"甘かった"
「どうですか。久我まりかを体感してみて」
ペットボトルの水をぐいっと身体に入れていると、監督にそんな事を言われ。
「ハハッ。あいつぁやべぇよ。千葉県内であんなバケモン見た事ねえ」
あたしは素直に感想を言って、口を拭った。
「なあ、世界ってのは広いんだなぁ。あんなのが居るとは思いもしなかったぜ」
「あれが全国レベルです。全国には他にもあのレベルは居ますよ」
「関係ねえな」
湿気たことばっか言いやがる仏頂面の監督に、握り拳を突き立て。
「あたしの前に立ちふさがるんなら、勝つだけだ」
言って、ぐっと強く力を込める。
「そうですか。対久我対策は十分にやってきています。貴女ならやれますよ」
監督はかけている眼鏡をきゅっと人差し指で直しながら、淡々と言うことだけを言う。
(チッ、生けすかねぇババアだぜ)
指導者としての腕が二流以下なら、関わり合いになりたくないような真面目一直線の女性だった。
でもまぁ、学校の教師でもないのに休日潰してこうしてここに居てくれるんだから、それだけでもありがいと思わないとダメなのか。
「行ってくる」
ラケットを手に、今度こそはとベンチを出る。
「いけー! イブ!!」
「部長、がんばってくださーい!」
「おうよ! 応援ありがとな」
ベンチから出ると降り注いでくる声援に、手を振って、呼びかけに答えて、ゆっくりとコートへと戻っていく。
次は、あたしのサービスゲーム。
ここをあっさりブレイクされるようなら、戦術の見直しも視野に入ってくる。
(久我の突破力は並じゃねぇ。気合入れねえとな)
―――今度は、こっちの攻める番だ!
(アンタにも負けられない事情はあるだろうがよ)
ふと、今までの光景が頭の中になだれ込んできた。
テニス部結成から、今まで―――色んなことがあった。ありすぎた。毎日楽しくて、しんどくて、辛くて、それでもみんなで一緒にやるテニスが何よりもの宝物で。あたしら5人、色々あったけど、こうしてここに来れたんだ。
(負けられねえ)
お前らなんかに、
(負けられねえんだ!!)
右腕から放たれたサーブが、サービスコートで跳ねた―――
◆
それを意識し始めたのは、いつの頃からだっただろうか。
幼馴染5人で固まるようになった後、と言うのは覚えている。
毎日みんなで遊んで、泥んこにならりながら笑って、1日があっという間に過ぎて行って・・・。
そんな繰り返しの中で、気づいたことがあった。
『どうやら、あたしは嘉音だけに特別な感情を抱いている』
ということだ。
白黒の写真の中で、まるで彼女1人だけが色を持って浮かんでいるように。
嘉音のことを見る時だけ、直視できない。
その目を見ようとすると、自然とこちらの目が泳いで、その後、バツの悪さみたいなものが頭の中になだれ込んでくる。
だけど、その感覚が、楽しいし、嬉しい―――
(どうしたんだ。あたし、おかしくなっちゃったのか)
最初はそうも思ったが、どうやらそうではないらしいと言うことにも、自然と気が付いていった。
「伊吹、ほらこっち向いて」
「なんだよ」
「泥、ほっぺについてるから。とってあげる」
―――ああ、なんだよこれ。
ハンカチを頬に当てられながら、あたしは明後日の方を見ていたけれど。
―――最高かよ
内心、心臓バクバクで、どうにかそれが顔に現れないようにするので精いっぱいだった。
女の子らしい嘉音。
世話焼きな嘉音。
怒るときは怒る強気な嘉音。
みんな、大好きだった。この子とずっと一緒に居られたら―――それを考えると、胸が躍った。
中学に上がって、テニス部を立ち上げてもそれは変わらなかった。
・・・かに、思えた。
その頃だ。
あたしにとって、とても都合の悪いことに気づき始めたのは。
「嘉音・・・」
「カノっ、今日も一緒にダブルス、するよね?」
「ええ勿論よ」
「わーい、カノ、だいすきっ」
嘉音の腕にぎゅーっと抱き着くマト。
それをあたしは、少し離れたところから、まるで手の届かないものを見るように見つめていた。
伸ばしかけた右腕を、少しだけの間制止させて、諦めるようにゆっくりと引っ込める。
(なんだよ)
そういうことかよ・・・。
いくらあたしでも、それが何を意味しているのかくらい、分かった。
最初はその悔しさもモヤモヤも全部忘れて、テニスに没頭しようかとも思ったのだが、そんな不安定な状況で出来るほど、テニスは甘いものでもなかった。
練習場の確保や、テニス部の立ち上げ申請をしている時も、"その事以外"は、もはや二の次だった。
そんな状態だったから。
「3勝0敗で、市立立花の勝利!」
「ありがとうございました・・・」
初めての夏の大会、ボコボコにされたのも当然だったのかもしれない。
練習場も満足に確保できていない。
ちゃんとした指導者も居ない。
そして何より、1番前を走っている奴がこんな半端な気持ちで・・・。
真面目に、本気でやっている人達に勝とうというのが、土台無理な話だったのだ。ムシが良すぎる。
「くそ・・・」
まるで、今までやってきた事を全て否定された気分だった。
「くそお゛!!」
座り込んで、その場の地面に拳を叩きつける。
「甘かった゛・・・! あたしの甘さのせいで、みんなに恥かかせちまった゛!!」
「イブ・・・?」
「そんなことない、イブだけのせいじゃないよ」
「違う!!」
目から涙が止めどなく溢れてきて、それが全然止まらなくて。
「あたし゛だ。部長に迷いがあった゛から・・・! あたしがいつまで経っても、覚悟を決めなかったから゛・・・!」
大泣き。
人前でこんなに泣いたのは初めてだった。みんな、必死にあたしの事を慰めてくれたけれど、そんなことで収まるくらいの悔しさでは無かった。
たとえ、嘉音が慰めてくれても・・・。
今、この不甲斐なさは拭えるものではなかったのだ。
甘い―――
自分の中にある甘さが、あたし達の決定的な敗因だ。それは間違いない。
(こんな下の方の大会で勝つ負けるのレベルなら、あたしは最初からテニス部を作ろうなんて言わなかった)
それだったら、別に部なんて作らず遊び程度でやってりゃよかったんだ。
そうじゃない。
あたしが求めているのはもっと上。天より高くのところに見える、『全国制覇』の頂。
やるなら"徹底的"だ。あたしらは全国へ行きたい。
それを目指して部を作った。だから―――一切の妥協は、許されない。あたしの気持ちが生半可なうちは、何も変わらないんだ。
覚悟を決めろ、網島伊吹。
全ての甘さを、迷いを捨ててテニス部の為に本気を出せ。
あたしはそのことを、自分に課した。
そこから先は、矢のように日々が過ぎていった。
親戚の伝手、人脈を辿って、テニスの指導経験のある伯母さんに辿りつくまで、数週間。必死で頼み込んで了承を貰うまで、1週間。そこから秋の大会まで、数週間。
秋の大会では地区予選の決勝戦まで駒を進め、確かな成長を実感した。
あたし達でも、ここまで出来るのだと。
その後も練習場の拡大を生徒会に申請したり、部員を集めたり・・・。
やるべきことはいくらでもある。
練習場の手入れ、道具をそろえることも、管理することも全てあたし達が自分でやった。
当然と言えば当然だが、学校側は実績のないテニス部に最初のうちは何もしてくれなかったのだ。
そんな環境の中でも、あたしはみんなを引っ張って、先頭を走り続けた。もう二度と、あんな思いをすることが無いように―――
そんなあたしの前に、偶然か、必然か―――『あの日』はやってくるのだ。




