綾野五十鈴
◆
最初は、"よそ者"だった。
「日本人」「東洋人」「アジア人」、そんなような言葉が私の名前の枕詞になっていたんだ。
日本では有名人でもアメリカでは私を知る人なんてほとんど居ない。それが、逆に嬉しかった。
だけど、一緒にテニスをやるたび、ボールを追いかけるうち、ラケットを振るううち。みんな、私を認めてくれるようになった。
―――良い子ばかりだな
言葉の壁はあったけど、彼女たちも私と何も変わらない年頃の女の子。
私こそ、自分の方からラインを引いてしまっていた面があったのかもしれない。
だから、積極的に自分から言葉をかけた。交流をするようにした。
違和感があったのは最初だけ。
慣れてしまえば彼女たちも私を受け入れてくれたし、私も彼女たちを受け入れられた。
アメリカでの生活は新鮮で、毎日が新しい発見に満ちていた。
場所も違えば価値観も、人も、全てが違う。そのことが新鮮で、楽しかったのだ。
競技以外のことの方が学ぶことは多かったかもしれない。
「アヤー。今度の週末、U12の世界大会見に行くよね」
"アヤ"というのは私のことだ。
何故だか、下の名前より苗字をもじったこっちの愛称が定着した。
「うん。あー、でも・・・ワタシ、どうせなら出たい、かな」
「それにはまず全米の大会で良い成績残さないとね」
「来月の、州大会予選、楽しみ」
「うん! アヤなら良いところまでいけるよ!」
カタコトだけど、だいぶ英語にも慣れてきた。
とりわけ、この感情表現豊かなメアリーという女の子と仲良くなった。
メアリーは金髪碧眼、絵に描いたような美少女だ。そしてテニスの腕も私と"同じくらい"強い。
意気投合して仲良くなったのも大きいけど、私は彼女の才能にも魅力を感じていたのだ。
(この子はすごい。まりちゃん以外の子でこんなに強い同級生、初めて見た)
だが、メアリーが特別すごいというわけではない。
メアリーや私と同レベルの腕を持つ選手が、スクールにはあと2人ほど居る。こんなこと、日本に居た頃には想像もしなかった。
「私もアヤと一緒に全米大会いきたいなぁ」
「メアリーなら、行ける、よ」
「まだまだ私の知らない強い子がアメリカにはいっぱい居る・・・! その子たち全員に勝つの、楽しみだよ!」
「勝つの、前提・・・なんだね」
「最初から負けること考えてどうするのっ!」
この子の前を向きすぎなくらい前向きな姿勢は、学ぶところが多かった。
私もこれくらい前向きにならなきゃと思って、日々メアリーの言動を観察してみたりもした。
(後ろを向いたら、それこそキリがない)
だから、私も上を向き続けた。
いつか獲る『世界一』の"王座"―――そこだけを。
―――そして迎えた、州大会
この1年間、渡米して学んだこと、身に着けたことは自分なりに多かったつもりだ。
その全てを、この大会にぶつける・・・!
今の私なら、出来るはずだ。
「ファイト、アヤ」
メアリーの言葉にも勇気づけられ、私はコートに立った。
「ゲームアンドマッチ、ウォンバイ、アヤノ!!」
そしてその自信は、間違いではなかったことが証明される。
トーナメントをドンドン勝ち抜いていき、ベスト8に進出する―――
「決勝まで行けばアヤと戦えるね!」
「楽しみだね」
メアリーも同じように勝ち上がっていき、本当に決勝戦の同門対決も視野に入ってきた。
(次の相手は格下か・・・)
所属スクールも聞いたことが無いところだ。
ただし、油断は大敵。絶対に慢心だけはないように―――
その試合で。
私は知ることになる。
(何だ・・・!?)
相手プレイヤーの執拗な粘りに、いつまで経ってもポイントを決められない。
(この力は、どこからッ)
その選手は印象的だった。
まるでここでテニス人生が終わっても良いと言わんばかりのムチャクチャな全力プレー。腕も足も、壊して良いかのようなムチャな戦い方。それでも、相手はその戦い方を貫き通してくる。
(・・・、怖い)
私は初めて、コートの中で恐怖した。
こんな感情・・・今まで抱いたことなんて無かったのに。
「ゲームアンドマッチ―――」
格下相手に負けた。
最後はスタミナが尽きて、走ることも出来ず。
勝てた試合だった。勝てなきゃいけない試合だったのに。
(―――ッ)
瞬間、敵プレイヤーはその場に崩れ落ち"号泣して"勝利を喜んだ。
人目をはばからず、全力で。
何かに土下座でもするかのような、そんな格好のまま―――
「よかった」「これで」「明日からも生きられる」
言葉の断片が、私の耳に突き刺さる。
聞きたくない、知りたくなんてない言葉だった。
(この子は、)
蹲って泣いている勝者と、それを呆然と立ち尽くし、見おろしている敗者。
(明日の生活を懸けて、テニスをしてるの―――!?)
考えたことも無かった。
普通、そんな事を考える機会に、出会うだろうか。
私は・・・出会えた。
世の中には、こういう選手も居るんだっていうことを知ることが出来た。
日本に居たら、きっと。
―――私が、アメリカに来た理由
私より強い選手に会いに行く。
そうか。
強さは才能や体格、それを磨き上げる練度だけじゃない。
(心の強さ。精神の強さ―――テニスに懸ける、思いの強さ)
それらが複合的に重なったものが、『強さ』なんだ。
(私は、それを知るためにここへ来た)
だったら今日、ここでこうして呆然と突っ立っていることにも、意味があったということなのだろう。
(・・・感謝するよ)
私はまた、強くなれた―――
◆
州、そして全米。
両親が熱心にコネを作ってくれたこともあり、私はより上のレベルの選手たちと交流する機会にも恵まれた。
ここまで来ると、全員強いとかそういうレベルの話ではなくなってくる。
試合をすれば日によって勝敗はいくらでも変わるし、単純な強さはほとんど意味を持たなくなってくるのだ。
プレースタイル、その日のコンディション、精神状態・・・そんなものに左右されるようになってくる。
―――だが、
「・・・ッ!」
―――そんな中に、確かに居たのだ
(この子、ッ!!)
―――『私より強い選手』が
ラケットを握る手に残った、確かな"痺れ"。
―――ホンモノの"世界レベル"の化け物が
今まで経験したことがないようなパワーサーブ。
それをあの最高到達点から振り下ろしてくるのか。それに加えて瞬発力も、判断能力も尋常じゃない。
骨格から違うアメリカ人プレイヤーの中でもずば抜けた選手たち。
同じ世代でもそんな選手が、1人2人居る―――
(これが『世界』か!)
彼女たちに、勝ちたい―――
世界のてっぺんを、獲りたい!
そんな思いは日に日に強くなっていった。
◆
「アヤは卒業後、どうするの?」
スクールの帰り、いつものように練習所の休憩所でジュースを飲んでいた時。
メアリーがおもむろにそんな話を始めてきた。
「どうもしないよ。このままアメリカに残ろうと思ってる」
現地の日本人学校卒業まで、あと約1年―――
でも、それから先も変わらない。日本人学校の中学部に入学して、そのままだ。
「少なくともハイスクール卒業までは、アメリカに居ようかなって。日本に帰るのはその後でも良いかな」
「そっかぁ」
メアリーは納得したように頷き、いつものような笑顔で。
「アヤは日本一を獲ったプレイヤーだもんね。日本に帰る意味なんて無いよね」
何気なく言われたその言葉が、
―――日本一を、獲った・・・?
私の胸の奥底にあった何かを、大きく揺さぶった。
眼前の景色が少し揺れた感覚さえある。
「日本一・・・?」
「うん。初めてスクールに来た時も日本一のプレイヤーだって」
「・・・がう」
違う・・・。
「違う」
私はまだ一度も―――
「日本一なんかに、なってない」
全国大会を見たことはあった。
そして、あれくらいなら自分より・・・と、タカをくくったこともあった。
だけど、私は―――全国大会の表彰台の一番上に立ったこともなければ、金メダルをかけられたこともない。
(私はまだ、何も為してない・・・!)
どうして、こんな簡単なことに気づかなかったのだろう。
「え、そうなの? でもアヤの強さなら、日本一くらい余裕だよ・・・」
メアリーの言葉が、何も入ってこない。
そうだ。
私は実績なんて1つも無い。何も持っていないんだ。
そんな奴が、世界にまで視界を広げてもっと上に行きたい?
勘違いも甚だしい。
私がまずすべきは、日本で誰よりも強くなることだったんだ。
だって、日本中に私より強い選手が居ないなんて話のどこに根拠がある?
それを自覚した瞬間、私は何もない自分が急に恥ずかしくなった。
日本に、戻りたい―――
アメリカに来て3年目で、初めてそう思った。
今すぐでなくてもいい。でも、なるべく早く。
そう思えば帰国のタイミングは、中学入学時―――そこしか、無いと思った。
「ねえ、アヤ」
しかし。
「アヤ、日本に帰っちゃうの・・・?」
―――少し、思い詰めた表情をしてこちらをじっと見つめるメアリー。
その蒼い瞳は、薄い水の膜で覆われているように見えた。
もうちょっと何かをすれば、それが決壊して粒となって零れ落ちてくるような―――
「メアリー」
私の胸に、小さくない棘が突き刺さる。
そうか。
私は、また。
"悲しい決断"を、しなければならないのか―――




