信じてるから
早朝練習は大会中も行おうと言う話になっていた。
だからその日も、燐先輩はそこに居たのだ。
もう真夏と呼んでも良い季節、朝とはいえ直射日光の当たる場所なら普通に暑い。
「おはようございます!」
わたしが挨拶をすると。
「おはよう、藍原さん」
と、先輩は普通に返してくれた。
(本当に、)
みんなが言うように、深刻なスランプの真っただ中にいる人なのだろうか。
そう、疑いたくなるような―――まったく、いつもと変わらない様子で。
「新倉先輩」
しかし。
「大丈夫・・・、なんですか」
彼女は、そうは思わなかったようだ。
「文香」
胸の辺りで手をぎゅうっと握りしめて、心配そうな表情で先輩の方を見る彼女の姿の方が、部のみんなの心配する気持ちを、よく表現しているものなのだろう。
「・・・」
先輩は、何かを噛みしめるかのように一瞬だけ目を瞑り、すぐに開ける。
「心配、させてるのね」
小さく、呟くと。
「後輩の貴女たちにまで・・・」
その目はどこか、ここではない場所を見ているような気がして。
「大丈夫ですっ」
急に、わたしまで心配になってしまったから。
「わたしの知ってる燐先輩は、綺麗で、頭良くて、テニスもすっごくて、そんな人だから・・・。ちょっと、上手くいかないことが続くくらい、ありますよ!」
「有紀・・・」
「だから大丈夫! わたしに先輩がどうして悩んでるかなんて、分からないけどっ」
言うんだ。
「燐先輩は燐先輩です。こうして早朝練習にも付き合ってくれるくらい、後輩の面倒見も良くて。怒るとちょっと怖くて・・・。あとやっぱり美人!」
「藍原さん、あのね」
「だから!」
少なくとも―――
「少なくとも、ここに1人! 燐先輩のことを信頼しているヤツが居るんだってことを!!」
燐先輩の目を見て、放さない。
視線を逸らすことを許さないくらい強く、先輩を見つめる。
すると先輩は、目を丸くして、大きくして・・・、そして、視線を外さないでくれていた。
そう―――わたしの知ってる先輩なら、そうしてくれる。
「・・・知っていて、欲しかったんです」
なんか、わたしの方が泣きそうだ。
それでも視線は外さない。燐先輩の目を、瞳の奥を覗く。じっと、ずっと。
「・・・」
先輩は、しばらく黙ったままだったけれど。
「藍原さん、」
震える唇で、わたしの名前を呼んで。
「ありがとう」
と、そう言ってくれたから。
「はいっ」
きっと。大丈夫。
燐先輩の抱えてるものが何かは分からない。それがどれほどの大きさなのかも。
だけど、先輩なら、それも乗り越えられる。この人はそういう強い人なんだ。
わたしなんかに出来るのは、信じることだけ。
先輩のことを、信じ続けることだけなんだ。
◆
朝練が始まる前のこと。
「・・・」
彼女は新倉さんを監督室に呼び出し、私も含めた3人で、面談を行っている。
通常、選手を監督室に直接呼び出すなんて事はほとんど無い。あって、部長の久我さんと副部長の山雲さんを2人で呼び出すくらいだ。特に、大会期間中に個人を呼び出すことなど、異例中の異例。
だけど。
(それくらい、深刻だと思ってるのね)
そしてそれには、私も全面的に同意だった。
今の新倉さんは―――明らかに、おかしい。
「悩みがあるのは、間違いないんだな」
「・・・。プレーに支障が出ているということは、そう言う事だと思います」
新倉さんは終始うつむきながら、声も少ないまま。
「それは、私たちに解決できることか?」
監督が、一歩踏み込んだことを言うが。
「・・・」
新倉さんは首を横に振る。
「すみません。プライベートなこと・・・、家のことですので」
家のこと。家族のこと。
こればかりは、他人が口出しできない。
"そう言うこと"が起きないための寮制度なのだが―――しかも、彼女の家は白桜の中でも屈指の名家、新倉家。確かに、何かややこしい事情を抱えていても不思議ではない。
「そうか」
監督はふぅとため息を吐くと、組んでいた腕を解いて、前のめりになる。
「私としては、今まで通りお前を戦力と考えている。これに変わりはない」
そして、小さく呟くと。
「だが、お前が結果を出せないのなら、特別扱いはしない。他の選手と同様に、使えれば使うし、使えないのなら使わない」
「監督っ」
私が言葉を挟もうとするのを、手で制する。
「今の心理状態でこんな話をするのはお前を追い込むことになるかもしれんが、これが私の考えだ。次の2回戦、もしお前の試合に改善の兆しが見えないのなら、レギュラーも白紙になると思ってくれ。お前以外にも、試合に出たいという選手はいくらでも居る」
監督が理路整然とそう話すと。
「・・・はい」
新倉さんは小さく返事し、ここで面談は終わりとなった。
「辛いな」
彼女が出て行った後の監督室で、そう零す監督の表情は。
「新倉が脱落となれば―――大幅な戦力ダウンは避けられない」
この夏で初めて見る、険しい顔をしていた。
「1年生が台頭してきた矢先に、これですもんね」
「なかなか、上手くはいってくれないな・・・」
あっちが立てば、こっちが立たず。
チーム運営と言うのは常にそう言うものだと思っておかなければならない。
そういうことは、分かっていたはずなのに―――
去年の新チーム設立以来、ずっと白桜のシングルス2を守り続けてきた新倉さんのスランプ。これの影響がどれほどになるのか・・・。今はまだ、想像もつかなかった。
◆
「ごめんね、練習前に呼び出して」
シングルスの練習が始まる前。
私は今日、個人練習の相手である藍原ちゃんを、コートの隅にちょいちょいと手招きして、呼び込んでいた。
(ちっちゃいなぁ)
まだ1年生なんだと実感する。
私の身長に対して、藍原ちゃんは頭1つくらいちっちゃい。
元々1年生の中でもそんなに大きな子じゃないけれど、こうやって向かいあってみると身長差が如実にわかってしまう。私が視線を落とさなきゃ、目を合わせられない。
―――この子が、コートの中だと大きく見えるんだよな
そんな事を思いながら。
「あの、さ」
どう切り出そうか悩んだが。
「私のこと・・・名前で呼んでくれないかな」
そのまんまストレートにぶつけることにした。この子の性格的に、変に誤魔化す必要はないだろうと。
「えっ!? どうしてですか?」
さすがに彼女も驚く。そりゃそうか。
「や、藍原ちゃんがイヤならいいんだけど、ただ私がそう呼んで欲しいだけっていうか」
「勿論ですっ!」
二つ返事!
「むしろご褒美ですっ! 部長みたいな綺麗なお姉さんを下の名前で呼べるなんて!」
「ああ、やっぱり呼びにくいオーラ出てるよね・・・」
「あ、その、違くて! 部長ってホント美人ですから、その畏れ多いというかっ!」
どよんと落ち込んでいると、必死に励ましてくれる。
そうだよね。
君はそうだよね。
―――そういうところに、惹かれたんだ
「じゃあ、」
藍原ちゃんはすうっと、一息吸い込んで。
「まりか部長・・・」
恥ずかしそうに頬を赤らめながら、少しだけ声を小さくして、私の名前を下の名前で呼んでくれた。
「うん。良い。最高だよ!」
「じゃあ、部長もわたしのこと、名前で呼んでくださいっ」
「え?」
「え、じゃないですよぉっ」
あ、そっか。
「そりゃそうか・・・」
『藍原ちゃん』じゃなくなるんだ。
それはそれで、寂しい気もするけれど。
「有紀ちゃん」
「はいっ!」
あ、良い返事。
「なんか、おかしくない? 大丈夫?」
「大丈夫ですよまりか部長!」
多少、気になるところもあったけれど。
私の名前を呼ぶ、年下の彼女の笑顔が、とてもかわいくて、鮮やかで。
それだけで、もう他のことはどうでも良くなってしまったのだ。




