日本一の選手
左腕を振り抜いて、力強く強打。
それだけに思考を向けて、それ以外のことは考えないようにする。
テニスに没頭する、没入していく感覚―――その感覚が、未だ取り戻せずにいる。
「姉御ー、もっと力を抑えて!今のもギリギリアウトッスよ!」
「ご、ごめん万理。次は…」
まただ。
また自分の力をコントロールしきれない。
プレーをしていて、どうしても黒い感覚が過ぎる。
全国大会前、関東大会頃から感じていた感覚。
それがここに来て、大きくなりつつある。このみ先輩と離れて、シングルスをやるようになって…。自分の頭を、身体を『それ』が支配していくのを強く感じることが増えてきた。
「今日はここまでにしましょう。姉御も相当疲れてるッスよね」
「でも、もっと練習しないと…」
「やりすぎは怪我の元ッスよ。監督やコーチが居たら確実に止められてるくらい練習してるんだから、もう十分ッスよ」
練習に付き合ってくれている万理にそう言われたら、仕方ない。
万理だって自分の練習―――レギュラーを獲る為の練習をしたいだろうに、わたしの為にこうして夜までわたしについてきてるんだ、わがままは言えない。
「姉御、最近目に見えてプレーが乱れることが増えたッスけど、なんかあったんスか?」
「何もない…ううん、もっと前から違和感は感じてたから、今になって悪くなったことはないはずなんだ」
「関東や全国で感じてた不安スか?」
「うん。ダメだよね、こんな大事な時期に弱音吐いて…。みんなレギュラー獲る為に必死になってる時に、わたしだけ甘いこと言ってられない」
自分の左手のひらをじっと見つめて、呟く。
左手を大きく開いて、ぐっと閉じる。
「わたしは、エースになるんだ。この白桜でエースになって、全国制覇。それがわたしの目標だから」
それはこの東京に来たあの日から、何も変わっていない。
わたしには為さなければいけない目標がある。
そのためにできることをやる。今はそれしかないと思っているし、それをやることが1番の近道だって分かっている。弱気になって、自分を見失っている時間はない。
(エースになる、エースに…絶対)
立ち止まってはいられない、勝つ。
それは他人にだけではなく、自分にも。この調子の悪さ、なんとも言えない気持ち悪さみたいなものだって、そうすることで抜け出せるはず―――
「姉御…」
だからわたしはこの時、万理がバツが悪そうにわたしから目を逸らしたことにも、気づかなかった。
◆
お風呂で汗を流して部屋に戻ると、文香がちょうど二段ベッドの梯を登っているところだった。
「もう寝るの?」
「起きててもすることないし…。今は少しでも睡眠時間を確保して、体力を取り戻したい」
あの日以来、文香とはあまり言葉を多く交わすことがなくなった。
お互い、相手に対して何か遠慮みたいなものがあるんだと思う。
文香も多くをわたしに語らなくなったし、わたしも文香に過度に踏み込んでいこうと思わなくなった。
(―――これで、いいのかな)
時折、そう思う。
以前のように本音をぶつけ合う関係性に、わたし達は戻れないのかな。
そんなことを思ってしまうことが。
「文香」
「なに」
「頑張ろうね、お互いに」
小さく、何かを吐き出すように言う。
「わたしにはまだ文香が目指してるものとか、求めてるものとか…。あんまり、分からないけど。文香がチームのため、自分のために強くなろうとしてるのだけは分かる」
「…」
「だから、わたしも文香に置いてかれないように頑張るね…なんて」
頬を人差し指でかきながら。
「偉そう…かな」
「貴女はそれでいいわ」
「そうかな」
「私は私のしたいことをする。それに着いてくるかどうかは貴女自身が決めればいい」
文香はそう言って、布団にくるまりこちらに背を向けて身体を寝かせ。
「私は、日本一の選手になる」
小さく、だけど強く―――その言葉を、わたしに向けて放つ。
文香はそれ以上何も言わず、そのまま寝てしまった。
わたしはその日、あまりよく眠れなかった。
―――日本一の選手になる
言葉は違えど、わたしと文香の目指しいてるものは同じだった。
誰よりも強くなって、チームの全国制覇に貢献する。
文香は日本一の選手になることで、それを為そうとしている。
(日本一、かぁ)
なんだか…。
とてつもなく遠くて、眩しくて。
わたしにとってその言葉は重く…心臓をまるで掴まれたような感覚で、その夜ずっとその言葉の意味について、考えてしまっていた。
◆
それから数日。
今日も練習試合の日程が組まれている。
今日、対戦する学校―――それは、もしかしたらわたし達と同じ境遇にあるかもしれないチームだった。
「対、初瀬田戦…」
今まで戦ってきた対戦相手が夏の大会、都大会で終わったチームが多かったのに比べて、今日対戦する初瀬田は白桜と同じ、全国大会までチームを挙げて戦っていた。
そして絶対的な3年生エースが引退したというところも似通っていると言っていいだろう。
「全国で当たったチームと練習試合が組めるなんて超豪華ッスよ!全国レベルの選手との対戦、楽しみッスね姉御」
「そうだね…」
全国レベルの対戦相手、かぁ。
だけど、3年生が引退してチーム力が落ちているのはお互い同じ。
そこも含めて、同レベルの学校と言えるのではないだろうか。
「ダブルス2、仁科・長谷川ペア!」
「はい」
「ウ、ウチッスか!?」
朝食終わりのミーティングの時間で、今日のスタメンが発表された。
かなりの量な朝食を何とかお腹の中に入れ、お腹いっぱいと言った様子でぽんぽんとお腹を叩いていた万理にとっては寝耳に水な事態だっただろう。
「今はダブルスペアを固定する為にたくさんの組み合わせのペアをダブルスで出場させることにしている。今回はお前と仁科のペアだ。夏の全国大会を出場選手として体感した2人のダブルスを見せてくれ」
監督の言葉に。
「勿論ですの」
と、仁科先輩が少しだけ無い胸を張りながら答えると。
「きゃー、仁科せんぱーい」
「今日も頑張ってください~」
「私たちが応援してます」
「「「お姉さま!」」」
1年生の一角から、熱烈なエールが仁科先輩に届く。
「…少しやりづらいですわね」
「それだけ後輩ちゃんに信頼されてるって事なの、羨ましいの~」
仁科先輩が頭に汗を浮かべていると、海老名先輩がそうして彼女を盛り立ててくれる。
(海老名先輩…)
本当は自分が出たかっただろうに、チームの事を考えて言ってくれてるんだ。
それを考えると、いつもわたしの試合を見て応援してくれてることもそうだし、このチームに必要不可欠な選手だなって強く思う。
「ダブルス1、三浦・山本ペア」
「はい」
「頑張ろうね、むっちゃん」
ダブルス2のペアを流動的に変えている一方で、ダブルス1はこの2人の先輩で固定している感じがある。
ダブルスで2敗しない為にダブルス1は経験があってある程度息が揃ってきてるこの2人でいこう、ということなのだろうか。
「次、シングルスだが」
選手の名前を読み上げる前、監督が1つ息を吐いて前置きを口にし始めた。
「今日、水鳥は試合には出さない」
「!」
その一言に、文香の背筋がピンと伸びる。
そして次の瞬間には不服そうな表情で口を真一文字に結んでいた。
「夏から続く試合、特にここ最近は練習試合が連戦になっていた。一度キチンと自分の身体を休ませることに集中してくれ」
「…はい」
文香は言われれば出られるのに…と言ったような顔で、それでも監督の意志を汲んで首を縦に振っていた。
―――文香は出ない
という事は、代わりに誰が出るのか。
そして、何よりわたし自身はどこを任されることになるのか。
「シングルス3、河内瑞稀」
「はい!」
瑞稀先輩のこんないい返事、久しぶりに聞いたかもしれない。
「お前がやりたがっていたシングルスだ。結果を持って私たち首脳陣に回答して欲しい」
「そのために練習してきました。やれるだけのことをやります」
瑞稀先輩の言葉には一言一言強さみたいなものが乗っかっていて。
よっぽどこのシングルスというポジションをやりたいんだろうなというのが伝わってきた。
(確かに瑞稀先輩の強くて重い打球はシングルスでも通用すると思う)
あとは、本人がどこまで適応できるか―――
「シングルス2、藍原有紀!」
「はいっ!頑張りますっ」
「いい返事だ。試合内容も期待しているぞ」
「勿論です!」
監督の言葉に、いい返事をできたと思う。
初瀬田相手にシングルス2を任された。
どんな選手が出てくるかは分からないけど、わたしは今自分にできることをやる…それだけだ。
(よし、やるぞ)
わたしはぴたんと両頬を軽く叩き、気合を入れて目を見開く。
信頼してもらう為に、その証を立てる。そうすることで、わたしの求める姿―――エースに、近づけると思うから。
一歩ずつ、確かにエースへの道を歩いている感覚がある。
このまま突き進んでいけば、わたしの前には自分の『理想』に近づいた姿が見えてくるはず。
先輩や、チームメイト。
たくさんの人の上に立って、わたしは今"ここ"に居るのだから。




