をするフリをしながら周りの皆の様子を見ていたわ」
「読書のフリをする意味はあるのか……」
「なんとなくよ。ああ、そうだ、匠くんは席が近いことが多かったから、あなたが窓際の席に居るときだけ、スマホでこっそりエロ画像鑑賞をしているのを後ろや横から鑑賞していることもよくあったわ」
「聞きたくなかった! 心が折れる!」
「すごいわね、あなた。学校に来てまで大人びた女の子の制服コスプレのエロ画像を見たり、女教師のあられもない姿を見たり……どれだけ溜まっているの?」
「やめろ、やめてくれ! 心が折れる!」
薫と更紗の目が冷たいのを通り越して死んでる!
「あら、ごめんなさいね。別に傷付けるつもりはなかったの。ただ、鑑賞会を鑑賞する機会が最低でも30回くらいはあったから、印象に残っていてつい、ね」
「うわあぁぁぁぁ!」
悲鳴を上げた。
すごい無様な悲鳴。
だって、それ、ほぼ毎日じゃん。
って言うか俺、そんなに見てたんだ……。
「さ、皐月さん、すごいね……。そっか、自然と見ちゃうものなんだね」
薫が若干青ざめた顔で言う。
「あら、薫くん。あなたもよく見ていたわよ」
「え」
「あなたは匠くんと違っていかがわしい画像を見ていたと言うことはないけれど……あれは、ある意味ではいかがわしいのかしら……?」
皐月が顎に手を当てて、ぶつぶつと呟いている。
「え、え、え?」
薫が露骨に慌てだした。何か心当たりがあるんだろうか、って言うか絶対あるな、これ。
「ほら、あなた、携帯の待受画像……」
「わーーーー! わーーーーー! わーーーーー!」
「う、うるせぇ! 薫うるせえよ!」
急にサイレンみたいな声を出しやがった。小さな身体が全部スピーカーになったみたいだ。
「皐月さん、それ無し! それ無し!」
「あらそう? 残念ね……」
皐月がにやりと笑った。楽しそうだなこいつ……。
「あはは……すごいね、皐月ちゃん……」
更紗が苦笑いを浮かべている。
……んん? 待てよ、この流れだと……。
「もう、更紗ちゃんったら。あなたもよ」
「え」
「あなたがたまに机の下に隠すようにしながら見ている画像があるじゃない。あれってBLよね」
「わーーーー! わーーーー! わーーーー!」
「うるせぇ! お前もかよ!」
サイレン2発目。
「ささささ皐月ちゃん!? 何を言ってるのかな!? BL!? ああ、BLEACHの略かな!? 面白いよねーあれ!」
なんで前の2文字を取ったんだ。
更紗の慌てる様を見ながら、皐月は更に悪そうな笑みを浮かべる。
ちらりと視線をずらして、何故か一瞬薫を見た。
「それに更紗ちゃん、あなた……携帯の待受も」
「ストーーーーーーーーップ!」
更紗が信じられないくらいの速さで、皐月の口を手で塞いだ。
「んんっ……!?」
皐月は一瞬驚きの表情を浮かべたが、またすぐに目を細めて、目しか見えない状態でも笑うのが分かった。
皐月はこの後どうするのかと思ったら。
行動が、予想の斜め上を行っていた。
「はえっ!? ちょ、ちょっと、皐月ちゃん……!?」
更紗が急に慌て出す。
皐月はあろうことか、自分の口を塞いでいる更紗の手の中指の先に口をずらして、ぱくりと咥えたのだ。
更紗が横向きに当てている手の、中指だけが折れ曲がり、皐月の口の中に吸い込まれている。
「んむっ……」
更紗の腕に手を添えて、うっとりした顔で指を舐める皐月。
……いやいやいやいや。何これ。何なのこれ!?
更紗の様子を見ると、顔から盛大に湯気を噴き出しながら目をぐるんぐるんと回している。
大パニックだ。
薫も見てみる。
顔から盛大に湯気を噴き出しながら、目をぐるんぐるんと回している。
大パニックだ。
……いや、なんでお前もなんだよ。
この状況は状況で中々楽しいものはあるが、流石にそろそろ止めないとまずいだろう。
皐月の頭上に手を振りかざして、軽くチョップをかます。
「こーーーらっ」
「あうっ……あら?」
ずびしっと頭頂部にチョップが決まると、皐月は口から更紗の指を放した。怪我をしなくて良かった。
頭をさすりながら、皐月が不満げに俺を見る。
「もー、折角良い所だったのにー。これからが本番なのよ?」
「いや、何が本番だよ。ここは放課後の教室だぞ」
「あら、今匠くんが言ってくれたじゃない。『放課後の』『教室』ほーら、こんなに淫靡な響きに!」
「ただの言い方の問題だろうが! やたら息を含んで色っぽく言うんじゃねえよ!」
結構どきどきするだろうが!
「ってかお前、なに、そっちの気があんの?」
言うと、皐月がくすっと笑う。
「やーね、そうじゃないわよ」
「だよな」
「エロければ何でも好きだから、百合は守備範囲の一つに過ぎないわ」
「事態が悪化した!?」
「ちなみに今読んでるのも百合小説よ」
「聞きたくなかった!」
「匠くんにも貸そうか? 女教師ものの官能小説。抜けるよ?」
「く……読みたい……! いや、抜けるとか言うんじゃねえよ!」
「欲しいの? 欲しくないの?」
「うぐぉぉ……ほ、欲しいです……」
「まったく、欲にまみれたしょうもない牡犬だこと」
「あれ!? なんかプレイに巻き込まれてる!?」
「今さら遅いわよ。さっき更紗ちゃんの指舐めを邪魔した罰よ。あなたのも舐めさせなさい」
「すごいこと言ったな!? あとSなのかМなのかはっきりしろよ!」
「エロければどちらでも良いわ」
「好奇心旺盛だー!」
「話を逸らさないでちょうだい。ほら、舐めさせて?」
「やだよ! 手の指なんて舐められたら絶対俺の中で何かが終わる!」
「あら、別に手の指でなくてもいいのよ? 足の指でも、首でも……他の部位でも」
「変な間を空けるなよ! やらしすぎるだろ!? エロにどんだけ貪欲なんだ!」
「私、頑張れば官能小説にも出られると思ってるの」
「モデルとして!? 何その謎の自信!?」
「もう、埒があかないわね」
「く、話が逸れたと思ったのに! ってか手を掴むな! 薫と更紗が見てるだろうが!」
「あら、じゃあ二人が居なかったら良いと言うの?」
「いや、そう言う問題じゃなくて……ねえ? …………。……なんか変な感じになっちゃったじゃねえか!」
「あむっ……んんっ……」
「もう咥えてたーーーー! やめろ、やめろ、頼むから!」
「あんっ……もう、あまり私の中で暴れないでちょうだい?」
「語弊しか生まれない言い方をするんじゃねえ!」
「なによ、あなたの性欲はその程度なの?」
「なんだその煽り!? 男子高校生の性欲を舐めんなよ!」
「あら、じゃああなたは週に何回するのかしら?」
「はっ、愚問にも程があるぜ、皐月。週に何回、ではない。一日に何回と言う聞き方をしてもらわないとな!」
「あらすごい。じゃあ、一日に何回するの?」
「ふん。少なくて二回。予定の無い休みの日に至っては三~五回はするぞ」
「あら逞しい……ふふふ」
「下を見るな、下を」
「……ふふふ」
「舌舐めずりをするな!」
「ところで匠くん、野球は好き?」
「話題転換下手すぎるだろ! 急ハンドルで横転するぞ!」
「私は興味無いわ」
「膨らます気無いんだ!?」
「野球中継が伸びてアニメの放映時間がずれる度、プロ野球界への憎しみが募って行ったわ……」
「あ、それ分かる」
「今では東京ドームと言う単語を聞くだけで、あの忌まわしい建物を発破解体したい衝動に駆られるの」
「そんなに!? そんなに!?」
「あまりにも憎みすぎて、思わず爆破処理の本を買ってしまった程よ」
「具体的な行動に出ちゃった!」
「そしたら思いの外大変そうで、なんかもう発破解体のことも、野球のことも興味が無くなったわ」
「この話題の冒頭に戻った!」
すごろくかよ。
「ちなみに私は一日に三回するわ」
「へ?」
「だから、三回よ。一日に、三回」
「あ、ああ、その話か……ええ!?」
「驚く程でも無いわ。女性はそういう行為をした方が綺麗になるのよ」
「いや、そんな生々しい数字聞きたくなかった!」
……と。
「……あれ、そう言えば二人は?」
「あら、いつの間にか居なくなってるわね……ん、これは……メモ?」
更紗が居た席に、メモ書きが置かれていた。
『匠くんと更紗ちゃんへ。下ネタトークで凄く盛り上がっていて二人がすごく楽しそうだし、これ以上聞いてると耐えられそうにないので、私たちは部活に行くことにします。皐月ちゃん、また明日話そうね!』
……。
……ごめん、薫、更紗。超ごめん。
「二人は……どこまで聞いてたんだろう?」
「あ、まだ何か書いてあるわ」
皐月がメモの下の方に目をやる。
『ちなみにあたしたちが聞いていたのは、匠くんの【いや、抜けるとか言うんじゃねえよ!】と言うツッコミの辺りまでです。アレが限界でした』
……。
……結構、序盤だった……。
メモを見て、皐月がふむと頷く。
「まあ、懸命な判断ね。この会話はよっぽどのエロ力が無いと、その場にいることすら耐えられないレベルだったから」
「何だそのしょうもない単語!?」
「ところで、どうする? もう少しエロトークして行く?」
「何でエロトーク限定なんだよ!?」
「あ、ごめん、字を間違えていたわ。エロトークして逝く?」
「こええよ! こんな会話で最期を迎えるなんていやだ!」
「じゃあ、……エロトークして、イク?」
「お前バカなのか?」
「あら、匠くんお得意の微エロトークよ」
「ここまでの会話がすでに微エロじゃないわ! どエロだよ!」
「もう、しょうがないわねえ……じゃあ、私の胸、見てく?」
「おっ……?」
弾みで。
変な声が出た。
明らかに上ずった、自己嫌悪に陥りそうな声。
俺の動揺する様子を見て、皐月がにこっと笑う。
「あはは、冗談の、冗談」
「『冗談よ、冗談』じゃないのか!? どっちなんだ!?」
誤字に見せかけて、更に混乱させて来た。
「冗談の冗談だから、まあ、つまり、本気ね」
「待て待て待て、お前、年頃男子の性欲舐めんなよ。変な空気になるぞ」
「……見たくないの?」
「……本音で言えば、超見たい」
「うっふっふ、正直でよろしい。それじゃ――」
皐月が制服の裾を掴んで、捲り上げる素振りを見せた次の瞬間。
「……あー、いけない、もう時間になるわ」
皐月の視線を辿ると、時計が十七時五十五分を指していた。
時間が流れる早さに驚く。
十八時が一応の下校時刻となっている(部活がある生徒で、この時刻を守れる人はほとんどいない)のだが、それにしてもシビアではないだろうか? 先生が見回りには来るものの、徹底的に帰らされる訳でもない。先生もその辺の事情は分かっていて、生徒の下校に対してはだいぶ緩いのだ。
「そ、そんなに厳密にならなくても……」
……すんごいがっついている残念なヤツがいる。
俺だった。
すると、皐月はかぶりを振った。
そして俺に向けた表情は、やけに寂しげで。
「ううん、ダメなの、ごめんね? ……さあさあ、早く帰る準備をしてね!」
自分の頬をてしてしと叩くと、一転して明るい顔で俺に帰るよう促してくる。
「お、おい……?」
俺は鞄を持つと、ぐいぐいと背中を押されて、あっと言う間に教室の入口のすぐそばまで追いやられた。
そこで皐月の動きがぴたっと止まる。
「……皐月?」
俺の背中に手を添えている皐月の表情は窺い知れない。
やがて、少しばかりの幸せと、少しばかりの寂しさを含んだ声が聞こえてきた。
「……今日は本当にありがとう。楽しかったわ。これは……そのお礼」
言うと、俺の頬に手を添えて、くるりと振り向かせて来た。
そして、俺の両手を掴むと、豊かな胸に押し当てた。
わー、超柔らかい。
ん?
……え。
……ええ?
……えええええ!?
「は、はあぁぁぁぁぁ!?」
物凄い悲鳴を上げてしまった。
そんな俺のリアクションにも構わず、皐月はにこにこと微笑んでいる。
「どう? 私の胸、柔らかいでしょ?」
「そりゃあもう、こんな沈み込むような柔らかさで、更に弾力まであるなんて、もう何日間でも揉ませて頂きた……ってちがーーーーーーう!」
ようやく我に返り、弾けるように胸から手を離した。胸がぶるんと揺れるのに一瞬目を奪われる。
くそ! もったいない!
「あん……もう。……ま、これからよろしくね」
「……お、おう」
今日一番の眩しい笑顔に見惚れて、言葉を失う。
戸惑う俺をよそに、皐月は手をぱんと叩いた。
「さあさあ! 良い子は帰りなさーい!」
再びくりんと180度回転させられて、背中をぐいぐいと押される。
「お、おい……」
今度は、廊下に出されてしまった。
そして背中越しに、
「じゃあ、また明日ね、匠くん」
ひどく寂しげな声が聞こえた。
その声が、やけに耳に残って。
何故か、不安が過ぎって。
だから。
「おい、皐月……!」
思わず、叫ぶように彼女の名前を呼んで、振り返った。
それと同時に、下校時刻を告げるチャイムが鳴る。
「……え?」
一瞬、何が起きたか分からなかった。
――どこにも。
振り向いた先の、教室のどこにも。
彼女が――皐月が、いない。
「……ど、どこ行ったんだよ……?」
どくん、と心臓が鳴る。いやに大きな鼓動だ。
もしかして、凄まじい速さで移動して、俺のことを驚かせようなどと考えているのではないかと、淡い期待を込めて廊下を見渡した。
それでも。
どこにもいない。
どこにもだ。
「……どういうことだよ……」
驚きと戸惑いに満ちた自分の声が、夕陽で赤く染まる廊下に静かに溶けて行った。
時計を見ると、時刻は18時。
皐月を探していてまるで意識に入らなかったチャイムが、ようやく鳴り終わろうとしていた。




