VS 黒永 シングルス1 久我まりか 対 綾野五十鈴 1 "パンドラの箱"
サービス権は幸いなことに久我部長から。
コートの端に立ち、ぽんぽんとボールをバウンドさせる姿を、じっと見つめる。
「綾野選手には3つのギアがあると言われてるッス」
「3つ?」
隣で試合を見守る姉御が、首を捻る。
「1つ目は試合に・・・正確にはコートへ入るとかかるギアッス」
「え、なにそれズルくない?」
「それも含めてあの人の才能ッスよ。普段と試合時の彼女があまりに違うことからそう言われ始めたッス」
実際、もうそのギアがかかっている感はある。
綾野選手が放つ雰囲気・・・オーラとも言われるそれは、やっぱり常人のものとは明らかに違うのが見て取れた。
(あんな人と戦うなんて、まっぴらごめんッス)
自分が久我部長の代わりにあそこに立っていると思うと、足がすくむ。
「2つ目はいわゆる"本気"になった時にかかるギア。まあこれがかかると普通の試合なら勝ち確定ッス。ただ、部長ならこれがかかっても食らいつけるはず・・・問題は、3つ目のギア」
ウチの脳裏には、とある試合の情景が焼き付いて離れない。
「準決勝の鏡藤風花戦、鏡藤選手が5-4でリードした時。あの時に、多分かかったであろう最後のギア・・・」
"鏡"と"乱反射"を完全に使いこなしていた鏡藤選手が、立て続けに3ゲームを失い、結果敗れたのだ。
あの3ゲームの綾野選手の集中力と勝負強さは、今まで見た誰よりも凄まじいものだった。
「あのモードに入られると、たとえ久我部長でも不利になると言わざるを得んッス」
「もう、万理! じゃあ部長が勝つにはどうすればいいのさ!」
ネガティブな話に耐えきれないと言った様子で、姉御が声を上げる。
そう、ここがこの話の1番重要な部分で―――
「3つ目のギアがかかる前に試合を終わらせるのは恐らく不可能ッス。だったら逆に考えて、限りなく部長に有利な状況でなるべく早く3つ目のギアをかけさせて、体力を削る。綾野選手の体力だって無尽蔵なわけじゃないッス。そして疲弊したところを・・・」
右手の拳を、前に突き出す。
「ガツン!」
数秒制止させて、ひっこめる。
「と、カウンターの要領で反撃。そこでゲームを決めるんス」
「そんなに上手くいくぅ?」
さすがの姉御も、眉を下げて懐疑的だ。
「だから試合が動き出すのは早くて中盤になるはず。そこまではお互い、試合を壊さないように慎重な攻めの時間が続・・・」
万理の話が終わるか終わらないかのうちに、部長がサーブを放った。
そして―――
「「!?」」
思い切り、全速力で。
前陣にダッシュして、上がって行ったのだ。
◆
(五十鈴、確かに君は強い)
私はこの3年間、公式戦で君に未勝利。1度も勝ててない。
だけど、ここで"またいつものように"惨めに負けるわけにはいかないんだ。
私なりにいろいろ考えた。君に勝つにはどうしたらいいのか―――思考の末、導き出した結論がある。それは。
(ひたすらに、全力で攻める!!)
攻撃だ。
攻めて、攻めて攻めて攻め抜く。
試合が開始されたその瞬間から全力でコートを駆け、全ての力を用いてラケットを振り抜く―――
何があっても、この姿勢を崩さない。
攻めて攻めて、攻め続ければ、如何に堅牢な壁にもヒビが入る。そのヒビに、崩れるまでボールをぶつけ続ける。
全力で攻め続ければ五十鈴の体力も力もその分疲弊してくだろうし、君にどれほど効果があるかは分からないが精神的に威圧することだって出来るはずだ。
―――自分の体力切れのことは、一切考えない
そんな事を考えていたら、絶対に勝てる相手では無いからだ。
体力が尽きたら、もしくは疲労で攻撃が鈍ったら、もはやそこまで。
(そう、これは賭けだ!!)
この一か八かの賭けが100%上手くいくとは思えないし、そんなはずはない。
だけど、懸けてみる価値はある賭けだと、私は判断した。
(攻めろ、攻め続けろ!)
すぐに前陣に上がり、返ってきたショットを極力ボレーで返す。
全力で、コートの隅に。厳しいコースへ。
だが、さすが綾野五十鈴だ。タダじゃやられてくれない。
ロブショットやスピンショットで強弱を付けて私の気勢を削いでくる。
―――だが
(それでも、攻める!)
そこで退いたり、持久戦に持ち込むような真似はしない。
相手はこちらが背中を見せた瞬間に百の弾丸を浴びせてくるようなプレイヤーだ。
たとえどんな攻撃をされようが、搦め手を混ぜられようが、それでも攻め続ける―――
(不思議だな)
あんなに気になると思っていた周りの雰囲気や、観衆の声がほとんど耳に届かない。
それどころか少しだけ、静かとさえ思える。
―――それだけ、テニスに集中できているということ
言ってしまえば簡単なことだ。
だが、私は掴んだ。
五十鈴を引き摺り下ろすための蜘蛛の糸。その細い糸を、確かに掴んだ。
千切れることを恐れていたら、この試合に勝つことは出来ない。
私はその糸すら、思い切り引っ張って手繰り寄せた。
(五十鈴、見ろ!)
―――これが、久我まりかの本気の攻撃だ
防ぎきれるものなら、防いでみろ。
君が望んでいた、"全て"を懸けた試合っていうのは、全力のゲームっていうのは、こういうことじゃないのか。
今の私には、背負っているものなんて山ほどあるぞ。
失うものの大きさで言ったら、君より多いはずだ。それでも―――
「私は私のテニスを信じられる!!」
少し浮いたボールを、ジャンプしながら思い切り叩きつけた。
その、高速ジャンプボレーが―――五十鈴のラケットの僅か下を通過していく。
「ゲーム、久我まりか」
そこで初めて気が付いた。
「3-0!」
会場の雰囲気が、騒然としていることに。
『わああああぁぁぁ』
白桜側の応援が、とてつもなく盛り上がっていることに。
「すごい!」
「こんなまりか、初めて見た!」
「部長、すごいッス~~~!!」
みんなの声が、近くに感じられる。
私を応援してくれる声が、とても温かく―――
「ははは・・・」
その瞬間。
「あははは! はははははは!!」
敵コートで木霊した笑い声に、意識が持っていかれる。
「あっはっは、そっかあ。この手があったねまりちゃん!」
五十鈴は左手でがばっと前髪を持ち上げ、そのまま額につけたまま。
「すごいや。こんな攻撃的なテニスするまりちゃん、私も初めて見たよ。あはは、なるほどね。うん、ホント凄い・・・」
段々小さくなっていく呟きの、その最後に。
「頭、がつーんとぶっ叩かれた気分だよ。まりちゃん、やっちゃいけないことしたよね」
五十鈴ははっきりと、そう言って。
「ぶっ倒す・・・」
こちらを一瞥し―――コートから下がって行った。
(今の目)
正直、驚いた。
あんな"怖い"目をした彼女を、私は見たことが無かったからだ。
睨まれた・・・いや、そんな言葉で落ち着けて良いのか、今のは。
睨み殺されるかと思った。これくらいの表現をしなきゃいけないほどの眼光―――
(確かに、作戦の初期段階は成功した)
限りなく大成功に近い成功だ。
だが、私はもしかしたら。
(パンドラの箱を開けてしまったのかもしれない・・・)
今の五十鈴の目は、そう恐怖させるのに十分なものだった。




