泣き虫みーちゃん
星野部長とのマンツーマンの練習は熾烈を極めた。
そのあまりに過酷な内容に、逃げ出そうと思ったことも一度や二度じゃない。
だが、そのたび・・・文字通り、血反吐を吐きながら、私は上を見上げ続けた。決して届かないところにある綾野五十鈴という巨星。あれを落とすには・・・星を動かすほどの"力"が必要だ。強い力・・・誰にも負けない確かな実力、それを手に入れるまでは。
―――私は負けるわけにも、逃げ出すわけにもいかなかった
「―――ッ」
「今日は・・・はあ、ふう。ここまでにしておくかえ」
ある日の練習終わり、いつも通り動けなくなり、呼吸すらままならなくなった私はコートに突っ伏す。身体のどこにも、一滴たりとも力など残っていなかった。
だから、上手く頭なんて回っていなかったと思う。
「・・・部長」
ごろんと身体を180度回転させて、夜空を見上げる。コートの上で大の字になって、全ての力を地面に預け。失礼だったら無視していただいて構いませんと前置きをして。
「監督は、綾野五十鈴を新チームのエースにしようとしていますよね」
先輩に言うべき話じゃないことは重々分かっている。
「・・・悔しく、ないんですか」
だが、聞かずにはいられなかった。
監督が新チームのシングルス1に選んだのは、綾野五十鈴―――部長であり、2年生でもある星野先輩では無かったのだ。
部長は今、シングルス2として試合に出ている。
聞かずにはいられない。
今、この人がどういう考えのもとで、私なんかの練習に付き合ってくれているのか。
「穂高よ」
「はい」
「面子やプライドでテニスが上手くなるのなら、どれだけ楽なことかのぅ」
このときの部長の語気はどこまでも穏やかで。
「綾野が今、この黒永で1番強いのは疑いようがない・・・それだけのことよ」
「・・・」
それでも、私に部長の表情を伺い見る勇気は、まだ無かった。
コートの上に倒れ込んで、暗くなった空を見上げているのが精いっぱいだ。
今、この人はどんな顔をして、私にこの話をしているのだろう―――それを考えると、心臓の辺りがギュッと締め付けられた。
「だが穂高。これだけは覚えておけ」
そして、どんな表情をしているかも分からないその声は、私に告げるのだ。
「面子やプライドを忘れた者に、勝負の世界を生きることなど出来ん。誰よりも強くなりたければ、誰よりも敗北を嫌いであれ」
「・・・」
「お前が綾野を超えたいと強く願う、その気持ち。それこそがお前の最大の武器。最強の矛・・・それは他の何よりも強い。何よりもだ」
そこで、少しの静寂があった。
「お前はワタシの希望・・・ようやく見つけた、一番弟子だからの」
ああ、なんだろう。
この奥底から湧き出してくる想いは―――この"熱さ"はなんなんだろう。
分からない。
今の私には、分からなかった。
「おいおい、穂高」
だが。
「お前また泣くのかえ」
瞳から噴き出してくる涙を、止めることが出来ない。
その事実だけが、私の目の前にはあった。
「泣き虫みーちゃん」
「うぅ・・・、えぐっ・・・」
「何か返さんか、バカ者」
「ず、ずみま・・・、えうッ・・・」
私は何度、涙を流せば"泣き虫みーちゃん"から卒業できるのだろうか。
思えば黒永に入ってから、泣いてばかりだ。泣いて泣いて泣いて、汚泥をすすって吐いて、他のものも吐き出して。そうして身体から出て行った分、その代わりに私の中には何かが入ってきているのだろうか。
この果てしない練習の先に、"強さ"は、あるのだろうか―――
その事さえも、私には分からなかった。ただ、それを求めて彷徨い、がむしゃらにもがき続ける。そんな毎日を、私は。
◆
私は何度も綾野五十鈴に挑み続けた。
何度負けても、そのたびにこれで勝ったと思うなよ、覚えてろと負け惜しみを言って、それでも出来る限りほぼ毎日、彼女と試合をし続けたのだ。
「ゲームアンドマッチ、ウォンバイ綾野。6-2」
「あー、やっぱダメかー」
「今日は最初のサービスゲーム落としちゃったからなぁ」
私と綾野五十鈴の試合は部内で練習後の名物と化し、キツい練習が終わった後、一息つける楽しみみたいなものにまでなっていた。
勿論、やっているこちら側からしたら限界に達した体力をすり減らしていることに何ら変わりはない。
―――だが
「惜しい!」
「頑張れ美憂ー!」
ある日から、潮目が変わり始めた。
「今日こそ勝てるよ、頑張って!」
明らかに、部員のみんなが―――特に1年生が―――私を応援してくれるようになったのだ。
「五十鈴ー。応援では完全に負けちゃってるよー? 未希未希かなしー」
「五十鈴は、ちゃんと私たちが応援するから、ね?」
「いいよいいよ。フォローありがと☆」
勿論、綾野五十鈴が嫌われているわけではない。
彼女は黒永のエース―――つまり、ナンバー1。最強。
その"最強"を、2軍から這い上がってきた私が倒すことを―――周囲が期待し始めたのだ。
「いいぞ、美憂ちゃんいけー!」
「今日は勝てるよ!」
「みーゆ!」
声援に後押しされた・・・なんて、ありきたりな言葉になってしまうが、私の調子は上がる一方だった。自分でも日に日に乗ってきているのが分かるほどに。
この調子でいけば―――
そんな光明が見えてきた、ある日。
「ゲーム、穂高。5-5!」
瞬間、コートを囲っていたギャラリーが湧く。
「すごい! 初めて綾野さん相手に5ゲーム目を・・・!」
「夏前からずっと見てきたけど、美憂ちゃんすごい!」
夏前から―――ここに到達するのに、実に8か月の時間を要した。
今は春の大会前。長い長い冬場の基礎練習期間を終え、他校との練習試合も解禁になった、そんな時期だ。
私もベンチ入りメンバーに選ばれるようになり、大会直前や大会中に無理な練習や綾野との練習試合をすることも出来ない立場になってきた。
だから、決めていたんだ。
今日が―――最後の"勝負"だと。
(今日はすこぶる調子も良い。ゲームメイクもここまではほぼ完璧だ。あとは・・・)
部長と過ごしたこの8か月。
綾野に挑み続けたこの8か月。
その全てを、残り2ゲームに―――
「美憂いけー!」
「勝て穂高!!」
みんなの声援を背に、ボールを打ち返し続ける。
これで終わりだ。
今まで、果てしも無い努力をしてきた。心血すべてを使って、綾野に勝とうとしてきた。
ここまで来るのに走った距離、打ったボールの数、ラケットを振ったその回数―――
それを、あとたった1ゲーム・・・いや、7ポイントに集約させる。
なんてことはない。
ここに至るまでの練習量に比べれば、微々たるものだ。ここに私の全てを賭ける。
黒永で過ごしたその、全てを―――
「ゲームアンド、マッチ・・・」
最後はラインを超えたアウトだった。
「綾野五十鈴! 7-6!!」
力を、入れ過ぎた。
ほんのわずかなコントロールミス。だが、致命的なミスだった。
「はは・・・」
自然と、乾いた笑いが込み上げてくる。
そして私は、ゆっくりと目を瞑り、天を仰いだ。
「綾野五十鈴、君、やっぱ強いや」
このつぶやきは誰にも聞こえなかっただろう。
それもそうだ。これは、自分への言葉。
「結局、勝てなかった―――」
諦めをつけるための。
この"勝負"をホントの意味で終わらせるための。
自分を納得させるための。
自分を、言い聞かせるための。
そうじゃなきゃ、また明日からでも、私は彼女に"勝負"を挑んでしまいそうだったから。
「綾野、君の勝ちだ。君が・・・黒永のエースになってくれ」
試合後、握手を交わした時、私は彼女にそう声をかけた。
不思議だな。
最初に始めた時は、勝つまで絶対にやめないと誓っていた。どんなことがあっても諦めることだけはしないと、そう強く刻んで始めた勝負だったのに。
今は、妙な清々しささえある。春のうららの日本晴れ、涼しい風が吹き抜ける爽やかな日だからだろうか。
何かを"やりきった"―――今の私の中にあるのは、そんな充実感だったのだ。
「みーちゃん、」
目を伏せていた綾野は、そこで私の名前を呼び。
「スゴかった!!!」
バッと顔を上げると。
「すんんぅぅっごかったよ!!」
今まで見たことも無いほど顔を蒸気させ、頬を真っ赤に染めて。
目をきらっきらに輝かせ、どこか色気すら感じるような顔で私の目を見つめてきたのだ。
「あ、綾野・・・?」
「私のことは五十鈴で良いから!!」
「え」
「五十鈴!!」
「い、五十鈴・・・」
「みーちゃんっ」
今まで見たことも聞いたこともない勢いで捲し立てるように言い寄ってきた五十鈴は、右手だけでしていた握手に両手を重ねて。
「貴女の『永遠』を、私は欲しい!!」
その言葉を―――後から考えてみれば、初めて耳にしたことになる。




