"乖離"
その日はカラッと晴れた、夏らしい日…その、お昼下がり。
わたしは相手プレイヤーとネットを挟んで対面し、まずは挨拶である握手をする。
「よろしくお願いします!」
「ようこそ、ワタシの舞踏会へ」
あ、そういえばこの人こういう感じだった。
コート外で見る印象とは随分と違う、どこか優雅さすら感じられるその所作に、思わずおっと驚いてしまう。
「貴女はワタシのお城へ来るに足る女の子かしら?」
「勿論です!わたし、体育の授業のダンスとかメッチャ得意なんで」
「よろしい」
そして、お互いサーブ位置、レシーブ位置へと下がっていく。
―――現在、0勝3敗で初瀬田のリード
と言うことは、この試合のサーブ権はわたしから…という事になる。
チームが負けているのだから素直には喜べないけど、自分からサーブを始められるというのは試合をリードするにあたってかなりやりやすくはある。
("お前の武器はそのサーブです"…)
このみ先輩の言葉を頭の中で反芻する。
そう、わたしの大きな武器である3種類のサーブ。これを敵コートに決められれば、相手だって簡単には打ってこられるわけがないというのは全国まで行って感じた大きな財産、収穫。
(まずは―――)
右手からボールを空に放ち、それを自分のあらん限りの力を使って打つ!
景気付けのフラットサーブだ。これをガツンと決めて流れに乗りたい。
そして、その打球は敵サービスコートで大きく跳ねる。
「15-0」
審判役の子のコールを聞き。
「よっし!」
小さく、身体で抱え込むようにガッツポーズ。
今日はいける。調子は悪くないと見ても良さそうだ。
戻ってきたボールを受け取り、こねこねと手のひらで感触を確かめるように拭くと。
(次は、クイックサーブ!)
わたしの感覚では普通に打つ、他の人からしたらワンテンポ遅れてくる―――相手の打ち気を逸らして、タイミングの取りづらい『腕が遅れて出てくる』サーブ。
これでもう1点、取りたい。
取れればかなり楽になる。打球は強い球足で相手サービスコートを跳ねる。
(いった!?)
感触的には、サービスエースを取れてもおかしくない、そう感じた。
「ッ!」
だが、相手は全国レベルの敵と2年生ながら互角にやりあった、鵜飼選手。
そう簡単には取らせてくれない。
わたしのクイックサーブを、キチンと自分のタイミングで打ち返してきたのだ。
しっかり、わたしが1番走らなければならない対角線の位置へと、帰ってきたショットに向かって素早く走り―――わたしだって、サーブを打って油断してたわけじゃない―――回り込んで思い切りインパクト、敵コートへと返す。
しかし。
「っ!?」
今度はまた、対角線のコートへと球が返され、追いつくことが出来ない。
「15-15」
わたしは思わずその場で膝に手をついて、大きく息を吐き出す。
(鵜飼選手、わたしの打球を難なく対角線に打ち返してくる)
そんなに簡単なショットは打っていないつもりだった。
それにしても、いとも容易くわたしの打球を打ち返してくる。この感覚の違いは何だろう…?
「姉御ー!今のは運が悪かったッス!あれ返されちゃごめんなさいですよ!」
「次のサーブ、そこからしっかり立て直してなの、藍原さん!」
いつの間にか万理や海老名先輩も応援団としてこの試合を見てくれているようだった。
特に万理は自分の試合の直後だろうに―――自分の事も大変なのに、わたしを応援してくれてるんだ。
(この人達に向かって、みっともない試合は出来ない)
わたしが今、このコート内に立ててること…当たり前じゃない。
60人超の部員たちの上にわたしは立っているんだ。みんなの為にも、自分自身の為にも。結果を出して前に進み続けることが、わたしに求められていること。
(もう1回、)
ぽんぽんとボールをコートに打ち付けて、それを右手で受け取る。
(フラットサーブで1ポイント取る!)
すっとボールを空に打ち出し、わたしにできる限り全ての力を使ってインパクト。
左腕から放たれた打球が、敵サービスコート上に跳ねた。
簡単には打ち返されない打球を放った。
わたしの中では確かにその反応があったのにも関わらず。
「させないッ!!」
鵜飼選手の叫びに呼応したように強い打球が、正面に返ってくる。
(また返された!?)
打球を裁かなければならない、鵜飼選手の立ち位置、ボールと自分との距離。
それらを考える前に、さっきのサーブを思い切り返されたことへの驚愕が勝る。
自分の心をボールに乗せる―――そのたった一つのことが出来ない。
「15-30」
そんな魂の乗っていないボールを返して、相手選手が見逃してくれるはずがなかった。
今度はわたしが追うよりはるか向こうへ…ボールが飛んでいき、ラケットの頭を超えていく。
(―――強い)
敵プレイヤーの力量を見誤った覚えは全くない。だけど、そんな事より先に…実力の差、わたしの力でどうしても及ばないその僅かなところが身体を突き抜ける。
だけど。
「簡単に…やられるわけにはいかないっ!!」
まだ試合が始まって間もない時間だ。
ここで実力差を見極められたのはある意味よかったとも言えなくもない。
格上の相手…上等じゃないか。そういう敵に勝っていかなきゃ、白桜のシングルスは務まらない。
そういう試合を勝っていくための『練習試合』…目的を見失うな。
何が何でも勝たなきゃいけない試合じゃない。
わたしはそのことを頭の中で何度も反芻しながら、ラケットを握ってボールを打っていく。
たったそれだけの事を、自分の命を懸けてやっているのがわたし達のはず―――
はずなのに。
「ゲーム、鵜飼。0-1」
目の前の試合に、結果が―――全く、伴ってこない。
「え…」
膝をついて、下を俯いたその瞬間に。
足元がぐらついて、辺り全体が真っ暗になった。
そんな感覚に襲われたのだ。
◆
上京した時、確かに抱いていた気持ちがある。
この進学した白桜というチームで、わたしはエースになって全国大会を戦い…勝つ。
全国制覇をして、誰にでも誇れるような自分になりたいと。
だけど、現実はそんなに上手くいかなかった。
中学女子テニス、そこでの自分とまわりの実力差、チームでの立ち位置。
いろんなものが想像以上で、どうしたらいいのか分からなくなった。
そんな中でも、自分の中では思い切って走り続け、できる限りのことをしてきたつもりだった。
1年生でレギュラーを獲り、試合に出場して勝つ…そのことにも、ある程度の結果が着いてきたと、自分でも思えるほど。
だけど―――簡単にはいかなかった。
全国レベルの対戦相手と戦っていく中で、わたしは自分の実力不足を実感することになる。
まだ1年生、それも仕方ない。そんなことを言ってくれる優しい人たちに囲まれて。
だが、しかし。
自分の中ではどうしようもないその現実を受け入れられない気持ちも、また大きくなっていったのをしっかりとわたしは自覚していた。
エースになる為に、勝ちたい。
強くなりたい。
足りない実力と、自分の中にある大きな気持ちとの軋轢が強くなるにつれ、自分の中に黒い感覚が増えていくのもまた、わたしはしっかりと感じていた。
そしてその感覚が大きくなるにつれ、プレー…試合での自分に支障が起きるようになっていった。
強くなりたいと思えば思うほど、上手くなりたいと思えば思うほど。
―――理想と現実が、乖離していく
エースになる。
その想いはいつの間にか。
わたしを縛る、重い重い枷になっていた。
◆
追いかけても取れない打球が、わたしのラケットの先を抜けていく。
どれだけ早く走ろうとしても、強い打球を返そうとしても。
その思いは空回りし、どうしようもない結果だけがわたしの前に突き付けられる。
―――対角線に来た打球を、今度こそ追いついたと思った
しっかりと足を踏み込み、全身を使って強い打球を返そうとした。返そうとしたんだ。
その瞬間。
ぐらりと世界が暗転する。
視界が回転し、何が起きたまったく分からない。
(あ、わたし―――)
『転んだんだ』
そう自覚できたのは、何とか頭から転倒することだけは避けるように身体を使って受け身を取った、その時だった。
そう、転んだだけ。
別にこれで怪我をしたとかしないとか、そんな大きな転倒ではない。
躓いてコケた、それだけのことだったのに。
「ゲーム、鵜飼」
あ、これでわたし、またポイントを失ったんだ。
その現実を受け入れるのに、少しだけ時間を要された。
「4-0!」
残酷なその結果だけが、わたしに突き付けられる。
(この試合…)
―――それを思った瞬間、また足元がグラついた
わたし、何もできてない―――




