涙
―――わたしのサービスゲーム
このまま何もできないまま試合を終わらせてなるものか。
ここから逆転するんだ。
わたしはまだ一粒も負けを認めてはいない。ここから立て直して、逆転してやる。
その気持ちはまだ確かに心の中にある。
あるのだけれど―――
「フォルト。ダブルフォルト」
サーブが暴れる。
思ったところに、全く入ってくれない。
『あぁ~…』
応援団の方から―――もう何度目か数えることも止めた―――ため息が漏れ、意気消沈していく。
「姉御…」
「藍原さん!ファイトなの~!!」
それでも諦めず応援してくれる人がいる。
この人たちを裏切るわけにはいかない。ボールを握り直し、相手コートをしっかりと見遣る。
(ボールを宙に投げて、しっかりとラケットで叩く)
そのことだけに意識を集中させる。
左腕で、強打!
叩いた打球が相手コートへと向かっていく。
しかし。
「フォルト!」
サービスコートの向こう側で、その打球は跳ねた。
打球が枠に収まってくれない。力をセーブできず、打球がラインを越えていく。今のサーブなどその典型だった。
(もう1球!)
今度こそ、枠内へ!
「フォルト。ダブルフォルト!」
―――ダメだ
「…ッ!!」
入らない…。
入らないんだ。
打球が、コートの中に入らない。
対戦相手の足元へ狙った打球が、平気で相手プレイヤーの頭を越えていく、そんな感覚。
打球をコントロールできない。そこへ狙ったサーブが、遥か想定とは違う場所へと落ちていく。
頭が痛くなる。
(わたし…)
何がしたいの?
このプレーで、何ができると思ってるの?
そんな問答が、頭の中を支配するようになっていた。
鵜飼選手は攻撃の手を緩めない。
コントロールを付けようと甘いところにボールを飛ばせば、すかさず厳しいところへと打球を返してくる。
(違う…、違い過ぎる)
認めたくない。
認めたくなんかないけれど。
そう考えるほかに無かった。
―――実力が
鵜飼選手の放った打球は糸を引くようにコートの隅へ。
わたしは―――当然、そんな打球を追いかけることもできないまま。
「ゲームアンドマッチ、ウォンバイ」
残酷にも、それは告げられる。
「鵜飼由夢!6-0!!」
ああ、と。
全身から力が抜けていく感覚がした。
「姉御…」
「藍原さぁん…」
万理の弱い声と、海老名先輩のすすり泣くような声。
それが頭の中に入ってこないくらいには、わたしは動揺していた。
(ああ、ダメだ。ぼうっとしてちゃ…)
挨拶に、行かなきゃ。
ふらふらと心ここにあらずという様子でネットに向かって歩いて行った、その時だった。
「鵜飼さん完勝だ~~~!!」
「相手、大したことなかったな」
「思ったより全然弱かった!」
―――頭に、その言葉が突き刺さる
「ぴ、ぴぃ!対戦相手に失礼なことは言わないで…!!」
鵜飼選手は人差し指を口の前で立て、「しー!」というようなポーズを取ってくれてはいた。
この人に罪はない。
多分今のも初瀬田の応援団が言った言葉ではなく、試合を見に来た野次馬の暴言なんだろうとは思う。
だけど、今のわたしには。
(その言葉を否定することが、まったくできない…)
完敗だ。
何もできずに負けた。
この白桜に入ってきてから、1番のボロ負けだったと思う。
「あ、藍原さん…?」
鵜飼選手がわたしの方を見つめながら。
「気にしないでね…?」
それは今のわたしに対する精一杯のエールのつもりだったのだろう。
だけど。
「はい…」
言葉に生気が入っていないことが、自分でもわかった。
何がなんだか分からないうちに挨拶をして、握手をして。
わたしはふらふらとベンチへと下がっていく。
どうしよう、わたし。
これからどうすればいいんだろう。
そんな事を頭で考え、目の前のことは何も見えないままペットボトルを手に取り―――しかし、水分補給すらできないでいた。
「藍原、」
そこに。
監督が話しかけてくる。
「ドンマイ、とは言わないぞ」
今のわたしに、その言葉は届かない。
「這い上がってこい」
監督だって、監督なりにわたしに気を遣って、厳しい言葉を言わないでくれていたのだと思う。
だけど、今は―――今は。
「…くッ!!」
厳しい言葉をかけてくれた方が、どれだけ助かっただろうか。
「うう…ッ!」
目頭から大きな涙の粒が溢れてくる。
わたしはどうすることもできずに、その場に立ち尽くしたまま下を俯いて、流れ出る雫が頬を伝って落ちていくのをただ我慢しようとしていた。
しかし、我慢しようとすればするほど、涙は零れ出てきて。
止めどもない涙がわたしの頬から顎へ、伝い落ちていく。
「うう゛う゛う゛ぅぅぅ…!!」
思わず右手で顔を覆った。
みっともない、カッコ悪い。そんなことを考える暇もないまま、その落ちていく感情に身を任せることしかできなかったのだ。
―――わたし、こんなに弱かったんだ
まるで今まで積み上げてきたものががしゃんと崩れていく感覚。
わたしが今までやってきたことって…ここまで来たことって…。
無駄だったのかな。
◆
練習試合終了後、対戦相手の初瀬田の監督と握手を交わす。
「完敗でした。たったこの期間でここまでのチームを…さすが初瀬田さんです」
「ナイスゲームでした。初瀬田の選手たちも大きな自信を持ったと思います」
そう、自ら口に出した言葉『完敗』。
今日の試合を総括すると、そう形容するしかなかった。
ダブルス2、4-6。ダブルス1、5-7。シングルス2、3-6。シングルス2…、0-6。シングルス1、7-6。
最後の最後、シングルス1で新倉が意地を見せたものの、試合内容自体は褒められるものではなかった。対戦相手が実戦に慣れておらず何とか勝てたが、新倉も本調子ではないということが露呈してしまった。
これ以上ない、完全な敗北だった。
「厳しいな」
コートから監督室へ向かう途中、小椋コーチにぼそりとそんなことを呟く。
「3年生卒業での戦力ダウンは仕方がないとしても、今日の試合は…その…」
「酷かった」
「…はい」
全国レベルのチームとの戦いで出た綻び、課題。
それは私たちが想定していた以上のものだったということが露見した。
「シングルスもダブルスも、今のレベルでは都大会を勝ち抜くことは難しいだろう」
「私、こんなことを言うのは指導者失格だと思うんですけど」
小椋コーチが、ぽつりとその言葉を出す。
「どうしよう…と、思っちゃいました」
その言葉は現状の迷走っぷりをそのまま体現したかのような重みを感じられた。
白桜女子テニス部、確かに個々の選手の力はあるチームだと思う。
だがしかし、それを団体戦を行うにあたってまとめあげると…現状、こんなにも脆い。
「それでもやるしかない」
私が弱音を吐くわけにはいかない。
「それがこの部を任されたものとしての責任だ」
たとえ現状がどんなに厳しい状況だったとしても―――諦めるわけにはいかないのだ。
◆
誰も居なくなった、屋内練習場。
そこにはわたしがただ1人、仰向けになって寝転がっていた。
目からはまだ涙が出てきている。
―――わたしはこのチームのエースになる!!
自分の言った言葉を思い出す。
「何がエースだ…。何が全国制覇だ…」
両手で顔を覆って、小さく吐き出す。
「わたしは…こんなにも、弱いっ…!!」
自分は弱い。
もう、認めるしかなかった。
『ハッキリ言おうか』
『君は弱い』
「強くなりたい…」
『…貴女には、正直失望した』
嗚咽のような言葉が口から出てくる。
『思ったより全然弱かった!』
「強くなりたい、上手くなりたい、上手くなりたい…!誰にも負けないくらい、誰にも弱いなんて言われないくらい、テニスが上手くなりたい!!」
大泣きしながら、しゃくりあげながら言うその言葉は弱弱しく、ただの夢想にすら思えるものだった。
この言葉が実現するかなんて、分からない。わたし自身にも。
―――わたしなんかが、そんな事できるわけないでしょ
自分の中の誰かが、わたしに声をかける。
そっか。
わたし、無理なんだ…。
(才能もない、センスもない、わたしには、何もない…)
どうせ無理なら、もう頑張ったって―――
「藍原さん」
その瞬間。
「前とは、立場が逆になったね」
声をかけてくれたのは、他でもない。
「以前、私がレギュラー獲れなくて泣いてた時、藍原さんが励ましてくれたの、すごく嬉しかったし、覚えてるよ」
仰向けになったその視界に、彼女がこちらを見る顔が入ってくる。
「だから、今度は私が藍原さんを助けるね」
―――海老名先輩
まるで天使のようなその笑顔が。
見守るように、まるで愛おしい何かを見つめるように―――わたしの方を、じっと見つめていた。




