あなたを教えて
(先輩っ・・・!)
寮を抜け、学校の正門を抜け、少し歩いたところ。
そこには市バスのバス停がある。
(先輩っっ・・・!)
そこに佇む、小さな影。
ぴょこんと立った、アホ毛が特徴的な薄い桜色の髪。
「先輩ッッッ!!」
丁度、バス停にバスがやってきた、そのタイミングで―――
「はあ、はあ・・・」
わたしは、大声で先輩を呼び止める。
彼女はこちらを振り向き、少しだけ口角を上げると。
「行ってください、次のに乗るんで」
そう話しかけ、バスはそのまま―――先輩を乗せないまま、通り過ぎていく。
「まったく、」
先輩は後頭部をわしゃわしゃとかくと。
「なんて表情してるんですか」
私の方を見て、そんな風にうそぶくのだ。
◆
バス停の椅子に2人で並んで座って、話を始める。
「なんで、黙って出て行こうとしたんですか」
わたしの追求したいところは、その一点である。
だって、もう先輩・・・ここに帰ってこなくなっちゃうのに。
もう簡単に、会えなくなっちゃうのに。
それなのに、何の挨拶もなしに・・・。
「あーなるほど、藍原はこれが私との今生の別れになっちゃうと思ってるんですね」
こくん。
一度、大きく頷く。
「別に、寮を出て行くってだけで、同じ学校に通ってるんですし、会おうと思えばいくらでも会えるでしょ」
しかし、先輩の言葉はどこかあっさりしていた。
「確かに選手寮から学生寮へ移動にはなりますけど・・・。毎日顔を合わせなくなるだけで、普通に会えますし」
「だって先輩、今、バスでどこか行こうとしてたじゃないですかっ」
「どこかって・・・」
先輩は少しだけ驚き、それでもふふと軽い笑みを浮かべながら。
「この際だから、1回家に帰って両親に挨拶しようとしてただけですよ」
「え・・・」
「今夏休みですし、こういう機会もなきゃ顔も合わせられないでしょう?」
「で、でも! 私に何か一言あっても・・・」
「どうせこれからも他の3年生と一緒にグラウンドには顔を出すこともあると思いますし・・・」
どこかバツが悪そうに、首に手を当てて、少しだけ視線を泳がせると。
「ちょっと、心配しすぎ」
抑えきれない笑いを零す。
「そ、」
そんな先輩の言葉を聞いたら。
「そうだったんですかぁ・・・」
腰から力が抜けていくのが分かった。
『根性の別れじゃない』『これからも会える』
その言葉が、わたしの切迫した気持ちを和らげてくれたのだ。
(そうだよね・・・、卒業しちゃうわけじゃないんだ)
大体、万理の教え方もオーバーすぎ。
あんな風に教えられたら、焦っちゃうのも無理ないでしょ。
なんて、ここには居ない彼女に責任を押しつけたりしてみて。
「でも、」
そこで。
一拍おいて。
「私ももう、選手じゃなくて、1人の受験生になるんですよね・・・」
先輩は感慨深げにそう呟いて、空を見上げる。
真っ赤に染まった空。
入道雲が浮かぶ、高いようで低いその大空を―――
「先輩は、高校、どこ行くかもう決めたんですか?」
「いーや。なーんも決まってないです。昨日まで、テニスのことしか頭になくて・・・。まあ、親とも話し合って決めようとは思いますが」
このみ先輩は、そこで私の方にちらりと目を遣ると。
「テニスは、続けようと思っています」
言って、ニッコリと笑う。
「先輩・・・」
「それもこれも、藍原。お前のお陰ですよ」
「私の・・・?」
「お前とのダブルスがあったから、私はこんな風に思えるようになった。まあ、全国大会出場&そこで1勝っていう箔も付きましたし?」
おちょくるような声でそう言うこの人を見て。
(わたしたちのダブルスって・・・)
間違ってなかった。
そう、先輩から言ってもらえたような気がしたのだ。
「藍原」
―――そこで、
―――空気が変わる
彼女はすくっと立ち上がり。
「私とダブルスをやってくれて、本当にありがとう」
わたしに向かって、深く頭を下げたのだ。
「せ、先輩!? そんな・・・」
「お前とのこの数ヶ月間、組んだダブルス―――私は一生忘れません」
そして、顔を上げると。
手を差し出し、その左手でわたしの頬に触れる。
わたしの方を真っ直ぐに見据え、強いその視線で瞳の奥を覗く先輩は。
「今日で菊池・藍原ペアは解散です」
告げる。
ここまでの『終わり』と。
「ここから先は、自分の手で・・・エースになれ」
ここから先の『始まり』を―――
「頑張れよ、藍原有紀」
わたしの方を見上げる目線にはもう、"弱さ"は残っていなかった。
後輩の背中を押す―――立派な、先輩。
その姿が、そこにはあったのだ。
「ありがとうございます・・・このみ先輩」
オレンジに染まるこの、夕陽のバス停で。
「ここまで数ヶ月間、本当にお世話になりました」
わたしは誓おう。
「藍原有紀、このみ先輩に恥じないエースに、なってみせます!」
―――白桜のエースになる、と
誰よりもわたし自身が、強く・・・。
『エース』という言葉に、執着したい。
この夏を終えて、そう思えるようになった。
わたしはエースに、なりたがっているから。
◆
先輩との別れを済ませ・・・寮へと戻ってきた。
自分の部屋の中に入って、深呼吸を1つ。
「ふう」
ここで、ようやく。
「なんか・・・久々に肩の力が抜けた気がする」
ああ、色々。
もう終わったんだなって。
ようやく認識が出来たような、そんな気持ちにふわっと包まれる。
身体から力が抜けていって―――1人、この部屋の中に立っていることに、落ち着きを感じられたのだ。
「有紀」
丁度そんな事を思っていた、そのとき。
「・・・文香」
後ろから声をかけてきたのは、ルームメイトである彼女。
(そういえば)
―――白桜に帰ったら、話があるわ
―――それまで少し私のことは放っておいて
あの時の彼女の言葉が、頭を過ぎる。
放っておいてと、話しかけるなと言っていた彼女の方から・・・わたしに、声をかけてくれた。
ぱたん・・・。
文香は後ろ手で、部屋と廊下とを区切る扉を閉める。
「どうしたの・・・?」
「言ったでしょ、帰ったら話があるって」
夕陽も大分傾き、外はもう暗くなり始めている。
食事の時間もある。そんなに多くの時間は、取れないはずだけれど。
「貴女に・・・聞いておいて欲しい話」
文香は一歩一歩、噛み締めるように。
部屋の中を歩いて行くと。
二段ベッドの下・・・。わたしのベッドに、腰を落ち着かせる。
「きて」
そして、自分の隣を手でぽんぽんと数回、慣すように手を置く。
「うん・・・」
わたしはそれに応じるように、そこにすとんと座った。
文香と、並んで。
2人でベッドに座って―――
「私ね、有紀」
「うん」
「全国で、そのてっぺんに、少しだけだけど触れられた・・・。そんな気がしたの」
「真田さんとの、あの試合・・・のことだよね」
文香は小さく、一度頷く。
「この中学テニスの頂点。そこに手をかけたとき、自分がどうなるのか・・・ずっと分からなかった。だから、あの光景を初めて見たその瞬間に、何かが大きく変わるんだって・・・。そう思ってきたの」
「・・・?」
ふみ、か・・・?
―――わたしには、彼女が何を言いたいのか、
「でも、違った」
―――まったく、分からなかった
「あそこには、何も無かった」
文香が語るのは、わたしの想像とは180度違う言葉。
「手をかけてみて、そこへ到達してみて、初めて自分の本当に気づいた。あそこからは何も見えない・・・。あの試合を通して感じたのは、私の求めていたものとは違うっていうこと・・・ただ、それだけ」
文香の表情は、暗く。
「私の求めるものは、全国には無かった」
―――小さく歪んでいた
「無かったって、それじゃあ・・・」
怖かったけれど。
「これから文香は、どうするの・・・?」
それを聞かずには、いられなかった。
すると、彼女は―――
わたしの方を真っ直ぐに見つめて。
きゅ・・・。
わたしの両ほっぺたを、がっしりと両手のひらで掴むと。
その大きく吸い込まれそうな瞳で―――わたしの目から頭の中を覗き込むように強く、見つめる。
「そう、私の求めるものはあそこには無かった」
目と目、鼻と鼻、口と口。
それらがほんの少し、少し何かをすれば届く距離にある。
「だから、」
文香の息づかい、言葉を発するたびに振動する空気。
その奥すら見つめられるそんなまさに『目と鼻の先』で。
「貴女に、教えて欲しい」
―――文香が求めるもの、それは
「有紀・・・私は、貴女の中に私の求めるものがあるって・・・そう思ってる」
―――わたしの中に・・・
「ううん。今は、そう思うように"なった"。だから」
瞳に、食われる。
その目の奥の奥、瞳孔に反射しているもの。
「水鳥文香に、藍原有紀をちょうだい」
文香が求める『何か』―――
その先にあるのは―――"わたし"、だった。
第9部 完
第10部へ続く




